454. 到来
――浄芽の月、十三日。時刻は午後一時を回ったところ。
天候はいつも通りの雪。とはいえ大した降りでもなく、対象の監視に支障はない。
(本降りにならなければ助かる……いや、)
薄暗い物陰に潜みながら。
いっそ降ってくれ、と疲労困憊の兵士は曇天を仰いだ。雪が多く降れば、流雪水路が使われる。流雪水路が使われれば、レノーレたちは脱出できなくなる。となればその間は少なくとも、気を張り詰めて監視をせずに済む。
(……などと、怠慢をしちゃいけないんだろうが……)
レノーレたちが見つかって早五日。
厳しい雪と寒さの中、手練の彼女たちに見つからないよう監視を続ける。外で怨魔や無法者と対峙することを考えれば、安全な壁の中での任務。にもかかわらず、ここまで困難な仕事が今まであっただろうか、と思ってしまう。
「!」
早く交代の時間にならないだろうかと考えていた兵士は、慌てて双眼鏡を握り直した。
レノーレとメルティナが宿を出てきたからだ。変装こそしているものの、
(また、白昼堂々と……!)
いつ本格的に降ってくるかも分からない現状、脱出ではないはずだ。
とはいえそこは仕事。通信術を飛ばし、他の地点で同じように隠れている同僚たちへ注意を促す。
仲間の一人が、通信の向こうでつまらなげにぼやいた。
『買い物か……もしかしたら、隠れ家を変える気かもな』
「だな……。二人は少なくとも五日はここに連泊してる。そろそろ頃合いだ」
となれば、より北西部の脱出口に近い宿を探すつもりか。
「どこかあったかな。向こうにとって都合のいい宿は」
はっきり誰に言った訳でもなかったが、ベンディスム将軍がその呟きを拾った。
『いや、ここより北西部に宿はない』
「えっ」
『今の……あの宿で機を窺っていたことは間違いない。あそこを放棄しても、他にいい条件の場所はないはずだ』
ということは、やはりただの買い出しか。
二人はゆっくりと歩き、建物の角へと消えていく。
「……そっちに行ったぞ、ハルケン。頼む」
『了解』
通信を繋いだまま仲間に知らせ、大きな息をつく。
――異変は、十数分ほどが経過した頃だった。
『……商店街を通過……。いや、おかしいぞ』
ハルケンの訝しむような声が聞こえてくる。
「どうした?」
『……道を……外れない』
「何だって?」
『目標両名とも、北西方面へ進行中だ……。脱出を図る場合に通ると思われる順路を、そのまま通過している』
どういうことなのか。
『分かった。そこから更に五百マイレも進むようなら、再度連絡を入れてくれ』
ベンディスム将軍の落ち着き払った指示が飛び、
『了解』
通信の向こうのハルケンが応じる。
「二人は脱出口へ向かっている……? いやしかし、そんなまさか……こんな昼間に堂々となど」
思わず天を仰ぐ。雪は相変わらずちらつく程度。いつ降ってくるかは分からない。天候予想士の告知では、まず間違いなく『降る』との見通しだ。つまり、流雪水路はほぼ確実に起動する。
『……例えばの話だが』
思案するようなベンディスム将軍の声。
『ここから先……そうだな、小一時間程度でいい。雪が降らなかったとしたら?』
それは自己に対する問いだったのかもしれない。
『……流雪水路が使われさえしなけりゃ、昼間だって脱出は出来るんだ』
「そっ……」
それは確かにその通りだ。だが、いつ水路が起動するか……即ち、いつ雪が降り始めるか分からない。
そしてこれは、降るか降らないかの単純な二択ではない。どちらかといえば、降る。バダルノイスの……皇都近郊の天気とは、そういうものだ。そんなこと、この国に住む者ならば子供だって知っている。
少なくとも自分が同じ立場に置かれたなら、絶対にそんな選択はしない。
早く答えを確かめたいとの思いもあって、やや焦り気味に通信の波紋へと囁く。
「……お、おいハルケン。二人の様子はどうだ」
向こう側からの応答はない。
あまり大声を出して、監視対象に気付かれては元も子もない。少しだけ声量を上げて、
「おい。ハルケン、二人はどうなってる?」
しかしやはり、返事がない。
すぐさま動いたのはベンディスム将軍だった。
『……二班、三班、応答せよ。…………』
答えが返ってこない。ハルケンや、その近くで待機しているはずの二班、そして三班から。
「……ま、っ、まさかっ……!」
その懸念を声にするより早く、老練のベンディスム将軍が動いた。
