458. 絶凍の記憶 3
そうしてレノーレはメルティナ・スノウの従者となり、王宮に顔を出す機会もほぼなくなった。
必要なときはメルティナが随伴し、まるで騎士にように守ってくれた。
母レニンも、レノーレがかの英雄の従者になったということでさすがに驚いたか、幾分様子が落ち着いた。
少し形は変わったが、戻ってきた穏やかな日々。
瞬く間に半年が過ぎていき、かつての王宮での暗鬱な毎日も何かの悪い夢ではなかったのかと思うほどだった。
「……ふ、ふふ。……ふふふ、ふふ」
大きな門を潜り、表通りへ出て。
レノーレは、緩む口元を懸命に抑える。
「……レン。これは君の雇い主としての命令だ。笑うんじゃない」
一緒に外へまろび出たメルティナは、大層不機嫌『そう』にしていた。
「……だ、だって……ふ、ふふふふ! は、ははははははは!」
「笑うなと言ってるだろう! このー!」
「……だ、だって!」
首に絡まってきた腕を押さえ、レノーレはころころと笑い続けた。
今しがた二人が後にしたのは、キュアレネー神教会附属の女子学院。
年頃の婦女たちが通う学び舎である。メルティナや現王のオームゾルフもここの卒業生だった。
今回、生徒たちへの実技指導のため、メルティナが講師として招かれた。
伝説の英雄の登場に、皆はもう大盛り上がりである。まさに引っ張りだこで、最初から最後まで黄色い声が鳴り止むことはなかった。散々に振り回され、ようやくお勤めを終えたところである。
「疲れたよ……本当に疲れた……。ここに在学してた頃だって、こんなに疲れたことはなかった……」
珍しく低い声で、彼女は自らがかつて卒業した学び舎を振り仰ぐ。
「……いつもと違うメルが見れて新鮮だった。……押されっぱなしで」
「何さ。レンだって年の近い子と話せて、楽しそうにしてたじゃないか。見ていたぞ」
「……、それは」
物心ついた頃から宮廷詠術士となることだけを目指してきたレノーレには、友人らしい友人は一人もいない。
否定はしない。
昔から、街で学院生らしき少年少女を見かけるたび、少し羨ましいという気持ちはあった。
しかし結局のところ、自分はもう宮仕えの身。学院生となる必要もなければ、そもそも今さらなることもできない。
「……私には、メルがいるからそれでいい」
「おっ。嬉しいこと言ってくれちゃって」
ふふんと笑う主だったが、その言葉とは裏腹に、「ふむー」と何か思案するような素振りを見せていた。
――平穏なだけの日々は長く続かなかった。
神はさらなる試練を与えようというのだろうか。
レノーレが十三歳となって、しばらく経ったある日のこと。
「……母さま……、今、なんて……」
「私は退く、と言ったのよ」
レニンの声には、何の感慨も篭もってはいなかった。以前なら、二度言わせるなとの叱責が飛んできたことだろう。
しかし、憔悴し切った母の横顔には残っていない。怒りや悲しみ、再起への奮起……そういった情も全て尽きてしまったかのごとく。
「もう……疲れたわ。色々と手を尽くしたけれど……衰えた力は、戻らなかった」
自分の両手を見つめながら。その視線にも、しわがれたように見える手のひらにも、活力は感じられない。以前はこまめに日記をつけたりと几帳面な性格だったが、そうした習慣もここ最近はすっかり失われてしまったようだった。
「これもキュアレネーの思し召し。もう身を引けと、彼女が仰っているのでしょう」
「……そ、そんな」
「このような状態になってまで現職にしがみついていても、晩節を汚すだけ……引き際は弁えないとね」
「……」
「レノーレ、悪かったわね。私は、日に日に成長していくあなたの姿が本当に誇らしかった。けれど……やがて、嫉妬も感じるようになっていったの。いつしか間違いなく私を超えていくだろう、と。怖かったのよ。一人の詠術士として、あなたに敗れることが……」
「……母、さま」
「子が親を超えていってくれるのだから、喜ばなければいけないのにね……。ええ、納得だわ。こんな欲深い私に、キュアレネーは罰を与えなさったのだわ」
「…………そんな……」
「なんて顔をしているの。力は衰えましたが、知識は健在。これからは指南役として、あなたや皆を支えていきますよ」
それがレニンという一人の詠術士が選んだ結論。精神の均衡を保つために選んだ道。
医師によれば、しばらくは王宮を離れて静養したほうがいいとのことだった。
二人は皇都イステンリッヒを離れ、少し離れた村に居を移した。
レニンは見晴らしのいい丘に上がり、遠くうっすら見える皇都をぼうっと眺めることが増えた。
未練があるのでしょう、と専属の医師は顔を渋くする。
日がな一日そのように過ごしてばかりでは、身体にも障る。一度、より遠く離れた地での静養を検討したほうがいいかもしれない、とのことだった。
翌年。
レノーレは、宮廷詠術士の職を辞した。
もちろん、母に付き添うためである。
未練など全くなかった。
幼い頃から宮廷詠術士を目指し、齢十一でその夢を叶えたレノーレだったが、その原動力は全て『母の喜ぶ顔が見たいため』。
それは今も変わっていない。
だから、宮仕えに固執する必要などどこにもなかった。目的は、母を笑顔にすること。宮廷詠術士そのものではない。
