460. 絶凍の記憶 5
楽しかった。楽しくなっていった。
最初はどうなることかと思われた異国での学院生活は、思った以上に。
一人、二人と話す相手が増えて。
いざ夏の長期休みを迎えての帰郷も、苦ではなかった。
戻れば、母は笑顔で迎えてくれた。使用人のウェフォッシュは相変わらず淡白だけど、人のことは言えない。余計なことはせず静かに忠実に、というのが彼女の信条。彼女は彼女なりに務めを果たしてくれているのだ。
そして、久しぶりに顔を合わせた主にして親友も。
「……おっと。……メル以外にも、親友ができたのでした」
「え!? し、親友? そ、そうなんだ。どど、どんな子?」
「……ベルっていうんだけど……うーん……メルより上品で、美人かも」
「なっ……!?」
「……あと、ミア。……すごく元気で面白い」
「そ、そっか。ふっ、ふーん。まあ最初の親友は私だけど、いいんじゃない? いいことだよ。うんうん。最初の親友は私だけどね」
「……うん。……学院に戻るのが楽しみ」
「うおらー! 遊びにいくよレン! 二人だけの思い出を作ろう! 私たち二人『だけ』の!」
あっという間に一年。
無事、二年生へと進級して。
その直後、また新しい人が増えた。
生徒ではない。黒髪に黒い瞳をした、風変わりな少年だった。
特異なのはその外見だけではない。神詠術を扱わない、恐るべき肉体強度を備えた拳闘士だ。こんな人間がいるのかと、さすがにレノーレも驚きを隠せなかった。世界は広いものである。
まるで彼の出現を契機としたかのように、次々と事件にも見舞われた。しかしその都度、皆で一丸となって乗り越えた。誰も欠けることなく、平穏な生活を取り戻して。
学院での生活。そしてまとまった休みが取れての帰郷。
どちらも楽しかった。
けれどハルシュヴァルトへ戻ると、否が応にも宮廷詠術士時代を思い出す。数々の嫌がらせ、次第に病んでいった母……。
レインディールという国の強大さや安定ぶりを目の当たりにしたことで、自国バダルノイスがいかに堕ちたかを思い知ったという面もあった。
逃亡した前王とアルディア王を比較すれば、その落差にはもはや溜息しか出ない。オームゾルフもひたむきに国を支えていこうとしているとのことだが、兄……スヴォールンとの折り合いがあまりよくないと聞く。
自分が心配しても仕方ないのだろうが、少し不安ではあった。
二年生となって秋を迎えたある日、その手紙が届いた。
専属の医師からだった。
『レニン様の容態に深刻な変化が認められました。命に別状はございませんが、詳細については直接会ってお話しいたします。至急お戻りになられますよう』
すぐさま荷物をまとめ、学院の門へ。逸る気持ちを抑えて馬車を待つ。命に別状はないとのことだから、心配はいらないはずだ。
しかしそれなら、直接会って話さなければならないこととは何だろう。早急に戻らなければならないほどの状態とは……。
そんな思いで馬車を待つ早朝、彼が声をかけてきた。
「何だ、レノーレ……早いな。一人で、どっか出かけるのか?」
急な帰郷はすでに頼れる学級長へ伝えてある。察したのか、彼女は何も訊かずにいてくれた。
余計な懸念を抱かせないよう、この人にも明るく冗談めかしておくべきだろう。
「……不肖レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ、実家に帰らせていただきます」
「旦那とケンカした奥さんかよ……って、え? 帰る? 今から?」
それからも他愛のない会話を続ける。
……それは、不安の現れだったのかもしれない。
「……実は、このまま学院には戻ってこられないかもしれない」
つい、そんな言葉がレノーレの口から飛び出していた。
「……なんて言ったら?」
そう、どうにかごまかしつつ。
面食らった様子の彼は、やがてたどたどしく切り出す。
「いや……まあ、もしレノーレが妙なことに巻き込まれそうで、学院に戻りたいのに戻ってこれなくなるようなら……力になるぞ。んなことになりゃ、ベル子とかミアとか……皆が悲しむのは分かってるだろ? つか、ダイゴスん時みたいに、強引にでも連れ戻してやる」
