450. 銀の絲
「――承知しました。そのまま監視と警備の続行をお願いします」
通信術を終えたオームゾルフは、天井を仰ぎながら大きな溜息をついた。
(……やはり、間違いない……)
レノーレの褒賞金支払い方法の変更を布告して数日。予想通り、多数の目撃証言が寄せられるようになっていた。
バダルノイス中……とまでは言わないものの、近隣の街やら村で数々の報告が上がっている。
ここで注目すべきは、情報の密度。
「それらしき少女を見かけた」、とより多くの証言が出た場所を徹底的に洗う。もちろん本人とは限らない。それでも気の遠くなるような精査を重ね、時には自分の足で現場を訪れた結果、ぼんやりと浮かび上がってくる事実があった。
(メルティナとレノーレは、やはり今も間違いなくこの皇都に潜んでいる。メルティナが目撃されたあの聖礼式の日……きっと彼女たちは、あれからずっとこの皇都のどこかに……)
このところ、レノーレらしき人物を四番街で見かけたとの報告が相次いでいた。が、それも昨日あたりからパッタリと聞かなくなっている。他の区画に移動したと見て間違いない。
ユーバスルラの街でベンディスム将軍や兵団、ベルグレッテたちの包囲を振り切って以降、どこへ逃げおおせたのかと捜索を続けていたが――
居場所は、まず間違いなくこの壁の内側。
(いざそうと知ってしまえば、メルティナらしいとも……)
大胆不敵、直裁的な彼女に見合った隠れ先。
彼女らがこの皇都イステンリッヒにいるとしても、見つけるのは容易ではない。何せここはバダルノイスの中心地、二万人もの人々が暮らす国内最大の都市。その広さは他の街とは比較にもならないのだ。だが、
(ベルグレッテさんのおかげで……ようやく判明しました)
ここまで、オームゾルフにはどうしても分からない謎があった。
即ち、レノーレとメルティナはどのようにして街々を移動していたのか。
ベルグレッテたちにも話したように、現在、各都市の出入り口には検問を設けている。街ですれ違う程度では気付かないような変装をしていたとしても、さすがに検問で見過ごすことはない。
いかにメルティナが『ペンタ』であろうとも、力づくで突破しようとすれば騒ぎになる。
そこでつい先日、偶然にも朝市で出会ったベルグレッテたち。その場にて彼女が告げた答え。
『ええ。おそらくですが、彼女らが都市への出入り口として利用しているのは――流雪水路、です』
(……その発想は……ありませんでした)
このバダルノイスで、多量の雪を排除するために用いている設備。維持や保守のために多くの税金を用いた、他の国では見られない特殊な下水道とでもいうべき機構。
人工的な川めいた水の流れで、放り入れた雪を押し流す。仕組みとしては単純だが、大量の雪を流し街の外まで押し出していく仕様上、極めて頑丈かつ広めにできている。
普段使用しない場合は、蓋を閉めて人が落ちないよう細心の注意を払っている――ということはつまり、裏を返せば意図的に入ることも可能なのだ。
毎年ここに落下する民は後を絶たず、またベルグレッテ自身も子供が落ちてしまう場面に居合わせ、どうにか救出することができたと語っている。
例えば夜間など、除雪をしない時間帯は水の流れもほとんどない。やろうと思えば、ベルグレッテがそうしたように神詠術の噴射を利用して飛翔、内部を移動することも可能だ。
彼女自身、子供を助けるためにここへ飛び入った折、その思った以上の広さに「もしや」と考えたことでこの答えに至ったのだそうだ。
指摘されてみれば、もはやここ以外にないのだ。外と通じている個所は。もちろん出入りするその瞬間を目撃した訳ではないが、これは的中していると断言できる。
(メルティナたちは、この水路を使って……検問にかかることなく、各都市へ出入りしていた……)
正直、オームゾルフには思いつかない発想だった。雪を流すための設備。人が落ちることもあり注意が必要。そんな場所に自ら飛び込んでいき利用するという、ある種の逆転の考え。
