467. 逃げる意味
――そして今。
「おのれ、見つけたぞ!」
銀鎧の正規兵が剣を上段に構え、猛然と突っ込んできた。
左右を建物に挟まれた窮屈な小路、退路はない。
「ぬうん!」
「……く!」
斜めに弧を描いた剣閃が、どうにか躱したレノーレの髪先をかすかに散らしていく。
「……はあっ!」
辛うじて踏み止まったレノーレは、備えていた術を間髪入れず撃ち放った。
「がっ、は!?」
至近で巻き起こった局所的な吹雪の渦が、兵士を強引に薙ぎ倒す。
風雪の余韻も消えぬうちに、
「……失礼」
うつ伏せとなった彼の上を跨ぎ越えるようにしながら、罪人の少女は先を急ぐ。再び即座に放てるよう、いくつかの攻撃術を備えることも忘れない。
「……はぁっ、はっ」
息が切れる。白い靄となって消えていく。
これまでにない、本気の包囲網。
入り組んだ街並みの中、でき得る限り死角から死角へと移動しつつ目的の場所を目指すレノーレだったが、見つからずに進むことはもはや不可能だった。まさしく鼠の一匹すら逃さぬとばかり、あらゆる道に兵士が配置されている。
おかげで一箇所当たりの配置人数こそ少ないものの、反面どうしても戦闘を強いられる形となり、消耗は避けられなくなっていた。
そもそもこちらの目的地が割れている時点で、あまりにも分が悪い。
「はっ、……はぁっ」
ここはどこだ。
首を巡らせ、目印となりそうなものを探す。どこにいても現在位置を把握できるよう、事前に地図は頭へと叩き込んである。
建物の隙間から垣間見える大通りに、有名な服飾店の看板が確認できた。あれがあるということは――
(あと、一キーキル……)
残り千マイレ。横倒しにしたドラウトローを並べて千匹分、などと益体もない思考が浮かぶ。疲れが出始めている。
長い。後にも先にも、この距離をこれほど遠大に感じることは二度とないだろう。
しかも、走破して終わりではないのだ。
その終着点たる出口に待ち構えているに違いない関門を突破し、皇都の外へ脱出しなければならない。現時点では、その関門が何であるかも分からない。
オームゾルフとその直下の部隊か。実戦に長けた白士隊か。それとも――
(あの人、かな……)
未だ姿の見えないベルグレッテ、彼女が絶大な信頼を置く無手の遊撃兵……。
いずれにしても、レノーレ一人でどうにかなる相手ではない。ましてここまで体力を削られた今、抵抗らしい抵抗もできずに終わるだろう。
「……、」
少女は空を振り仰ぐ。
昼神の威光を遮るほど深く立ち込めた分厚い雲。
その合間から、ちらほらと雪が舞い落ちている。この程度では、流雪水路への放水は開始されない。
しかし、先ほどから少しずつ辺りが暗くなりつつある。いよいよ雪が本降りになろうとしているのだ。
それはつまり、もうじき流雪水路が本来の役割を果たすことを意味している。
残す距離はおよそ一キーキル。
「……、」
焦るな、逸るな。落ち着け。
自分に言い聞かせながら移動を再開した直後、
「おい、こっちだ! やられてる!」
後方からの声。
塀の角から様子を窺えば、つい今ほど倒した兵士の下に別の二人が駆け寄ってきたところだった。
「まだ近くにいるはずだ……」
「ああ、探そう」
戦闘音を聞いたか、連絡でも取り合っていたのが途絶えたか。とにかく長期戦になっていれば、この二人も同時に相手取らなければならなかった可能性が高い。
(っ、少しでも遅れてたら……危なかった)
さすがに、複数人の正規兵と正面からまともにやり合うのは無謀だ。
レノーレは保持していた攻撃術を破棄。その代わり、詠唱すら必要とせずに生み出せる小さな氷石を右手に握り込んだ。
(よっ、と)
それを高く放り投げ、彼らを飛び越した向こう側に位置する石壁へと当てる。カツン、コロコロ……と狙った通りの乾いた音が鳴り響き、
「! 何か聞こえたぞ」
「ああ、そっちからだ!」
二人はレノーレが潜む場所とは正反対の方向へと駆けていく。
「……ふうっ」
息をつきながら、再び攻撃術を備え移動を開始。
(もつ、かな……)
連戦に次ぐ連戦で削られる体力と集中力。絶え間なく追い立てられることによる緊張。そして身を切るような寒さ。それら全ては疲労という形で収束し、無視できない程度に積み重なっている。
道とも呼べない家屋の隙間を強引に抜けたり、先の要領で兵士の気を逸らしたり。
しばらく誰とも交戦することなく、順調に距離を稼いだ頃だった。
「――……!」
声。
表通りのほうから何か聞こえてくる。
「――の……たぞ……!」
誰かが大声を張り上げている。
「……たぞ!」
「ほ……こく!」
それも、一人や二人ではない。
(何……?)
