468. 神の雪
少しずつ厚みを増していく雲。舞い落ちる雪の量も次第に多くなり、周囲はにわかに暗くなりつつある。
そんな空模様を仰ぐオームゾルフの下へ、顎ひげをしごきながら一人の老兵……ベンディスム将軍がやってきた。
この場より一区画分ほど前の領域にて待機していた彼がここまで出向いた、ということは――
「メルティナ・スノウ捕縛の報が届きましたぞ」
オームゾルフは天空から声の主へと視線を移し、複雑そうな顔でうつむく。
「そう、ですか……」
「お気に病む必要はありますまい。この作戦を立案・実行したのはこの老いぼれ。つまり私が勝手にやったこと。あなたの信念に……『真言の聖女』の名に何ら影を落とすものではござらぬ」
「……ええ。お気遣い、ありがとうございます」
「さて、メルティナ・スノウが捕まった。……レノーレがこの『虚偽の一報』に騙されてくれるかどうかは、うむ……如何とも言い難いところですな」
ベンディスム将軍は自らのひげを撫でながら苦笑した。
そう。実際には、メルティナは確保などされていない。というより、できるはずもない。
これが歴戦の古兵ベンディスムの弄した策。
二人を分断してしばらく後、レノーレが潜んでいると予想される周辺域で「メルティナが捕まった」「作戦が上手くいった」と喧伝する。一定区間を走り抜いたら次の仲間に交代、レノーレの耳に入るよう可能な限り広範囲で行う。担当した走者の一人が、今しがたベンディスム将軍の下へ到着したのだった。
これを耳にしたレノーレが逃げることを諦め投降……、とまでは期待していない。少なからず動揺を引き出し、気概を削げれば御の字だ。
本来であれば、もう一方――メルティナに対しても同様に「レノーレが捕まった」と触れ回ることで、両者同時に揺さぶりをかけたいところなのだが、残念ながら『ペンタ』のような最上位の術者に対しては通用しない。
彼らならば、指定した任意の相手へ通信術を飛ばすことなど造作もない。メルティナからレノーレ本人に確認の連絡でもされてしまえば、一発で嘘とばれるのだ。
元々、『ペンタ』のような超越者を騙せる策ではない。
数多の戦場を切り抜けてきた老練の、本人曰く賢しい小細工。しかし、何が起きてもおかしくない混迷の鉄火場においては存分に有効な情報操作。それでいて、『嘘をつかない』オームゾルフには扱えぬ手段でもあった。
そんな『真言の聖女』は黙考する。
(私がレノーレの立場だったなら……)
迷うまでもなく、
(信じない。この策にはかからない)
メルティナ確保の報を信じるということは、彼女の敗北を信じるということ。北方最強の英雄が負けるなど、親友なら安易に認めるはずはない。
仕掛けたベンディスム将軍としてもそれは承知しているからこそ、成功するか否かは如何とも言いがたい……と評している。
(あなたは従者として、親友として……メルを信じきることができますか? レノーレ……)
もちろん、その問いかけに答える者はここにはおらず。
(……これ以上、このようなことに時間をかけてはいられない。私は、かつてのバダルノイスを取り戻す。それこそが私の使命。そのために……)
果たして、天がその意志を汲んだのか。
「お、おお……これは」
「ついに……」
周辺に陣取る兵士たちがざわめいた。
「…………」
察知したオームゾルフも、両手を胸の前で組み合わせる。
――雪が、本降りとなってきた。
雲は暗幕さながらに重く立ち込め、とめどなく大粒の雪が落ちてくる。あっという間に白く染まっていく世界の中、肩の雪を払いながらベンディスム将軍が呟いた。
「ふむ……この老骨の小細工なぞ不要だったか。我らが氷神も、そろそろこの捕り物劇に飽いたご様子」
見計らったかのように、前線から一人の若い兵士が駆けてきた。
「報告いたします! 中央制御搭の起動を確認! 流雪水路への放水が開始されたとのことです!」
おお、と場がざわめいた。この場所は壁際……即ち街の最も外周寄りに位置するため、実際に水が届いてくるまでには今しばらくの時間がかかるだろう。
だが、これで――
「……終わったな。決着だ」
