469. 欺くか、見破るか
勝ちが確定した。
そんな心境からだろう、そこで遭遇した兵士の表情にはこれまでの者にない余裕が浮かんでいた。
「いたな、レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ……。もう諦めろ、逃げられはせん」
構えた剣先を揺らしながらにじり寄ってくる若い兵は、ニヤリと口の端を上げる。
水路が使われ始めたこと、メルティナ確保の報を流布したこと、そしていざ遭遇したレノーレがすでに満身創痍だったこと。
これら要素から、眼前の兵は絶対的な優位を確信している。
「もう逃げ場はないぞ……。すぐ隣は表通り、住民がこぞって雪かき中だ。水路はもう使えん。もちろん兵士もいる。そっちの裏路地も、仲間が多数張っている。そのザマで突破はできまい。観念するんだな」
野心もあろう。千五百万エスクに相当する賞金首を射止めたとなれば、その褒賞はどれほどのものになるか。
(……、くっ、ふふ、ははは)
レノーレは思わず心中で吹き出してしまった。
兵士のぎらつく眼光、歪な笑み。法の守り手などとは程遠い、獲物を前にした賊のそれにしか見えなかったからだ。
皆が、法を守る者までもが踊らされている。この馬鹿げた捕り物劇に。
「――」
すっと息を吸ったレノーレは、一気に駆ける。
迷わず、表通りに向かって。
「ちっ、往生際が悪いぞ――うおっ!」
レノーレは牽制の氷弾を放ち、振り返らず走る。詠唱に意識を注ぎながら。大がかりな術はせいぜいあと数回が関の山。体力ももはや限界が近い。
――だが、それで充分。
細い小道を抜けて大通りに出ると、先の兵士が言っていたように住民たちが除雪作業に勤しんでいた。
降りしきる雪に彩られた街。歩道沿い、十マイレ前後の等間隔でぽっかりと開いている四角い大きな穴。流雪水路に繋がるそこへ、スコップで雪を投げ入れる者の姿がちらほらと見受けられる。
この皇都では何ら珍しくもない、冬の日常の景色。
(よし……! 氷神キュアレネーよ、我に加護を……!)
それを確認したレノーレは、残る力を振り絞って駆けた。
表通りにまろび出てきた少女の姿に、近くの者のにわかな視線が集まる。
何事かと目を細める老夫、驚く主婦。それに交じって、
「なっ、貴様!?」
歩道の片隅で雪かきの様子を眺めていた銀鎧の一人が気付く。
「おい、待て!」
そして先ほど振り切った兵士が遅れて路地から現れる。
そんな中、レノーレはただ全力で疾走した。一番近い流雪水路の穴に向かって。
「な、何をする気だ!?」
兵士たちの驚愕を背に受けながら、
「はあぁぁっ――!」
レノーレは跳んだ。
流雪水路へ続く穴の中に、自ら飛び込んだ。
そして、備えていた術を解き放つ。落下しながら、身の丈ほどもある大きな氷の塊を顕現させた。
それを両手で掴み、水路内で渦巻く激流の最中に叩きつける。
「……くっ!」
吹き上がる飛沫は、もはや痛みと錯覚するほどに冷たい。まともに水へ浸かった足首から先に至っては、鋭利な刃で切りつけられたかのようだ。
自分で生み出した氷塊、できる限りその上部にしがみつきながら、レノーレはさらに術を撃ち放つ。自らの後方、何もない虚空へ向かって。
「いっ、けぇっ――……!」
逆噴射。腹を蹴られた馬さながら、レノーレを乗せた氷塊が前進する。激しい水の流れに後押しされ、瞬く間に加速していく。
「ばっ……、馬鹿な!?」
腹這いになって穴から覗き込んでくる兵士の声や住民たちの驚きの視線を置き去りに、少女を乗せた氷塊は凄まじい速度で流雪水路の中を流れていった。
これぞレノーレ最後の策。
最初から分かっていた。まず間違いなく雪が降ることは。
ゆえに。
レノーレもメルティナも、最初からこうして脱出するつもりだった。
――失敗。
雪が降り始め、兵士たちはそう考えたことだろう。レノーレたちの脱出劇はこれで失敗に終わった、と。我々の勝利だ、と。
その虚を突いた奇策。
自分から水路へと身を投じ、生み出した氷に掴まる。あとは水路の流れが勝手に運んでくれる。氷の使い手ならではの手段。
――と、言葉で表現する分には容易い。
「うっ、く……!」
実際のところは、無謀に近しい試みでもあった。
自分で創出した氷ながら、その乗り心地は最悪の一言に尽きる。荒ぶる水流に翻弄され、少しでも気を抜けば振り落とされそうだ。
自己の神詠術の産物であり、また制御も維持しているため、氷に対して冷たさは感じない。が、その塊から立ち上る冷気や、荒れ狂う激流の飛沫となればまた別。
加速したことで吹きつけてくる冷風と相俟って、身体や顔が凍りつきそうだった。
「ぐ……!」
雪原で荒馬の背にでも跨がるほうが遥かにマシだろう。
水路の壁にぶつかりそうになりながら、追突した雪の塊を砕きながら、それでもレノーレを乗せた氷塊は勢いに任せて流れていく。
「はっ、はぁっ……!」
もし振り落とされれば、激しい水の流れに飲み込まれる。そうなれば終わりだ。
