462. 絶凍の記憶 7
その翌日。
気を揉んでいても仕方がない。しばし滞在することになるメルティナの持て成しの準備をすべく、レノーレは街へと繰り出した。
使用人のウェフォッシュに頼んでもよかったのだが、彼女にはモノトラに斬られた玄関の扉の修理依頼を出すよう言ってある。そちらを優先してほしかったし、何よりレノーレ自身、昨日の一件で落ち着かず部屋でじっとしている気にならなかった。
モノトラとその背後の存在が今後どんな動きを見せるかは分からないが、昨日の今日で強硬手段に出てくるようなことはないはずだ。あの手の連中の鉄則として、派手な行動を嫌う傾向がある。おそらく別の手を講じるだろう。少なくとも、今しばらくの猶予はあるはず。
(久しぶりだな……)
こうして帰ってきたときでないと、街を歩く機会もない。
さして大きくもない中立地帯ハルシュヴァルトだが、中心地ともなるとそれなりに賑わう。
「……!」
そんな雑踏の中で、
(あの男……!)
レノーレは偶然にも、モノトラを発見した。
背中を丸め気味に歩く、痩躯の男。赤茶けた短い髪、少し歪んだような面長の顔。この寒さの中、上着すら羽織っていない場違いな姿。昨日の今日で見間違えはない。
人波に紛れ、ひょこひょこと遠ざかっていく後ろ姿。仲間が随伴している様子はなさそうだ。
「…………」
――そもそも、この男は何者なのか。
記憶喪失の治療に、破格の金額の提示。大言壮語にしても、その規模が桁を外れている。取り引きをする相手に対し、丸分かりの嘘をついては成立しない。
ならば、
(本当に……母様の記憶を……?)
迷いはないはずだった。
母が苦しむようなら、無理をしてまで記憶を戻す必要なんてない。
レノーレは、レニンに対してそう告げた。それは心からの本音だ。
しかし、裏を返せば――
(母様に負担をかけずに、記憶が戻せるなら……)
心の隙間に入り込むような誘惑。
(……ううん、そんなこと)
できるはずがない、と思い直す。
宮仕えの医師たちは元より、バダルノイスで最高の治癒術を扱えるメルティナですらお手上げだったのだ。いかに高度な封術道具を作れる技術があったとしても、そこまでは……。
「……」
考えを巡らせつつ、レノーレの足はモノトラの後を追っていた。
いずれにせよ、この男とその背後にいるらしい組織はメルティナに関心を持っている。昨日は冷静さを失い叩き帰してしまったが、見かけた以上おめおめと見過ごす手はない。
深追いは厳禁。少しでも何か得られれば。
宮仕え時代の任務でもこなしてきたように、一定の距離を保ってモノトラの後を追う。
やがて人通りの多い表道を外れ、細い路地へ。それでも気付かれることなく尾行を続けてしばらく。
「……」
モノトラは何もない街角で足を止めた。
尾行に気付いた風ではない。辺りを警戒しているといった雰囲気でもない。おそらくこれは、
(待ち合わせ……)
数分後。建物の合間から様子を窺うレノーレ、その推測の正しさを証明するように、一人の男が現れた。
「……!」
レノーレは愕然とする。
やってきたその人物は、もちろん知らない顔。どこにでもいそうな中年男だ。しかし、
(……兵士……!?)
そう。銀色の鎧に身を包んだ、バダルノイスの正規兵だった。
街の片隅で佇むモノトラを不審に思って尋問、といった風ではなかった。出会い頭の挨拶の仕草、双方の顔に浮かぶ笑み。遠目にも、彼ら二人が見知った間柄であることは察せられる。
(……どうして兵士が、あの男と……)
いかな理由があるにせよ、法の守護者と怪しい組織の男が親しげに話す図に、いい予感はしない。
(……ここからじゃ聞こえない……)
もう少し近づいて二人の会話を傍聴しようと考えたレノーレだったが、いきなり背後からドサドサと大きな音が鳴り響いた。
「……っ!」
何とも間の悪いことに、建物の屋根から雪が落ちてきたのだ。
レノーレの落ち度ではない。しかし関係ない。派手な物音が、否応なく彼らの注意を引いてしまう。
反射的に身を翻したレノーレは、二人に見つからないよう素早く下がり、建物の裏側へと迂回した。場所を変えて監視を続行するつもりだったのだ。が、
「……っ」
回り込んだレノーレが顔を出した先。
つい今ほどまでモノトラと兵士が立っていた場所に、人の姿はなくなっていた。
メルティナから通信が入ったのは、翌日の夕方のこと。
『レンー、もうすぐ着くよー。商店街で何か買って行こうか……え? 屋敷には来るな? 適当な宿に入れ? レンのほうが会いに来るの? ――って、何だか深刻な感じだね。分かった、とにかく言う通りにするよ』
この切り替えの早さも、メルティナ・スノウが最強たる所以。唐突な事態にも困惑したりせず、即座に身構えることができる。
商店街外れの安宿で合流した彼女に、早速レノーレは事情を説明した。
ひとまず聞き終えたメルティナの反応はというと、
「ふむー。私が狙われる心当たりとなると……うん、多すぎて逆に見当もつかないね」
何せ北方で知らぬ者などいない、生ける伝説そのものだ。名を上げようという輩に吹っかけられることもある。その知名度だけで、目をつけられる理由としては充分すぎるのだ。
「兵士と繋がってそうっていうのも気になるね。一個人の汚職ならまだいいけど――いやよくはないけど、組織ぐるみで……なんてことになると、少しばかり面倒だ」