(メルティナの策に違いありません……)
水の流れも皆無ではない。寒さも半端ではないだろう。間違っても、レノーレやメルティナのような貴人が通るような場所では決してない。というより、そもそも人が入ることなど想定した造りではないのだ。その先入観を、彼女は突いた。
(ええ、これも分かってみれば彼女らしい……)
何しろメルティナ・スノウは幼少時代に戦争へ駆り出され各地を転戦した、本物の戦士。使える道具や環境があれば何だって利用する。思い至らなかった自分こそが甘いのだ。
(……本当に……あなたは、いつだって私の先を行くのですね……)
オームゾルフは、ふうと息を吐き、そして大きく吸い込んだ。
(ですが――ここまで、です)
手配は済んでいる。
皇都の外に繋がる流雪水路、そのほぼ全ての排出口に監視をつけた。力づくで突破されたなら、別部隊が彼女らの行き先を追跡する手筈になっている。
(そう……私は今まで一度だって、あなたを捉えることはできなかった。あなたの背中ばかり見ていた。昔から、学生時代からずっと。けれど、それでよいと思っていました。あなたと私の関係性は、そのようなものが最善だと。……ですが)
賞金稼ぎや市民たちから絶えず入ってくる情報。街の内外に通じる道をを今度こそ完全に固めた兵士たち。
(……感謝します、ベルグレッテさん。あなたがいなければ、きっと私はたどり着けませんでした)
聡明……などという言葉では足りない。あの若さで大したものだ、と感嘆せざるを得ない。バダルノイスに彼女のような人材がいれば、こうまで道を踏み外すことはなかったのではないだろうか。
が、そんな仮定を思っても詮なきこと。
(……今のバダルノイスに、いつまでもこんなことをしている余裕はありません。疲弊しきったこの国を一刻も早く蘇らせることこそ、私の使命。……もう、この無意味な追いかけっこを)
その意思に呼応したかのごとく、オームゾルフの耳元に通信の波紋が広がる。
「リーヴァー、こちらオームゾルフです」
『リーヴァー、こちら第四部隊のナガン。仰せの準備が整いました』
「承知しました。そのまま張り込みをお願いいたします」
『了解』
通信を切り、誰にも聞こえない溜息をひとつ。
「…………終わりにしましょう、メル」
全てを率いる者として。
決意を、口にする。
はらりはらりと、灰色の雲間から舞い落ちる大粒の牡丹雪。
傘や被り物も必要ない程度の小降りだが、メルティナ・スノウはここのところ耳当てのついた縦長の帽子を愛用している。
もちろん防寒よりも変装のためといった向きが強いが、ここ数日はもはや欠かせなくなってきていた。
「…………」
少し街を歩くだけで、その変化は明らかだった。
見るからに旅人風の二人とすれ違う。
「いや、向こうの通りで見かけた奴がいるらしいんだよ。ちょっと行ってみようぜ」
「本当かぁ? 最近、どいつもこいつも同じようなこと言ってるよな。さすがに怪しいもんだ」
「かもしれんが、運がよければ百五十万だぞ。自分の手でどうにかできれば千五百万なんつーとんでもない金額になるが……相手は腕の立つ詠術士みたいだしな。さすがに俺らがどうにかできる相手じゃない。それでもまぁ、ちょっとした暇潰しついでの宝探しと思えばいいだろう。何もしないなんてもったいない」
「まぁ、それもそうだな……行くだけ行ってみるか」
まず、見かける冒険者たちは誰も彼も浮き足立っている。否、彼らだけではない。今や国民すらもだ。
(大胆な策に打って出たね、エマーヌも……)
レノーレの確保に繋がる情報を提供した者に、懸賞額の一割を支払うという布告。これにより、自らの手で彼女をどうにかできないまでも、せめてその手掛かりを探そう――と考える者が爆発的に増えたのだ。
(聞いた話だと、今は『雪嵐白騎士隊』が不在……。エマーヌったら、無理矢理に押し通したな。ったく、財源はどうするつもりだ?)