ああ。この人なら、本当にやってのけてしまいそうだ。
不可能と思われるようなことを、その拳で次々とやり遂げてきたのだから。無術の身で、奇跡としか思えない功績を上げてきたのだから。
「……では、いってきます」
「お、おう。えーと……すぐ、戻ってくるんだよな?」
「……どうでしょう」
「ぬ、意外とレノーレって曲者だよな……。よーし分かった、もし妙なことになったら、そっちの国に乗り込んででも連れ戻しに行くから、よろしく」
嘘や社交辞令でも、まあ……嬉しいとは思った。
「あら、可愛らしいお嬢さん。どちら様かしら?」
それは、無慈悲なまでの忘却だった。
急ぎ駆けつけたハルシュヴァルトの診療所にて。夏ぶりに見た『母』の満面の笑顔は、幼き日に浴びせられた罵声など比較にもならないほど深くレノーレの心を抉った。
「……信じがたいことですが……、記憶喪失。そう呼ぶ他にありません――」
そして厳かな医師の宣告が、少女の心を打ち砕いた。
構わなかったのだ。
娘は、母が大好きだった。罵声を浴びせられようと、忌避されようと、それでも母を愛していた。
少なくとも、掛け値なしの本音をぶつけてくれていることの表れだったから。
傷つき辛いこともあったが、それでも構わなかったのだ。
だって、最終的に母は言ってくれたから。
『レノーレ。私は、あなたを愛している。これも偽らざる本当の気持ち』
なのに、どうして。
「……回復の見込みについては、正直……見当もつきません。出来得る限りのことはいたしますが……何せ、記憶喪失そのものがあまりにも珍しく……」
どうしてだ。
「……どう、して……こんな、」
「レニン様は……日々、闘い続けておられました」
「……闘い……? ……何と……闘ってたっていうの」
「己の中に根差す、業と」
レニンはレノーレがいない間、ひたすらに努力した。
醜い自分を打ち消そうと。心を強くしようと。
生まれ持っての欲。母としての矜持。それらがぶつかり合って――軋み、負担となり、そして壊れた。
(……わた、しの……ために……?)
よき母であろうとして。
(……わたしの……せいで……?)
消えた。
よろよろと歩み寄る。寝台に身を起こし、物珍しそうに外の景色を眺めている『母』の下へ。
気付いた彼女が、先ほどと同じ笑みを向けてきた。
「ごめんなさいね。何も……思い出せなくて……私は」
――構わない。
神が試練を課すのなら。何度だって。
「母様。あな、たは……私の、母様です。私は……レノーレ。あなたの、娘です」
砕けた心の支柱にすがる。
何としても、母を幸せにする。失ったなら、取り戻す。それこそが、自分の全てなのだから。
冬の長期休暇である『白兎の静寂』を明後日に控えたその日。
「……あなたは、記憶が戻ったと聞いた」
そうだ。身近に、よりにもよってミディール学院にいた。記憶喪失の人間が。しかも、最近になって復調したという。
ベルグレッテの耳に入って余計な心配をかけたくはなかったが、記憶喪失回復の手がかりなんてそう得られるものではない。
やはり、尋ねるしかない。この人物と二人きりという状況は珍しい。この機を逃す手はない。今は、藁にもすがりたい状況なのだ。
「……何が切っ掛けで記憶を取り戻したの?」
「え、いや……自分でもよく分からんけど、いつの間にかっつーか……」
「記憶が戻る前後で、心身に何か変化はあった?」
「ん? え、いや……」
「記憶を失う前と後、両方のことを覚えてるの?」
「いや、ちょ」
「記憶がなかった期間はどのくらい? お医者様には診てもらった?」
少しでも参考になればと、つい我を忘れて。
しかし、彼は気まずそうに告白した。
実は、記憶喪失などではなかったと。己の出自を隠すための嘘だったと。
「……そう。……記憶を失ってなんて、いなかったのね」
瞬間、殺意すら滲んだ。
だが、落ち着け。彼に悪気はない。彼の境遇を考えたなら、仕方がなかったことだ。怒るなど筋違い。八つ当たりだ。とりあえず部屋に戻ろう。冷静になれ。
そう考えた直後、彼に引き止められて。
「えーと……母ちゃんの具合はどうだ?」
……落ち着け。この人は悪くないのだから。