今や関係者で知らぬ者もいない話だが、バダルノイスの兵士たちは三つの派閥に分かれている。
明確に反目したり争ったりしている訳ではない。
しかし、互いの連携を鈍らせる程度の溝は確かに存在している。そのように組織間の風通しが悪いため、連絡の不行き届きなどは茶飯事だ。
王として就任したオームゾルフだが、『雪嵐白騎士隊』――主にスヴォールンとの関係が芳しくない。それぞれ直下の者たちも己が長を支持するため、こうした状態が長らく続いている。
当然ながら、好ましくない傾向だ。別の派閥に対しては無関心、といった態度の者が増えれば増えるほど、よからぬことを企む集団が発生した際に発覚も遅れてしまう。
「ったく……あまりお上には知られたくないな。エマーヌはおろおろするだろうし、スヴォールンはそんなエマーヌにネチネチとお小言って感じだろうし」
メルティナとしては自分が狙われていることそのものよりも、それによって生じる人間関係の軋轢のほうが気がかりらしかった。
「余計な心配をかけるのも心苦しい。ひとまずエマーヌたちには知らせずに、少しこっちで調べてみよう」
溜息交じりのメルティナの提案に、レノーレもコクリと頷いた。
一番手っ取り早いのはやはり、モノトラを捕らえてしまうことだ。
(……兵士と繋がってるって分かってれば、逃がさなかったのに)
レノーレとしてはそう悔やむところだが、そんなことは未来視の力でも持っていなければ不可能である。
「はは、相変わらずレンの似顔絵は一級品だな。しかし、何とも卑屈そうな男だね」
モノトラの顔を描いた紙を渡すと、メルティナは感心したように笑った。
ちなみに、相手の特徴を掴んで精緻に紙面へと反映できるレノーレだが、モノトラと話していた兵士の顔までは再現できなかった。遠くから少し見た程度ではさすがに厳しい。
このような場合、無理に描いてみても実際とかけ離れた顔になることがほとんどで、資料としての信頼性も著しく損なわれてしまう。原則、長考や描き直しは厳禁である。
ひとまず現状、目標はモノトラ一人に絞るべきだろう。
「兵士に尋ねるのは得策じゃないな……誰がクロかも分からないし。民や旅人を中心に聞き込んでみよう」
――そうして入手した情報から、モノトラはすでにハルシュヴァルトを後にしていると判明。
メルティナに会いたがっていたあの男にしてみれば、皮肉な入れ違いか。馬車組合の職員に当たったところ、北へ向かったらしいとの証言が得られた。
レノーレとメルティナもすぐに街を発ち、その足跡を追ったのだが――
「……思ったより時間がかかりそうだな、これは」
北に二日ほど行った小さな街。
小さな宿の一室、寝台に座って自らの肩をトントンとやりながら、メルティナが疲れた声でぼやいた。
吹雪に見舞われてしまい、馬車が想定より遅れている。そして、例の怪しげな組織と通じている者がどれだけいるか不明なため、兵を頼れない。
こうした要因から、メルティナであっても即時解決、とはいきそうにない雰囲気が漂ってきた。
「ここから先はもう、北側にしか街が存在しない。このまま行くと、やがて皇都に着いてしまうな……」
ふむー、と唸ったメルティナが、何でもないことのように告げた。
「レン、君はハルシュヴァルトに帰るんだ」
「! ……どうして」
ほとんど反射的に食い下がる。
「どうしてもこうしてもないさ。こんなことをしている間に、年も跨いでしまった。もうじき学院も始まるだろう? 新学期に間に合わなくなるよ。それに君は、レニン殿にご挨拶を済ませて皇都からハルシュヴァルトまで戻ったばかりじゃないか。この短期間でまた皇都まで往復なんて、徒足もいいところだ」
「……、そんなこと、言ってる場合じゃ」
「場合だよ。こんなの、何も大した話じゃない」
ふふ、と強気に微笑んだ彼女は、いつものように言ってのけるのだ。
「私はメルティナ・スノウだぞ。心配なんていらない」
『ペンタ』らしい自信。彼女らしい優しさで。
「どうせ私は皇都に戻らないとだしね。それに、昨今はすっかり『挑戦者』も現れなくなって退屈してたところさ。外からのお客さんのようだし、丁重に持て成してあげよう」
意地悪げに笑いつつ、レノーレに流し目を送ってくる。
「次の長期休暇に君が帰省してきた時にでも、この件がどんな結末を迎えたか聞かせてあげるさ」
「……私はメルの従者。……一緒に問題を解決する義務がある」
「その従者は今、レインディールの学院生だ。まずはそちらの本分を全うしてもらわないと、私が困るよ。留学を推薦した身としてはね」
「……でも」
「分かってる。奇妙な封術道具に、レニン殿を治療するなんて言ってのける自信、ポンと提示してくる千五百万エスク……。油断できる相手じゃない」
だからこそ、とメルティナの表情が引き締まる。
「思ったより厄介そうなら、気は進まないけどエマーヌにも相談するよ。だからレンは、いつもの生活に戻るように。これは雇い主としての命令だからね」
そう言われてしまうと、従者には反論のしようもない。
「…………分かった」
「よしよし、いい子だ」
「……でも、本当に……気を付けて」
「うん。何かあれば、手紙でも出すから」
かくして――このまま宿に一泊、翌日にレノーレは一人でハルシュヴァルトへと戻る。
そう決めた予定が根底から覆ったのは、一夜明けて昼過ぎのことだった。




