446. スノーデプス
「…………!」
大通りに出ようとしていたレノーレ・シュネ・グロースヴィッツは、慌てて狭い路地裏へと身を翻した。
少し顔を覗かせると、冒険者らしき青年二人が辺りを見渡しながら立ち話に興じている。
「本当かその話は?」
「間違いねぇよ。しかも、この近辺で見たって奴もいるんだ」
「えぇ? ここは皇都だぞ。氷輝宮殿だってそんなに遠くない。あれだけ大々的に手配されてる奴が、王宮のお膝元にいるなんてことがあるのか?」
「まぁな……でも、木を隠すなら何とやらって言うし。人が多いイステンリッヒにあえて入り込む……ありえん話じゃないかもしれないぜ」
「うーん……となりゃ、逃がせねーな。何せ、百五十万だ」
「それどころか、上手くいきゃ千五百万だぜ」
その会話でレノーレは確信する。
彼らが捜しているのは、他でもない自分だと。
(…………まさか、こんな手段に出るとは思わなかった)
ここまで比較的安定した逃亡生活を送っていたレノーレとメルティナだったが、その状況が一変したのは先日のこと。
出歩く際は変装をしているのだが、すれ違う人々にやたらと凝視されるようになったのだ。
そして街角で掲示板を見かけて、その理由を知る。
レノーレの確保に繋がる情報提供を行った者に、懸賞額の一割を支払うという規定変更。
(……『あの兄様』が、そんな条件を呑むとは思えないんだけど……)
それはともかくとして、メルティナは笑っていた。「意外と大胆なエマーヌらしいかも」と。
しかし、実際問題として笑いごとではない。
以降外に出ると、冒険者どころか市民たちにまで明らか視線を向けられるようになった。
今後、『メガネをかけた金髪の少女』と見れば手当たり次第に声をかけるような輩も現れるかもしれない。
下手な矢も数撃てば当たるというが、ばら撒かれた流れ矢が本人に直撃しかねない状況にもなり得る。
日を追うごとに、興味本位でレノーレを捜す者は増えていくだろう。
何しろ、災害や内戦の影響で今も苦しい生活を強いられている民は多いのだ。情報を提供するだけで百五十万エスクもの臨時収入が得られるとなれば、見過ごす手などあるはずもない。
変装にも限度がある。
時期が冬なのも幸いし、服装はどうにでもなった。髪の長さはウィッグでごまかせる。しかし、どうしても変えられない部分は存在する。
例えば、レノーレは視力に難があるためメガネが欠かせない。瞳の色や背丈など、生まれ持った要素も意図して変えられるものではない。
底厚のブーツで高くすることもできなくはないが、突発的な戦闘の可能性を考慮するなら、慣れない丈長の靴は履くべきではない。
(……、大事を取って、今日のところは買い物はやめておこう。一旦、メルのところに戻って今後の相談かな)
表通りに出ることを諦め、来た道を引き返す。
(隠れ家までは遠くない。メガネを外してみようか)
メガネをかけたまま露骨に人目を避ければ怪しまれそうだ。外しても、全く何もかもが見えなくなる訳ではない。が、少し離れた人や風景などもぼやけてしまう。
(でもやっぱり、今のこの状況……メガネをかけたままだと、ちょっとよくなさそう)
いつまでも立ち止まってはいられない。早急に隠れ家に戻り、メルティナと今後の対応を考えるべきだ。
来た路地を戻り、メガネを外して懐へと仕舞い込む。
(…………、……思ったより見えない……)
とはいえ、そこは気合で乗り切るしかない。歩き方も不自然にならないよう気をつける必要がある。今ひとつ見えないからと手探りで歩いているような印象を与えては、訝しく思われるはずだ。
行き交う人々など、もはや色の塊が動いているようにしか見えない。少し離れれば、男女の区別も難しい。彼らにぶつからないように歩くのがやっとだった。
「……」
目が見えずとも、当然ながら鼻は正常に機能する。
漂ってくる香ばしい料理や酒精の匂い。前を通りかかったその建物が酒場だと判別することは、さして難しくなかった。その外に、立ち並ぶ人影が三つ。
