47. 灰色の檻
全てが、灰色だった。
天井、壁、床。全てが石造りで硬質な、冷たさしか感じさせない空間。窓もなく、昼なのか夜なのかも分からない。
四方を囲む壁のうちの二つに、飾り気のないドアがあるだけだ。
なぜか自分がそんな殺風景な場所でゴロリと転がっていることに、ミアは気がついた。
「――、え、なに……ここ……」
周囲を見渡しながら起き上がる。全てが灰色の、狭苦しい一室。調度品の類は一切なく、もはや部屋と呼んでいいのかすら怪しい空間。
ミアは自分の身体を見下ろして確認する。……着衣に乱れはない。妙なことをされたような形跡はない。ひとまず安心する。
なぜ自分がこんなところで寝ていたのか思い出そうとして――思考を寸断するかのように、二つある扉のうち片方が開いた。
「――――あ」
思い出した。
部屋へ入ってきた、その男。その顔を見て、思い出した。
何があったのかを。
「おっ。起きたのか」
まるでお泊り会で自分より遅く起きてきた友人に言う、そんな軽い口調。
だからこそ、異様だった。こんな場所で、この人物が、自分にそんな言葉を投げかけてくるという状況が。
ミアは、目の前にいる男を知っている。
いや、おそらくミディール学院にいる生徒なら大半が知っているだろう。
逆に、向こうがこちらを知っているとは思えなかった。この男にしてみれば、ミアなど有象無象の一つに過ぎないはずなのだ。
限りなく赤に近い、燃え盛る炎を連想させるハネた短髪。右の耳たぶには黒く丸いピアス。端正ではあるが、表情を入れ忘れた人形のように淡白な顔立ち。背丈や体格、服装に、特筆すべきところはない。どこにでもいる、少しおしゃれでアウトローを気取った少年。
しかしミアは知っていた。この男がどこにでもいる少年などではなく、選ばれた特別な存在であることを。
『ペンタ』。ミディール学院四位、ディノ・ゲイルローエン。
「えらいよく寝てたモンだな。加減間違って、殺しちまったかと思ったわ」
「…………っ」
そうだ。学院の皆にお土産でも買っていこうと寄ったディアレーの街で、この男に声をかけられたのだ。そこから先の記憶がない。
「……なん、で」
自分で思っていた以上に震えた声が出た。
無理もない。目の前にいるのは『ペンタ』。ミアの存在など、文字通りの意味で消し炭と化すことが容易な、超越者。
ディノは先ほど「殺しちまったかと思った」などと言ったが、国の財産として期待される学院の『ペンタ』には、特権というものが存在する。
何らかの事情で、本当にディノがミアを殺してしまったところで、罪には問われないだろう。
例えば――その『何らかの事情』が、『ただの気まぐれ』だったとしても。
「ホレ、メシだ」
そう言ってディノが放り投げたのは、雑多な露店などで売っている、小魚を乾燥させた簡素な携帯食。
「丸一日、何も食ってねェだろ?」
親しささえ感じさせる軽さで『ペンタ』が言う。
ミアはディノ・ゲイルローエンを見かけたことはあっても、話したことなどなかった。
多くの『ペンタ』がそうであるように、傲岸不遜。自分が最も優れていると信じて疑わない、度を過ぎた自信家。おそらくミアのことなど、路傍の小石ほどにしか思っていないだろう。同じ学院の生徒だということも知らないはずだ。謙虚な性格の『ペンタ』など、ミアは一人しかしらない。
だからこそ、そんな人間がこうして親しげに話しかけてくることが、ひどく異質に思えた。
「なん、なの。ど……うして、こんな……」
ミアは、震える声を絞り出す。ディノの機嫌を損ねれば、瞬時に灰となってしまうかもしれない。それでも、勇気を振り絞った。
「っ……、帰してよ……」
小さく。けれど、はっきりと言った。
「ま、そう言いたくもなるわな」
対するディノは変わらない。
――親しげなほどだと思ったが、違う。軽い。どこまでも軽い。
他の存在を、ミアを、全く気に留めてなどいない。対等な存在として見ていない。だからこその軽さ。
「こんな、ことっ……人さらいだよっ……! なんでもいいから、帰して!」
その言葉に、ディノの赤みを帯びた瞳がミアを捉える。
怒らせてしまったかと、少女はその小さな身をびくりと竦めた。
「人さらい……じゃねェんだよな、コレが。ちゃんとした仕事なんだぜ、こんなんでも」
ディノはどこまでも軽い口調で、淡々と語る。
「仕事……?」
状況が、理解できない。
「ああ。だから、オメーは売られたんだよ。奴隷組織に。オレは商品であるオメーを管理してるワケだ」
「………………は?」
状況が理解できなければ、言っていることも理解できない。
売られた? 奴隷組織に? あたしが? なんで?