喜はない。ただ疲れたように零したベンディスム将軍が、オームゾルフに向かって頭を垂れる。
「では、私は部下に次の作戦を指示いたしますゆえ」
「……はい」
報告にやってきた若兵とともに前線へと戻っていく、その大きな後ろ姿を見送る。
いよいよ水路に水が放たれた。つまり、これでレノーレたちの脱出の目は潰えた。
(こうなることなど分かっていたでしょうに。……それほどまでに余裕も失われていた、ということでしょうか)
あとは、失敗を悟り逃亡を図るであろう彼女たちを迅速に確保。二人が分断されており、多数の兵が街中に展開している今が好機。
とはいえ、それでも戦力的にメルティナを制圧することは不可能に等しい。『雪嵐白騎士隊』が不在である以上は仕方のないところだ。
ゆえに――ここでの目標は実質、レノーレただ一人。彼女が落ちれば、メルティナは最終的に投降するはず。
(……。我らが主、キュアレネーよ……)
とめどない雪の中、オームゾルフは祈る。
(どうか……我らにご加護を)
果たして、その念が通じたのだろうか。
(全ては、神聖なるバダルノイスのために――)
天空からの白色は、より激しさを増していった。
暖かな室内。その温もりを生み出す大きな暖炉の中で、赤熱した薪がパチパチと爆ぜる。
「おっ……、やれやれ」
書類をまとめていた織物屋の老夫は、窓の外に目を向けるなり溜息ひとつ。目頭を揉んで、よっこいせと重い腰を上げた。
ちらつく程度だった雪が、本格的になってきたのだ。
そうと気付いて耳を澄ませば、家の前から水の流れる音が聞こえてくる……気がする。近頃は耳も遠くなってきたのであまり当てにはならなかったが、水路への放水が始まっていると考えて間違いない。
「仕方ねぇ、一丁やるとするかね」
いそいそと分厚い上衣を着込み、耳まで覆う毛糸の帽子を目深に被る。丈長の靴へと履き替えて蝋の塗られたスコップを手に取り、ここぞとばかりに外へ繰り出す。
「かぁ~、寒ぃなぁ」
珍しくもない冬の日常。いつもの雪かき。
年々、寒さや雪の重さが老体に堪えるようになっていく。
しかし、やらない訳にもいかない。
毎年毎年、どの家も雪のやり場には頭を悩ませている。小さな雪塊がちょっと隣の敷地に転がり込んだだけで揉め事に発展する、なんてのもよくある話。
切っても切り離せない雪との付き合い。少しでも減らせるときに減らす。この積み重ねが大事。
書類整理はいつでもできるが、雪は流雪水路が稼働したときにしか捨てられないのだ。
これでも、老夫が若かった頃に比べれば除雪作業の苦労は大幅に軽減されている。特に近年、オームゾルフが王となって以降はより顕著だ。
路面の雪をもりもりと運んでくれる草食獣カロヴァンの繁殖・育成や、流雪水路が安定稼働できるよう保守にも力を入れている。その分だけ税金も高くなったが、冬場の生活環境は間違いなく改善された。
水路自体は昔からあったものの、川からの汲み上げが思うようにいかず水が流れないだの、雪が詰まっただのといった不具合は毎日のように起きていたのだ。
「うむ」
家の前、網目蓋の遥か下方を通過する激流。これが当たり前になるまでが長かった。
血税を払い続けた甲斐があったと満足しつつ、
「むう……?」
見慣れた雪景色に、今日はいつもと違う点がひとつ。やけに兵士の姿が多いのだ。
昼に買い物へ出た妻の話では、なぜか街の北西部周辺で特に銀の鎧姿が目立っていたという。
老夫の自宅前の歩道にも、銀の鎧を着た若い兵士が一人。少し離れた交差路に二人。兜や鎧にまぶされた雪を払いもせず、辺りに視線を飛ばしている。
そも、兵が立つという時点で不穏な事態を想像させる。
しかし特別何かあったという話も聞いていない。となれば、要人の警護辺りだろうか。
「あのう、兵士さんや。雪かき、やっちまっていいんですかいね?」
事情は知らないし、尋ねても教えてもらえないだろう。とにかく老夫は、日課に支障があるかどうかを確認すべく話しかけた。
すると息子ほどの年齢のその若い兵士は、
「ええ、もちろんです。我々にはお構いなく」
なぜか満面の笑み。何かいいことでもあったのか、と思うほどの晴れやかな表情。
