466. 絶凍の記憶 11
その日、レノーレはユーバスルラの街の廃工場に潜んでいた。
このところ、各街の出入り口には検問が敷かれるようになってきている。これを掻い潜るため、メルティナは流雪水路を使うことを提案した。なるほど、皆の意表をつけるだろう手段である。
今後はこの退路を主流とする。
ということで彼女はここ数日、水路の排出口の場所を記すため地図を作りに街へ出ている。これを完成させ、都市間の移動を安全なものとするのだ。
皇都イステンリッヒに近く、兵士の数も少なくないこの街。何かあれば、各自で脱出を図る手筈となっている。今や、多少の危険は認識したうえで行動するしかない状況となっていた。
別行動を取る時間が増えているが、メルティナについては心配いらない。
変装も上手く、自分と違って社交的に明るく振る舞うこともできる。まるで別人を装えるのだ。ここ最近は、買い出しなどに行っても気付かれることは全くなかったほど。兵士らにしてみれば、突然メルティナを見かけなくなってしまったように感じているのではないだろうか。
ここしばらくはそんな状況が続いていたが――
「!」
案の定というべきなのか、レノーレは買い出しに出た際に、兵士が遠巻きにこちらの様子を窺っていることに気付く。
(予想より早い……この街にいられるのも、ここまでか)
この街は工業都市という性質上、商人の馬車の出入りも非常に多い。
検問については実施すると膨大な時間がかかってしまうことから、まだ導入されておらず先送りとなっていた。となれば、馬車を用いて逃げることができる。
(数が多い……、できれば包囲される前に逃げたいけど)
建物や配管の合間から見える銀鎧たち。
レノーレは街を脱出すると即断。
今日は前もって取り決めた宿に泊まる予定だったが、定刻を過ぎても合流できなかった場合、不慮の事態が発生したとみなし、それぞれ別行動で他の街へ移動する手筈となっている。
「くっ」
――結論から言って、今までにないほど厳しい追い込みだった。
この兵士たちは、レノーレを見つけて慌てて取り押さえに来たのではない。事前に発見し、監視を続けていたのだ。そうとしか思えないほどの人数、包囲網。
かなりのやり手が指揮を執っている。そんな人物までもが、真実を知ってか知らずか……レノーレを捕縛しようと動いている。
それでも対峙した兵を倒し、振り切り、走り続けて――そこにたどり着く。
緩やかな坂を上がって見えてきた馬車組合の屋根。残すはそこへ続く直線の道。
その長さは五十マイレ弱。ここを突っ切って大通りに出てさえしまえば、あとはどうにでもなる。
しかし――そのただ一本の道が、運命を決定づける分岐点。
建物と建物の間を割って延びる暗い小路。ここからでは見えないが、そこへはさらに同じような道がいくつも繋がっている。これ以上待ち伏せに適した場所もない。
頭上には、太く頑丈な配管が何本も通り屋根のように這っている。これらを足場として伝えば、上からの奇襲も容易だ。むしろ、この環境で何も起きないはずがない。
とはいえ、今のレノーレに退路などない。腹を括ってここを突破するしかない。
「……よし」
術式や物理的な罠、そして刺客。
考え得る全てを想定し、追われる身の少女は駆け出した。
たとえスヴォールンが現れようとも突っ切ってやる、と前向きに覚悟を決める。やたらと誇り高くて能書きが長いあの兄のことだ。だらだらと前口上を垂れるその鼻っ柱に不意打ちをかまして、案外あっさり逃げおおせることもできるかもしれない。
前向きに覚悟を決めて、走りにも勢いが乗る。大通りまであと三十マイレ。未だ奇襲はなし。
「その髪型も似合ってるわね、レノーレ」
投げかけられたそれは、想定していない声だった。
しているはずがない、声だった。
「――――――」
ありとあらゆる妨害を覚悟していながら、それは完全に慮外の出来事だった。
大股で地を蹴っていた足が、もつれるように止まる。自分の立場も忘れ、置かれている状況すら忘れ、レノーレはただ呆然とその場に立ち尽くした。
行く手を遮る形で現れた、その人物を前にして。
ここにいるはずがない。その先入観から一瞬、他人だと思った。思おうとした。
けれど、間違いない。
遠い北国へやってきたゆえだろう。寒さに弱い彼女は、見たことがないほどの厚着姿だった。そんな野暮ったい格好でありながら、損なわれる気配すらない美貌。
薄氷色を宿す切れ長の瞳。腰まで届くほど伸ばされた、麗らかな藍色の髪。
