451. 零下
「何だ、これは……? どういうことだ」
狭い兵舎の一室に、『雪嵐白騎士隊』の一人、ゲビ・ド・フォートゥーンの低いうめき声が響く。その手には一枚の紙。強く握られたそれが、くしゃりと歪に形を変える。
「は、いえ……私も、先ほど受け取ったところでして……」
それを渡したカーリガルの街の駐在兵士は、恐縮しながら背筋を正した。
「何事か」
奥の資料室から入ってきたスヴォールンが、二人のやり取りに目を留める。
「ス、スヴォールン様。これを……」
ゲビは兵士から渡されたその紙を恭しく上官へと差し出した。
――それは今や国民も見慣れて久しいだろう、レノーレの似顔絵が記された賞金首の手配書だ。
しかし、今までのものと異なる点がひとつ。
懸賞金の支払いについてだ。彼女を直接押さえた者に対してだけでなく、情報を提供した者にも一割を払うという但し書きが追加されている。
兵の手前ということもあり、ゲビは明らかな怒を押し殺しつつ声を絞った。
「……オームゾルフ祀神長……独断で、このような……我らに何の相談もなく……」
「ククッ」
ゲビは耳を疑った。手配書を持ってきた兵士も同じ思いだったのだろう。
この局面で聞こえた笑い声――スヴォールンに注目する。
「ス、スヴォールン様……?」
本来ならば真っ先に怒りを露わにしてもおかしくない厳格な長が、肩を震わせ笑んでいる。
「ああ、何。うむ。成程、仕方あるまい。オームゾルフ祀神長も、伺いを立てる相手が不在であるが故、独断で決したのだろう」
「……! い、いえしかし……伺いを立てる相手……おるではありませんか、ミガシンティーアの奴めが……」
ゲビはカッと目を見開いた。
(馬鹿な……奴め……一人残っておいて、この体たらくは何だ)
まさかこの案に賛同したはずもあるまいが、どうせ見逃したのだろう。
(糞の役にも立たん、あの男……!)
「そう目を血走らせるな、ゲビ。私はむしろ興味がある。オームゾルフ祀神長が、何を思いこれを布告なさったのか……支払う金をどこから捻出するおつもりなのか……フフ、お前は気にならんか?」
スヴォールンの手から手配書が滑り落ちる。ひらりひらりと舞う――かに思われたそれは、ただの紙でしかないはずのそれは、ストンと落ちて刃のように下の床板へと突き刺さった。
「!」
ゲビと兵士が驚きに注目する。
その紙は凍っていた。限りなく薄く。しかし恐ろしいほど硬く、鋭く。
「私は気に掛かるぞ。どれ……ここでの調査も早めに切り上げ、皇都に戻るとしようか」
「…………は……」
とんでもない。
怒。
この上なく、スヴォールンはその胸の裡を滾らせている――。
「私もな……自覚がない訳ではない。保守的な策を偏重するきらいがあると。しかしそれは、度重なる試練によって国力を欠き、疲弊しているバダルノイスを思ってのこと。現状から客観的に判断して、そのような決となる結果が多かっただけのことだ。足場すら固まらぬうちに背伸びをしたとて、高みになど届かぬ。踏み外し、無様に転ぶのが関の山。……そう、考えていた」
長の口ぶりは静か。しかし。
(……今、考えて……『いた』と……そう、仰られた)
ゲビは知らず唾を飲み込んだ。そのぬめりがやけに冷たい。
「しかし……必要なのやもしれんな。時に、大胆な変革も」
ククと喉を鳴らし、厳格な騎士の長は獰猛に笑む。
「――ただ見守るだけなど、甘いやり方だったのやもしれん」
「……お……おお……」
ゲビの全身がブルリと震えた。心が昂ぶる。
そうだ。今のバダルノイスは勢いを欠いている。認めがたくも、直視せねばならぬ事実だ。生ぬるいことをやっている場合ではない。
ゆえに必要なのだ。導く絶対の強者が。
そして、愚か者の殲滅が。
――新たな年を迎えて二月目。浄芽の月、八日。厳しく冷え込みながらも珍しく晴れ渡った、その日の午後一時過ぎ。
「…………、」
物陰に潜むその兵士が、息すら殺して覗く双眼鏡。その向こうに映るのは、さして珍しくもない安宿。
