463. 絶凍の記憶 8
メルティナと別れ宿を出たレノーレは、一人で馬車乗り場を目指す途中だった。
天候は曇り。寒さは相変わらずだが、降らないだけで移動する身にはありがたい。
誰かと行き合うこともなく、左右へ枝分かれした街路へと差しかかる。
「…………ん」
それは、どの街でも見かける路傍の掲示板。
町内での連絡事項やお触れなどが貼られるそこに、
「……………………え」
賞金首の手配書。
罪人名、レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。
懸賞額――千五百万エスク。
「…………――――」
頭を殴られたような衝撃、とはこのことだろう。
宮廷詠術士としてあらゆる事態に対応してきた経験のあるレノーレでも、にわかに思考が固まり立ち尽くした。
(……っ、て、まさか……!)
どうにか数秒の空白から立ち直り、すぐさま理解する。
その途方もない金額。あのモノトラが交渉すべくちらつかせたのと同じ千五百万。
『後悔することになりやす』
こういうことか。意趣返しのつもりか。
(……馬鹿なことを。……こんな手は通じない)
冷静さを取り戻したレノーレは手配書に顔を近づけ、ある一点を確認した。
それは、王宮の押印。
バダルノイスが公式に布告した手配書には、エドラアイビーと呼ばれる植物を模した朱印が押される決まりになっている。
その判子はきめ細かな紋様と独特の色合いが目立つ逸品で、部外秘の特殊な製法によって作られており、偽造は不可能とされる。
その印が完全一致しない、もしくは何も押されていない手配書は、例外なく偽物とみなされ無効。加えて、偽の手配書を作成・公開する行為は立派な犯罪であり、処罰の対象となる。
つまりこれを仕掛けたのがモノトラなら、逆に向こうがお尋ね者となるだけだ。
「…………」
現役時代、レノーレは手配書の作成に幾度となく携わっている。本物かどうかなど、見ればすぐに判別できる――
「………………え」
おかしい。
戻ってきたはずの落ち着きが揺らぐ。心臓を鷲掴みされたような感覚。
見えない。
この手配書は――押印は、本物にしか見えない。細かな模様も。その独特の色合いも。レノーレの知るそれと、違いが感じられない。
(そ……んな、馬鹿なこと)
あるはずがない。
しかしどれだけ目を凝らしても、これを偽物と断定できるほどの相違が見つからない。
一体、どういうことなのか――
「……っ」
そこで足音を耳にしたレノーレは、弾かれたように振り向いた。
うっすらと雪の積もった歩道を、七、八歳ほどと思われる女の子が、たどたどしい足取りでやってくる。お遣いの途中なのか、大きな鞄を肩から斜めに提げていた。
「……、」
レノーレはホッと息を吐き出した。
治安のいいこの街、この地区では、さして珍しくもない光景だ。
「……」
「……」
子供というものは、なぜ目が合うとジッと見つめてくるのだろう。
無言で互いの視線が交わることしばし。何か大事なことに気付いたかのごとく、彼女のくりっとした目が大きく見開かれた。その瞳に浮かぶのは、明らかな驚愕。そして、
「…………ひ、っ」
小さく幼い顔、その全体に広がっていく恐怖。
「――」
レノーレもすぐに理解した。その意味を。女の子がどうして急に怯え出したのかを。
子供たちは日頃から親に言い聞かされているはずだ。
掲示板に貼られた似顔絵の人には、絶対に近づいてはいけませんよ。もし見かけたら、大人や兵士に知らせるように。
そして今――掲示板に貼られた似顔絵のすぐ横に、寸分違わず同じ顔をした女が立ち尽くしているのだ。
即座に回れ右をした少女は、なりふり構わず全力で走って――逃げていく。
「……ちょっ、待……!」
思わず追おうとしたレノーレだったが、すんでのところで踏み止まった。
意味がない。
少女に追いついてどうするのか。「何かの間違いだ」「違う」と弁明したとて、その言葉を信じてもらえるはずもない。いかにも悪者の言い訳だ。
「……っ、こんなの……!」
思わずレノーレは手配書に指をかけて破り捨てる。
