455. ペレイデス
皇都イステンリッヒ最北西部、高々とそびえる外壁のすぐ内側。
広々とした平地で、オームゾルフは曇り空を見上げていた。周囲には、三十名弱の兵士たちが主を守る形で展開している。
すぐ足下には、蓋の開いた流雪水路の入り口がひとつ。もちろん今は水も流れていない。
「…………」
『ここ』が最後。
街の北西区画に張り巡らされた水路は、最終的にこの場所へ集束する。ここを通過した後、外壁に設けられた排出口から街の外を流れる川へと放出される。
レノーレもメルティナも、水路を使って皇都からの脱出を狙うのであれば、必ずここを通らなければならないのだ。
そして兵団は、先んじてこの場に到着することができた。
長い銀の髪をかき上げつつ首元に指を添えた聖女は、駆け寄ってくる人影に気付きそちらへ視線を送った。
息を切らして走ってきたのは、一人の兵士。
「報告いたします。前線より、メルティナとレノーレの分断に成功したとのことです」
「……承知しました」
二人が一緒では連携が厄介であるため、まずは切り離す。それは無事になされたらしい。もっとも、『彼』がその力を発揮すればここまでは当然のこと。
メルティナはともかく、レノーレ一人ならば兵団は実力で制圧することができる。
ゆえに兵団はこれより、レノーレを追うことにその重きを置く。
「…………」
そして――
(次の手段……これは正直、私個人としては気が進まないけれど……そうも言っていられません)
二人が離れ離れとなったことで効果を発揮する策がある。これはベンディスム将軍が発案した作戦。自分のような小娘とは違う、戦場で活躍した老練の兵士ゆえの戦術。
しばし時間を置いた後、これを実行する。
(さて……)
ひとまずレノーレ一人となったことで、彼女が水路へ飛び込む確率は格段に下がった。各所に設けられている水路の金属蓋は重く、とても少女一人の腕力では持ち上がらない。術で破壊しようにも頑丈で、逃亡中に狙うには時間がかかり音も出る。
となると、水路と地下道に通じている非常用の入り口から侵入するしかない。
が、これは数が少ないため兵士で固めることも容易。レノーレの実力では敵わない白士隊を複数名配置しておけば封鎖は完了する。
できればメルティナが手間取っている間に、レノーレへの対応を完了したい。
「…………」
鈍色の空は、先ほどから大粒のぱさついた雪をわずかに零すのみ。
ここで本降りになり流雪水路への放水が開始されれば、いよいよ彼女らの脱出劇は完全な失敗に終わる。
例えば王としての権限を利用し、非常事態として手動で制御塔を起動、水を流してしまうこともできる。
だがそれは、本当に最後の手段だ。
いかに彼女らを追い詰めるためとはいえ、雪も降っていないのに放水することは避けたい。機械にかかる負担も決して軽くないのだ。
そして水路に水が流れれば確かに彼女らの脱出劇は失敗となるが、その後どういう行動に打って出るか予測がつかない。
やるのであれば、今ではなくもう少し後が最善だ。
今の段階で完全に退路を絶てば、相手は早々に諦めてしまう。もっと引きつけてから。わずかな光明を残しておびき寄せることも肝要だった。
(……氷神キュアレネーよ。私は……)
不安がないといえば嘘になる。
全てが計画通りに進む保証などどこにもない。何しろ、相手はあのメルティナとレノーレ。
オームゾルフは灰色の天空に向かって、両手の指を組み合わせる。
少量の雪をちらつかせる神の御座は、まるでキュアレネーが自分とメルティナたちのどちらに味方をしようか決めあぐねているようにも見えた。
「やはり……始まったようですね……」
窓の外を眺めるグリーフットが、いつものように悲哀の篭もった声で呟いた。
「おう、いよいよか……」
咥えたタバコに火をつけたラルッツも、立ち上がって窓辺へと寄っていく。
安宿の二階から見下ろす皇都イステンリッヒの街並み。真昼の往来の中、北西方向へと走っていく複数の兵士たちの姿。ここからでも、物々しい雰囲気が見て取れる。
(……さて)
いずれ崩れることが確定していた膠着状態。その瞬間がついに訪れた。
『敵はやがて本性を現します。この事態が進展し、何も隠す必要がなくなった瞬間に――』
聡明なレインディールの少女騎士が告げたその推測。
(どうなるかね……)
果たして、これからの現実はその軌跡をなぞるのか否か。
「う……え、えぇと……俺っちたちは、どうすればいいんだっけ?」
あたふたとする弟分のガドガドに、
「どうもこうもねえ」
やることなど決まっている。
ふーっと煙を吐き出したラルッツは、抑揚のない声で告げた。
「――この間に、とっとと皇都を出るだけさ。巻き込まれちゃ、たまらんしな」
氷輝宮殿。
バダルノイスの王城たるその巨大な建造物は今、かつてないほどの静寂に包まれていた。
「……静かだな」
「ああ」
門前に立つ正規兵二人は、緊張感の欠けた声でそんなやり取りを交わす。
それも無理はない。街では今頃、大捕り物劇の真っ最中だ。普段この宮殿を出ることのない、オームゾルフまでもが兵を率いて出陣している。
いわば、二人は留守番だった。
とはいえ、誰かが請け負わなければならない役目である。決して、戦力として不足だから居残る羽目になった訳ではない。
例えば、手薄となったここに侵入しようとする不届き者がいないとは限らないのだ。
パァン、と高い快音が背後から響いてくる。