兵士か、それとも無関係な市民か。
今後の展開にどんな影響を及ぼす事態が起きているとも知れない。念のため確認すべきと判じたレノーレは、建物の裏から側面へと回り、表の様子を見るべく慎重に顔を覗かせた。
「……?」
開けた大通り。
兵士だ。十人近い兵士たちが、一斉に歩道を駆けてくる。街行く人々も、何事かといった面持ちで彼らに注目している。視線を集める銀鎧の集団、その中の一人が声を張った。
「報告、報告ー! メルティナ・スノウの確保に成功したぞーっ!」
――間違いなく、レノーレの呼吸が止まった。
「………………え?」
今、なんて。
そんな少女に追い打ちをかけるかのごとく、兵士たちは勇ましく声を張り上げる。
「伝令だ! メルティナ・スノウを確保!」
「作戦が成功したぞぉっ!」
耳を疑うその内容。
(メルが……捕まっ、た……?)
レノーレとメルティナが別れる直前に現れた……、そもそも別行動を取る原因となった人物。その刺客は屈指の強者に違いなかったが、それでも届かない。メルティナが負けることなどありえない。捕まるはずはない。
なのに――
「作戦が上手くいったぞー!」
(作、戦……?)
そうだ。
『あの人物』ではメルティナに敵わない。誰でも……本人ですら分かっていただろうに、なぜああして現れた? 何か意図があったのでは?
未だ姿の見えないベルグレッテは、どこで何をしている?
「…………、ッ」
聡明にすぎるあの少女騎士が企図し、バダルノイス王宮が全力をもって遂行したなら。
万が一、ということも――
「お、おい! レノーレだ! そこにレノーレがいるぞ!」
こちらに気付いた一人が指差し、周囲の者たちの視線が集まる。
「!? ……くっ!」
迂闊だった。
メルティナ陥落の報にこれ以上なく動揺し、周囲への注意が疎かになってしまった。すぐさま身構えた風雪の少女は、殺到してくる兵士らに向かって吹雪を撃ち放つ。
「ぬうっ、くそっ!」
「ええーい、こんなものが効くか!」
銀の集団は倒れることなく踏み止まる。
が、そもそもこれは目眩まし。詠唱保持していた術のうちのひとつ、派手に雪と風を舞わせて視界を遮ることを目的としたもの。
「邪魔くせえ、何も見えん!」
にわかな吹雪が荒ぶその間に、レノーレは踵を返して駆けた。
ひたすらに走り抜けた。
「はっ、はぁっ、ぜっ……!」
逃げる。逃げなければ。
「は、……、」
逃げる?
メルが捕まったのに?
敵の目的はメルだった訳で。
なら……これ以上逃げることに、意味は……あるの……?
「くそ、待て!」
「回り込めー!」
足下が崩壊するような失意。
自問しながらも、少女は白の街を逃げ惑う。