彼はゆっくりと――震える指を慎重に振り、紡ぐ。
「……リーヴァー、どなたか……どなたか応答されたし」
『リーヴァー、どうした』
数秒待って、同僚が通信に出る。
兵士は自分の声が震えているのを自覚しながらも、仲間が聞き取り間違えたりしないよう、確かな口調で報告した。
「……レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ……及び、メルティナ・スノウ……両名を発見した」
(……くそ、これではたまらないぞ……)
兵士や冒険者ら、そして民からの情報を元に、レノーレとメルティナの潜伏先が判明したのが三日前のこと。
皇都中心街から少し外れた北側、どこにでもある安宿に二人は滞在していた。冒険者や傭兵に扮しているようだった。
発見から現在に至るまで、兵士たちが遠方から監視。
しかしそれも困難を極める。メルティナ・スノウは国内屈指の遠見の使い手。誰よりも離れた位置を見通せる狙撃手だ。見張っているつもりが見張られていた、という事態もありうる。
「! 目標が動きました」
物陰に潜む一人の兵士が双眼鏡を片手に、素早く通信術を飛ばす。
筒を通した円状の視界、距離にして二百マイレほど離れたそこに、宿から出てくる二人の女性の姿。これまでの目撃証言とはまた違う服装や髪型だが、間違いない。唯一ごまかすことのできない瞳の色が一致する。背の高い一人は白、もう一人の小柄な少女は青。こちらに関しては、外見的特徴でもあったメガネを外している。
「まだ昼間ですが……買い物でしょうか? それともまさか……」
『ああ、街を出るつもりかもしれん。油断するな』
通信の向こうから聞こえるのは、レノーレたち発見の報告を受けて皇都入りしたベンディスム将軍の声だ。
「しっ……しかし、まだ昼間ですが」
皇都に点在する十七箇所の流雪水路の中で唯一、兵士の監視を張りつかせることができない北西部。彼女らはそこを使って街を脱するつもりだろうが、それは夜になってからと予想されていた。
人目につかないのはもちろんのこと、暗くなってから除雪作業が行われることはないからだ。
多量の雪と勢いに乗った冷水がとめどなく流れる間、さすがに水路を通ることはできない。夜は、確実にこれが起こらない時間帯なのだ。
が、老練の将軍は指摘する。
『今日は予想に反し晴れたからな。これに乗じてきてもおかしくはない』
術士によって、今日の天気は事前に予想されていた。雪の降り具合によって、流雪水路に水を流す時間や頻度はその都度変わる。
今日は珍しく晴天のため、現在時点で午後からの放水は予定されていない。彼女たちはその空白の時間を突いた可能性もある。
「…………」
監視対象に聞こえるはずがないと分かっていても、兵士は静かに緊張の唾を飲み込んだ。どうするつもりなのか。ただの買い物か。隠れ家を移すのか。それともやはり、街を出るのか。
宿を後にした二人が歩道へ出る。特に急ぎ足ではない。連れ立って建物の角へと消えていく。
ふう、と深い息をつく。
無闇に後を追ったりはしない。ここからは、他の地点で監視している仲間の出番だ。
「……い、息が詰まります」
『そう緊張するな、もう少し肩の力を抜け。もたんぞ』
ついに発見されたレノーレとメルティナ。
懸賞額の支払いについて変更があって以降、この皇都で彼女らを見かけたという証言が出回るようになったが、さすがに噂だと思っていた。まさか国を挙げて追われる身でありながら、王宮のお膝元とも呼べるこんな場所にいるはずがない、と。
(だが、よくよく考えてみれば……)
二人が何を企図しているのかは不明だが、その予想外な隠れ場所は見事にこちらの意表を突いたといえる。
北の地で強力な怨魔が出現し、その討伐のために『雪嵐白騎士隊』はミガシンティーア以外が不在。
隊長にして最強の男、スヴォールンも今はいないのだ。
