470. 凍りつく雪の嵐
「ベンディスム将軍。今のは……」
三番通りと呼ばれる皇都の街角。
そこに通じる流雪水路でレノーレを待ち構えていた兵の一人が、途方に暮れた様子で上官を振り仰ぐ。
「間違いない……はず、ですよね」
「ああ。そのはずだ……」
万全の態勢で備えていた一団は、為す術なくそれを見送った。水路の中を滑っていく、大きな氷の塊を。
「レノーレは……どこに行ったというんだ」
誰かの呟きが示す通り。流れてきたのは、人の身の丈ほどもある白んだ氷塊のみ。除雪で放り込まれたものでないのは明白だ。あんなにも巨大な氷の塊が、街中で自然に発生することはない。
と、その瞬間だった。
「将軍、住民からの証言です! 少女が水路に沈んでいくのを見たとのこと!」
降り注ぐ雪の勢いに張り合うように、駆けてきた兵が叫ぶ。
一挙、皆がざわめいた。
「力尽きて落ちたのか……!」
「やはりな……。なんせこの激流だぜ。氷に掴まって乗り切るなんぞ、無理があると思ったんだ」
「…………」
その中で一人、ベンディスムだけが眉を寄せて顎ひげをしごく。
畳みかけるように、別の一人が逆の道からやってきた。
「おーい、誰か来てくれ! 向こうで人が落ちたらしい!」
この時期にはよくあること、と言ってしまっては身も蓋もないが、そう聞いたなら無視はできない。先の報告についても同じ。レノーレが本当に沈んだのか否か、確認しなければならない。
そこへさらに続けて、
「おーい、助っ人を頼む! 向こうで誰か流されてるってよ!」
「はぁっ!? こっちもか!? どうしたっていうんだ急に!」
場がにわかに色めき立った。
(……この機に、この展開……そうか、そう来たか。やってくれるな……)
歴戦の将たるベンディスムは、いっそ清々しいほどの心地でかぶりを振った。
人が落ちたと報告があれば……助けを求める声があれば、治安を預かる兵士として見過ごすことはできない。その証言がどれだけ疑わしくとも、である。
例えば――仮にレノーレがでっち上げた嘘であっても、そうと決めつけることはできない。その目でしかと見定めない限りは。
嘘だ、と切り捨て無視を決め込むことは簡単だ。南方の街で兵長を務めている『獣狩り』ファーナガルのような、荒くれめいた輩なら実際にそうしかねない。
しかしそれで本当に誰かが転落していたなら見殺しになってしまううえ、その者が移民だったりしようものなら厄介事の引き金となり得る。移民だからわざと見捨てた、などといわれのない疑惑を招くことになる。
だが、何より――
「し、将軍」
「我々はどうしたら……」
うろたえた部下たちが判断を求めてくる。
「……ああ。各自、要請に応じてくれ」
何より、四十年以上もの長きに渡って愛するバダルノイスの治安維持に尽くしてきたベンディスムに、これを無視する選択はありえなかった。生粋の民だろうが、外からやってきた者だろうが関係ない。
(……なんて、俺が言う資格はねぇんだろうがな。だがまあ、俺がそう判断することも織り込んでの策なんだろう)
これで兵団は分断され統率を失う。いよいよ吹雪いてきた天候も相俟って、レノーレの確保は困難極まりないものへと一転した。
(……何て奴だ。間違いない、奴は最初からここまで計算していたんだ)
オームゾルフからの通達を受けるまでもなく地上にも気を配ってはいたが、人員不足から包囲網が穴だらけとなるのは避けられない。
とはいえ、まさか「降参します」などと白旗を振る訳にもいくまい。
「お前は、レノーレらしき娘が沈んだと証言した住民に裏取りを頼む」
「と、申しますと……」
「本当にその娘が沈む瞬間を見たのか、って話だ。『誰か』に頼まれたのかもしれん。そういうことがあったから、兵士に知らせてくれ……ってな具合にな」
抵抗はさせてもらう。しかし実を結ぶかは怪しい。
果たして『凍雪嵐』はここからどう動くのか。依然として脱出を強行するのか、それとも諦めて北西部からの離脱を図るのか。どちらの行動に打って出てもおかしくない、そんな人物。
(……敵わんな。単騎での任務や攪乱を得意とした『凍雪嵐』、その本領発揮ってところか……)
追い込んだつもりで、いつしかこちらが翻弄されている。雪と風に巻かれ、気付けば遭難しているかのごとく。
街中で捕り物をしているはずが、いつしか雪の山麓に迷い込んだ気分だ。
(無論、手は尽くすが……俺らが掻い潜られちまえば、こっから先は……)
聖女にして賢女、若き指導者オームゾルフ。
もはや彼女以外にいまい。
予測不能に荒ぶ風雪を止められる者は。
「なあ……さっきのあれは……」
「……ああ……俺も目を疑ったが……」
掻き落とす勢いの雪の中。作戦区域の外周部、最も中心街寄りの地点にて。
制御塔からの放水を確認し、前線に知らせてしばらく経った頃だった。
二人の兵は、互いの正気を確かめるかのように言葉を交わし合った。
「レノーレを騙すための作戦じゃなかった……ってことか?」
「そういうこと……に、なるのかねぇ」
「何も聞いてないぞ。他の連中は知ってるのか……?」
「さあな……」
状況は刻一刻と変化する。広範囲に展開している兵たちが逐一、最新かつ正確な情報を入手できている訳ではない。
「だが、こうなると……」
「うむ……最早、ケリがついたようなものだろう」
レノーレが脱出を諦め、こちら側に取って返す可能性がある――。
連絡を受けてこの場所で待機していた二人だったが、その結果信じられない光景を目撃することとなる。
「本当に捕まったんだな……あのメルティナ・スノウが」
「ああ。信じられんことだが……」
「しかしまさか、あの方がそれほどの手練だったとは」
「元々、バダルノイスで五指に入る実力者だとは言われていたがな……いや、それにしても」
レノーレらの逃走経路を予測し、ある場所で待ち構えていた人物がいた。
メルティナが対応せねば凌げない手練だった。その狙いは彼女ら……正確にはメルティナを消耗させることに違いない。
結果、そこで彼女たち二人は分断させられることとなったのだが――
「まさか、メルティナを足止めどころか打ち負かしてしまうとはな……あのミガシンティーア殿が」
そう。実際に兵士の二人は目にしたのだ。
捕縛され、ミガシンティーアに連行されるメルティナの姿を。よろめきながら引っ張っていかれる、女英雄のその様を。見間違えなどではなかった。間違いなく本人だった。
あまりに衝撃的な光景だった。
「ううむ……英雄も人の子だったか。どう転ぶか分からんものだな、実戦は」
「まことに」
――今、全てを正しく把握している者は誰なのか。
思い通りに事を進めているのは何者なのか。
それはじき、明らかとなる。




