465. 絶凍の記憶 10
人は環境に慣れる生き物である。
異常と思われる現実すら、いつしか受け入れてしまう。
「おい。失踪する直前、レノーレは怪しい奴と会っていたらしいぞ」
あのモノトラのことだろうか。嘘ではない。しかし、語弊のある言い方はやめてほしい。
「ああ、それも頻繁にな。前々からよからぬことを画策していたのか」
ちょっと待って。
話に尾ひれをつけないで。
「新しい情報だ。レノーレは、オルケスターとかって闇組織の一員だったそうだぞ」
笑わせる。
いつの間にか自分は、聞いたこともない組織の構成員になっていたらしい。
「屋敷から、その証拠となるメモが見つかったそうだ」
嘘だ。そんなものが出てくるはずはない。
「おい、大変だ! レノーレを追ってた賞金稼ぎが、えげつねぇ殺され方をしたって……!」
知らない。会ってもいない。そんなことをするはずもない。
「当初はやはり、こんな話はねぇだろうって意見も少なくなかった。けど無実なら、最初の時点で名乗り出るはずだろ。それもなし、こうして続々証拠が出てくるとなると……」
違う、名乗り出られる状況じゃなかった。
証拠が出てきた?
違う、作り出したのだ。
――恐ろしい事実がある。
真実は、必ずしも嘘を駆逐しない。
虚偽のはずのそれは多くの人々が口にすることで、力を増す。無責任な放言、もっともらしい後付けの理屈といったものですらそれを飾り立てる要素となり、より強固な説へと成長させていく。
そしてやがて、成り代わるのだ。
本当のことなんて誰も知らない……見てもいないのに、さもそれが唯一の事実であるように。
皆が唱えることで、嘘は真実を凌駕する。
誰も疑わない『真実』へと、取って代わる。
実際に起きたかどうかは重要ではない。皆が言うからそうなのだ、と。
――そのようにして、バダルノイス史に残るであろう類稀な大罪人・レノーレが生み出された。
してやられた。
扇動した人間がいる。モノトラの仕込みだろう。あの男が密かに会っていた兵士も一員なのか、とにかく複数の人間が共謀して方向性を巧みに操作したのだ。
ファーナガルの一件がそうだったように、馬鹿げたことが受け入れられてしまう空気が作られているのも一因か。
とにかくもう、関係ない。
レノーレと会っていた怪しい人間が誰であるかとか、頻繁に会っていたというがそれが具体的にいつなのかだとか、殺されたという賞金稼ぎとレノーレが争っていた場面を見た人間が本当にいるのかだとか、そして自宅で見つかったというメモは誰が見つけ、どんな内容が書かれていたのかだとか……もはや、そんなことを気に留める人間などいない。
兵士が仕組んだことなら、それこそ民は全く疑わない。兵士同士だって、同僚が何人かそれらしいことを言えば疑念は薄れる。
これも全てが嘘ではなく、例えばおそらくオルケスターなる組織は実在する。モノトラが所属しているというそれなのかは不明だが、全てが虚飾ではやはり怪しんでしまう人間が現れる。ある程度の真実を織り交ぜ、嘘をより信憑性の高いものへと昇華させるのだ。
おそらくはそのためだけに、実際に殺された賞金稼ぎもいるのかもしれない。
レノーレには味方がいない。
母レニンは記憶を失い、他に身寄りもなし。異父兄弟たちは顔すら知らない者もいるほど関係が希薄で、兄スヴォールンも親しい訳ではない。それどころか非常に厳しい、子供の頃からあまり顔を合わせたくないような相手だった。
宮仕え時代に嫌がらせを受けていたこと、母が精神的な病を患い現役から退いたこと、そして他国の学院に留学したこと……そうした事実に対し、勝手な憶測をする者も現れる。
「ろくに喋りもしない、何を考えているか分からない奴だった」
ついにはただの寡黙な性格に、さも悪徳性を見出そうとする。自分は最初から分かっていたのだ、と得意げな顔をして。
