46. そういう世界
川から引き上げられ、横たえられている遺体。
テレビドラマで見る水死体とは、全く違う。まず最初に、流護はそんなことを思った。
完全に血の気をなくし、肌は紫色に変色している。しかしさほど時間は経っていないのか、思ったほどの凄惨さはなかった。濡れた長い黒髪が頬に張り付いているものの、穏やかな表情をした――見知らぬ、少女の遺体。
「…………、」
流護は、思わず安堵の溜息を漏らしてしまった。心臓はバクバクと脈打ち、膝が崩れ落ちそうになる。
自分と同年代の少女が無惨に死んでいるのだ。決して、安心するようなことではない。
しかしそれでも、あの――自分のよく知る、愛らしい小動物のような少女ではなかったことに、胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
そこへ――
「はーいどいたどいたー」
しゃがれた声が聞こえた。
顔を向ければ、人ごみを散らしながらやってくるのは一人の女。
その容貌に、流護は思わずぎょっとする。
背丈は流護より頭三つ分も高い。病的なまでに細く長い手足。その細い体を包み込む、黒一色の服と黒銀の軽装鎧。髪は墨のような漆黒。しかし艶やかさは微塵も感じられず、ボサボサに広がって腰の辺りまで伸びた様は、侵食しつつある闇色の何か……とでも表現するのが適切なほど禍々しく見えた。
そして何より印象的なのは、その双眸。顔に不釣合いなほど大きく、しかし黒目は異常に細い。口の端を吊り上げ、裂けるほどに大きな半月の形を見せている。
お世辞にも、美しいとはいえない容貌だった。それどころか――
――まるで、蛇。メドューサ。そんな単語が、少年の脳裏をよぎった。
「はーい、仕事の邪魔なんでね、普通の人はどいちゃって。邪魔すると『不正』よー。『不正』と見なして引っ張っちゃうよー。はいどいたどいた……ん?」
投げやりな口調で野次馬たちを散らしていた女は、流護を見て言葉を止めた。
「あら……アナタ、勇者クンじゃないの」
まるで鎌首をもたげた蛇さながら見下ろしてくる大きな女に、流護は内心で身構える。
「フハッ。そう警戒しなくていいわよ。こう見えてもアタシは『銀黎部隊』の一人、ケリスデル・ビネイス。ちゃんと治安を守る優しいお姉さんだから、安心しなさいな」
舌なめずりをしながら言うその姿は、とても法の番人には見えなかった。
「はあ……『銀黎部隊』っすか……」
「アラヤダ、つれない反応ねえー。やっぱりデトレフの件でイメージ悪くなったのかしらね。迷惑な話よね。たった一人の『不正』で、全体が迷惑しちゃうんだから」
井戸端会議をする中年女性みたいな口調で言って、ケリスデルは横たわる少女の遺体の脇に屈み込んだ。
乱暴とすら思える手つきで遺体に触れ、検分を始める。
「んー……手首に縛った跡、脚の腱も切られてる、と。……ん? これは……頭に縫い目か。一応報告しときましょうかね。ま、『エクスペンド』よねえ。事件性なし、と」
「『エクスペンド』? 事件性なし?」
『エクスペンド』というのが何だかは分からないが、手首に縛った跡があって、さらに脚の腱が切られていて、事件性なし?
