456. 絶凍の記憶 1
「……はっ、はぁっ……」
家と家の合間。物陰に隠れながら、レノーレは息を潜めた。
「どこに行った?」
「まだ近くにいるはずだ、捜せ!」
表通りから響いてくる声に耳を傾けつつ、乱れた呼吸を整える。
(……ここは……)
あまり訪れたことのない区画だったが、周囲の景観から概ねの予測はつく。
(……ここはミルケルム通りの端。……それなら……)
ようやく半分。
目的の脱出口まで、残り二キーキル。
ここからまだそれだけの距離があると思うと、気が遠くなりそうだ。
加えて――上手くたどり着けたとして、脱出口付近には兵が展開されているだろう。
「……、」
建物の合間から覗く空を仰ぐと、雲で覆われた天はただ沈黙していた。今は、ちらついていた雪もすっかり収まっている。とはいえ、数分後にはどうなっているか分からない。
家々の隙間を縫うようにして、ただひたすらに北西を目指す。
メルティナの心配はいらない。間違っても捕まるようなことはない。だが、
(……あそこで……あの空き地で待ち伏せてたのは、『彼』じゃなかった)
事前に地図を見ながら立てた予測。かの遊撃兵たる少年はあそこでレノーレたちの前に現れる――と考えたが、そうではなかった。
それなら、
(……今、どこに……)
彼は別の場所にいる。そしてきっと、ベルグレッテも。
残る追っ手の中、レノーレとしては真正面から対峙してはならないのがこの二人。あとは実戦に優れた通称・白士隊の兵士たち。
見つからないよう、足音と息、気配、全てを殺して物陰から物陰を渡り行く。
しかし今は昼間。そしてこちらを捜す多数の兵士が展開している状況。
「いたぞ! こっちだ!」
「……っ」
一度も見つからずに逃げ切るのは不可能だ。
凌ぎ、倒し、振り切り、隠れる。
ただひたすらに、これを繰り返して進んでいくしかない。
空は下界で起こっている人と人との小競り合いを傍観するかのごとく、沈黙を保っていた。
「将来、王宮に仕える立派な詠術士になりなさい。母さんみたいにね」
国一番の宮廷詠術士である母レニンのその言葉は、幼き日のレノーレにとって何よりも大きな指標となった。
「はい、かあさま!」
明るく無垢な性格だったレノーレは、母の喜ぶ顔が見たい一心で修業に励み、詠術士としての才能を着実に開花させていった。
机上の理論など役に立たぬとばかり、実践的な知識や立ち回りを重点的に教えられた。決して楽ではない修業の日々だったが、苦しいだとか、やめたいだとかは思いもしなかった。
難しいことを成し遂げたときには、母が褒めてくれる。その笑顔を前にすれば、つらさなどあっという間に吹き飛んだのだ。
「かあさま、大きなつららが作れました!」
「かあさま、少しだけ吹雪を起こすことができました!」
そう報告するたび、母は自分のことのように喜んだ。そんな母の笑顔こそが、少女にとっての全てだった。
詠術士としての技量が高まっていくことなど、副次的なものにすぎなかった。母に褒めてもらいたい一心で修業に打ち込み、それが結果として少女の成長に繋がっているだけだった。
「母さま、本日付けをもって正式にバダルノイスの宮廷|詠術士となりました!」
「母さま、このたび二つ名を授かりました。『凍雪嵐』……古の偉大な氷精の名をいただけるなんて、この上ない光栄です……!」
そんなレノーレの活躍を、レニンは自分のことのように喜んだ。
「今日は司祭さまにお褒めいただきました。えへへ」
「今日は私の描いた似顔絵がきっかけで、手配犯が捕まったんですって」
報告するたびに喜んでくれる母の顔が見たくて、ひたすらに仕事をこなす毎日。
幸せで、不満なんて何ひとつなかった。
街を歩いていると時折、純白のローブを着た同じぐらいの年齢の子たちとすれ違うことがあった。キュアレネー神教会の学院生だ。