おそらく今頃はメルティナを連れ去ったという罪状そのものに対しても、さも事実であるかのようなもっともらしい動機が作られているのだろう。
そうして最終的に、バダルノイスという国家全体が少女を敵視した。
――が、人は環境に慣れる生き物である。
そうしたいわれのない全てをぶつけられてなお、
「……メル、買い出しが済んだ。……これから戻る」
レノーレはいつもの調子で、親友に通信を飛ばしていた。
『ん、分かった。くれぐれも気をつけて』
逃亡生活を送るようになって半月ほど。
白曜の月、十五日。
マフラーを深く巻き、目深に帽子を被り、それでいて堂々と雑踏を行く。今や、それが日常になってしまった。
「…………、」
が、レノーレがそのように振る舞えるのはやはり、メルティナがいるからだ。
これほどの事態となる前、彼女は幾度となく王宮に出向こうとした。その都度、レノーレがそれを押し止めた。
そうしてメルティナが姿を晒すことこそが、敵の狙いに違いないのだから。
(モノトラは驚いてるはず。私の手配を解かせるために、あっさりメルが王宮に戻るだろうと考えていたはずだから)
ざまあみろナスビ男、と心の中で悪態をつく。
……が、そんなことで状況が好転しないことも事実。
(こちらも楽観してた部分があることは否めない)
いつまでも続かない、と考えていた。
何しろ、内容も金額も馬鹿げた手配である。
こんなふざけた布告、すぐに誤報と判明し撤回されるものと思っていた。
(よほど上手い理由をでっち上げたか)
レノーレを世紀の大罪人として認定するに足る、説得力に溢れた罪状を捏造したのだろう。
(今、考えても仕方ないけど)
さて、ここからいかに動くか。
やはりこちらとしては兵や賞金稼ぎの手を掻い潜り、どうにかモノトラを見つけなければならない。
ここまで事態が拗れてしまった以上、おそらくあの男を捕まえたところで終わりにはならないだろう。おそらく、王宮内部の誰か……それも相当な影響力を持つ人物が内通者として暗躍しているはずなのだ。
己が見てもいない、噂のような話に尾ひれがついた程度で、事態はここまで膨れ上がらない。いかにバダルノイス内部の風通しが良好でないとはいえ、ここまで悪化しない。
――確実に、事実を操作して捻じ曲げた者がいる。
(でも……それは、)
一体誰なのか。こんな真似をして得をするのは何者なのか。
レノーレは最初、わずかではあるがスヴォールンを疑った。動機は、自らと互角かそれ以上と目される英雄・メルティナを排除するため。彼女がいなくなれば、この国で最強の存在となれる。
だが、潔癖と呼べるほど生真面目なあの男が犯罪組織と手を組むとは思えない。メルティナの力が国家にとって必要不可欠であることも理解している。何より誇りを重視するであろうあの男が、己の姓でもあるグロースヴィッツの名を貶めるような真似はすまい。
(……それに、あの人は……)
過去の思い出から、考えを切り替える。
ではまさか、オームゾルフか。
それこそありえない。かつてキュアレネー神教会にて女司祭をも務めた彼女は今、一国の主。
スヴォールン以上に、悪辣なる人間と手を結ぶはずがない。
そうでなくとも、レノーレとしてはあまりかかわりのない人物だが、メルティナにとってはもう一人の親友に当たる存在なのだ。
学生時代からその関係性は変わっておらず、二人の間柄が実は悪化していたなどそういう話は全く聞かない。というより、傍から見ていても如実に分かる。彼女らの間には、並ならぬ絆が存在する。
妙な組織の人間に友を売り渡すはずがないという点に関しては、レノーレに匹敵する。となると、メルティナの身柄を狙うような輩と繋がるはずもない。