「それは……人さらいじゃないの……?」
思わず呆然と聞き返すミア。
しかしディノは、どこまでも軽い調子で答える。
「無差別に連れてきたんであれば、そうだろうが……オメーは違う」
どこまでも軽く。
到底信じられない真実を、告げる。
「オメーは、実の父親に売られたんだ」
「……ミアが……、実の父親に、売られた……?」
通信の向こうから響いたベルグレッテの言葉に、その場の全員が息をのんでいた。
流護は改めて自分で言葉に出す。それでもなお、意味が分からない。
実の親が、子を……ミアを、奴隷組織に売り飛ばした。なんだそれは。
――ベルグレッテの顔を見たミアの父親は、顔を青くしながら全てを告白したのだという。
ミアの……アングレード家の家計が、限界まで逼迫していたこと。蓄えを全て使い切り、すでに明日の生活すらままならないほどだったこと。
断腸の思いだったそうだ。
自分が死んででも金を作ろうと思った。しかし、地方の貧しい農家の老いた主が命を投げ打ったところで、金になどならない。
そこで、父親は決断を下す。
このことは無論、ミアの姉弟たちはおろか、母親もまだ知らないのだという。完全に父親の……身を切るような独断。
ここに至って、ようやく流護は気付いた。
今朝、ミアの父親と通信をしたときに覚えた違和感。
「ミアはもう家を出たのか」というエメリンの問いに対し、「もう出た」という父親。
一見すれば、特におかしいやりとりではない。
しかし普通は、あんな早朝にあんな連絡があれば、疑問に思って言うのではないだろうか。「ミアがどうかしたのか、もしかしていないのか」と。
ミアの父親は、そういった類のことを言わなかった。知っていたからだ。すでにミアが、どうなっていたのかを。
優秀な詠術士としての素質もあるミアは、そういった人身売買においての価値も高いそうで、加えて、愛らしい容姿も高値のつく要素だったという。
反吐が出る、と流護は歯を食いしばらずにはいられない。
もう何度、脳裏をよぎったか分からない……この世界において、人の命は……価値は、軽いという事実。
少年はこの意味を、この局面においてようやく真に理解した。
「家が貧しい……ってのは何となく聞いてたけど……やっぱ、ミアの学費とか負担になってたのか……?」
『ううん。百位以内の生徒は、国から補助金が出るの。だからミアの学費が負担になることはないわ』
それならば、余計に。
親に頼っていた訳でもない。それどころか、家族のためにいい仕事に就こうと頑張っていたミア。その彼女が、そんな風に売られてしまうなんて話があるか。
「……確かに、そーいった話ってのは珍しくねーんだけどよ。だからってよ……」
エドヴィンはうなだれて首を左右に振る。
『珍しくない』。
現代日本で育った少年には、到底理解できない。違う世界なのだ。流護の感覚で考えるのが間違いなのかもしれない。
それでも……納得など、できるはずがなかった。
ベルグレッテと合流した。
彼女と顔を合わせるのは約二週間ぶりだというのに、こんな沈んだ気持ちを抱えることになるとは思っていなかった。
ディアレーの酒場の一角。
流護たちの席の静けさと周囲の喧騒があまりに対照的で、それこそ世界が違うかのような剥離した感覚さえあった。
――無言。誰もが口を開かないまま、時間だけが過ぎてゆく。
そんな重苦しい空気の中、流護は沈黙を破った。
「……けどよ。どんな事情があろうが……実の親に売られようが何だろうが、関係ねえ。ミアを連れ戻す。……だろ?」
迷うことなく皆が同意してくれる。
そう、流護は思っていた。
難色を示したのは、意外にもベルグレッテだった。
「もちろん……私も、そうしたい。けど……それは、難しい」
「難しいって……何でだよ」