凍死が先か、溺死が先か。
いずれにしろ、毎年発生する水路への転落事故、その被害者と同じ結末を迎えるだろう。自分から飛び込んだ分、より始末が悪いか。
――問題は他にもある。
「っく!」
頭に受けた衝撃に、レノーレは思わず首を竦めた。
「あっ!? な、何だ!? お、女の子!?」
間髪入れずに降ってくる誰かの声。
「ぺっ、……!」
頭を振りながら、レノーレは口に入ったそれを吐き出した。しゃり、と冷たい感触が舌に残る。
住民の放り入れた雪が頭に直撃したのだ。運悪く、でもない。水路の用途を思えば当然ですらあった。
そして、
「お、おい誰か! 女の子が流されてる!」
「ああ、あんな必死に氷の塊にしがみついて……!」
「よし、ちょっと待ってろ! なぜか今日はそこいら中に兵士がいるからな、都合がいい! すぐ呼んでくる!」
流れていく声に耳を傾けつつ、レノーレは様々な理由から肩を竦めた。頭や首筋に残る雪の冷たさ、お騒がせして申し訳ないという気持ち、むしろ兵士を呼ばれると困るという思い。それら全てをひっくるめて。
「うわっ、水路に人が落ちてるぞー!」
「何だあのデカイ氷!?」
行く先々で降ってくる驚きの声。
街を挙げての除雪作業中、水路を流れていれば否が応にも目立つ。逃走中の身としてはこれも大きな問題点のひとつだった。それでも激しい雪のためか、千五百万エスクもの懸賞をかけられた大罪人だとは気付かれていないらしい。
(さて、どうにか飛び込むことには成功したけど……!)
激流の速度は相当なもので、走っても人の足では追いつけないほど。
排出口まで七百マイレ、このまま乗っていればほどなく到達できる――と思いたいところだが、さすがにそう上手く事は運ばない。
流雪水路は路面に沿う形で張り巡らされているため、転じて行き先も読みやすい。そもそも詳しい者なら、漂流物がどこをどう通るか熟知している。でなくとも最悪、排出口に直接繋がる部分で待ち伏せてしまえばいい。
(そろそろ……)
時間的に、水路を流れ始めて二、三分といったところか。
(私がここに飛び込んだことが知れ渡ってる頃かな……)
兵士たちも最初こそメルティナ確保の報を聞いたレノーレばりに驚いただろうが、さすがに立ち直って動き始める時分。
おそらくこの先、そう遠くない位置で待ち伏せを受ける。
そうなる前に――
(とにかく、揺さぶっていくしかない!)
機を見計らって、この氷を乗り捨てる。一旦地上に戻り、撹乱する。幸い、降りしきる雪も味方となってくれる。視界を遮る白いカーテンとして。
ただ、ここで気をつけたいのが白士隊の存在だ。
雪が降るまで、彼らは蓋を外さずとも水路に侵入できる下水道の出入り口に宛てがわれていた。しかしレノーレが水路に直接飛び込んだ今となっては、そんな場所を守る意味もない。直接、罪人確保に乗り出してくることだろう。
厄介なのは、メルティナと違ってレノーレには彼らの見分けがつかないことだ。白士隊とはただの通称。『雪嵐白騎士隊』に忠実な者らをそう呼んでいるだけにすぎない。一般兵と外見装備は一緒。
いざ対峙すれば分かるだろうが、もちろんそうなってからでは遅い。
レノーレとて、十全であれば――尚且つ一対一であれば、後れを取らない自信はある。しかし疲弊し切った今、まして多勢入り乱れる市街戦において、そんな仮定は無意味だ。
白士隊との遭遇は今、敗北に直結する。
(だからここからは……もう、影すら掴ませない……!)
思わせるのだ。ありとあらゆる可能性を。
流れていくのを見逃してしまったかもしれない。力尽きて水に没したかもしれない。脱出するふりをして姿を眩ませてしまったかもしれない。
そんな風に。どんな行動に出ていてもおかしくはない、と。
全てを、欺け。
「オ、オームゾルフ祀神長!」
高々とそびえる壁のすぐ内側。近場にある建物の軒先で雪を凌いでいる聖女と兵団の下へ、部下の一人が血相を変えて飛んできた。
「レ、レノーレが水路に飛び込みました!」
その報告に場がどよめく。瞠目したオームゾルフが、皆の困惑をそのまま代弁する。
「飛び込んだ、と仰いましたね。落ちた……ではなく」
「はっ。自発的に……」
「それはまさか、追い詰められて身を投げたと……?」
氷神キュアレネーを信ずる者たちにとって、自死は禁忌。己の魂を主に押しつける、などという厚かましい行為は許されない。進退窮まったレノーレが、今際の際にその愚を犯したのか。
しかし兵士は、ブルブルと何度も首を横へ振った。
「そ、それが――」
詳細を聞いて、オームゾルフ含む多勢が一斉に軒下から飛び出す。
視界を妨げる白の奔流の中、すでに足先が埋もれるほど積もり始めている新雪を踏みしだき、最寄りの流雪水路の入り口へ。
あらかじめ蓋を外してあるその穴の底では、激しい水の流れがいくつもの雪塊を押し運んでいる。
「……、」
そのとき間違いなく、全員の思考は同調していた。
――飛び込んだ? 自分から? ここに? 氷の塊に掴まって、こんな激流の中を……?