人違いでも見間違えでもない。
そこにいるのは、二年間の学院生活をともにしてきた親友の一人――。
「……ベ、ル」
その愛称を、レノーレは呆然と口にしていた。
もう、何が起きても揺らがないと思っていた。
この国中を巻き込んだ事態に、どうにか決着をつける。メルティナとともに。
そう、意志を固めたはずだった。
なのに。
「……どう、して……あなたが、ここに」
考えもしない。するはずがない。なぜ……どうして、レインディールの……ミディール学院にいるはずのベルグレッテがここにいるのか――。
「どうして、って……決まってるでしょ? あなたを迎えにきたのよ。新しい年になって学院も始まって、もう何日経ったと思ってるの?」
「そ、んな……ッ!」
いつもの顔で。何を場違いなことを言っているのか。
確かに、自分がいつまで経っても学院に戻らないことで不審がりはするだろう。
けれどそんなことで、レインディールからこのバダルノイスまで――
「何だよ、レノーレ。そんなツラすんだな、お前でもよ」
そんな言葉とともに反対側の路地から現れたのは、
「……エド、ヴィン」
ミディール学院の『狂犬』と名高い悪童。それでいて情に篤い青年。
「オウ、勘違いすんじゃねーぞ。俺は別に、わざわざお前を連れ戻しに来たワケじゃねぇ。たまたまハルシュヴァルトまで行くハメになっちまってよ、そしたらお前が何だかウダウダやってるって話じゃねーか。だからよ、こう……ついでにっつーかよ……」
「何でそんなヘタクソなツンデレみたいなんだよ、エドヴィン」
そして最後に。背後から聞こえた声。
「…………! あなた、まで……!」
「よ、レノーレ。久しぶりだな」
振り返ったレノーレに、彼――有海流護は、まるで学院でそうするような気軽さで片手を上げて応じた。
「前にほら、ちょっと約束したろ? レノーレに何かありそうだったら、国に乗り込んででも連れ戻しに行くって。つー訳で、実際にこうして来ましたー、みたいな感じで」
「……っ! そんな、そんな……こと……!」
覚えている。何気ない会話の中で発せられた、とても本気とは思えない口約束を。
「こんな……本当に、来るだなんて……! 今の状況、分かってるの……!?」
いつしかレノーレの癖となっていた、一呼吸の間を置いてからの喋り。このように咄嗟に口を開いてしまうと、自分でも言葉が要領を得ない。気持ちだけが先行して、たどたどしくなってしまう。
そうして絞り出した声には、ベルグレッテが静かに応じた。
「分かってるわ。あなたが手配されていることも、置かれている現状も……すべて知ってる」
全て。それなら。
彼女たちなら、きっと自分の無実を信じてくれる。理解してくれる。味方になってくれるはずだ。ここにやってきたのは彼ら三人だけらしい。さすがにダイゴスやミアまでは来ていないはずだ。けれど、三人も味方がいてくれれば心強いことこの上ない。
「なら……、!」
言いかけて、レノーレは気付いた。
建物の影。通路の角。配管の上。そこかしこに息を潜める、何者かの気配。その正体など考えるまでもない。
「……ベル。……ひとつ訊きたいことがある」
「なにかしら?」
引き戻される。わずかな光明が差したと思いきや、再び奈落の底へ。
「……バダルノイスの兵団に協力を依頼したの」
「逆さ」
即座に答えたのは、ベルグレッテではなかった。
脇の路地から現れたのは、ガッチリとした体格の大男。
「ベンディスム将軍……!」
知る人ぞ知るバダルノイスの名将。メルティナやスヴォールンのように突出した強さを誇る詠術士でこそないものの、練り込まれた戦略や知謀、堅実な立ち回りで勝利を呼び込む歴戦の古兵。
「逃げ回るお転婆娘にほとほと困り果てたバダルノイスが、伏して彼らに助力を願ったのさ」
「……!」
やはり、だ。ここまでの包囲網を展開できる策略家として、これ以上の適任はいない。
だが、何という事態なのか。
彼ほどの知将ですら、この偽りの手配に踊らされ利用されてしまっている……。
「俺たちも、力づくでお前さんを捕らえようとはしちゃいない。できれば穏便に済ませたいんだ」
「……その穏便な策とやらが、ベルたちによる『説得』と言いたいわけ」
「ま、そうなるな」
そして……ベルグレッテたちまでもが。
友人と呼べる彼らまでもが、絶対にこんな事態に巻き込みたくなかった人たちまでもが、こうして……。
詳しい事情は知らない。が、容易に想像はつく。