ミアをさらった奴隷組織から連れ戻す。力づくでも。それだけの話なはずだ。
「これがただの誘拐であれば、何の問題もないわ。全力でミアを連れ戻す。けど……」
顔を伏せ、悔しさを滲ませた声でベルグレッテは続ける。
「実の親に……相手が奴隷組織とはいえ、正式に売られた。両者が合意のうえで、商売が成立してしまった。これが問題なの」
「……奴隷組織や人身売買は、レインディールではかなりグレーなものではある。……けれど逆に言えば、法で明確に規制されてもいない」
ベルグレッテの言葉に、レノーレが続けた。
……それは、つまり。
「ミアが売られた件は、厳密には違法じゃない。だから手が出せない……ってことか?」
流護は彼女らの言いたいだろうことを口にする。否定してほしくて。
しかし、頷く。ベルグレッテも、レノーレも。
「……、そうか。ならいい」
流護は、ふー……と溜息を吐く。
「……アリウミ?」
諦めたと思ったのか、エドヴィンが怪訝そうな声を出す。
「俺がやる。奴隷組織だろうが何だろうが乗り込んで、一人でブッ潰してやる。そんで、ミアを連れ戻す」
「りっ、リューゴ……っ?」
「それで俺の方が違法になるってなら、そんときに俺を逮捕でも何でもしてくれよ、ベル子」
「そ、そんなこと……!」
メチャクチャだ。自分で、メチャクチャなことを言っているのは理解している。
「それでもよ……無理なんだぜ、アリウミ」
エドヴィンが、ひどく冷静な声を出した。
「もしかしたら、お前の強さなら……奴隷組織の一つや二つ、本当に潰せるかもしれねえ。けどよ、その先……ヘタすりゃお前は、城の兵士たちと、闇社会の人間。その両方を……つまり国そのものを、敵に回すことになるんだぜ」
ミアを連れ戻す。その結果、国が敵に回る。単純な立場上の関係でいえば、騎士であるベルグレッテまでもが敵に回るということになる。
もちろん彼女に流護をどうこうしようなどという気があるはずはないだろうが、表面上の事実だけをいえば、ベルグレッテには流護を捕縛する義務が発生してしまう。
そこで流護を見逃したりすれば、ベルグレッテまでもが罪に問われることになってしまうかもしれない。
「……は……、冗談。冗談だって」
流護はおどけて言いながら、テーブルに拳を打ちつけたくなる衝動を必死で抑えた。
「せめて……ミア公が学院を卒業して、親元から独立してりゃあよ……あと二年。あと二年経てば、こんなことは起きなかったんだ」
実際は二年どころか、明日の生活がままならなかったというのだ。
「……こういうことがある、ってのは知ってたし……実際に小さい頃、友達がいきなりいなくなった子の話とか聞いたこともあるけどー……まさかミアがこんなことになるなんて、思わないじゃん……」
両手で顔を覆ったエメリンが、力なく呟く。
「……みんな、今日のところはもう帰りましょう。時間も遅いし……私はこれから城に戻って、何かいい方法がないか調べてみるから」
こんなときでも……こんなときだからこそ、ベルグレッテがそうまとめた。皆が頷く。
そこで、エドヴィンが立ち上がった。
「イヤ……俺ぁ帰らねーで、この街でちっと調べてみらあ。ミア公を買った組織は『サーキュラー』だったな。どっちにしろ、連中の拠点はこの街だしよ」
そんなエドヴィンを、ベルグレッテは無言で見つめる。
今にも、泣き出しそうな顔で。
「な、何だよベル。まさかこんな時まで、授業がどーこー言うつもりじゃねーだろな……」
「……ううん。無理しない範囲で、お願い」
「お、おう。任せとけってんだ。じゃ、行ってくらあ」
エドヴィンはそう言うなり、意気揚々と酒場を出ていった。
「それじゃ……学院まで、一緒に行くね……」
ベルグレッテの笑顔は、見ているほうがつらくなるほど悲痛なものだった。