464. 絶凍の記憶 9
「これはメルティナ殿、壮健そうで。こんな辺鄙な街におられるとは思わなんだ」
先の路地から少し離れた裏通りにて。
メルティナと対面したその男――この街の治安統括を務める兵長が、どこか人を小馬鹿にしたように笑う。
(……『獣狩り』のファーナガル……)
総じて繊細な印象が伴う大半のバダルノイス人と違い、線が太く粗野な印象を与えてくる大男。
歳は四十前後。昔からの正規兵で、歴戦の古強者である。
その実力は白士隊の上位にも劣らない。『ペンタ』にして英雄たるメルティナを前にしてもまるで萎縮した様子は見られず、その威圧的な姿は強壮な狼のようだ。
(内戦でも活躍したって話だけど、金に汚いとか子供にも容赦しなかったとか……あまりいい評判は聞かない)
どんな事情であれ手配中の身となるレノーレは、すぐ近くの物陰に潜み、二人の様子を窺っていた。
「久しぶりだねファーナガル。早速で何だけど」
例によって、メルティナが皺くちゃになった手配書を掲げる。
「これについて詳しく説明してくれないか?」
フンと鼻を鳴らしたファーナガルは、大仰な素振りで肩を竦めた。
「見ての通りだが? その者を捕まえたら千五百万を支払う。それだけの話だ」
「なぜレン……レノーレに千五百万もの褒賞が掛けられた? どんな事情で? 取り決めたのは誰?」
「俺も詳しくは知らん……が」
どうでもよさげに耳を掻いたファーナガルは、おもむろにその指先をメルティナへと向ける。
「レノーレ・シュネ・グロースヴィッツは、メルティナ・スノウを拐かし連れ去った罪で千五百万の懸賞額を掛けられた。そう聞いている」
「!」
対峙していたメルティナも、物陰の合間で聞いていたレノーレも驚きに目を見張る。
「……そうか。なら是非とも、今すぐ手配を解いてもらわないとな。私が連れ去られたなどという事実は存在しない。君が見ての通り、私はこうしてここにいる。それよりファーナガル、おかしいとは思わなかったの? 罪状も、金額もあまりに馬鹿げてる」
メルティナの鋭い視線を受けたファーナガルは、どこか諦念したような笑みをたたえた。
「おかしい、馬鹿げてる……ねぇ。それを言い出したら、今に始まった話ではない。氷神の吹雪に巻かれ、移民共に好き勝手荒らされ、先王は逃げ、どうにか立て直していかねばならん現状で現王と騎士殿は足の引っ張り合い。おかしいこと、馬鹿げてることの連続だ。今更『高貴な方』が我々には及びもつかんようなことを唐突になさったとて、さして驚きもせんわ」
歴戦の兵士、その表情に浮かぶのは――明確な呆れ。
ファーナガルは『例の派閥』にも属していないはず。オームゾルフの教団兵でもなければ、『雪嵐白騎士隊』を慕う白士隊でもない。
そのどちらでもない一般兵だ。
そんなある意味、バダルノイスに生きる一人の民としての本音。
――醸成されてしまっている。
今のこの国には、ありえないことが起きても誰も声を上げない――ともすれば「またか」と思ってしまう、そんな倦んだ風土が。
「おっと。『高貴な方』の一人であるメルティナ殿の前で言うことではなかったな。これは失敬」
「……いや。なるほど、君の意見はもっともだ。耳が痛いね」
弱々しく頭を振ったメルティナは、狼のような男に背を向けた。
「忙しいところを失礼したね、ファーナガル」
「どちらへ?」
「この馬鹿げた手配をかけた責任者を探して、解いてもらうとするよ」
「そうか。ところで――」
ファーナガルが太い笑みを浮かべた。歯を剥いたその面相はまるで、血の匂いを嗅ぎつけた狼。
「レノーレ・シュネ・グロースヴィッツが近くにいるな?」
物陰で思わず息を止めたレノーレとは対照的、顔だけ少し振り返ったメルティナが平然と問う。
「どうしてそう思うの?」
「レノーレの身にいつ危険が及ぶとも知れんこの状況で、貴女が彼女の側を離れるとは思えん。情報を得るために俺を呼び出し、矢面にこそ貴女が立っているが……すぐ近くで息を潜めているに違いない」