いつまでも学院に戻ってこない級友を案じ、わざわざこのバダルノイスまでやってきた。そこでレノーレが賞金首として手配されている事実を知った。そして『咎人となった友人』を止めるため、兵士や王宮と協調……。当たらずとも遠からず、といったところだろう。
「レノーレ、私も尽力するわ。あなたが恩赦を受けられるように。だから……、……」
結果こうして、あのベルグレッテまでもが『乗せられて』しまった。
「メルティナ・スノウはどこにいる?」
ベンディスム将軍の発したその言葉で、冷静さが……覚悟が戻ってくる。
例えば今こうしてレノーレを囲んでいる兵士たちの中に、あのモノトラと繋がりのある人間がいるかもしれない。
否、ここまでの事態を作り上げる敵だ。レノーレを追う実働部隊の中に、紛れていないはずがない。
そうなれば、ベルグレッテたちの身が危険だ。
彼らなら、味方になってくれる。自分を信じてくれる。ともに戦ってくれる。
だからこそ。
……これ以上、巻き込む訳にはいかない。絶対に。
得体の知れない、勝てる保証もない敵との戦いなどに。
「帰って」
帰す。帰さなければ。
「今すぐ、レインディールに帰って」
何としても。
大切なこの人たちを、無事に。レインディールへ。
「レ、ノーレ……?」
呆然となったベルグレッテの表情に、胸がチクリと痛む。
本当は頼りたい。助けてほしい。
でも、それ以上に。
「……目論見が甘い、ベンディスム将軍。……彼らに説得させれば、私が大人しく捕まるとでも? ……麒麟も老いては駑馬に劣る、と云うけど」
あえて挑発交じりの言葉を投げかける。周囲の兵士らが殺気立つが、
「ほう……言ってくれるじゃないか」
侮辱された当のベンディスムは、まるで動じずに笑い返す。
余裕は当然だ。たった一人のレノーレ。周りを囲む兵士たち。向こうが圧倒的優位な状況。
「なら、ここからどうするつもりだ『凍雪嵐』殿。老いて鈍ってきた小生へ、是非ともご教示いただきたいところだな」
慇懃無礼な態度で挑発に応じたベンディスムをレノーレは鼻で笑う。相手にする必要はない。
「……ベル、もう一度だけ言う。……そこの二人も」
今この場で成すべきことは、
「……しばらく同じ学院で過ごしたよしみで、見逃してあげる。……今すぐレインディールに帰って」
彼らを、何としても無事にレインディールへと帰すこと。
そのために必要なのは、
「……おい、何を寝ボケたこと言ってやがんだよ。大体、『見逃してあげる』って何だよコラ。何上から言ってんだオラ」
徹底して、彼らを『突き放す』。
ここでベルグレッテたちに友好的な素振りを見せてしまっては、どこかに潜む敵に気付かれる恐れがある。
そうなれば、彼女たちが利用される危険性が高まる。最悪、人質とされてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。無関係な皆を、危険な目には遭わせられない。絶対に、遭わせたくない。
だから、
「……帰らないなら……今この場で、殺す」
だから。
徹底して、突き放す。
思ってもいない、間違っても口にしたくない言葉を吐き出してでも。
彼女らがこれ以上利用されないように。危険に晒されないように。
「――――――――」
愕然としたベルグレッテの表情に、レノーレの胸がズキンと一際強く痛みを訴えた。けれど、絶対にそれを表に出してはいけない。彼女たちが自分にとって大切な存在であると、敵に悟られてはいけない。
「……その三人は、私を説得するにはまるで的外れな存在。……何なら、私自身がそれを証明しても構わない」
心にもない言葉を吐き出す。平静を装って。
兵団の中に紛れているだろう敵に錯覚させなければ。
レノーレにとって、ベルグレッテたちは『何でもない』と。
そして、ベルグレッテたち自身にもだ。
レノーレはこんなにもひどい奴だった、と。これでいっそ自分に見切りをつけて、レインディールに戻ってほしい。そうすれば、もうこんな馬鹿げたことに付き合わせずに済む。
「――オウ。調子に乗ってんじゃねぇぞ、オトボケメガネ女」
彼が、真っ先に呼応した。
『狂犬』エドヴィン・ガウルが。隠しもしない怒りの表情で。
腕に朱色の奔流を喚び出し、一直線にレノーレへ向かって突っ込んできた。愚直すぎるほどに。
こんな時、彼の直情的な性格はありがたい。本気で怒っているその様を見れば、両者の対立や亀裂は明確だと敵の目にも映るはず……。
「オラァ!」
自身も武器であるかのように、前のめりになりながら振りかぶる炎の腕。
