447. 坊ちゃんと因縁
一行は、ラルッツたちが宿泊している宿へと場所を移した。
第三者に傍受される恐れは拭いきれなかったが、可能な限り人目のないところで通信術を試みるためだ。
馬車で五日もかかる距離に通信術を飛ばす。
『持たざる者』であるラルッツには想像もつかない所業だが、やはりグリーフットほどの手練でも相当な集中を要するものらしい。彼はしばし目を閉じ、瞑想するように息を整えて――
「……では」
指を振った挙動に応え、空中に小さな波紋が浮かぶ。
皆がその円周状の揺らぎに注目する中、
『リーヴァー、こちらハルシュヴァルト駐在』
向こう側から聞こえてきたその名乗りが、術の成功を示していた。
繋いだ当のグリーフットは答えず、見守っていたベルグレッテに目配せする。頷いた彼女が、揺らめく波紋に語りかけた。
「リーヴァー、こちらベルグレッテと申します。お忙しいところ誠に申し訳ございません。ヒョドロ兵長はいらっしゃいますでしょうか?」
『はあ……兵長なら、先ほど昼休みから戻ってきたところですが』
「お手数ですが、お呼び願えますでしょうか」
『ええ……、承知いたしました。少々お待ちを』
場を離れていく音が聞こえ、しばしの待ち時間が生じる。
「さて、あのオッサンがどんだけしっかり対応してくれっかな……」
通信に入らないように囁くのは流護だ。
「そのヒョドロ兵長、ってのはどんな人間なんだ」
ラルッツが小声で尋ねると、
「えーと……頑固オヤジの見本、って感じかな」
彼が八の字に寄せた眉を見て、それとなく察せられた。
『あー、こちらヒョドロだ。わざわざ俺を名指したぁ何事だい』
直後に応答してきた横柄なダミ声で、それが納得へと変わる。
「ご無沙汰しております、ヒョドロ兵長。ベルグレッテです。覚えておいででしょうか」
『生憎、忘れるほど耄碌しちゃいないよ。今頃になって俺に何の用だい。知りたいことがあるなら、ヘフネルの奴に訊いてくんな。……って、あんたら今も皇都にいるんだろ?』
「はい。しかし……どうにも解決しない難題がございまして、勝手ながら連絡を差し上げた次第です。こちらの都合で誠に申し訳ございません。レノーレの屋敷で見つかったとされる、彼女がオルケスターだという証拠。その詳細について改めてお伺いしたいのです」
『その話かい……。こっちも忙しいんだがね』
隠しもしない露骨な溜息。なるほど偏屈な男のようだ。もっとも人のことは言えんが、とラルッツは内心で苦笑する。
『そっちにしてみりゃ、これもオームゾルフ祀神長に協力するための聞き込み……。だから四の五の言わずにとっとと話せ、って思うよな。だが……』
溜息ひとつ、ヒョドロは意外な点に言及した。
『その前にこっちから質問だ。今、この通信を繋いでるのは誰だ?』
皆が思わず波紋に注目する中、そこから響くダミ声が続ける。
『あんた、今も皇都にいるって言ったよな。そっからここまでを繋ぐ通信術……。あんたもかなりの使い手だろうが、これだけの術を操るにゃ若すぎる。となると、高名な宮廷詠術士か「雪嵐白騎士隊」か……。しかしこの規模の術が使えるレニン殿は記憶喪失、「雪嵐白騎士隊」ならあんたを通さず自分で連絡すりゃあいい。となると、あんたの横で術を維持してるのは何者なのか。大方、そっちで協力を取り付けた凄腕の賞金稼ぎってとこなんだろうが』
兵の長は、譲れぬとばかりに断言した。
『悪ぃが……どこの誰とも知れん部外者が聞いてる中で、捜査内容を話すことはできん』
伊達にひとつの街の治安を預かっていない。確かな観察眼と信念を持ち合わせているようだった。
「っとに、頭の固ぇオッサンだなあ……」
『おい、聞こえたぞ。騎士の嬢ちゃんと一緒でその口の悪さ……リューゴ・アリウミだな? わざわざオームゾルフ祀神長のご指名を受けたんだ、さっさと問題を片付けてくれよ。お強いんだろ?』
「だから片付けるのに情報がいるんだって。つか、あんたに口の悪さとか言われたくないんですけど」
このままではヒョドロも話さないだろう。さしものベルグレッテも、どうしたものかと言いたげな思案顔になる。
――そこで。
双方の会話を繋いでいる張本人のグリーフットが、静かに片手を掲げた。致し方なし、といった様子で。
そして、いつもの悲嘆顔でその口を開く。
「……遅れ馳せながら……通信術を繋いでいるのは……僕です」
『あん? 誰だ?』
「今は……ハルシュヴァルトで兵長をやっておられるのですね」
『何だと? 誰だお前は?』
「おっと……僕のことを忘れてしまったのですか? 『ヒョドロおじさん』。悲しいなあ……実に悲しい。ふむ……そうだ、おじさんの過去を話せば思い出していただけますか……。かれこれ十年前、貴方が皇都で一目惚れした然る貴族の令嬢。身分違いの叶わぬ恋と知りながらも奮闘した、あの青春の九十日間の甘く切ない記憶を――」
ガタン! と凄まじい音がした。
こちら側ではない。波紋から響いてきたのだ。
『痛ゥ~……! なっ、……何、ど、どうしてそんなことを……いや待て、「悲しい」って言ったな……? そ、そそ、その口癖は――』
「ええ……ご無沙汰しています、おじさん。……僕です。グリフィニアです」
『……! 坊っちゃん……!?』
愕然としたヒョドロの呟き。
しかしそれはこちらとしても同じことで、
「グリフィニア……? ってのが、グリーフットさんの本名なんすか? 坊っちゃん、って……?」
そんな流護の問いかけに被せる形で、