「いやあ~。俺っちも昨日、ちょっと似てそうな娘に何人か声をかけてみたけど……見事に空振りでさぁ。やっぱりそう都合よくはいかねぇよなぁ」
「当たり前だ。まずお前の場合、見本みてえな悪人ヅラだからな。お尋ね者を捜す側じゃない、捜される側のツラだ」
「顔のこと言ったら兄貴だって……あいてっ! ぶたないでくれよぉ」
彼らの前を通るべく近づくと、会話をしているうちの一人は細身。もう一人は小太りだと判別できた。
冒険者だろう。そして当たり前のように、自分を捜している。
「でも、案外楽に見つかるかもですぜ。レノーレって娘っ子は、メガネをかけてるんでしょ? なら、こうして通りを見てるだけでも簡単に見分けはつくし」
彼らの前を堂々と通り過ぎながら、やはり外して正解だったかとレノーレは安堵した。
もちろん、おくびも顔には出さずに。彼らのほうなど、チラリとも見向きもせずに。
「……」
彼ら二人の他にもう一人が壁によりかかっていたようだが、少なくともレノーレがその場を去るまで、その人物が口を開くことはなかった。
「どうしたんでぇ、グリーフットの旦那。さっきから黙りこくっちまって」
酒場前の人通りを横目に、ガドガドが隣に立つ優男の顔を仰ぎ見る。
「いえ……少し考えていたのです」
吟遊詩人めいた美しい容貌の青年は、今しがたうつむきがちに自分の前を通過していった少女の後ろ姿を眺めていた。
長い金髪と帽子、背の高さは百六十センタル前後。そして――メガネはかけていなかった。
しかし、である。
「悲しい……実に悲しいことですが、レノーレ嬢が『今』、メガネを掛けているとは限りませんよ」
グリーフットが言うと、ガドガドがえっと目を大きく見開く。
「な、何でだよ!? だって、メガネを掛けてなかったら見えねぇじゃんか。……見えねぇんだよな? 俺っちは、掛けたことねぇから知らねぇけど」
「人にもよるでしょうが……少し出歩く程度ならば、問題はないはずです……。それに、今のこの状況……誰も彼もが情報獲得に躍起になっているこの現状を知ったなら、メガネを外そうと考えてもおかしくはないかと。……例えば、少しばかり人目につく通りを歩く際などは」
話を聞き、ふーっとタバコの煙を吐くのはガドガドを挟んだ向こう側にいるラルッツだ。
「一理あるな。気前のいい布告で、どいつもこいつも浮かれてっからな、手当たり次第にメガネ掛けた娘に声掛けすりゃ、本人にぶち当たる可能性もないとは言えん。なら、レノーレとしちゃメガネ外しゃぁ裏をかける。だが……」
その言わんとしたことをグリーフットが察した。
「今ほどガドガドさんが仰った通り、不便なことは間違いありません……。そうなると、恐らく……彼女の今後の動きには制限が加わるでしょう。例えば、人通りの少なくなる夜のみに出歩く。他には、レノーレ嬢がメガネを外した際は、メルティナ氏が付き添う、など」
「で、こうなると読み合い化かし合いだわな。相手の裏をかいて、その裏をかかれて……さて、レノーレは実際にどういう手段を選ぶか? ……ったく、こういうのは苦手だぜ。頭がよければ、最初から山賊なんぞに落ちぶれちゃいねぇんだ」
うんざりしたように頭を掻き回しつつ、ラルッツは短くなったタバコの吸いさしを流雪水路へ投げ捨てた。
「おう、ところで話は変わるがグリーフット……」
自分の足下から、相手の長躯へ目線を上向ける。
「今更だが……やっぱりよ、ちょいと驚いたぜ。あんたの素性には」
――それはつい昨日の話。
再びベルグレッテたちと顔を合わせ、情報交換をした折のことだった。
「ハルシュヴァルトに素早く連絡を取る方法はないか……だって?」
タバコに火をつけようとした手を止め、ラルッツが少女騎士の言葉を繰り返す。
「はい」
聞き間違えではないと、ベルグレッテははっきり頷いた。
「……利口なお嬢ちゃんならよく分かってると思うが……そんな方法はねえぞ。裏社会のやり方でも、ちょいと俺は思いつかねえ」