伊達に長く兵士をやっていない。優れた洞察だった。
「ふむー、なるほどなるほど。それで?」
「そうだな……レノーレは手配中の千五百万。兵が解決したなら、その額に相当する見返りはどれ程のモノになるんだろうな? それに雪撫燕とも呼ばれる貴女だ。ここからふらりとどこへ赴かれるやら想像もつかん……」
歯を見せて笑ったファーナガルに、メルティナは可憐な微笑みで応じる。
「――失敬ッ」
疾走。
腰の剣を抜き放ったファーナガルが、雪上を駆ける狼さながらの勢いでメルティナへと襲いかかる。携えた剣へ、一瞬にして岩石じみた氷塊が現出、固着する。氷が纏わりつき大きな鈍器となったそれを容赦なくぶん回した。
素早く振り返ったメルティナは、その勢いのまま身体を舞わせてこれを躱す。
「難なく避けるか、流石だなっ」
「いや、君が馬鹿正直に一人で来た時点でね……」
獰猛な笑みで連撃を仕掛ける男に対し、白の『ペンタ』はただ苦笑を返す。
そうなのだ。ファーナガルはメルティナと会うに際し、一人でこの場にやってきた。もちろん、伝言を頼んだあの若い兵士にそう言い含めたことではある。
しかし本来、手配書の内容を知っている兵長が、近くにレノーレが隠れていることを察したうえで部下を連れてこない理由などない。
――功績を独り占めしよう、という魂胆でもない限りは。
「ぬんッ!」
ファーナガルの剣速は凄まじい。さすがは百戦錬磨の強者。やはりその実力は、白士隊の上位相当。『獣狩り』の異名を持ちながら、自身こそ獣のごとき速度と鋭さで襲い来る。
「ハァッ!」
振り回された剣から剥離した白い欠片が、キラキラと宙を彩る。
氷使いと呼ぶと、鋭い氷弾や吹きつける凍気で無駄なく冷静に立ち回る印象が伴う。
が、ファーナガルの戦法もまた氷属性の真価のひとつ。
押し固めた白氷は、鉄に勝るとも劣らぬ鈍器だ。使い手によっては、蛮族顔負けの残虐性と破壊力を発揮する。
しかし、である。
「やれやれ……ファーナガル。君はこの馬鹿げた手配に乗っかろうという訳だ。おかしい、と分かっていながら。お上にもっともらしい意見を垂れておきながら」
猛攻をひらりひらりと躱し続けるメルティナの技量もまた、桁を外れている。遠距離戦を得意とする彼女だが、そもそも接近戦においてすら後れを取ることがない。
「知ったことか! 大人しくしとけ、二人一緒に皇都へ送り届けてやる! 手配を解くつもりなら、俺に捕まった後で釈明するんだな!」
妙な点に気付いても、それがどうでもよくなってしまう腐った土壌。常軌を逸した金、それに相当する報酬を国が確約してくれるという誘惑。
そういったものが、真実を追究しようとする心を押し潰す。世辞にも勤勉でないこの男なら尚更に。
「ぬゥ!」
空振りの勢いも次撃の振りかぶりに利用し隙を作らないファーナガルだが、それでもメルティナを捉えるには至らない。
その光景はまるで、不器用な少年が網を振り回し、優雅に舞う蝶を捕らえようとしているかのような。
「……ファーナガル。すまないんだが、私はこれから忙しい。ついでに言えば、ちょっと機嫌も悪い」
その白き蝶は、すこぶる怒っていた。
『無刻』、その二つ名を体現するがごとく。
結論から述べるなら――反撃に転じたメルティナがファーナガルを沈黙させるまでに必要とした時間は、わずか二秒。
彼女の両の指先から放たれた速射が地面と壁を反射し、疾駆するように後ろからファーナガルを射抜く。
「ぐぬっ」
溜めも必要とせず放った反射弾、威力は極めて低い。しかし刹那の衝撃で動きが止まった彼に対し、
「君と遊ぶのは、また今度だ」
メルティナが舞踏めいた所作で強かに地面を踏む。その優雅さに見合わぬ強烈な暴威。爆発したように巻き上がった冷気が、ファーナガルの大きな躯体を容易く吹き飛ばした。
「ガハッ!?」
彼はそのまま、すぐ脇の建物の軒先へと派手に激突。横並びに下がっていた小さな氷柱を根こそぎへし折って、巻き込みながら地面へと倒れ伏す。そんな彼の上に、シーツを被せるように雪がパサパサと落下してくるのだった。