革新派の聖女オームゾルフ、と呼べば聞こえはいい。しかし、昔なじみのメルティナは知っている。
(人のよさそうな顔して案外気が短いんだよね、エマーヌは。指導者になってからは清楚なフリをしてたみたいだけど、だんだん地が出てきたじゃないか。……それにしても厄介だな)
この策の恐ろしいところは、賞金稼ぎたちがこぞってレノーレを捜すようになること――だけではない。
今しがた行き合った二人のように、さして乗り気でない者ですら片手間で参加する気にさせてしまう点にある。
が、その程度でも構わないのだ。これまで興味を示さなかった一人ひとりが、レノーレに関心を持つ。街中で目を光らせる。ただそれだけで、人目を忍んで逃亡中の身としては動きづらさが格段に増す。
(ってわけで、今日は私が買い出しがてら偵察に出てきたんだけど……)
街の変化について、他にも気になることがあった。
(……やっぱり減ってる。気のせいじゃない)
街を巡回する兵士の数が少なくなっている。
つい先日まで二人で回っていた街角に、今日は一人。確認した限り、他の通りや商店街も同様だった。
(減らしたからには、その分を他に回してるはず……)
が、果たしてそれはどこか。
(ちらっと確認した感じ、出入り口の検問は変わってなかったし)
裕福層が住まう、丘の上に広がる住宅街へ足を向ける。
立派な家屋が立ち並ぶ、小綺麗な舗道を行くこと二十分ほど。その片隅に、皇都の街並みを一望できる大きな公園があった。今はほとんど雪で埋もれているが、もちろんメルティナは遊びにやってきた訳ではない。
「よっ、と」
さくさくと新雪を踏み分け、転落防止の柵が張り巡らされた展望台に上がる。
白雪にまぶされた皇都イステンリッヒ。
さすがにその全景とまでは言わないが、この場所からはおよそ三分の一ほどの区画が見渡せた。
直線距離にしておよそ一キーキルといったところか、街の中心部に鎮座する氷輝宮殿も見て取れる。
(なんだか……随分と長いこと、宮殿に戻ってない気がするな)
日数にしてみればさほどでもないにしろ、追われる身として逃げ回っているためより長く感じるのだろう。
今もあの中で、親友は自分を捕らえるために奮闘しているのだ。
(……さて、と)
感傷に浸りにこんなところまでやってきたのではない。
その友人が、何を意図して巡回の兵を減らしたのか。その人員をどこに回したのか。
「――――」
一呼吸とともにメルティナが発動したそれは、遠見の術。
その名の通り、遠く離れた位置にあるものを見通すための神詠術。地域によっては『鷹の目』や『千里眼』とも呼ばれ、比較的扱う者も多い技能だが、その効果は術者の力によって大きく左右される。
可視範囲は、通常の詠術士ならば百マイレ弱。優れた術者ならば最長で四百マイレ前後。
そして『ペンタ』であるメルティナの場合、千五百マイレ先にいる人間の顔を識別することが可能だった。
バダルノイスで右に出る者はおらず、戦時中、遥か先の敵を狙撃するために欠かせなかった技術でもある。
この場所から発動すれば、一キーキル(千マイレ)先の氷輝宮殿も眼前で眺めるのと何ら変わらない。
(……ふむー、やっぱりおかしいかな)
屋根からの落雪に注意を払い、建物から離れた位置にて門周辺を守る兵士たち。その数が明らかに少ない。
街中のみならず、国家の心臓たる氷輝宮殿の防衛まで薄くしている。
(その分の兵士をどこに――、……?)
街外れの低地に視点を移したメルティナは、その異変に気がついた。
そこは入り組んだ外壁沿いの区画。石壁に穿たれた大きな黒穴。直径三マイレほどのその円洞は、流雪水路の排出口だ。
今はかすかな水流が滴っている程度だが、除雪時には怒涛の勢いで多量の水と雪が溢れ出す。それらは街の下方を流れる支流に注がれ、そのまま街の外を流れる大きな川に繋がる仕組みとなっている。
――そんな場所に、十人近い兵士がたむろしていた。
川沿いから上を見上げる者、逆に外壁上部から見下ろす者。
保守が行われるのは夏。今の時期、こんな場所にこれだけの人数を集める目的などあるはずもない。
(……まさか……)
すぐさま遠見越しの視線を移し、
(……、はは……。あーあ……)
メルティナは確信した。
皇都に存在する流雪水路の排出口は、全十七箇所。うち四箇所がこの高台から望めるが、ざっと見渡した限り、その全てに兵士が配置されている。となると、ここから見えない他の排出口についても同じ対応が取られているだろう。