(『そいつ』は、そんな二人に私の手配を認めさせた。千五百万なんて途方もない金額……メルと一緒にいてもおかしくない私が誘拐したなんていう、無理のある理由までもでっち上げて)
果たして、誰にならそれほど狡猾な真似が可能なのか。兵士すらも篭絡して、表沙汰にならぬように。
ゲビ? ミガシンティーア? アンドロワーゼ? ベンディスム将軍? 療養中の大臣? それとも、他に……。
(……、)
気分が悪い。これまでそのように思いもしなかった誰かを、敵ではないかと疑って。
母レニンのことも心配だ。この事件について、どのように聞かされているのだろう。
しかし、こうなれば記憶を失ってしまったことは不幸中の幸いだったといえるかもしれない。かつての母がこの事態を知れば、卒倒では済まなかったことは確実だ。
そして記憶がない以上、レノーレに対する人質としての効果は弱い……と、考える者は少なくないだろう。心配は心配だが、現状、母の身に直接的な危険が及ぶとまでは考えなくてもいいはずだ。
何より、レノーレをどうにかするためとはいえ、かつて最高位の宮廷詠術士だったレニンに手を出せば、否が応にも目立つことになる。悪辣な手段に利用しようとすれば、違和感を抱く者も現れるだろう。
(…………)
この一件、仮に解決したとしても……大物と呼べる誰かが糸を引いていたなら、その後の処理も円滑には進まない。人手もない現状、レノーレもおそらくミディール学院には……。
はあ、と大きな息を零して顔を上げたレノーレは、
「!」
街を行く兵士たちに気がついた。
「おい、そっちは?」
「いや……いなかった。通報は本当なのか?」
緊迫した雰囲気。巡回中、といった様子ではない。
そんな彼らの目が、ふとこちらへと向けられて。
「お、おい……もしやあいつ」
「あっ、ああ……」
人は慣れるのだ。
冥府の底のような環境ですら。
「お、おいお前、止まれ! レノーレだな!?」
身構える彼らに、レノーレは猛然と突っかかっていく。
――手配された当初は、素直に弁明しようとした。
兵士に見つかったその場で、「自分は無実だ」「何もやっていない」と。しかし案の定というべきか、そんな言葉を信じる者は誰ひとりいなかった。
抗わなければ捕まってしまう。
こんなことも、もう幾度繰り返したか分からない。見つかった以上、突破するだけだ。いつものように。
やむなく二人を昏倒させた以上、他の巡回兵に見つかるのは時間の問題。増援を呼ばれては厄介だ。
即座にこの一帯から離脱すると決めて、逃げ道をたどる。
「……」
住宅地の裏道。進む先に、若い兵が一人。
できれば迂回したいところだが、それで余計な時間を食ったうえに他の兵と遭遇するようなことがあっては本末転倒だ。少なくとも今現在、この周囲に他の巡回がいないことは確認済み。
素早く正面突破が最善手。
判じるや否や、かすかな氷嵐を起こし、粉雪を巻き上げる。周囲から見えぬよう、窓にカーテンを引くように。
そうしてその場を隔絶させたうえで、接近を試みる。
大股で十歩ほどの距離まで近づいたところで、向こうもレノーレの存在に気付いたようだった。訝しげだった目が大きく驚愕に見開かれる。
「……ッ、おい、だ、誰か応答を!」
慌てた手ぶりで通信術を展開させようとしたところへ、
「……無駄。……残りはあなた一人」
本で読んだ悪役さながらの言葉で、動揺を誘う。
効果は覿面で、若い兵は目に見えてうろたえた。
「ク、クソ、動くんじゃ――」
この隙を逃す手などない。少し卑怯な手口で心苦しく思わないでもなかったが、彼にも少しばかり眠ってもらわなければならなかった。
建物と建物の隙間に入り込み、息を殺す。
「……」
しばし様子を窺うが、誰かが追ってくる気配はない。
安堵しつつ、レノーレは分厚い雲が立ち込める空を仰いだ。幾重にも垂れ下がる灰色の暗幕。その隙間から雪がちらつきそうでちらつかない、もどかしい曇り空。