と同時、耳元に波紋が広がった。相手も用件も察しがつく。即座に受け取れば、真っ先に向こう側からの声が響いてきた。
『レン! 無事!?』
「……メル、私の手配書が……!」
『っ、すでに君も見ていたか……。ひとまず大丈夫? 追われたりはしてない?』
「……うん……」
『よし……まずは一旦合流しよう。一応、周りの目には気を付けて』
レノーレは心持ちマフラーを深く巻いて、口元を覆い隠した。
本当に罪人になった気持ちだった。
別れて間もなかったため、すぐにメルティナと落ち合うことができた。
二人は狭い路地に入り込み、周囲の様子を窺った。誰の姿もないことを確認し、ようやくに深い息をつく。
「一体どういうことなんだ、これは……」
レノーレとの合流前に一枚剥いでいたらしく、メルティナは皺になったその紙を懐から取り出す。
何度見ても間違いない、レノーレを対象とした手配書。
「この押印……、間違いなく本物……としか思えないぞ」
やはりメルティナの目から見てもそうであるらしい。
バダルノイスが正式に発行した書であることを示す、朱色の印。偽造不可能とされているはずだが――
「その怪しげな男……背後に控える組織は、結構な技術力を持ってそうって話だったね。だからこれが、本物と区別がつかないほど精巧に作られた判印という可能性も否定はできない。しかし……」
「……わざわざ手間をかけてまで、そんなことをするとは思えない」
「うん。仮にそうまでして手配書をばら撒いたって、公的機関に問い合わせればすぐ分かるんだ。レンがお尋ね者なんかじゃないことは」
外からやってきた流れの賞金稼ぎなどであれば、パッと見て信じてしまうかもしれない。が、そもそも妙な手配書が貼ってあれば、街を巡回する兵士がすぐに気付く。
結局のところ、本物にしか見えない偽物が出回っても、見破られるのは時間の問題なのだ。
「でも……これが偽物じゃないのなら、そのほうが遥かに問題だぞ」
メルティナが低く呻く通り。
この手配書が本物なら、レノーレは罪人として公に認定され、賞金をかけられたことになる。
「しかも、千五百万なんてまともじゃない。これほどの額になれば、エマーヌやスヴォールンだって間違いなく関知している。いやむしろ、こんな馬鹿げたことをあの二人が認めるとは思えないんだが……」
数百万前後までであれば、オームゾルフらに知らせず司法関係者のみで全てを取り決めてしまうこともあるが、メルティナの言うように額が額である。上層部でこの件を把握していない人間などいないはずだ。
「……、」
ならば。どういった経緯で、この手配が認可されるに至ったのか。
「とにかく、こんな馬鹿げた話はありえない。例のナスビ男と通じてる人間が根回しして仕掛けたことにせよ、これを承認した側も問題だ。レン、少し待ってて。今すぐエマーヌに問い合わせるから」
言うや否や、メルティナが通信の術を紡ぐ――
「――……、待って」
宙をなぞろうとする彼女の細く白い指に、レノーレは自らの手を重ねるように添えた。術の発動を遮る形で。
「……、レン? どうしたの?」
訝しげなメルティナに、レノーレは小さな頷きを返す。
「……ちょっと待って。……考えてみたの。……敵の狙いは、何なのか……」
そうだ。こんなときだからこそ、冷静に。あの聡明な学級長なら、きっと同じように動くだろう。
レノーレはたどたどしく説明を始めた。
まず、突飛かつ馬鹿げたこの手配。際立つ異常さは、やはりその金額だ。前例がないような超高額のお尋ね者認定。それは即ち、「この者は極悪人です」と世間に喧伝していることと同義。
まるで身に覚えのない人間がその当事者となった場合、さて最初にどうするか。
「……普通は、兵舎に問い合わせたり……とにかく、『確認する』と思う」
なぜ自分がこんな身に覚えのない嫌疑をかけられたのか。
困惑、萎縮、憤慨……人によって反応は様々だろうが、ともあれ真っ先に最寄りの兵舎へ飛んでいって訴えるはずだ。自分は無実だと。何かの間違いだと。