無理ではない、のかもしれない。
跳ねる水飛沫を絶えず浴びる羽目になるだろう。凍傷のひとつやふたつは免れないはず。何より普通なら、氷から振り落とされて沈む。
自分がやるか、と問われれば否。そんな行為。
だが、おかしくはないのかもしれない。
人間、追い詰められれば思いがけぬ行動に出るものだ――
「…………っ」
そう認識するや否や、オームゾルフの脳裏に懸念が生まれる。
自分たちが呑気に屋根の下で雪を避けている間に、レノーレはここを通り過ぎてしまっているのでは――?
「彼女が飛び込んだのは、いつ頃ですか」
「正確な時間までは……。我々が報告を受けたのは十分ほど前です。住民の証言から、九番街を通過したところまでは目撃されています。そこからカロヴァンが除雪中の道の向こう側へと流れていき、見失ってしまったようで……。しかし進路は予想が立ちますので、ベンディスム将軍の指揮の下、三番通りで押さえる手筈を整えております」
「……、そうですか」
時間的にひとまず見過ごした可能性はないと知ったオームゾルフは、安堵しつつ思索を巡らせる。
「メルティナはどうなっておりますか?」
「情報が錯綜しております。何やら、本当に彼女が確保されたと勘違いしている兵もいるとかいないとか……。確認には今しばらく時間が必要かと」
派閥の弊害か、とオームゾルフは黙考した。
この捕り物劇には当然ながら、オームゾルフ派、白士隊、そして一般兵の全てが参加している。
同一の作戦に参加しておきながら、こうした連携の鈍さが露呈してしまう。
ともあれまずは、慮外の動きを見せたレノーレだ。
(さすがは『凍雪嵐』……。そう易々とは捕まらない、ということですね。しかし追い詰められた末の、窮余の策であることは確実――)
水の流れは恐ろしく速い。これで彼女はかなりの距離を稼ぐはずだ。
激しさを極めた降雪は、今や全てを覆い隠さんとする白い薄膜のよう。これで風が交じれば、数マイレ先すら見通せなくなる。断然、兵士たちの目から逃れやすくなることだろう。
(……、)
去来する。
――本当に。
彼女は、やむなく水路へ飛び込んだのか?
(まさか……最初から、これを)
ゾッとした。
皇都に住まう人間なら誰でも分かる。降るか降らないかであれば、前者としか考えられない天候。いかにこちらの裏をかくためといえど、後者を信じて行動などできるものなのか。
少なくとも、自分ならそんな判断はしない。
ならば。
前者……降ると分かっていて逃走を開始したのなら、この事態も――
「現在、視界が悪くなってきたこともあって、より念入りに水路を監視するようとの指示が出ています。では、自分もこれで――」
「お待ちください」
慌ただしく踵を返そうとする兵をオームゾルフは引き留めた。
「地上の警戒も怠らぬようお願いいたします」
「は……地上も、ですか」
「水路に意識を向けさせるための策かもしれません」
兵士らがこぞって水路のみを警戒したなら、地上が疎かになってしまう。
例えば、彼女が脱出を強行するとは限らない。旗色の悪さを感じて脱出を諦め、そのままどこかに姿を隠してしまうかもしれない。
こちらが水路に気を取られている間に、悠々と。
経費や治安維持の観点から、何度もこんな大がかりな作戦は展開できない。今回で成功させなければならないのだ。
「人員的に厳しいことは承知しております。ですが、何卒」
「……了解しました。そのように伝えます」
謹直に頭を下げて走り去る兵士の姿が、瞬く間に白に飲まれて消える。
顔を上向けることも難しくなってきた雪の中、オームゾルフは内心で慄然とした。自分たちはレノーレを追い込んでいた。間違いなく、あと一歩のところまで。
しかし――
(ああ、我らがキュアレネーよ……)
決着どころではない。
何の因果か。よりにもよって、望んでいた状況が起きたことで――雪が降ってきたことで、風向きが逆転しつつある。
「あなたたちも前線に加勢をお願いします。下水道の出入り口を警護している方々……白士隊にも、助力の要請を」
オームゾルフは自分を取り巻く配下たちに指示を飛ばす。
「……よろしいのですか」
「私の警護は不要です」
考えろ。
これが彼女の狙った策ならば。『凍雪嵐』の思惑通りに事が運んでいるならば、ここからどう動くのか。渦巻く雪に呼応するかのごとく、オームゾルフは思考を深めていく。
相手がこちらを欺こうとしているのならば。
真実を、見破れ。




