459. 絶凍の記憶 4
その日は、母の往診があった。
いつも世話になっている礼も兼ね、たまにはウェフォッシュに任せきりではなく、自分が医師へ茶を用意しようと思い立った。
メルティナもまた、遠いところを遊びにきてくれている。取っておきの高級茶を淹れ、二人を驚かせようとレノーレは考えた。
そうしてトレイにカップやポットを載せて、応接室の近くまで行ったときだった。
「レニン殿の様子は?」
「ええ、落ち着いておられます。今のところは……」
中から聞こえてくる、メルティナと医師の声。そのまま部屋に入ろうとしたレノーレだったが、
「しかし……こんな、レノーレお嬢様にどう説明したものか……」
ピタリと、縫い止められたように足が止まった。
「やっぱり間違いないなの? この間の話は」
「ええ……今回の往診で確信いたしました。おそらく、レニン様ご本人ですらお気付きではありますまい……」
思わず、耳に意識を集中させる。
「レノーレお嬢様がお仕事などで不在の間、レニン様は明らかに復調なさっている。しかしお嬢様が戻られると、容態が不安定となります」
「レンがいないほうが調子が上向く、か。……私も、レニン殿から聞いている。かつて、娘の才に嫉妬を覚えていたと。自らの中で折り合いをつけたとは仰っていたが……やはり、精神的な部分はそう簡単にはいかないんだろうね……」
ああ、とレノーレは納得した。
劇でありがちなように、手にしたトレイを取り落とすことはなかった。
――だからメルは、私に留学を薦めたんだ。
私がいないほうが、母さまのためになる。
それなら……何も、迷う必要なんてないじゃないか。
そうだ。いつかメルティナが語ったように、レノーレにとって母の幸せは己の使命。『やらなきゃいけないこと』。
自分がいなくなって母が回復するのなら、喜んでいなくなる。それだけのことだ。
ああ……ならいっそこの世から消えてしまえば、母は完全に回復してくれるだろうか?
しかし、自死はキュアレネーによって禁じられている。いかに母のためといえど、この教義を破るようなことは絶対にできない。そんな真似をしたら、母も異端の親という謗りを免れなくなる。
だから……。
羽でも生えたかのような足取りで、レノーレは応接間に入室した。
「レ、レノーレお嬢様……!?」
「……レン」
飛び上がりそうな勢いの医師と、逆に落ち着き払ったメルティナ。
「……メル。私、ミディール学院に行く」
「……うん」
ゆっくりとした足取りでやってきたメルティナが、ドレスの衣嚢からハンカチを取り出す。
おかしい。
迷いもなくなって、すっきりしたような心地なのに……メルはどうして、そんなものを取り出すんだろう。
「……私……わ、たし……母、さまに……喜んで、ほしい、から……!」
「うん」
レノーレの両目からとめどなく溢れ出してきた涙。メガネを優しく外したメルティナが、それを拭っていく。
「だから……だから、わたし、わたし……ぃ……! うう、ぁ……うわああぁぁ……!」
どうしてだろう。
迷いなど吹き飛んだはずなのに、ただただ悲しかった。
レインディールへと出立するその日。
見送りに玄関口へとやってきたレニンが、神妙な面持ちでそれを差し出した。
「レノーレ、これを」
「……母様。……これは」
それは、手編みのお守りだった。
「今更、隠し立てする必要もありません。正直に言います」
母レニンの目は、これまで見たことがないほど真剣だった。
「かつて話したように、私は一人の詠術士としてあなたに嫉妬を覚えていました。現役から退き、自分の中で全て飲み込んだつもりでいましたが……未だ、私の中にはその醜い感情が巣食っているようです」
自らの胸に手を当てて。
「思い返せば、昔からそうだったのです。私は少女時代から、そうした情に囚われていた。矜持……と呼べば聞こえはいいですが、人一倍に肥大した誇り……のようなものがあったのです。一番でありたい。誰よりも優秀でいたい。そんな欲が。身の丈に合わぬ自尊心……と呼ぶには醜すぎる何かが。……この年にもなって未だそのようなものに縛り付けられているなんて、自分で自分が恨めしくなります」
「……母様……」
「確かに、そのような業は今も消えていません。あなただけではない、メルティナを見ても心に暗い影が差すことがあります。どこまで身の程知らずなのでしょうね、私は。……ですが」
一呼吸。間を置いて、母は娘の目を見据えた。
「レノーレ。私は、あなたを愛している。これも偽らざる本当の気持ち。あなたがいないほうが調子が戻るこの身体なんて、この場で捨ててしまいたいと思う……! でも、私は……自分ですら、どうして、こんな……!」
「……母、様」
「あなたにしてみれば、見捨ててしまいたいような母親かもしれません。ですが……お願いを聞いてほしい。休暇の折には、きちんと帰ってきて。その顔を私に見せて、安心させて。それで調子が悪くなってしまう私の身体なんて、無理にでも言い聞かせます。だから……だから……!」
「……母様。……約束します。……きちんと、帰ってきます。……許されるなら……」
「許さないはずなんてない……! あなたは、私の……大事な、一人娘なんですから……!」
「……、っ、母、様……」
「ごめんなさい……ごめんね、レノーレ……! こんな母親で、ごめんねぇ……っ」
屋敷の敷地を出て、馬車の乗り場にて。
見送りのために宿からやってきてくれたメルティナと二人で馬車を待つ。
「レン。今更だけど、君の留学に関する真意を黙っていてすまなかった。でも、学院へと通うことでより見識を高めてもらいたかったのも事実だ。あと、友達を作ってほしかったのもね」
「……うん」
頷きつつ、レノーレは言う。
「……メルより仲のいい友達ができちゃったりして」
「そ、それはそれでいいんじゃない? いいことだよ、うん。そうさ」
「……そう」
にこやかな笑みを作ったメルティナが、レノーレの肩をぽんと叩く。
「まぁ、私より仲のいい友達ができるかどうかは別として……この留学で、君はきっと何か大事なものを得るはずだよ。私の勘は外れない。安心したまえ」
――そして、いざ訪れた遠き異国の地にて。
「あなたは、どうしてこの学院に?」
それは、目の覚めるような美しい少女だった。
薄氷色の瞳、藍色の長い髪。佇まいから、その高い品格が溢れている。少し、メルティナに似ているかもしれない。彼女が純白なら、この少女は鮮烈なまでの群青だ。
……と、話しかけられたのだ。何か返さなければ。
けど、すっかり消極的な話し方が癖になってしまっている。母やメルティナの前でもこうだったのだ、今さらどうなるものでもない。考えてみれば、同年代の子とまともに話をしたことなんてほとんどない。
色々と複雑な事情など語っても仕方がない。
そう。以前から思っていたその理由のひとつを、口にしてみればいい――。
「……学校に、行ってみたかったから」