つまり二万近い人間が集まる現在の皇都イステンリッヒにおいて、罪人レノーレに手を貸しているメルティナこそが最強の武力。
彼女が今この機に何らかの反社会的な行為に訴えたなら、莫大な被害が出ることは間違いない。
『最強でなくてはならない、か』
不意に聞こえたのは、通信の向こうから届くベンディスム将軍の声。
「はい?」
『いや……「竜滅書記」に出てくるグラッテンルート帝国の名将、エピガナフの言葉さ。治安を預かる兵士や騎士という存在こそが、世において最強でなくてはならない』
「あ、ああ……それでしたら、自分も覚えがありますが……」
かの有名な伝記を読んだことのない人間などいないだろう。
『尤もだわな。村を守る自警団が山賊より弱ければ、村は蹂躙される。街も、ひいては国も同じだ。兵や騎士が敵より弱かったなら、その末路は滅び以外にない。そんなことにならぬよう、「守り手」は最強でなくてはならない』
エピガナフは、この上ない形で自身のその言葉を証明している。皮肉にも、『終天を喰らう蟒蛇の王』ことヴィントゥラシア率いる怨魔の軍勢に敗れ、国家滅亡へと追い込まれたことで。
『偉人の名言よな』
疲れの滲んだ老兵の声音。何を言わんとしているのか、その意図は明白だ。
『スヴォールン殿も不在である以上……今このイステンリッヒで最強なのは、間違いなくメルティナだ。俺たち兵団でなくな。彼女が「その気」になったら、誰も止められねぇってことだ。少なくとも、真っ向からは。こんなのは本来、あってはならんことだ』
兵である以上、目標を確認したのだから即座に制圧へ移らなければならない。何も、向こうは人質を取っている訳でもないのだから。
しかし――単純な武力の差が、それを許さない。
こうして後手に回り、監視を続けている……続けねばならない状況がすでに異常なのだ。
メルティナの姿が確認されて以降、兵団は一瞬たりとも彼女を見失わないよう、二十四時間体制での監視を続けている。
力で敵わぬ以上、どうにか機を窺うしかない。
『……足りなさ過ぎるんだ。今のバダルノイスには、「力」ってやつが』
「ベンディスム将軍……」
長年この国を支えてきた歴戦の老兵。その声には、明らかな悔しさが滲んでいた。
「し……しかし、メルティナ氏がなぜレノーレに……怪しげな組織に力添えをしているかは不明ですが……彼女がバダルノイスに甚大な損害を齎すような真似をするとは、考えづらいかと……未だに自分は思うのですが……」
『かもしれん。だが別の悪意ある何者かが同様の行動に打って出た場合、そのようなことは言っておれん。俺たちが力不足である事実は変わらん』
「う……そ、それは」
『まあいいさ。とりあえず、我々は監視を続行だ。奴らも、好き好んで目立つ真似はせんだろう。この街から脱出を図るなら、まず間違いなく例の排出口を使うはずだ』
と会話中のそこに、別の波紋が飛んでくる。兵士がそれを受け取ると、
『リーヴァー、こちら第三班! 応答されたし!』
『どうした』
『おお、ベンディスム将軍もお聞きでしたか……!』
通信を飛ばしてきたその相手の声には安堵が滲んでいる。
『報告いたします。レノーレ及びメルティナの両名、その進行経路は皇都北西部から外れました。どうやら、ただの外出だったようです……!』
『そうか、ご苦労。念のため、引き続き監視を続けてくれ』
『……了解しました。では、失礼いたします』
明らかに場の空気が弛緩した。
「……違った、か……」
自分含め、皆がホッとするのも当たり前のこと。
もし彼女らが北西部の排出口からの脱出を狙って動いたのだとしたら、兵団総出で阻止しに向かわなければならなかったところだ。まず敵わないと分かっていても、である。
オームゾルフが招聘した助っ人も街に滞在中、『雪嵐白騎士隊』も全員が出払っている訳ではなくミガシンティーアのみが残っているが、それでもメルティナを止められるとは思えない。