あの『同僚』たちも、邪魔者がいなくなって喜んでいることだろう。お互いにとって益しかないはずだ。
それとは別の王宮関係者らは突然のことに驚いたようだった。活躍を続けていけば『雪嵐白騎士隊』に推挙される可能性だってある、と諭されたが、レノーレにとっては心底どうでもいいことだった。
母レニンも「何を言い出すのです」と困惑したが、娘は揺らがなかった。
メルティナの計らいで専属従者も続けられることになり、詠術士としての体裁も保つことができた。それにより、母も渋々ではあったが納得した。
そうして母娘は遠く離れた中立地帯ハルシュヴァルトへと移り住み、使用人のウェフォッシュを雇って静かに暮らし始めることとなる。
新しい生活にも少しずつなじんできた、ある日のこと。
「レン。君には私の従者を務め続けてもらうに当たり、より多くの経験を積んでほしい。という訳で、学院に入ってみたまえ」
任務明けのメルティナは、屋敷に遊びにくるなりとんでもないことを言い出した。
「……学院? ……え? ……何を言っているの」
「いいかいレン。私が気付いてないとでも思っているのか? 君は『メルがいればそれでいい、友達なんていらない』なんて強がっているが、その目は道行く学生たちを追っている」
「……そ、それは……」
「ま、そこはともかくとして。君は実戦的な知識は豊富だけど、意外と基礎的な部分に欠けるところが多い。いかにレニン殿に師事していたとはいえ、ほぼ独学では仕方ないけれどね。とにかく、それを補うにもいい機会だ」
「……で、でもそんな……学院に入ってる暇なんて」
「いくらでもあるさ。君はまだ十四になったばかり。詠術士を目指す子だって、まだ学び舎で修練を積んでいる時期だよ」
「……どうして? ……急にそんなこと……メル、私のことが邪魔になったの」
「ちょっ、痴情のもつれみたいなことを言わないでくれ。逆さ。君には私の従者として、より高みに達してもらう必要がある。自分で言うのも何だが、並の者に私の片割れは務まらない。今のうちに基盤を固めてもらいたいんだ。これから先も、ずっと二人でやっていくためにね」
それは確かに、一理あった。
メルティナという至高の使い手の相棒であり続けるなら、レノーレはもっと精進しなければならない。
「……でも……やっぱり、そうなると……神教会の女子学院?」
神詠術について修めるとなると、そこ以外に選択肢もない。尋ねるよりは確認の意味での問いかけだったが、
「いや。君には……レインディールにある、ミディール学院に留学してもらいたいんだ」
……レインディール? どうして外国? ミディール学院? 聞いたこともない名前。
さすがのレノーレも言葉を失うが、メルティナは予期していたのだろう、その理由について懇切丁寧に説いていく。
「まず率直に言って、君はバダルノイスの学院では正当な評価を得にくいだろう。レニン殿の一人娘であり、元・宮廷詠術士という経歴を持つからね。その色眼鏡は、どうしたってついて回る。君をしっかり勉強させたいのに、きちんと評価されないのでは意味がない」
そのため、国外の……レノーレを知る者がいない学院でなければならない。
「それでね、このミディール学院……なかなか珍しい、神詠術の専門校なんだ。他にはバルクフォルトのリズインティ学院なんかも候補となりうるけど……さすがに遠すぎる。とにかく、だ。このミディール学院には、各地から優秀な詠術士の卵たちが集ってくることだろう。いかに君とて、うかうかしていられないはずさ。君の実力を向上させるには、これ以上の場所はない」
外国という条件で一番近い学び舎がここなのだそうだ。
「……で、でも。……その間、母さまは……」
「ウェフォッシュがいる。医師だっているし、ついでに私もいる。心配はいらない」
「……でも……でも……」
自然、レノーレは理由を探していた。
留学『しなくてもいい』理由を。
「ねえ、レン」
静かな、凪いだメルティナの声。
「君もそろそろ、自分のことに目を向けるべきだ」
「……どういう、意味」
「そのままの意味だよ。君はずっと、レニン殿の期待に応えることだけを考えてきた。そろそろ、自分のやりたいことを探してもいいと思うよ」
「……私のやりたいことは、母さまを喜ばせること」
「それは君にとって、『やらなきゃいけないこと』だ。幼い頃から己に課してきた使命……君の心に根差す支柱と呼んでもいいだろう、それを否定するつもりはない。レニン殿は君にとってたった一人の……あ、スヴォールンもいるけどまあ……肉親だ、大いに結構」
一歩ずいと詰め寄ったメルティナは、どこまでも優しい瞳で言う。
「自分のために。レノーレ・シュネ・グロースヴィッツという一人の人間が幸せになるために、他にも大事なものを見出してほしい。私は、そう思う」
「…………、メル……」
どこまでも自分のことを考えてくれている。
それでも……少し、引っ掛かっていた。
確かに、友達が欲しそうな素振りを見せたこともあったかもしれない。鋭い彼女は察したかもしれない。
だが……メルティナはどうして急に異国への留学を薦めてきたのだろう、と。やや不自然な印象を拭えずにいた。