ボヤボヤしてはいられない。いつ賞金稼ぎに襲われるかも分からないのだ。一刻も早く誤解を解いて、手配を撤回させなければならない。
「……今、メルがオームゾルフ祀神長に通信しようとしたのも同じこと。……どうしてこんなことになってるのか、『確認しようとした』」
「そう、だね。それはそうさ。当たり前だ。でも、それがどうかしたの?」
まだ推測の域を出ない。
しかし、事実と照らし合わせて浮かび上がるものがある。
「……敵は……メル、あなたを探していた。……でも所在が掴めないから、従者である私に接触を図ってきた。……あのナスビ男はそう言っていた」
ふむー、とメルティナが目を眇めた。
「つまりこういうことか。これは、レンを捕まえるための手配じゃない。『間接的に、私をおびき出す』ための策」
例えばこれで、レノーレが無実を訴えて兵舎に出向く。こんな手配をされるいわれもなければ、金額も異常だ。通常であれば、絶対に出向く。そこで何のかんのと拘束しておけば、すぐに事態を聞きつけたメルティナが現れる。
ようは、レノーレを餌とした釣りだ。
「ふむー……筋は通らないでもないけど、少し釈然としないよ。こんな真似をしなくたって、私はいずれ宮殿に戻る。今回だって、もうこのまま帰るつもりだったんだ。いくら私の居場所が分からないにしても、こんな滅茶苦茶な手段は――」
「……メル。……自分が『雪撫燕』って呼ばれてるの、知ってる?」
「え? まあ、うん……たまにエマーヌにも言われるね」
自覚があるのかないのか、メルティナはきょとんとした顔で頬を掻く。
雪撫燕とは、バダルノイスに棲息する野鳥の一種。特定の巣を持たず、各地を飛び回って生きることで知られる。獲物を捕らえる際、地面すれそれの高さを撫でるように滑空することからその名がつけられた。ちなみに、一度飛び発ったら戻ってこないことで有名だ。
「……最長で、一年も宮殿に戻らなかったことがあるって聞いた」
「あー……うん、そんなことも……あったかな……? ……ま、まあでも、ちゃんと連絡はしていたよ? その時は、エマーヌにだって外で会ったし……」
敵も、一年間も戻ってこないかもしれない人間を気長に待つことなどできないだろう。そんな『雪撫燕』も、レノーレのところには定期的に顔を出している。
「それでレンが利用されたなら……、何てことだ。この手配、私にも責任があるじゃないか……」
「……それは違う。……悪いのは、あなたを不当に狙う輩」
「レン……」
「……とにかく……こうなった以上、オームゾルフ祀神長への通信でも……危険かもしれない」
習得すれば便利な通信術だが、これも万能ではない。
まずこの技術、話したい相手と一対一で話せる訳ではないのだ。そばに浮かんだ波紋から声が届くため、周りにいる人間にも会話を聞かれてしまう。
それゆえ、国家間の重要人物同士の場合、通信術を用いてやり取りを交わすことは原則としてありえない。
時間こそかかるが、手紙をしたため信頼できる人間に運ばせる方法が一般的だ。
欠点は他にもある。高位の使い手ともなれば、通信術の余波を捕捉して横から傍受したり、残滓をたどって発信者の居場所すら特定できたりするという。
「……もし敵が、『メルがオームゾルフ祀神長に通信を飛ばす』と想定していたら……」
居場所を察知される懸念がある。
でなくとも、何も策を練っていないとは思えない。こんなことになれば、普通は高確率で通信を飛ばそうとするはずなのだ。
手紙……も、無駄だろう。その程度は想定しているだろうし、となると無事オームゾルフの元まで届く確証がない。
「いやしかし……そんなことを言っていたら何もできないぞ。兵舎に顔も出さず、エマーヌたちに連絡もせず……弁明をしなかったら、それこそ罪人とみなされて追われるだけだ」
「……、」
出向こうが逃げようがいずれ捕まる。そうなれば、メルティナが引きずり出される。
気がついたら頭の先まで泥沼に沈み込んでいる。そんな状況だった。
「第一、先ほどの繰り返しになるけど……こんな大きな手配を、どうやってエマーヌやスヴォールンに認めさせた? どんな理由をでっち上げたんだ? そんなことができる人間は……」