街角や王宮から削った人員は、ここに充てられていたのだ。
――その目的はとなると、ひとつしかない。
(……気付かれちゃったみたいだね。私たちが、どうやって街に出入りしてたのか)
検問が敷かれた各都市の門を通らずに、内外を行き来する方法。
街の外に繋がる流雪水路を利用するというその手段。
(でも、あのエマーヌが独力で考えついたとは思えないな……)
オームゾルフは聡明な女性である。
教団附属の学院生時代、当たり前のように首席であり続けたことからもそれは明らかだ。少なくともメルティナは、彼女より優れた頭脳を持つ人間を知らない。
しかし、かの聖女が汚れを知らなさすぎることも確か。
中流貴族の家庭に生まれ、恵まれた環境で勉学に励み、やがて教団屈指の実力者となって――ついには一国を任される存在となった。そんなオームゾルフが非凡であることは疑うべくもないが、真面目な優等生として歩んできたからこそ邪道に弱い一面がある。
論理的な頭のよさは随一、教本通りの対応をさせればこの上なく正確な手本となるが、汚泥にまみれるような手段は本能的に除外してしまい発想すら浮かばない。
(あの時だって……)
学生時代、街の遊び場に行ったことがないというオームゾルフを半ば無理矢理に連れ出したことがある。初めは戸惑いがちだった彼女も最終的には大はしゃぎ、存分に楽しい時間を過ごした二人だったが、帰りの門限を過ぎてしまった。
生真面目なオームゾルフは施錠された門を前に青ざめてうろたえるばかりで、どう謝るべきかしか頭にないようだった。メルティナは、そんな彼女を抱きかかえて術の噴射で三階の自室へ飛んだ。夜の点呼も、事前に根回しをしていたため問題なかった。
……と、完璧だったはずなのだが……生真面目で『嘘をつかない』オームゾルフは、友人との何気ない語らいの中でこの日のことを正直に話してしまい、それが教師の耳に入り、結局は二人揃って怒られた。
(……懐かしいことを思い出しちゃったな。でも)
そんなオームゾルフだから、ありえない。
雪を捨てるための暗く冷たい堀を、通路として利用する貴族がいるとは考えつかない。レノーレやメルティナといった貴人が、いかに逃亡中とはいえそんな場所を這ってまで移動するとは思わない。
流説水路は雪を流すための施設。だから雪以外を流してはいけません。人が落ちることもあり危険。だから注意しましょう。優等生な彼女は、当然のようにそう考えてそこで止まる。
オームゾルフとはそんな人物であり、またメルティナもそれでいいと思っていた。
彼女に足りない部分は、自分が補えばいい。同じ貴族でも、彼女は輝かしい正道を行き、あとは戦争によってあらゆる闇や負を知った己が支えていけばいいと。
だが、
(……ここにきてこの兵士の配置。エマーヌに入れ知恵した奴がいるみたいだ)
果たしてそれは何者なのか。酸いも甘いも噛み分けた傭兵の類か、しかし一国の主となったオームゾルフが安易にそんな意見を聞き入れるか。
『雪嵐白騎士隊』も不在、元より彼らは協力的でない。
少なくともその人物は、オームゾルフに一目置かれている。あの生真面目な聖女に、持論を説いて納得させるだけの力を持っている。
かつてのレニンならば可能だったかもしれないが、当然ながら記憶を失った今の彼女には不可能だ。
(名ばかりの宮廷詠術士長こと、オーランダルの娘さんには難しいだろうし。今の王宮に、そんな人間がいるとは思えないんだけど……。ったく、私のエマーヌに余計なこと吹き込んでくれちゃって。妬けるじゃないか)
さて、いつまでも留まっていては怪しまれる。あとは歩きながら考えるべきだろう。来た道を引き返し、次の目的地を目指す。
(……もしそいつがエマーヌ並みに頭のキレる奴だとしたら……ちょっと厄介そうだ。あれほどのお利口さんが二人となると、さすがに)
流雪水路の排出口はそのほとんどが押さえられているだろうが、実は一箇所だけ兵士を配備できない場所がある。
皇都北西部に位置するそこは、大きな川と隣接する天然の崖の上に外壁がそびえており、高さ五十マイレにも及ぶ絶壁となっている。その外壁に設けられた排出口から、滝のように遥か下の川へと流れ込む仕組みだ。
唯一ここだけは、立地の問題で物理的に人を置くことができない。
見張るなら五十マイレ以上も離れた大河の向こう岸で監視するしかないだろうし、またこの一帯は濃い霧が出やすいため、そうなれば遠く離れた排出口などまず視認できなくなる。