相も変わらず、裏表のない全力全開。何とも彼らしい。
わずかに後方へのけ反るだけでエドヴィンの一撃を空転させたレノーレは、不発にふらついた彼の片足を素早く蹴り払う。
遠い昔のことのように思い出す。学院の模擬戦でも、いつもこんな感じだった。
「クッ……!」
空振ったうえに足払いを受けたエドヴィンは、そのまま前転する勢いで倒れ込――まなかった。
「ウルァ!」
「!」
レノーレだけではない。ベルグレッテも目を剥き、流護も驚いた。
為す術なく転倒するかに思われたエドヴィンは、身体を捻りながら裏拳を打ち放つ。下から上へ、振り仰ぎながらの一撃。強引にすぎる、無理矢理にもほどがある挙動。
「ッ!」
すんでのところで首を振ったレノーレの頬を、その拳が……炎の残滓がかすめていく。
完全なる慮外の一撃。
(熱っ……)
でも、そうだ。エドヴィンは、有海流護と出会ってからずっと頑張っていた。ひたむきに自分なりの訓練を続けて。この頬に感じるわずかなひりつきは、その努力の結晶だ。彼も成長しているその証。
無茶な体勢から追撃したエドヴィンは、今度こそ空振るまま仰向けに倒れ込んだ。
(……うん、いい一撃だった)
これからもこの調子で頑張ってほしい。……自分はもう、彼の成長を見届けることはできないけれど。
「――”吹き荒べ、風雪の妖精”」
吹雪を巻き起こす。
場の全員が身構え、足下に倒れていたエドヴィンは直撃を受けて吹き飛んでいく。少し痛いかもしれないが我慢してほしい。
派手な目眩ましで一行の視界を奪ったレノーレは、その隙に近くの路地へと飛び込んだ。
ここまでの包囲網となった以上、やはり逃げ切ることは不可能だった。
あっという間に兵士たちに捕捉され、素早く間を詰められてしまう。
「うわっ」
「ぐあ!」
駆け抜けながらの攻撃術で、一人、二人。氷弾が直撃し、彼らは雪煙を撒きながらその場に転がった。
しかし数が多い。結局のところ、またすぐ囲まれる。
やや広めの通路。前後に五人ずつ。
彼らの後ろから、落ち着いた足取りでやってくる影がひとつ。
「!」
黒い髪に黒い瞳。地味な装いの少年。さすがに厚着をしているためか、彼特有の鍛え抜かれた肉体も服の下に隠れてしまっている。こうして見ると、ちょっと地味な平民の若者だ。少なくとも、対峙する敵を等しくその拳で粉砕してきた戦士とは誰も思うまい。
「なあ、レノーレさん」
一触即発の空気の中、少年――有海流護は全く普段通りの口調で呼びかけてくる。どうにか説得しようとしているのだ。
「ミアが心配してたぞ」
その名に、レノーレは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を味わった。
だめだ。動揺するな。表に出すな。悟られるな。耐えろ。
「向こう出るまでも大変だったよ。ミアがさ、『あたしも行く!』って言って聞かねーんだ。もうお子様みてーに駄々こねちまって」
ああ、それは全くあの子らしい。
「最後にゃ『レノーレが無事ならあたしなんてどうなったっていいもん!』とか言い出してさ。さすがにベル子が怒って、『そういうこと言わないで』って頬叩いて」
その光景が目に浮かぶようだ。
顔に出すな。揺さぶられるな。ここで反応してしまっては、意味がなくなってしまう。どこかに潜む敵に本心を気付かれる訳にはいかないのだ。
「……私には、関係ない」
血の代わりに言葉を吐き出す思いで。しかしそれを押し殺しつつ、レノーレはそう口にした。
自責の念が胸を渦巻く。密かに噛んだ歯が砕けそう。
ごめんねミア。
関係ないわけ、ないじゃないか。私のせいでそんな思いをさせたのに。
私は、冷たく振る舞えているだろうか。
生まれ授かった属性のように、氷の女として立ち回れているだろうか。
「……まあ、ちょっと、あれだ」
努めて絞り出した言葉に対し、流護は半笑いで……しかし、その拳をぎゅっと握る。
「レノーレがどういうつもりでそんな態度取ってんのか、ちょっと訊かせてもらうわ」
その流護の静かな怒りで、レノーレは安堵した。
成功だ。怒った。怒ってくれたということは、レノーレの本心には気付かなかったということ。冷徹を装った甲斐があるというものだ。
「リューゴっ」
とそこで、後方からベルグレッテが追いついてきた。
その他の小道からも、次々と兵士らがやってくる。傭兵か冒険者と思しき男女二人も交じっていた。先ほど吹き飛ばされたエドヴィンも、肩を押さえながらやってきた。
