461. 絶凍の記憶 6
冬の休暇で、久しぶりに皇都イステンリッヒへと赴いた。
記憶を失って以降、レニンはここで静養している。
およそ二年ぶほどにもなる氷輝宮殿へ入っても、さしたる感慨は湧かなかった。
月日が経ったせいか、内部の顔ぶれも少し変わっているようだった。かつての宮廷詠術士時代の『同僚』たちも忙しくしているのか、顔を合わせることはなかった。
かねてより色々と口利きをしてくれた大臣に挨拶ぐらいはとも考えたが、身体を壊して故郷に帰ってしまっているらしい。メルティナも任務のため不在。そのため特別、他の知った顔に会うこともなかった。
思えば、一人で宮殿を訪れるのは随分と久しぶりだ。
母の顔は見たいが、一方で会いたくないとの気持ちもあった。
対面すれば、満面の笑顔を見せてくれる。記憶はなくとも、自分を娘だと認識し、理解するよう努力してくれている。
それでもやはり、『彼女』はかつての母ではない……。
そんな板挟みの気持ち。
心を落ち着かせるため、すぐには向かわずにひとまず客間に入って、しばらく経った頃だった。
誰かに居場所を聞いたのか、レニンのほうがレノーレの部屋へとやってきた。
そして、知ったと告白された。自らが娘に対して行った、過去の仕打ちの数々を。
伏して詫びる母に、レノーレは言う。
「……母様の苦悩は、私が覚えています。……それは、見ているほうが苦しくなるような辛い日々の連続で。……忘れられるなら、忘れてしまったほうがいい」
そうだ。苦しかったのは、自分だけではないのだ。母は母で闘い続け、そして……『消えて』しまった。
「……でも、それでも母様が記憶を取り戻したいと願うなら……私は力を尽くします。……今のままを望むのなら、それも喜んで受け入れます」
そう。
「……どちらでも、関係ないんです」
関係なんてない。
「……記憶がどうであれ……母様は、母様なのですから。……母様は、私のたった一人の家族なのですから……!」
この人がレニン・シュリエ・グロースヴィッツであることは……母である事実は変わらない。
自分の願いは、母を幸せにすること。
今のこの人がそう望むのであれば、例え記憶が戻らなくとも……。
「レノーレ・シュネ・グロースヴィッツさんでやすね?」
その男の来訪は、あまりに唐突だった。
ミディール学院の冬の長期休暇『白兎の静寂』も後半となったその日。
レノーレが滞在するハルシュヴァルトの館の扉を叩いたのは、一人の若い男だった。
背中を丸め、下から相手を見上げるような仕草が際立つ人物。
ボサボサの赤い頭髪、落ち窪んだ瞳と大きな鷲鼻、右側のみが歪んだ形で吊り上がる唇。過去に大きなケガでも負ったことがあるのか、顔の造形がやや曲がっているような印象だった。
痩せぎすで、歳は二十代中盤ほどか。背格好や立ち姿から卑屈さが滲み出ているような雰囲気だが、かつて宮廷詠術士としてそれなりの場数を踏んできたレノーレには、ほとんど直感で察することができた。
この男は、裏社会に生きる人間だと。
「……どちら様」
半開きにした扉を盾にするような形で油断なく問えば、
「いやですね~、そう警戒しないでくださいや。あっしの見てくれが悪いのは生まれつきなんでね、そこは勘弁していただけると助かりやす」
ひひひ、と笑う怪しさ満載の男に対し、
「……私が疑り深いのも生まれつき。……そこは勘弁してほしい」
少女が静かに返すと、男は「ならお互い様でやすね」と気分を害した風もなく笑った。
「でしたらそのままでいいんで、少し話を聞いてくれやすか。あっしはモノトラ・ギルン。裏の世界で小賢しく生きてる者でやす。普段は商人なんぞをやっておりやす」
「……『普段は』?」
「耳聡いお嬢さんでやすね。『ペンタ』の従者を任されるだけのことはありやす」
「……それで、用件は」