『――各員、備えろ! 目標が脱出を図ったと判断する! 予定通りに展開せよ!』
「……承知しました。では、よろしくお願いいたします――」
ベンディスム将軍からの通信を切ったオームゾルフは、読んでいた本を閉じてゆっくりと席を立った。
メルティナとレノーレが移動を開始。見張りの兵を沈黙させた。
その報告を受けてなお、オームゾルフは自分でも驚くほど冷静だった。深呼吸をひとつ。
――時は来た。
上着を羽織り自室を出て、廊下を歩きながら通信術を展開する。その相手は待っていたかのように素早く応答した。
『リーヴァー、こちらミガシンティーア』
「リーヴァー、オームゾルフです。今ほど、二人が動き出したと連絡が入りました。ベンディスム将軍の報告によれば、まず皇都からの脱出を狙っていると見て間違いないとのこと。先日もお話ししましたが……今回ばかりは、あなたにも協力を要請いたします。構いませんね?」
『ええ、構いませんとも。ククク』
「……。では、よろしくお願いいたします」
通信を切りつつ、オームゾルフは内心で胸を撫で下ろした。
コートウェル地方の怨魔討伐の件を断ったミガシンティーアだったが、今回のレノーレとメルティナの作戦への参加要請についてはあっさりと快諾した。今になって気まぐれのように断ってくることもなかった。
(彼が何を考えているのかは、やはりまるで推し量れませんが……)
それでも可能な限りの戦力を投入してこの作戦を成功させたい現状、バダルノイスでも屈指の実力者であるミガシンティーア、そして彼らに忠実な兵たちの助力が得られることは大きい。
足を速めながら、オームゾルフは次なる連絡先へ通信を飛ばす。しばしの間を置いて、
『……リーヴァー、こちらゴトフリー診療所』
「リーヴァー、オームゾルフです」
名乗ると、向こう側から息をのむ音がかすかに聞こえた。鋭い彼女のことだ。声音から、用件を察したのだろう。
「ベルグレッテさん、たった今ほど彼女らが動いたとの知らせが入りました。対応は可能でしょうか?」
『……! もちろんです』
ここ数日の間、いつ訪れるかも知れなかった『この瞬間』。落ち着かない時間を過ごしていただろう彼女も、しかし芯の通った強い肯定を返す。
「私もこれから兵を率い、現場へ向かいます。皆さんは、事前に取り決めた通り……状況に応じ、兵たちの補佐をお願いいたします。……あとは……現地にて」
『……承知しました』
必要最小限の会話に留め、ロビーへと降りる。
すでにベンディスム将軍から報告を受け手配されていた兵たち三十人が、敬礼をもってオームゾルフを迎えた。
曲がりなりにも一国の主たる聖女、その護衛を務める者たちである。その全ては教団から移籍した元僧兵らだ。『オームゾルフ派』などという区分けで呼ばれていることも、オームゾルフ自身知っている。
「祀神長、準備は整っております。いつでも出発可能です」
「ありがとう。早速向かいましょう」
部隊の最後尾につき、宮殿を出る。真っ先に聖女を出迎えたのは、身を切る寒さ。そして鈍色の空。
窓越しでない外の世界は、濃い灰色の雲の下にあった。
(……足掻いているのでしょう? 私を傷つけないために。あなたは、いつだってそうでしたから。…………けれど)
この街のどこかにいる彼女へ、答えの返らない問いを投げて。
そして。
「……信じたのですね。『降らない』と」
オームゾルフは誰にも聞こえない声で呟く。
「ならば、私も信じましょう」
小さく。しかし、この上なく強く。
「――メル。ここであなたを確実に止められる、と」
この作戦を成功させるために。この事態を終わらせるために。
オームゾルフは静かに、通信術を紡いだ。
「っと! さすがに手厚いね」
曇天の下。舗道の隅で、メルティナは声を弾ませて身構える。
周りで自分たちを監視していた兵を狙い撃って沈黙させると、すぐさま五人の兵が追加で湧いてきた。
彼らはまっすぐ突っ込んでくるような真似はせず、建物の後ろなど遮蔽物に隠れて攻撃術を飛ばしてくる。
「よっと」
白い尾を引きながら迫ってくる氷の弾。メルティナとレノーレはそれらを躱し、反撃のために身構えた。
さすがにバダルノイス兵、『分かって』いる。『無刻』相手に、正面から馬鹿正直に向かってくるような真似はしてこない。
「ま、それでも足りないけどね」