とても楽しそうに話している彼らを見ると、少しだけ……本当に少しだけ、羨ましいとの思いもあったりする。これまで、友達と呼べる存在ができたこともなかったから。
だが、いいのだ。自分には母がいる。
それに彼らが学ぶようなことは、とっくの昔に修めている。……だから行く必要もない。学校と呼ばれる場所には。
「あれ、なんで……?」
宮廷詠術士となって半年。
それが最初の異変だった。ある任務から帰ってきて、部屋で荷物整理をしていたときだった。
「おかしいな、なんでないんだろ……」
予備のために持ち歩いていた記録晶石が三つ、全てなくなっている。使うことはなかったので問題はないのだが、どこでなくしてしまったのか心当たりがない。そもそも取り出していないのだから、落としたりすることもないはずなのだが……。
任務には他に先輩となる二人の宮廷詠術士が同行していたため、彼女らにも尋ねてみたのだが、
「ううん? 知らないけどぉ?」
「あはは、なくしちゃった? 優秀なようでいて、まだ子供なのねー。レノーレちゃん」
そのときは特別おかしいとは思わなかった。
そう。彼女の言う通り、まだ子供だったのだ。
その日、ユーバスルラの街近郊にCランクの怨魔の出現報告があり、レノーレと同僚の詠術士、そして数名の兵士が現場へと赴いた。
「レノーレ、私たちが補佐するから。あなたは迂闊に撃たないで、詠唱に集中して。強力な一撃、頼むわよ。ええ、全力で思いっきり……ね」
その先輩の名は、アンドロワーゼ・レ・オーランダル。バダルノイスの中でも屈指の名家の令嬢だった。
彼女の指示に従い、前衛での戦闘を見守りながら、後方で詠唱に力を注ぐ。
「今よ、レノーレ!」
「はいっ!」
全力の吹雪で、敵を吹き飛ばす。前方へと手をかざし、
「いけっ――!」
力を解き放ったその瞬間、
「――――、え?」
ガキン、と凍りついた。巻き起こった吹雪。それが、レノーレの着ているローブの袖を凍らせた。
それだけに留まらない。放ったのは全力の一撃である。吹雪の余波はレノーレの右半身を――正確には着ていたローブを瞬く間に覆い、
「……っあ!?」
服を蝕むように発生した氷。幾重にも尖ったそれが、レノーレの腕に突き刺さった。
「うぐっ……!」
原則として自分の神詠術で、自身が傷つくことはない。しかし氷属性はある意味で例外といえるだろう。物理的に触れて重みも持つ氷という物体は、自身に接触すれば冷気は感じずとも固体としての性質を返す。つまり先の尖った氷を生み出し、それが突き刺さったなら、術者であっても傷を負う。
服に張りついた氷ならより顕著で、よほどの達人でもなければ術者の制御から離れてしまうため、その冷たさも容赦なく本人を襲うのだ。
「…………、」
全力で放ったその一撃が結果として自身をも巻き込む形となり、強烈な冷気を浴びたレノーレの意識は急速に遠のいていく。
『自分の放った術で、自分の着ていた服が凍りついた』。
その意味を考えながら、レノーレの思考は深遠の底へ落ちていった。
「あっははは、レノーレも案外ドジなのねぇ。ローブの護符が剥がれてたなんて。気をつけなきゃダメじゃない」
アンドロワーゼがころころと笑った。
護符。自分の身に着けているものを自分の発動した術から守る、詠術士としては必須のお守りである。
この世界に生れ落ちた人々……特に詠術士とかかわりの深い家においては、物心ついたらまずこの作り方を学ぶ。
服に縫いつけるのが一般的だが、そこは身に着けるものによって臨機応変に対応する。
今回の一件を受けて、母レニンは顔を青くして娘の身を案じてくれた。「あなたの命にかかわることなのだから」と。余計な心配をかけてしまった。