モノトラなる男はキョロキョロと辺りの様子を窺った後、わざとらしく声を潜めた。
「率直に申しやしょう。メルティナ・スノウ氏を紹介してほしいんでやすよ」
「……紹介」
「従者の貴女ならご存じでやすよねぇ。メルティナ氏はお忙しい方で、どうにも捕まらないことで知られてやす。ただでさえ貴族のお人でやすから、あっしのような外の人間ではお会いすることもままならない。彼女のお屋敷も一応は訪ねましたがね、一向にお戻りになられる気配もなく……」
「……何のためにメルに会うの」
「へへ。そこは商売でやすから、お話しするのは難しくてでやすね……」
その愛想笑いに対するレノーレは無言。
自然、静寂が場を支配する形となった。
そこで、モノトラが諸手を上げてにへらと笑いかけてくる。
「おおっと、気が変わりやした。詳しく説明させてくれやすか。あっしに術をブチ込むのは、その後でも遅くはないでやしょう」
よく言う、とレノーレはより警戒を強める。この男は、眼前の相手が密かに詠唱を開始したことをあっさりと見抜いていた。
「ちょいと事情がありやして、我々は彼女の力をお借りしたいんでやす。しっかしメルティナ・スノウといえば、バダルノイスの『ペンタ』にして文字通り国を救った英雄。あっしらがおいそれとお目見えできるような方じゃあない。それどころか、お国の関係者ですらなかなか連絡が取れないお方だそうで」
「……だから、従者である私に接触を図ったと」
「仰る通りで。さらに言うと、メルティナさんが一番心を許している相手が、貴女……だと認識しておりやす。オームゾルフ祀神長以外ではね」
迷いのない、見てきたような確信を持っている口ぶりだった。
(……この男……)
レノーレを選んだ理由は他にもあるだろう。
例えば、今やグロースヴィッツ家の系譜が途絶えつつある点。父は死亡、母は病んだ末に記憶を失い隠居。スヴォールンの他は顔も知らない親戚が数人いるだけで、かかわりも皆無。絵に描いたような没落貴族。
裏社会の人間からしてみれば、邪魔者もおらず接しやすい。
事細かに調べ上げられていることを悟ったレノーレは、
「……それで、私の見返りは」
メルティナをこのモノトラに仲介する対価として、自分は何を得られるのか。
それを問い質す。
無論、己が主にして親友たる彼女をこんな怪しい男に引き会わせるつもりなど毛頭ない。
ただ、興味が湧いたのだ。
念入りにこちらのことを調べ上げているこの『商人』。いつでも仕掛けられるよう詠唱を終えている自分を前にして、微塵も臆していないこの男。
モノトラと名乗る一癖も二癖もありそうなこの輩が、果たしてどのような対価を提示するのだろうか、と。
「ええ、それについてでやすが……我々としては、貴女の母君の治療をお約束いたしやしょう」
言い放たれたその内容。それに見合わぬほど平然とした男の態度に、思わずレノーレは絶句した。
「……な、……」
こんな怪しい手合いに弱みを見せるなど言語道断。頭では分かっていても、世界が傾ぐような動揺を抑えられない。
全てを忘れ去った母。回復については今のところまるで見込みなし。王宮抱えの医師にすらそう断言された症状。それを――
「……残念。……真面目に話す気がないならここまで」
一方的に言って扉を閉めようとしたレノーレだが、モノトラが隙間につま先を挟み込んでそれを阻止した。ガンッ、と鈍い振動が響き渡る。
「……何のつもり」
「いやあ、見てからでも遅くはないんじゃあないでやすか? 我々に、『それだけの力』があるってことをね」
宣言と顕現は、同時だった。
ヴン、と聞いたこともないような硬い異音とともに、モノトラの右手から光り輝く細剣が伸長する。
「!?」
その精緻すぎる直線は、目に眩しいほどの閃光。
雷? それともまさか、光属性か。