両手の人差し指を自らのすぐ足下へ向けたメルティナは、そのまま氷弾を発射。三連射されたそれらは、地面に着弾するなり反動で各々最寄りの街灯へ飛んでいく。次々と鉄柱に当たり、そこから建物の屋根や壁、街路樹へと跳ねる。さらに反射に反射を重ね、
「がはっ!」
「ぐわっ」
最後には兵士たちが盾とする遮蔽物など無意味とばかり、彼らを後ろから撃ち抜いた。その間、わずか三秒。
「さ、行くよレン」
「……うん」
ここから北西部の排出口まで約三キーキル半。
異変に気付いた兵士たちの追走を振り切り、逃げおおせることができるか否か。
……否。
絶対に逃げ切るのだ。
自分たちが負けてしまったら、誰もあの闇を暴くことはできなくなってしまうのだから。
真っ昼間、雪もちらつく程度ということで、人の往来もそれなりにある。
「あそこだ、見失うな!」
「おっと、何だ何だ?」
「きゃっ」
慌てて道を空けた都民たちが、駆け抜けていく兵士たちの後ろ姿を見送る。
「ごめんなさいねー」
レノーレとメルティナが、その少し先で人ごみの間をするすると抜けていく。
その合間、
「しゅっと」
振り向きざまに人差し指を後方へ向けたメルティナが、氷弾を一射。
「ごばっ!」
一直線に飛んだ閃光のようなそれが、間にいる人々の横を次々とかすめる形で通過。そして最終的に、迫り来る兵士の頭へと直撃。彼はそのままもんどりうって転倒した。
「うわっ!? な、何だ!?」
「きゃあっ! い、いきなり人が倒れたわ!」
民衆がざわついて立ち竦む間に、レノーレたちは距離を稼ぐ。
追う兵士たちは信じられないものを見る眼差しで愕然とした。
「こ、こんな人ごみの中で撃ったぞ! 民に当たったらどうするつもりだ……!?」
「いや、ありえん」
「そうだよな、ありえん真似を……おのれメルティナ・スノウ、本当に悪の道に堕ちたのかっ」
「違う、そうじゃない。メルティナは外さん……この往来の中で、確実に俺たちだけを狙い撃ってくる! それだけの技量があるんだ! 皆、散開しろ! この人ごみ、奴にとっては枷にもなら――んぶっ」
声を張り上げたその兵士が、自らの言葉を証明するかのように吹き飛んだ。
「くっそおぉ、ダメだ! 一方的にやられるぞ、ここで追うな! 周りから挟み撃て!」
北西部脱出口まで、残り三キーキル。
「うわっと、やっぱりそうだったか」
驚いた風ながらも、メルティナはまるで焦らず対応した。
何事かというと、道端にいた民がいきなり猛然と飛びかかってきたのだ。つまり彼らは、平服にて民を装っていた兵士。レノーレたちが水路に飛び込まぬよう、道で見張っていた人員だ。
掴みかかってきた一人の手をヒョイと下がって躱したメルティナは、
「思った?」
にこやかに告げる。
「接近さえすれば、私を捕まえられる。そう思った?」
タン、と軽やかに。舞うように歩道を踏んだメルティナ、その足下から爆発するような氷の嵐が巻き起こった。
「ごっ――ぶふっ!?」
至近でまともに浴びた兵士は吹き飛び、辺りに白靄が立ち込める。
そうして視界が悪くなった瞬間、
「今のうちに行くよ、レン!」
メルティナが声高に叫ぶ。すると、
「いかん、逃がすんじゃない!」
「させるか!」
近くに潜んでいた兵士二人が、慌てて飛び出してきた。防御など完全に忘れて、逃げる相手を追うつもりで。
「……あっ!?」
まんまと炙り出された。
そう気付いた無防備な彼らに対して、レノーレが詠唱を終えていた氷術を撃ち放つ。
「しまっ……、がはっ!」
「ぐわ!」
一直線に飛んだ氷の塊を受けた兵らは、為す術なくその場に崩れ落ちた。
「ふっふん、引っ掛かった引っ掛かった。いい連係だ。よっし、この調子で行くよ。レン」
「……うん」
悪戯を成功させたお転婆娘のような笑みに、レノーレは小さな首肯を返す。
そして休む間もなく、駆け抜ける。
「! おっと、ちょっと待った」
ある通りを横切ろうとした刹那、メルティナが珍しく緊迫した声でレノーレを制止した。
「あそこ」
白の『ペンタ』が指差す先、舗道から逸れた街路樹の下に、下水道の入り口があった。そしてそこに、兵士が三人ほど配置されている。
「……なるほど、見覚えのある顔だ。あいつら、白士隊だね」
『雪嵐白騎士隊』に忠誠を誓う一派。バダルノイス兵の中でも特に実戦派が揃うことで知られる者たちである。さすがにレノーレは一見しただけでは分からないが、メルティナには判別できるらしい。