「はぁ……じゃあ、いつも通りに始めますが」
「どうぞどうぞ。どんどん雪を流してしまってください。『余計なもの』が紛れ込まないように」
「……?」
兵士の妙な口ぶりを疑問に思う間もなく、
「おーい、こっちだ! 手伝ってくれーい!」
近所の老いぼれ連中が、水路の蓋を持ち上げにかかっていた。
「おう、今行くけぇ!」
金属製のその板は、大人の男が数人がかりでないと動かせない。老夫はいつものように、仲間と協力して作業に取りかかるのだった。
建物と建物の隙間、四角く切り取られたように見える空。
うずくまったレノーレは、子供みたいにただ見上げていた。神々が座すであろう天空から、とめどない雪が舞い落ちてくる様を。
「…………」
ついに本格的に降り始めた。
そして、建物の裏側に潜むレノーレの下まで響いてくる重い金属音。ガシャン、ガシャンと表通りから聞こえるのは、流雪水路の蓋を取り外す音だ。
重厚な金属板とでも呼ぶべきそれを、大人の男が複数人で持ち上げてどかす。
子供の頃から、冬になれば聞いてきた音。見なくとも分かる。放水が開始されたのだと。
おかしなものだ。
そのようにすぐそばで『日常』が広がっている傍ら、自分は罪人として追い立てられている。平和に生きる人々のすぐ隣で。
――どうにか追手を振り切ってしばし。
レノーレは大きな建物の裏手、薪置き場の庇の脇で息を整えていた。
「っ……、」
もはや無傷とは程遠い。
そこかしこに傷を負っていたし、体力も消耗し通し。この極寒の中、腰を落ち着けていたところで回復など望めるはずもない。
周りの景観や店の看板などから推測するに、目標地点までは残り七百マイレほど。その距離まで迫った今、脱出口……そこに繋がる流雪水路に水が流れ始めた。
その事実を受けて真っ先に、少女の脳裏に描かれる文字。
失敗。
さらには、
(メルが……捕まった……)
大勢の兵士たちが鬼の首でも獲ったかのように触れ回っていた内容。
聞いた瞬間は、確かに動揺した。
だが、
(……本当に?)
冷静になってみれば疑問符が浮かぶ。
まず、本当に彼女が確保されたのか。メルティナは『ペンタ』ゆえに強いだけではない。類稀な戦巧者でもある。単純な戦闘力のみならず、策略や読み合いといった分野でも超一流。それら隙のなさから生み出された、多大なる戦果や功績。
ゆえに英雄、生ける伝説とまで称されるようになった彼女が、本当に制圧などされたのか。
加えてもうひとつ。
事の発端となったモノトラ、そしてこの男と繋がる『敵』の狙いはメルティナである。レノーレに手配をかけたのも、間接的に彼女を引きずり出すため。ここは間違いない。
であれば極端な話――メルティナが落ちたなら、もはやレノーレなど用なし。構う必要はないはずなのだ。
にもかかわらず、兵士たちは未だこうして追いかけてくる。
もちろん賞金首に認定した以上、いきなり撤回とはいかないだろうが、依然としてここまで執拗に迫ってくるのはどうも腑に落ちない。
メルティナ確保の報にしても、思い返せばいささか妙だ。いかに仲間にいち早く知らせるためとはいえ、あのように多勢・大声で騒ぎ立てて触れ回る必要があるのか。一報なら、仲間内で通信を回すだけでも事足りたはず。それを、まるで『他の誰か』にわざと聞かせるように。
となれば。
(……ったく、我ながら馬鹿らしい。こんな手に引っ掛かりそうになるだなんて……)
実際にそれを聞き、動揺して追撃を受けた身としてはぐうの音も出ない。
(『真言の聖女』には使えない手段だし……ベンディスム将軍の作戦かな……)
何事も、後々になってよく考えたらおかしいと客観的に振り返ることは容易い。
しかし瞬間的な判断が絶えず求められる鉄火場において、誤らず正答を選び続けることは難しい。
この件についても、捕まらなかっただけマシと考えるべきだろう。
そして、まだ終わっていない。今この瞬間においても同じこと。すぐに次の行動を選択しなければならない。それが正しいと信じて。
(…………)
レノーレは立ち上がる。
降り始めた以上、迷ってなどいられない。即断が重要だ。
よろける身体に鞭を打ち、孤独な少女は移動を開始する。