ダイゴスの雷節棍に似るが、何かが決定的に違う。
身を翻したレノーレは、咄嗟に玄関の扉を引き寄せて盾とした。
が、
「……!」
降り下ろされた光剣は、硬い戸板にあっさりと食い込み、
「……く!」
いとも容易く両断。
飛び退いたレノーレの髪をわずかに散らす。きれいに分かたれた扉の右半分が、屋内に倒れ込んでバンと大きな音を響かせた。
外の冷たい風がここぞとばかりに吹き込んでくる。
「……驚きやしたかぁ~? これはあっしの神詠術……ではありやせん。封術道具、でやす」
男の言に、レノーレは耳を疑った。
ありえない。封術道具とは、既存の品に神詠術の力を込めて利便性を高めた代物。そのほとんどが温術器や消えにくいランタンといった、日常生活の助けとなるような便利道具を指す。
これほど切れ味に優れた光の刃など、聞いたこともない。
少なくとも、レノーレが知る封術道具の範疇を超えている。
「ありえない……そう思ってやすよねぇ~。しかし同時に、優秀な元・宮廷詠術士の貴女なら気付いたはずでやす。この男、詠術士ではない……ただの素人だ、と。そんな素人に、こんな術が扱えるはずはない、と」
心の中を読んだような指摘。
事実、その通りだった。奇妙な光の剣を振るったモノトラだが、動きそのものは稚拙。踏み込みも、腕の振りも雑。明らかに、闘いに身を置く者のそれではなかった。ゆえに、咄嗟の回避も間に合った。
「ええ、あっしはただの商人。貴女がたとは違う、いわゆる持たざる者。神詠術でできることなんて、せいぜい薪に火をつける程度……。それも湿気っていりゃ、ろくにつきもしやせん。生まれながらにして、弱者と位置付けられた存在でやすよ」
卑屈な言い回し。
だからこそ、際立つ。
そんな男が振るってもこれだけの威力を発揮する、その得物の異質さが。
「おっと……あっしは、闘いに来たんじゃありやせんでした」
光の剣が男の手元からシュンと霧散する。よく見れば、その指には長さ十センタルほどの細く黒い筒が握られていた。
「お気付きでやすか。そうでやす、これが剣の柄……でやすかね。出すも消すも自由、見ての通り持ち運ぶに苦はありやせん」
にこやかに言って、モノトラはそれを服の衣嚢に仕舞い込んだ。
「……、」
信じられない。あれほどの威力を持つ武器が、ここまで小さく収納されてしまっている……。
「お分かりいただけやしたよね? 我々はこれだけのモノを造る技術を持ってやす」
「……脅してるつもり」
「滅相もない。確かに、あっしはこれ以外にも色々と道具を隠し持っておりやす。有象無象が相手なら後れは取らないでしょう。が……さすがに、一流の宮廷詠術士には敵いやせん。今この場で、強者は貴女でやす。あっしは脅せる立場にいやせん。できることは飽くまで『交渉』になりやす」
言いながらも、両手を上げてヘラヘラと笑うその顔には余裕しかない。
「あっしは、公正な取り引きをしに来やした。脅して従わせるつもりなら、最初からそういう怖くて強い人を連れて来てやすよ。例えば山賊あたりが相手なら、力尽くでそうしちゃいやすねぇ~」
実行した過去があるのか、もっともらしい口ぶりだった。
「で、話を戻しやすが。メルティナ氏の仲介の件、まだ対価をご用意してるんでやすよ。貴女のお母様の治療の他に、ね」
そして、『商人』はこともなげに提示した。
「メルティナ・スノウ氏をあっしらに引き会わせていただけやしたら、貴女に千五百万エスクをお支払いしやす」
「…………!?」
さすがのレノーレも目を剥いた。
「ハハ、驚かれやしたねぇ。まぁ、バダルノイスの貴族といえど動じない金額じゃありやせんよねぇ~」
当たり前だ。
レフェで催される天轟闘宴の優勝賞金が一千万。レインディールで手配されている謎の『ペンタ』、キンゾル・グランシュアの懸賞額が千三百万。