「わざわざ蓋を開けなくても、水路に入れる例外的な場所……そこを、強者たる彼らに見張らせてるってわけだ。どおりで、ここまで遭遇しないと思った」
もちろん、メルティナならば白士隊をも問題なく無力化できる。しかし彼らも音に聞こえた剛の者、ただでやられはしない。こちらが想定した以上に食い下がるか、増援を呼ぶかするだろう。一見しただけでは分からない箇所に伏兵が潜んでいる可能性もある。
つまり、手を出すと損をする公算が高い、ということだ。
「逆に言えば、白士隊のほとんどは下水道の見張りに使われるはず」
「……うん」
腕利きの彼らが下手に動き回らないのなら、二人としても願ったり叶ったりだ。下水道から流雪水路に侵入するという手段は潰えるが、その分だけ追手は一般兵ばかりになるので対抗しやすい。
「さ、行こう」
空の雲がより濃くなる中、百マイレほどの距離を邪魔されることなく突っ切った二人は――
「……メル。……この先は」
「うん、分かってるよ」
街路樹の脇に身を寄せ、前方へ視線を送った。
そこは何の変哲もない空き地。直進すれば、目的の脱出口まで最短距離を進める通過点。
雪は少ない。通り道の短縮として利用する者も少なくないため、近隣住民たちが雪かきを欠かしていないのだろう。
(…………)
レノーレは込み上げる緊張を押し殺しつつ、その周辺の様子を伺う。
……いない。
『彼』のために誂えられた闘技場のようなその場所に、『彼』の姿はない。
この白昼、兵団はレノーレたちの逃走を予期していなかったはず。そもそもベルグレッテたちが王宮で待機していたなら、時間的に人員配置が間に合っていない可能性もある。逃走開始から二十分前後。馬車を飛ばしても際どいところだ。
(……今日はまだ一度も除雪作業がされてないから、馬車が立ち往生することもない。間に合っているかも……どちらとも言えない)
だがどちらにせよ、ここを通らない選択肢はない。
左右から迂回すると、かなりの遠回りになってしまう。それこそ、その間に兵団の態勢が整ってしまうかもしれない。
「大丈夫だよ、レン。誰が来ても私が突破する。行こう」
「…………うん」
迷う時間すら惜しい。レノーレは術をいつでも放てるよう保持し、
「……行こう、メル」
二人は頷き合い、空き地へ向かって駆け出した。
前後に追手の姿はなし。そもそも一般兵では、二人を止められない。彼らにできるのは、せいぜいが時間稼ぎ。
――ならば。
周囲に兵士の姿がないということは、もう時間稼ぎの必要がなくなったのだと。
そう気付いたのは、空き地に踏み入った瞬間。
そこだけ周囲と比べて、やけに寒かったからだ。ゾッとするほどに。
「! レンっ」
これまでにない、極めて緊迫したメルティナの声。
「……!」
レノーレは目を剥いた。
現れた。
空き地の周囲に巡らされた壁。その出口側、これから向かおうとしているその先から。
この場所で、『その相手』は待ち受けていた。
だが、しかし――
「シュッ――!」
躊躇なく、メルティナが指先から一撃を放つ。ここまで彼女の顔に浮かんでいた余裕の笑みはない。『この人物』は、それほどの相手だ。
現れた『彼』は、その力を証明するがごとく、英雄たる『ペンタ』の放ったそれをいとも容易く弾き飛ばす。
(……どうして……!)
なぜ『この人物』が、ここに。
違う。
それは、当初想定した相手ではなかった。
――あの有海流護では、なかった。
計算が狂った。動揺から対応が遅れるレノーレに、
「止まってる時間はないよ。こいつは私が引き受ける。倒して、すぐに追う。レン、君は先に行くんだ」
メルティナが即断で告げた。
「……、分かった」
レノーレも躊躇なく頷く。
最初から、二人で並んで脱出できるとは考えていなかった。いかにバダルノイス最強の『個』たるメルティナがいるとはいえ、王宮側もそこまで甘くはない。
この相手との対峙。実力的に、自分がここにいては足手まといとなってしまう。ならば確実に勝てるメルティナに任せ、先に行くしかない。
分断される事態も想定し、外での合流場所も決めてある。
「――ふっ!」
敵に向かって駆けたメルティナが、両手の指先から氷弾をばら撒く。四方八方に弾けた軌跡は、攻撃と同時にレノーレを守る攻防一体の乱舞。
白い閃光が交錯する中、レノーレは隙を窺って出口へと一直線に駆け抜けた。