『お、おいお前ら、どうして坊っちゃんと一緒にいる!? いやまず、いつお戻りになったんですかい!? グリフィニア様……!』
場は大混乱だ。
ラルッツとしてはこれに輪をかけぬよう、どうにか口を閉ざしたまま状況を見守る。子分のガドガドが余計なことを言わないよう、彼の口を自分の手で塞ぎながら。
この状況を作り出したグリーフットは、落ち着き払った――あるいは観念したようにも見える様子で、こちらの面々へと向き直る。胸に片手を当て、あまりにも自然で優雅な礼をもって。
「……グリフィニア・セアト・マーティボルグ。それが僕の本来の名です」
「……、マーティボルグ……」
「って、え? は!? それってまさか……!」
ベルグレッテと流護のかすれた声に「説明は後ほど」とした美青年は、次に波紋へと顔を向ける。
「ヒョドロおじさん……僕は帰ってきた訳ではありません。今は傭兵をやっています。何やらこの地で一騒ぎ起きているようでしたので、少々立ち寄ってみただけのこと……」
『傭兵!? 馬鹿な……坊っちゃんが、そんな薄汚れた稼業を……』
薄汚れていて悪かったな、と思うラルッツだが、もちろん今この場で声には出さない。
「つか、グリーフットさんとヒョドロ兵長って……どういう関係なんすか?」
もっともな流護の質問に、当人は何でもないことのように答えた。
「ヒョドロおじさんは昔、僕の屋敷の警備隊長を務めていたんです……。古くからの顔馴染みなのですよ」
『……ったく、懐かしいな。坊っちゃんは、それはもう手の掛かるお方でしたよ。蝶と友達になったなんて言い出したかと思やぁ、意味の分からんことを言って小火騒ぎを起こしたり……。浮世離れした貴族の方々の中でも特に変わり者だった。……でも、俺は知ってましたぜ。一見して風変わりに見えるその立ち振る舞いは、坊っちゃんの秘めた「優しさ」が形として表れたものだったと』
草花を愛し、生き物を慈しむ。かつては、そんな心優しい少年だったという。……やや、『過ぎる』ほどに。
(……そういやぁ、肉を食う度に泣くからな。この兄ちゃんは……)
端から見れば異常に映るその光景も、そんな一面に起因してのことだったのか。
「それにしてもまさか、おじさんがハルシュヴァルトに左遷されていたとは思いませんでしたが……」
『人聞きの悪いことを。別にヘマをやらかして飛ばされた訳じゃありませんぜ。お屋敷は坊ちゃんがいなくなっちまいましたし……中央はここんとこ、兵士同士の間に下らん溝ができとる。正直、息苦しくて敵わんのですわ。自分から希望したんでさ』
「……なるほど、おじさんらしい……。……おっと、思い出語りも尽きないところですが、この辺りにしておきましょう。ベルグレッテ殿の要求内容について……お話しいただけませんか、おじさん――いや、ヒョドロ兵長」
『……承知しましたぜ。他ならぬ坊っちゃんの頼みとあっちゃ、断れませんや』
もちろん第三者の傍受を警戒して、可能な範囲ではあったが――
こうして、ようやく頑なだったヒョドロから情報を聞き出すことができたのだった。
そしてこれで、ベルグレッテがとある確信を深めることとなる。
――場所は酒場前に戻って。
「……まあ、よいではないですか。僕の出自については」
道行く人々の姿を眺めながら、グリーフットが珍しく苦笑する。
「俺みたいな最底辺を這ってきた人間にはちょいと想像つかんよ。金に不自由しねえ生まれだってのに、それを自分から捨てちまうなんざ」
ラルッツは曇った空を見上げながら愚痴るように言った。
「悲しいことですが……世の中にはあるものです。財と天秤にかけてなお、重く揺らがぬものが」
「そうかい」
モノに対する価値なんて人それぞれだ。
ラルッツは自分の命と金をほぼ等価に考えているが、この青年にとってはそうでないというだけの話なのだろう。それをどうこう言うつもりもない。押しつけがましいのは嫌いだ。
「ところでよ。あの通信の後、話にも出たが……あんたの一族、マーティボルグ家だったな。そのうちの一人が『雪嵐白騎士隊』にいるんだろ? 確か……ミガシンティーア、とかって名前だったか」
目ざといラルッツは、あの場で見逃さなかった。この名前が出た瞬間、流護とグリーフットの顔つきがほんのわずかに険しくなったことを。
そして今も、である。
「ミガシンティーアは……僕の従兄弟に当たります」
「そう言ってたな」
「彼は本家……僕は分家の間柄でしたが、幼少の頃は一緒に庭を駆け回って遊んだものです……」
「なるほどねぇ」
ラルッツとしては、本人を見たことがないのでその程度の感想しか出てこない。が、グリーフットの面持ちを見れば何か複雑な内情があろうことは察せる。
「そうですね……彼は、僕がバダルノイスを出ることになった原因とも言える人物であり――」
界隈でも名うての詠術士で知られるこの青年が――天轟闘宴の撃墜王として名高いこの強者が、言い切った。
「間違いなく……マーティボルグ家史上最強の男。そして恐らく……現在のバダルノイスでも最上位の使い手となっていることでしょう」
「……マーティボルグ最強……ってぇことは……」
「ええ……悲しいことですが……」
グリーフットよりも上。
少なくとも――当時はそうだった、ということだ。
「……しかし……これもキュアレネーのお導きなのでしょう。……悲しい……僕は今一度、彼と……」
哀愁の念を漂わせる男は、そこから先を口にすることはなかった。
ただ――その代わりのように、彼の端正な顔がこれまでになく引き締められたように見えた。