かの『ペンタ』ですら、己の力の使い方を知らずに自滅することがあるのだ。古くは『神の選定』などと呼ばれており、例えば炎使いが護符を身に着けていなければ、自身の服に飛び火してしまい、そのまま本人も炎に包まれる。
そういった事態を防ぐための護符。詠術士にとって、命綱とも呼べる大事なもの。
だから、ありえないのだ。
うっかり忘れていただとか、ましてや知らないうちに剥がれていただなんてことは。
「レノーレはいいわよねぇ。国一番のレニン様の娘だもの。将来が約束されてるようなものでしょう? ……こないだみたいな失敗があったとしてもね。フフフ」
……気付くのが遅れた。
ただ前を向いて、ひたすらに頑張る。それでいいと思っていた。
しかし。
前を向いているだけでは、後ろから足を引っ張ろうとする手は見えないのだ。
私物がなくなることも珍しくなくなり、ひどいときは階段を下りる際に後ろからあからさまに術をぶつけられた。咄嗟に踏みとどまって振り返ると、誰もいない。それも最初のうちだけで、そのうちその相手は隠れることもしなくなった。
「あっ、すごーい。さすが期待の星。階段から落ちたりしないのねぇ」
段上から見下ろし、アンドロワーゼは笑った。
「いや、誤解しないで? 実戦練習よ? ほら、いつどこから攻撃が飛んでくるか分からないじゃない? アハハハハ」
いつしか、彼女だけではなくなっていた。
あることないこと振り撒かれ、気付いたときには孤立させられていた。
後々知ったことだったが、元々皆、不満があったそうだ。
史上最年少、わずか十一歳で宮廷詠術士となったレノーレという存在、そのものに。
……ただ前を向いて、ひたすらに頑張る。それでいいと思っていた。
けど、それだけでは見えないものが多すぎた。
でも、どうだっていい。
母さえいれば、レノーレ・シュネ・グロースヴィッツは進んでいける。
この世で自分を認めてくれるのは、母だけでいいのだ……。
「何よ、うるさいわね。自慢のつもりなの?」
宮廷詠術士となって一年が過ぎたある日。
いきなり母から浴びせられたその言葉は、少女の心を深く抉った。身体の中の見えない何かを、バッサリと斬られたような感覚。
いつものように褒められたくてしたはずの報告。
ここのところは宮殿での悪質な嫌がらせを忘れたい一心もあって、ちょっとしたことでもいいことがあれば母に報告していた。……もちろん、嫌なことは全て伏せて。
けれど――母は、喜ぶどころか顔を歪めていた。
思わず立ち尽くした娘を見た母は、我に返ったようにハッとして、
「ひ、ひどいことを言ってごめんね。母さん、どうかしてたわ……」
と、彼女を抱きしめた。
少女はこのとき、母も全能の存在などではなく、一人の人間であることに気付いた。機嫌がいいときもあれば悪いときもある。自分の都合だけで報告するのはやめよう、と。
母を心から愛し尊敬するレノーレは、当然のようにそう考えた。
嫌なことは、自分ひとりの心の中にしまっておけばいい。自分が頑張って耐えれば、それでいい。
その後しばらく、母と一緒にいてようやく気付いたことがあった。
レニンという詠術士は、明らかな不調に陥っていた。集中力を欠き、細かな制御などが上手くいかなくなっていた。
しかし、それをレノーレに言うことはなかった。
娘に対し、弱い姿など見せられない。国一番の宮廷詠術士として、情けない姿は見せられない。そんな思いからだろう。
その姿を見たレノーレの中に、勇気が湧いた。
母だって、つらいことがあっても弱音を漏らさずに頑張っている。自分も、もっとしっかりしなければ。
嫌がらせが何だ。あんなの、どうってことはない……。
「レノーレ。少し黙りなさい」
やがて母は、娘の言葉に苛立ち以外の感情を返さなくなった。
内容を問わず、話しかけてくる娘に対して嫌悪感を示すようになるまで、さほど時間はかからなかった。