ごくわずかに限られるはずだ。
相当な権を持った大物でなければ、こんなことは……。
「……しかし参ったね。最初は、そもそも一個人の不正かどうか……といった規模の話だと思ったんだけどな。いつの間にかとんでもないことになっている」
腰に手を当てて曇り空を仰ぐメルティナは、観念したように首を振った。
「例のナスビ男とやらは、一体何者だ? この短期間に、ここまで事態を大きくするなんて……」
「……一朝一夕で……あの男一人でできることとは思えない。……もしかしたら、ずっと以前から……」
「認めたくはないけど、あり得るね。バダルノイスも長らくあんな状況だ。密かに潜んで根を張り巡らせるには、もってこいの環境だったろう。……とはいえ、人数を揃えてもただの兵士だけでここまでやれるとは思えない。誰か……大物がこの件には関与しているはずだ」
よし、と顔を上げたメルティナが言い放つ。
「まず、この街の兵士に私が接触してみよう」
「……メル!?」
「このままじゃ何も分からない。かといって、延々逃げ回る訳にもいかない。やはり、直接話をしてみるしかないさ」
レノーレとしてはもちろん止めたい心境だが、彼女は言い出したら聞かないのだ。
「それに……この手配が私たちの知る事情とは何ら関係ないところで行われた可能性も否定できない。その場合、私が兵と接触しても何も問題はないし」
実際のところ、他に事態を解決に導く方策も思い当たらない。ある程度の危険は承知で突っ込んでみる以外になさそうだった。
路地から表の様子を窺う。
(……昨日の時点で手配書はなかった。……宿の主人や他の客も、私を見て驚いた様子はなかった)
まだ手配書を公開して間もないのだろう、街に混乱した様子は見られない。住民たちも逐一掲示物を確認する訳ではない。
が、今回の『お尋ね者』はその額が額だ。おそらく、今日中には街角や各家庭に号外よろしく手配書がばら撒かれる。
警戒しつつ表を歩き始めてすぐ。
「おっ、これはちょうどいい」
不敵にニヤリと笑うメルティナ、その視線の先。
今まさに掲示板に貼り物をしている、一人の兵士の姿があった。まだ少年の面影を残す年若い青年で、兵として勤め始めて間もないと思われる。仕事ぶりの不慣れそうな様子からもそれは推し量れた。
「よし、こっちに来た。レン、そこに隠れよう」
二人で通り脇の小路へと滑り込む。息を潜めることしばらく。
件の兵士がこちらの存在に気付かず前を通りかかった瞬間、
「失敬するよ」
「うわっ!?」
素早く飛び出したメルティナが兵士の腕を掴み、足を払い、何とも慣れた仕草で彼を引きずり込んだ。その手際は、まさしく雪上の獲物を素早く掻っさらう雪撫燕そのもの。
「なっ、何者……ッ、……あ!? あなたは……、あなたがたはっ」
狭い薄暗がりの中でこちらの顔を見比べた彼の顔に、動揺が広がる。
その慌てぶりにはお構いなしで、メルティナが懐から取り出したそれを相手の鼻先へと突きつけた。
「お忙しいところすまないね。『これ』はどういうことなのか、話を聞かせてくれないか?」
すっかり皺だらけになった手配書。
彼は紙面とメルティナ、そしてレノーレの顔を見やりながら、弱々しく首を横へ振る。
「い、いえ……詳しいことは、自分には……!」
「詳しくなくていい。少しぐらいは何か知っているだろう?」
英雄と称される彼女の静かな怒りを察したのだろう、兵は傍目にも分かるほど大きく唾を飲み込む。それでも彼の顔には、恐怖よりは動揺の様相が浮かんでいた。
「い、いえ、本当に……何も、知らされていないのです。我々も、今朝になって急にこれを渡されまして……。詳細その他は、追って通達すると。で、ですが兵長でしたら、何かご存じかと……」
「この街の兵長は……ファーナガルか」
舌打ち気味に浅い息を吐いたメルティナは「分かった」と小さく首肯し、兵士に要求した。
「それじゃあ、ファーナガルを呼んできてくれないか。あっ、もちろんレンの名前は出しちゃダメだからね」