大国家が掲げたそれらの額すら上回る対価。すっかり国力の低下したバダルノイスの視点から見たなら、あまりに規格外すぎる。
「こんな機会、きっと二度とありやせんよ~。ちょいとお友達を紹介いただくだけで千五百万! お母様も元通り! ご快諾……いただけやすよね?」
「…………、」
レノーレは言葉を返せずにいた。
もちろん、大金や母の治療に目が眩んだのではない。
千五百万エスクなどという法外の金額を易々と提示する男。先ほどからモノトラは『我々』という言葉を口にしている。何らかの組織に属しているのだ。それは一体、どれほどの力を持つのか。
原因も不明である記憶喪失を治療してのけると言い切るその自信。どれほどの知識と能力を有しているのか。
そんな集団がメルティナに目をつけた。
会うだけで済むはずがない。
「……断る、と言ったら」
「後悔することになりやす」
笑わせる。何が『公正な取り引き』なのか。モノトラは暗に力を示している。脅している。背後に存在する組織の威容をもって。
「おっと、勘違いしないでくださいや。貴女が断ったとして、その判断に対し我々はどうこういたしやせん。『我々は』ね」
それに、とモノトラはここまで浮かべていた卑屈げな笑みを消す。
「この提案を飲めば、貴女は『余計なもの』を見なくて済みやす。何より、良いことずくめじゃありやせんか。母上の記憶は戻り、大金も手に入る。……ですが、断ればそれらは得られやせん。きっと後悔しやす。それはもう――」
「キュアレネーの教義を破ってでも、自死を選びたくなるんじゃないでやすかねぇ」
「――――――」
価値観の違い、と呼べばそれまでだろう。
モノトラとしては例え話のつもりだったとしても。
かつては度重なる同僚の嫌がらせにもじっと耐えてきたレノーレだったが、この言葉は容認できなかった。
信徒にとって、教義とは絶対。
キュアレネーが自死を厭う以上、己がそんな結末を選ぶことなど絶対にありえない。
モノトラは、「お前は自らの神を裏切るだろう」と言い放ったに等しいのだ。この上ない侮辱に他ならなかった。
ここまでモノトラを警戒し一定の距離を保っていたレノーレは、つかつかと歩いていって彼の目前に立つ。
「おお。話を受ける気になりやし――」
「帰れ」
えっ、とモノトラが間の抜けた声を漏らす。
その茄子みたいな顔の男に、レノーレはありったけの怒りを込めて言い放った。
「おとといきやがれ、ナスビ野郎」
生まれて初めてだったかもしれない。
激昂のままに、ここまで口汚く相手を罵ったのは。自分でも抑えがきかないまま、まるでエドヴィンみたいなセリフを口走ってしまった。
不敵な態度を一貫していたモノトラも、予想だにしていなかったのだろう。
いかにも大人しげな小娘の口から、あんな暴言が飛び出すなど。
しばしポカンとしたあの男は、「貴女の意思は分かりやした」とだけ言い残し去っていった。平静を装っていたが、こめかみに浮かんだ青筋をレノーレは見逃さなかった。
(……さて……)
まずはメルティナに知らせなければならない。妙な連中に目をつけられていると。
しかし彼女は、通信術を受け付けないよう独自の技術で『切断』していることが多い。長距離からの狙撃など、極度の集中を要する場面で通信の波紋が広がっては邪魔になるからだ。
王宮関係者も、メルティナがひとたび任務に出るとなかなか連絡がつかない……とよく嘆いていたものである。
レノーレの技術では、居場所の分からない相手に連絡を取ることもできない。従者にして親友であっても、なかなか彼女と接触するのには骨が折れるのだ。
ひとまず今の仕事が片付き次第、メルティナはこの屋敷に寄る予定となっている。
(確か明後日だったはず)
彼女がやってくるまで、しばし落ち着かない時間を過ごすことになりそうだった。