しかしまさか、法を預かる者が「勝てそうにないから立ち向かわない」などという訳にはいかない。相手も人間で、数でかかればかすかな希望はあるのだから。……それがどんなに儚いものだったとしても。
「…………、しかし、正直もちません……」
頭では分かっていても、つい弱音が零れる。
交代しながらではあるものの、一日二十四時間の監視。いつ彼女たちが脱出を図るか、そして逆に気付かれはしないか。極度の緊張に晒されつつ、この厳しい寒さの中でじっとただひたすら待ち続けなければならない。こんな状況が何日も続いては、先にこちらが参ってしまう。
「いっそ、早く『その時』が来てほしいと……」
たった今安堵しておいて何だが、そんな思いが漏れてしまう。結局のところ、脱出するのかしないのか分からないから、気が張り詰めて疲れるのだ。はっきり『そう』だと分かれば、いっそ覚悟も決まる。
『もう一踏ん張りだ。この監視体制は長く続かん。あの二人は近いうちに必ず動く』
「な、なぜです……?」
『いいか。今は冒険者どころか民までもが目を光らせてる。ゆえに彼女らの居場所を早期に特定できた。今回の発見も先日、下町で八百屋をやってる老婆から通報があったことが決め手となったらしい。メルティナらしき女性が買い物にやってきた、とな』
将軍は重い溜息を挟み、深刻な声で続ける。
『……老婆は心配しとったそうだ。救国の英雄たる彼女に何があったのか、今この国で何が起こっているのか』
「…………」
そう。今、一体この国で何が起きているのか。
それは、こうして張り込んでいる自分にすら分かっていない。
元・宮廷詠術士のレノーレが妙な組織と通じ、メルティナを拐かした。ゆえに連れ戻さなければならない。
自分に限らず、一般兵が知らされている事情はそんなものだ。
いつからかバダルノイス兵の間には、いわゆる派閥のようなものが生まれている。
オームゾルフ派、『雪嵐白騎士隊』派、そしてそのどちらにも属さない者。何の人脈も経歴もない己はこの三番目に分類される。
かつての試練から立ち直り切れていないバダルノイスは、人的資源にも乏しい。
メルティナの監視や排出口の封鎖に多大な人員を割き、今やその動員人数は百五十人ほどとなっているが、はっきり言ってこんなことをやっている場合ではない。
冬は相変わらず厳しくて、食べ物の確保にも苦労する。今は国境や各都市の出入り口に検問を敷いているせいで、商業馬車の流れが悪くなっていることもそれに拍車をかけている。賞金目当ての冒険者や傭兵が多く流入してきたこともあり、治安維持にも気を抜けない。
そんな中で由緒ある美術館が火災に見舞われたり、先日の聖礼式では儀式が妨害された地区もあったと聞く。本当にろくな状況ではない。
どうしてこんなことになっているのか理解不能だ。
このような事態が続いてはたまらない。一刻も早く、この意味不明な追いかけっこを終わらせて、本来の業務に戻らなければならない。
そんな一兵卒の心中を読んだ訳でもあるまいが、ベンディスム将軍が確信したような口ぶりで語る。
『じき終わる。メルティナたちも、既にこの皇都で買い物をすることすら難しくなってる頃合いだ。食料や変装のための衣類が手に入らなければ、街を出るしかない。そして街を出るなら――』
物理的に兵が配置できない、皇都北西部の排出口を目指すしかない。
『今度は、この間のユーバスルラの時のようにはいかん。もう逃がさんさ。……ここで終わらせる』
歴戦の兵の宣言には重みがあった。
事実、失敗に終わってしまった先のユーバスルラの街での捕り物劇とは状況が違う。
百人を超える多勢で彼女たちの一挙一動に注目し、人員配備も終えている。その作戦で役に立たなかったというオームゾルフの助っ人はともかく、ミガシンティーアもいる。
確かに現時点でメルティナに勝る『個』はいないかもしれないが、大勢で押さえにかかれば成功の目はある。
「ええ、そうですね……。終わらせたいです……本当に」
双眼鏡を覗きながら、兵士は心からの思いを口にした。