この宮殿に勤めて長い者は、それでいちいち振り返ったりはしない。屋根から滑り落ちた雪塊が地面を叩くそれは、別段珍しいものでも何でもないのだ。
「……ん」
そんな彼らは、正面からやってくるその人物に気付き注視した。
遮るもののない宮殿へ続く道。
まっすぐこちらへと向かってくるのは、一人の女だった。年齢は二十歳そこそこか。長い金髪のウェーブヘアと彫りの深い顔立ち、翠緑の瞳が美しい、色香溢れる女性。へそを丸出しにした黄緑色の短めのベストと茶色い超ミニなレザースカート姿。この寒さ厳しいバダルノイスでそんな格好をしていることからも明らかだが、旅人だ。肩には大きな鞄を下げている。
近くまで来て気付いたが、見覚えのある顔だった。
目の前までやってきた彼女は、笑顔でひらひらと手を振ってくる。
「お疲れさまでーす。ええと、入っても問題ないわよね?」
客と知らされている人物だ。様々な事情により常在している訳ではないようだが、まあ問題はない。一人が「どうぞ」と快諾すると、彼女は「どうもー」と中へ入っていく。
後ろ姿を見届けて、もう一人がぼやいた。
「……あの女、作戦には参加してないのか?」
「そのようだな」
ともあれ、瑣末事だ。
自分たちは、己の務めを全うするのみ……。
(……ったく)
自身にそう言い聞かせてはみても、やはり複雑な思いが胸に去来する。兵たる者、やはり大きな仕事を成してこそ。留守番に不満がないといえば、それは嘘になるだろう。
兵士も人の子、そうして士気が下がることもある。
――何事が起こるはずもない、平和で退屈な監視を続けること数十分。
そろそろオームゾルフたちも現地に到着し、作戦が開始されている頃合いだろう。
「降るかな……」
「どうだろうな……」
厚い雲が立ち込めた空は、今は何も齎すことなく沈黙している。
「だが、オームゾルフ祀神長と罪人レノーレ……どちらに神が味方するかなど知れている。『降る』だろうな」
もっともらしく言ってみたが、そもそもこの地はそういう気候だ。本日の天気に関しては、予想士もそう告げている。的中の目はさほど高くもないが。
「あの、ちょっといいかしら?」
思ったより間近から声をかけられ、二人はビクリと慌てて反応した。
振り返ると、かれこれ二十分ほど前に宮殿に入っていった女がすぐ後ろに立っていた。
「な、何事かな」
接近に気付かぬなど、何たる不覚。その焦りと間近で感じる女の甘い香りにうろたえつつも、二人はピンと背筋を正した。
「えーと、あそこの大広間の薪をちょっと倒しちゃったんだけど……」
申し訳なさげに手を合わせる女の視線を追うと、入ってすぐの広間の片隅に積んである薪の山が崩れて散乱しているようだった。下に分厚い絨毯が敷いてあるため、ここまでその音が聞こえることもなかったようだ。
「ああ、片付けますよ」
どうせ暇な身である。無為に突っ立っているより、他に何かすることがあったほうが気も紛れる。
「すみませーん、お手を煩わせちゃって」
女と兵士ふたりで、崩れた薪を拾い上げる。三人で取りかかったため、ものの数分で片付いた。
「いやー、ありがとうございましたっ。ではでは失礼」
ピッと手を振って宮殿を出て行く女の背中を眺める。
「……旅人女も悪くないな」
「……うむ」
「…………いい匂いするしな」
「…………うむ」
ちょっと寂しい会話を交わしつつ、すぐ門の外の持ち場に戻る。
「ん?」
今しがた出ていった女のずっと先に、女中らしき格好をした人物の後ろ姿があった。どうやら三人で薪拾いをしている間に宮殿から出て行ったらしい。
門番としては見逃してしまう形となったが、まあ問題はない。怪しげな何者かが内部に入り込んだ訳ではないのだ。使用人が買い物にでも出たのだろう。
それからも二人は、誰かがやってくることもない門での退屈な仕事を続けるのだった。
「チョロかったわね、作戦成功~」
「ふう、ふう……」
「ああ、急がせてごめんなさいね。大丈夫かしら?」
「ええ……。ふふ……どうやら私は、あまり運動が得意な人間ではなかったようですね……」
白い息を吐きながら自嘲気味に微笑むのは、女中の服を着込んだレニン・シュリエ・グロースヴィッツだった。
肩を上下させる彼女の背後には、遠景でも大きさと厳かさの見て取れる氷輝宮殿が鎮座している。
「まっ、ここまで来ればもう急ぐことはないわ。滑って転んでも困るし。ゆっくり行きましょ」
先導する女はにっと微笑む。
(ふふ。この時を待ってたのよねー)
広間に積まれていた薪の山をわざと崩し、門番と一緒にその片付けをしている間に、女中姿のレニンを通らせた。
兵士が追ってくる様子もない。
というより、全く気付いていないだろう。
たった今――レニン・シュリエ・グロースヴィッツが、宮殿から連れ出されたという事実に。
大半の兵が駆り出された宮殿。本来であれば監視がついているこの人物についても、さすがに警戒が薄まる。
部屋の位置はベルグレッテから聞いていた。
自分自身も使用人のふりをすることで、存外に容易く近づくことができた。
「と、ところで……」
息も整わぬうち、レニンが言葉を紡ぐ。何より、それが最重要事項であるかのように。
「これから、あの子に……レノーレに会わせていただける、というのは本当なのでしょうか?」
その問いを受けて、女は目を薄く細めた。
「――ええ。もちろん」
長く渦巻く金髪をかき上げて。
「すぐに再会できますわ。すーぐに、ね」
まんまと宝を盗み出した盗掘者さながら。
目的を果たしたジュリー・ミケウスは、ただニヤリと笑うのだった。