「……ごめんなさい、母さま」
いつしか少女からも明るかった面影は消え失せ、相手の顔色を窺うような、不自然な間が生まれる話し方をするようになった。
それはそれで、母からは「根暗」「何を考えてるか分からない」「言いたいことがあるならはっきり言え」と不評だった。
結論をいえば、母は精神を少しずつ病んでいた。
女手ひとつで娘を育てていた気苦労もあったろう。国一番として規範を示さねばならぬという重圧もあったのだろう。
「私に構う暇があったら、術の精度を磨きなさい。聞いているわよ。先日、ブリニトン伯のご依頼で粗相があったそうね」
違う。それは、『あいつら』が仕組んだことで……。
喉元まで出かかったそれを、必死で飲み込んだ。母に余計なことは言えない。言いたくない。
「いい? いつかのように護符が剥がれていたなんて大失態があったら、信用にかかわるのよ。しっかりしなさい」
あのときのように、「あなたの命にかかわる」とは言ってくれなかった。
でも、構わない。
今は少しでも母が持ち直すよう、頑張らなければ。
母がいらぬ重圧を感じなくて済むよう、結果を示して安心させなければ……。
「レノーレ君、このところ調子が悪いようだが」
「……申し訳ございません」
背中の左側、脇腹寄りの部分に手を当てつつ、レノーレは目を伏せた。
立派な顎ひげをしごいた大臣が、やや言いづらそうに口にする。
「うむ……このまま前線に出続けて、君にもしものことがあっても困る。こちらとしても、レニン殿に申し訳が立たなくなるのでね」
アンドロワーゼを中心とした同僚たちに邪魔され、仕事が上手くいかなくなる頻度も増えている。
先日は屋敷に兄が珍しくもやってきて、ありがたい小言を残していった。グロースヴィッツの名に恥じるような真似はするなと。
「レニン殿のご様子はどうかね?」
「……はい。……やはりまだ、不調が続いているようでして……」
「うむ。母娘揃って、本調子にはやや遠いか……」
「……い、いえ。……まだ。……まだ、頑張れます」
「そうだな。実は今、とある人物から要請を受けていてね」
「……はい」
「少々、宮廷詠術士の手伝いが欲しいそうなんだ。それもとびきり優秀な、ね」
不器用に片目をつぶった大臣が、まるで悪戯小僧のように無邪気に笑う。似合わない仕草だが、どこか愛嬌を感じさせる表情だった。
「せっかくだ、君に受けてもらいたい。……うむ。いや、きっと驚くぞ」
とある街外れにあるその屋敷は、まるで氷の城だった。
白く荘厳で、氷輝宮殿やスヴォールンの屋敷ともまた違っていた。
まるでおとぎ話に出てきそうな、美しい品格溢れる建物だった。
「…………、……すごい」
背中の左側、脇腹の辺りを押さえながら、ただ感嘆の息だけが漏れる。
呆然となって見上げていると、扉を開けてその人物が現れた。
外見年齢は二十歳ほどか。それは純白の化身。抜けるような肌も。背中まで届くサラリとした髪も。猫目がちで大きめな瞳も。その縁を飾る長い睫毛も。均整の取れた華奢な身体も。纏うゴシックドレス調の衣服も。
神秘的な雪の精が現れた。そう錯覚するほどの。
そんな彼女は、こちらの姿を認めるなりにこやかに笑う。
「あら、あなたが今回の護衛さん? 随分と可愛らしいお嬢さんですのね。では、よろしくお願いしますっ」
「……は……は、はは、はいっ。……私は、レ、レノーレ……シュネ・グロースヴィッツと申します……!」
「ふふ。そんなに緊張しないで。よろしくね、レノーレさん。――私は、メルティナ・エル・ディ・スノウと申します」
優雅な一礼。名乗られるまでもない。
このバダルノイスで、彼女の名を知らない者なんていないのだ。
これこそが、救国の英雄と称されるメルティナとの出会いだった。