つまりメルティナたちが街を脱出するなら、ここを使う以外にない。
(ここしかない……からこそ、だな)
当然、オームゾルフやその協力者――切れ者と思われる人物もそれは把握しているだろう。となれば、向こうがどんな対応を取ってくるかなど明白だ。
(せっかく入り込めたんだ。まだ目的を果たしてないし……今、街を出る訳には……)
いっそのこと、検問や他の流雪水路を力づくで突破するか。封鎖しているとはいえ、一般兵では数十人がかりでもメルティナを止めることなどできはしないのだ。
しかし――それこそオームゾルフは、その場合の手段も用意しているだろう。監視役を潜ませ、こちらの逃亡先を確実に突き止める程度はやってくるはずだ。
(……先に例の奴を見つけ出す……のが理想だけど……)
きっともう、時間はない。
(…………)
下町に降り、食料を買うため肉屋の軒先を覗く。店主と思しき大柄の男が、豪快な笑顔で手を叩いた。
「おう、きれいなお嬢さんだな! オマケしちゃうよ!」
「あらー、ありがとうございますー!」
こなれた主婦のように、メルティナも手をパタパタと振って返す。追われている身とはいえ、縮こまっていては余計怪しまれる。あえて明るく振る舞って接することも必要だ。
「これと……ほら、これも持っていきな!」
「え、こんなに? では、ありがたくいただきますねー!」
こんな状況だ。金額以上のものが手に入るのは素直にありがたい。
次に、野菜を並べている老婆の店の前へ。
「これと、これと……これをくださいな」
「はいよ、ちょっとお待ちね」
支払った金を老婆が勘定している間、それとなく辺りに視線を飛ばす。
富裕層が暮らす丘の上の地域、その下の平地に広がる第一から第二十三までの中層区域、そしてこの最下層の下町。
食うに困り、困窮した生活を送る者たちが多く住まうのがここ下町区域だが、その人口密度は他と比べても圧倒的に高い。『滅死の抱擁』や内戦で全てを失い、やむなく貧しい生活を強いられている者が未だに多いのだ。
(……何をやってるんだろうな、私たちは)
くだらない追いかけっこなどやっている場合ではない。
一刻も早く、ここにいる皆が安心して暮らせるようなバダルノイスを復活させなければならないというのに。
きっと、オームゾルフとて間違いなくそう考えているはずだ。
今は追う者、追われる者の立場でありながら。
(……そのためにも、早く……)
「はいよ、お嬢さん。どうしたんだい、怖い顔をして」
「あ、いいえ。すみません、ありがとうございます」
品物を受け取り、笑顔を返す。
そこでふと、老婆が自分をじっと見つめていることに気付いた。
「……何か?」
「…………ああ、いえ。ごめんなさいね。前にあなたをどこかで見たことがあるような、って気がしてねぇ」
「……」
特に表立って民の前に出ることはないメルティナだが、もちろん英雄としてそれなりに顔を知られていることは間違いない。
中でも宮殿近くの住民であれば、普通に顔を合わせて挨拶ぐらいはする間柄だ。
「ふっふっふ。嫌ですねーお婆さん。私みたいな美人、見たことがあれば忘れないはずです。ですから気のせいです。あっ、若い頃のご自分とお間違えになったんじゃありませんか?」
「あらやだ。この子ったら、ふふふふ」
今のメルティナは、茶色いウィッグを身につけ白い髪を隠している。服装も、この下町に来るに相応しい質素な平服。真白の瞳だけはごまかしようもないが、即座にメルティナ・スノウと見抜ける人間はいないはず。それでも……。
「それじゃ、ありがとうお婆さん」
「…………、うん。またおいでね」
何か察する者もいることだろう。
(…………もう、ここには来れないな)
少しずつ。しかし確実に、行動可能な範囲が狭まっていく。食料の仕入れや、扮装のための衣類も買うことが難しくなっていく。
(やっぱり……一度、この街から出るべきか)
恐らく限りない危険を伴う。オームゾルフ……その協力者も、完全に読んでいるはずだ。メルディナがこの選択を取ると。
だが、そもそものレノーレやメルティナの目的を彼女らは知らない。
いずれまた、機は巡ってくるはず。
(……エマーヌ。悪いけど、まだ捕まる訳にはいかない。………………)
迷う時間も惜しい。方針と覚悟を決め、メルティナ・スノウは雑踏へと姿を消してゆく。
(今も昔も変わらないよ。……エマ、君は私を止められない)