思わず声に出してしまった流護へ、ケリスデルは思い出したように顔を向ける。
「アラ? まだいたの? いくら勇者クンだからって、関係ないことに首を突っ込むのは感心しないわねえ」
そう言いながら、彼女は横たわる少女に大きな布を被せた。
「ああ、ボーヤは記憶喪失なんだっけ? じゃあ知らないか。『エクスペンド』ってのはね、主にマフィアなんかが所有してる奴隷のこと。こんな風に、要らなくなったらポイっと捨てられるってワケ。ったくどこのファミリーだか知らないけど、片付けぐらい自分でやってほしいわね。躾のできてない子供かっていうの」
淡々と言うケリスデルの言葉に、流護は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
綺麗事をいうつもりもない。こんな世界だ、そういった奴隷制度があるだろうことも理解できる。
しかしそれでも、こんな――いらなくなった雑誌を道端に捨てるみたいに、人が殺されて遺棄されているという現実。
ロック博士やクレアリアが言っていた、「人の命など軽い」という言葉。それを分かってもなお、流護はショックを隠しきれなかった。
「あー、お仕事おしまい。『不正』でも事件でもないようで何よりねえ」
晴れやかな表情すら浮かべて立ち上がる大女に、現代日本の価値観を捨てられない少年は思わず呻いてしまう。
「……人間がゴミみてえに捨てられてて、事件じゃねえのかよ……これが……」
「……、アナタ」
そんな流護に、ケリスデルは驚いたような顔を見せ――
「ふうん」
意味ありげに、ただそう呟いた。
「……何すか」
「いーえ。記憶をなくしたアナタがそう感じるなら、きっとソレが本来の人間の感性なんでしょうね。なるほど、お姫様の掲げる『すべての人が幸せになれる世界』なんて理念も、あながちただの戯言じゃないのかもね」
べろり――と舌なめずりをし、続ける。
「仮に――記憶をなくしたってのがウソなら――アナタはよほど平和な国に生まれたんでしょう、とも思ったけどね」
「ッ!」
記憶喪失でないことを見透かされてしまったのかと、流護は思わず狼狽する。
「ま、さっさと帰りなさいな。この子も、いつまでも好奇の目に晒されたくはないでしょうし」
そう言うケリスデルは無表情で、布を被せた少女を見下ろしていた。
流護は夕闇に飲まれていく街をぼけっと眺めながら、石壁にもたれかかっていた。
少女の遺体はすぐに片付けられ、ケリスデルも撤収し、周囲はすでに何事もなかったかのような日常を取り戻している。
ミネットのときもそうだったな、と流護は思い起こす。
死が近い。先ほどのようなことが、珍しくないのだ。この街……この世界では。
「ウチのお隣、お子さんが生まれたんだけどね。でも、『ミージリント筋力減衰症』って診断されたとかで……」
「まぁ。かわいそうに……私達みたいな平民にしてみたら、実質助からないようなものじゃないのぉ」
買い物帰りの主婦と思わしき中年女性たちの会話が聞こえてくる。
もう周囲に、先ほどの非日常の余韻は感じられない……。
やりきれない思いを抱える流護へ、ぬっ……と大きな黒い影が差した。
見上げれば――開いているのか閉じているのか分からない細目に、不敵な笑み。軽く身長二メートルを超えていそうな巨漢、ダイゴスの顔があった。
「ここにおったか」
「あ……」
そうだ。流護は迷子になっていたのだ。すっかり忘れてしまっていた。
「何やらさっき、死体が上がったそうじゃな」
「ああ……」
「若い女子だったそうじゃが……大方、『エクスペンド』じゃろうの」
ダイゴスも当然のように、その単語を口にした。
常識。自分が、知らないだけ。
――と。巨漢の耳元に、円周状の波紋が現われる。流護もすっかり見慣れた、通信の神詠術だ。
「ワシじゃ」
単純かつ豪放なダイゴスの応答。
別行動をしているメンバーの誰かかと思う流護だったが、聞こえてきたのは知らない声だった。
『よおーダイゴス! 元気にしてるか?』
「……兄者か」
ダイゴスも生徒の誰かだと思っていたのか、少しガッカリしたような声を漏らす。
……ていうか、兄者?