逃亡中の身としては、天候が荒れてくれたほうが動きやすい。仕方ないので、つい今ほどは自分の術で粉雪を巻き上げた。
角から顔を覗かせ、左右を確認する。
増援はなさそうだが、油断はできない。
(もう見つかった。とにかく、新しい潜伏先を探さないと)
発見されてしまった以上、一秒でも早くこの街を去らなければならない。これまで迅速に兵たちを無力化したが、追手が来ないとは限らないのだ。
(とにかく最優先でメルのところへ戻って、次は……)
粉雪に覆われた都市を、影のように駆ける。
その道中、ふと見晴らしのいい一角に出た。建物の密度が薄く、遥か遠くの景色が見渡せる。
「……」
南東の空へ顔を向けた。微風にマフラーがたなびく。
垂れ下がる灰色の雲と、白く染められた街並み。その向こうに続く平野、そして地平線。何日もずっと行けば、中立地帯ハルシュヴァルトを越え、レインディール……ミディール学院に通じる方角。
皆は今頃、いつも通りの日々を過ごしているのだろうか。それとも自分が戻らないことで、心配をかけたりしているだろうか。
「…………」
後ろ髪引く、それらの思いを振り切るように。踵を返し、風雪の少女は――咎人は、走り始める。
(ごめん。ベル、クレア)
もし皆がこの件を知ったなら、どう思うだろう。
ベルグレッテは正義感と責任感の強い学級長だ。直接話を聞きにバダルノイスまで行く、ぐらいのことは言い出すかもしれない。もちろん、いかに自由な気風の強いレインディールとて、実行に移すことは無理だろうが。
クレアリアはどうだろう。異端や不正を嫌う性分だ。憤るか、そんな感情すら通り越して軽蔑するか。最近は丸くなってきたので、呆れ気味に「馬鹿な真似をしないで戻ってきなさい」と許してくれるかもしれない。
ダイゴスやエドヴィンはどうだろうか。自分は彼らにとって、気にかけるほどの存在であっただろうか。
そして。
(……ミア)
一番の親友と呼べる少女。無口で面白みもないような自分と、いつも一緒にいてくれた少女。
心配しているだろうか。悲しんでいるだろうか。
(ごめんね)
でも、彼女なら大丈夫。これまでもつらいことを乗り越えて、ずっと頑張ってきた。その姿を、間近で目にしてきた。
最近の彼女は、一人で眠れるようになった。課題で分からないところがあっても、答えを尋ねる前に自分で考えるようになった。
(ミアなら、もう大丈夫)
――自分がいなくなっても、きっともう大丈夫。
「……」
最後に一度だけ、南東の空を振り仰ぐ。
『いや……まあ、もしレノーレが妙なことに巻き込まれそうで、学院に戻りたいのに戻ってこれなくなるようなら……力になるぞ。んなことになりゃ、ベル子とかミアとか……皆が悲しむのは分かってるだろ? つか、ダイゴスん時みたいに、強引にでも連れ戻してやる』
いかに彼でも、この事態はどうにもならない。
何より、
『……じゃあ、これから先の人生でそんなことがあったら、よろしくお願いいたします』
あんな他愛ない口約束のことなど、きっと忘れているはずだ。
それに、
(私のことはいい)
願う。
(皆を、守ってほしい)
強く。
(こんなことに……ならないように)
レインディールという国が。大好きだと思えるようになった皆の住むあの場所が、こんな常軌を逸した事態にならないように。
ぎり、と口の中で音が鳴る。それで初めて、レノーレは自分が歯を食いしばっていたことを自覚した。
最後に、告げる。
親愛なる友人『だった』者たちに。心からの感謝と、惜別の思いを込めて。
「――――さよなら、みんな」
こんなことになった以上、きっともうあの場所に戻ることはない。戻れはしない。
誰にも届かない言葉と、新雪の上に点々と続く足跡を残し。
レノーレは一人、極寒の街を駆け抜けた。