さらにはこの場所の一角が廃工場となっているようで、二階部分から縦横無尽に伸びたパイプの上にも兵が陣取っている。
総勢、およそ三十名前後ほどにもなるか。
結果として、先ほどを優に上回る人数がレノーレを取り囲む状況となっていた。
「諦めな」
ゆったりした足取りで追いついてきたベンディスム将軍が、呆れたような情を滲ませる。
……実際、状況は最悪だった。もはや逃げようもない。
(ここまで、か……)
あとは、この隙にメルティナが異変に気付き脱出してくれることを祈るしかない。彼女なら、きっと一人で戦える。というより、自分がいても足手まといになりかねない。
何か危険があれば各自で脱出しよう、と事前に決めてある。この国に潜む影を暴き出し、その脅威を取り除くために。メルティナはなかなか納得してくれなかったが。
(メル……私が捕まっても、変な気は起こさないでね。敵の狙いはあなたなんだから。あなたなら……英雄メルティナ・スノウなら、きっと一人でも――)
曇った空を仰ぎ、小さな溜息をひとつ。
「……もう、充分」
自分にできることは充分やった。こんな風に追い回されるのはもううんざりだ。
そんな思いから吐き出された言葉だった。
それにここで捕まれば、少なくともベルグレッテたちは大人しく帰国するはず。彼女らの目的は自分を連れ戻すこと。それが叶うにしろ叶わないにしろ、騒ぎが収まればベルグレッテ一行がバダルノイスに留まっている理由はなくなる。
――そうと決まれば。最後まで、悪人を演じ切るだけ。不自然にならないように。
レノーレは備えていた氷弾の術を撃ち放つ。
「レノーレ……っ!」
ベルグレッテは鋭い抜剣でこれを切り払う。
間違いない。この数ヶ月で、彼女の剣技は各段に成長している。生真面目なこの少女らしい、たゆまぬ努力の賜物だろう。
「鬼ごっこは終わりにしよーぜ」
一方の少年は、まるで苦にせず首を横へ振っただけでこれを躱す。
本気で撃ったのに、易々といなされてしまうのだからたまらない。でも、それでいい。その強さで、これからも皆を守ってほしい。
そして二人は同時に、レノーレへ向かって駆け出した。
氷雪の少女も身構え、明らかな迎撃の意思を演出した。
流護とベルグレッテはそれぞれ左右から挟撃する形で迫ってくる。この二人を同時となると、本気で立ち向かったとて五秒ももつまい。
(ここまでか――)
密かに腹を括った直後だった。
目の前が、白一色に染まった。
「!?」
まず感じたのは、かすかな地響き。ほぼ同時に巻き起こる雪嵐。そして――レノーレを守るように立ちはだかるその姿。
「なっ……」
粉雪を従えた、壮麗なるその人物。
「――――レンはやらせないよ」
聞き慣れた、よく通る高い女性の声だった。
晴れゆく視界、その場の全員が目にしていた。まさに降臨したかのような、その佇まい。その姿を。
「メル、どうしてっ……」
レノーレは自らの前に立つその背中へと呼びかけ、
「出やがったな、メルティナ・スノウ……!」
布陣の奥で身構えるベンディスム将軍が、低くその名を口にした。
走る馬車の荷台に飛び乗り、ひとまず息をつく。
「……、」
駆けつけたメルティナによって、レノーレは間一髪のところを救われた。
しかし頭の中を巡るのは、今しがたの自らの危機よりも――
「驚いたよ。学院の友達?」
優しいメルティナの声。
コクリと無言で頷くと、彼女はバツの悪そうな笑みを覗かせる。
「大ケガはしてないはずだけど……悪いことしちゃったかな」
とはいえ、ああしなければ切り抜けることはできなかったろう。特に、あの『拳撃』が相手では。やはり彼は尋常ではない。メルティナに撃たれて即座に起き上がってくる人間など初めてだ。
そして、
「そうか、あの子が例のベルって子か。なるほど話に聞いてた通り、綺麗で聡明そうな娘さんだね」
表情を和らげながら。
「……それに……すごい行動力だ。レンのために、この国までやってきたんだね」
本当に。まさか、ここまでやってくるなんて考えもしなかった。
窓の外、流れていく景色がかすんでいく。
「……巻き込みたくない……」
どうにか吐き出したレノーレの声は、みっともないほどに震えていた。
「……私、絶対に……ベルたちを、こんなことに巻き込みたくない……」
メルティナが肩を抱き寄せてくる。
「……メル。……私は、どうしたら」
英雄ですら、即座にその答えは見出せなかったのだろう。ただ抱き締めてくれる腕に、力が篭もっただけだった。