『おいおい、何だよツレない声だな。久々の兄さんだろうがよお』
「今、所用で仲間からの通信を待っとる状態じゃ。用がないなら切るぞ」
ダイゴスの兄。どっしりとした岩を思わせるダイゴスとは違い、随分と軽そうな印象だった。
『……仲間、か。……ヘッ、何だ、不器用なお前が外国で上手くやってけるか兄さんは心配だったが、とんだ杞憂だっ』
「切るぞ」
『ちょっ、待て待て! 用事ならあるんだよ。お前、今度の「蒼雷鳥の休息」には戻ってくるつもりだよな?』
「特に決めてはおらんが」
『お前さ。レインディールに現われたっていう、「竜滅の勇者」ってヤツのことは知ってるよな? 学院にいるんだろ?』
「!」
流護はピクリと反応する。間違いなく自分のことだ。
「……噂程度には、な」
しかしなぜか、ダイゴスは明言を避けた。
『記憶喪失で巫術が使えない。けど、驚異的な身体能力を誇る。そんな感じだったよな?』
「そうじゃったかな」
巫術? と疑問に思う流護だったが、直後、そんなことは脳内から跡形もなく吹き飛ぶことになる。
『――じゃあさ』
ダイゴスの兄は、どこか抑えきれない興奮に胸を躍らせた少年のような声で。
『もしそいつに会うことがあったら、訊いてみてくれよ。「本当に記憶喪失なのか?」って』
「!?」
思わず流護は跳ねそうになった。
「……話が見えんのじゃが」
そんな少年の動揺に気付いたのか否か、ダイゴスは変わらず冷静な声で返す。
『ヘッ……ダイゴスよ。世界の常識が変わるかもしれねえぞ? かー、ワクワクしてたまんねえ! とにかく、今度の「蒼雷鳥の休息」には戻ってこい。ちなみに長の命令だからな』
「了解じゃ。用件はそれだけか?」
『こ、こんの唐変木が! 人が思わせぶりに言ってるのに、全然気にならねぇのかよ! お前、そんな冷静でいられんのも今のうちだからな! お前の驚いたツラが楽しみだぜ! じゃあな! ちゃんとメシ食えよ? あとちゃんと歯ぁ磨けよ? あとちゃんと』
巨漢はうるさそうに右手を横に振り、波紋を散らした。通信がブツリと切れる。
「…………、」
冷静でいられないのは流護だ。先ほどの、ダイゴスの兄の言葉。
唐突に『竜滅の勇者』の話題が出たのも気になるが、何より――
『本当に記憶喪失なのか?』
どうしてそんなことを気にするのか。どうしてそう思うのか。
恐る恐る、ダイゴスの顔を見上げる流護。
彼は「ニィ……」と、いつもの笑みを返してくるだけだった。
「……訊かねえの?」
流護はつい、自分から余計なことを言ってしまう。
「誰しも詮索されたくないことの一つや二つ、あるじゃろう」
「…………」
不敵な笑みのままそんなことを言うダイゴス――の耳元に、再び波紋が広がった。
「ワシじゃ」
『リーヴァー、エメリンだよー。アリウミくんは見つかった? あともう、晩ご飯にしよー』
「了解じゃ」
気付けば、とうに日は沈み、巨大な月がその姿を覗かせていた。
やはりこんな大きな街で人捜しをすることに無理があったのか、何の手がかりも得られないまま、流護たちは酒場の片隅で夕食をとっていた。
「ダメだ。ミア公の話訊こうにもよ、ディノの話しか出てこねーんだよ。間が悪ィぜ……あの野郎、こんなときに出張ってきやがってよ……」
エドヴィンが疲れきった口調で言い捨てる。
「ディノかー。あたしたちも結構うわさ聞いたよ。ちょうど今、この街にいるのかなー。同じ『ペンタ』でも、オプトなんかはよく街をぶらぶらしてるみたいだけど、確かにディノは珍しいかもねー」
学院四位の『ペンタ』、ディノ・ゲイルローエン。
街で姿を見かけただけで、それほどに騒がれる人物。流護としては、芸能人かよとでも言いたくなる。
しかし今、そんなことは心底どうでもいい。必要なのはミアの手がかりだ。
「通信も、繋がらないしねー……」
エメリンが沈んだ口調で呟く。
ベルグレッテとの定時連絡だけでなく、ミアにも幾度となく通信を飛ばしているが、反応がない状態だという。
自然と皆、黙り込んでしまう。
「…………」
流護は今更ながら、あの『銀黎部隊』の一員であるというケリスデルに、ミアのことを訊いてみるべきだったかと思い始めていた。
しかし、デトレフの件もある。あの女自身の、異様な雰囲気もある。どうにも信用できない気がした。
「……そろそろ、時間」
レノーレの声に酒場の時計を見れば、時刻は七時半に差しかかろうとしているところだった。
ベルグレッテがミアの実家に到着して、何らかの話を聞けている頃かもしれない。
「ベルに……連絡してみる?」
エメリンの言葉に、全員が頷いた。
無言で頷き返した彼女が、滑らかな動作で神詠術を紡ぎ――反応は、すぐだった。
『リーヴァー……ベルグレッテです』
ひどく平坦な、感情の失われた声。
流護には、そう感じられた。
「ベル……どうだったー? 何か、話は聞けた……?」
『……うん』
低く、沈殿したような声。それだけでも分かる。何かあったのだと。
「ベル……子……?」
決意したように、ベルグレッテが言う。
『……みんな、よく聞いて。ミアは……ミアは――』