「……やはり……そう、ですか」
運ばれてきた水にも手をつけず、彼女は沈んだ面持ちで視線を落とした。
――南の中立地帯、ハルシュヴァルトの駐在に連絡を取りたい。
この喫茶店に腰を落ち着けるなり彼女が告げた要望が、それだった。
可能な限り協力を惜しまないつもりのラルッツだったが、いきなり無理難題が出てきたな、と顔を渋くした。
今現在皆が滞在しているこの皇都イステンリッヒからハルシュヴァルトまでは、馬車でおよそ五日ほど。小さい国であれば優に通り抜けられるほどの長距離。
並の術者では通信術は届かず、文を飛ばしてもやはり五日。返事を期待するならば往復を考え、最短十日。
他地域であれば飼い慣らした鳥を伝書に使うという方法もあるが、いつ吹雪くかも分からない今時期のバダルノイスではとても現実的ではない。
もちろん、ベルグレッテも分かって尋ねたのだろう。藁にもすがる思いで、裏社会の者が知る抜け道的なやり方がないか尋ねたのだ。
「だが、ハルシュヴァルトに何の用だ?」
中断していたタバコへの点火を再開し、対面に座る少女騎士に尋ねる。
「……ハルシュヴァルトにあるレノーレの屋敷でメモなどが見つかったことで、彼女がオルケスターの一員であると判明したのですが……その詳細を、洗い直したいのです」
それは軽くではあるが、ラルッツも流護と再会したときに聞いていた。
そもそもそのメモに何が書かれていたのか。誰がそのメモを見つけたのか。
流護たちがこの皇都にやってくる際、ハルシュヴァルトの正規兵が一人同行してきたとのことだが、その人物も話を耳にした程度で詳細を知らないらしい。
しかし、いい着眼点かもしれない。ラルッツ自身、この話を聞いたときに妙だと思ったのだ。
あのオルケスターに関係する情報が、そんなにも簡単に表沙汰になるはずがないと。
「ホントはハルシュヴァルト出る前に調査できりゃよかったんだろうけど……あん時は、いきなりこっち来ることになって。そんな時間もなかったしなあ」
反って背もたれに身を預けながら天井を仰ぐのは流護だ。
これまで考えられていたレノーレの動機が覆ったかもしれない、との報告を受けたのはついさっき。
にわかな驚きの後、おそらく誰もが思うはずだ。
ならば、かの少女はなぜ今回の一件を起こしたのか――と。メルティナはメルティナで、なぜレノーレに加担しているのかと。
ゆえに今一度、その原因に遡って詳しいことを知りたいらしい。
「ううーん。残念だけど、俺っちも思いつかねぇよ。ハルシュヴァルトとなると、ちょいと遠すぎるよなぁ……」
ガドガドがもりもりと食事を進めながら、しょげた声を出す。
「あーくっそ。ラデイルさんがこの場にいりゃーな……」
もどかしげな溜息をつく流護に、ラルッツが訝しい視線を投げた。
「ラデイル? って、あのレフェの……アケローンの優男か?」
レフェ巫術神国は『十三武家』が誇る矛の家系、その次男にして当主の弟。ラルッツもあまり詳しくは知らないが、相当な使い手だとの噂を耳にしたことはある。レフェの男といえば堅物といった印象があるが、ラデイルは目の覚めるような色男。そしてその甘い顔立ちを存分に活かした女好きと聞いていた。
「ああ。あの人、国境跨いで何日もかかるような長距離に通信術飛ばせるんだよ。あの人なら、こっからでもハルシュヴァルトに届きそうなんだけど」
「……悲しいですが……彼がこの場にいたとしても、難しいと思いますよ」
相も変わらず嘆くような表情で意見するのは、美男という点においてはラデイルにも劣らぬグリーフットだ。
「え? そう……なんすか?」
流護が言うと、悲しみの男は残念そうに首肯する。
「通信術は……魂心力の波長を認識し合った相手に対してならば直接的に連絡を取れますが、当然ながら面識のない相手に対しては使えません。それでもどうにか連絡をつけたい場合は、その相手がいるであろう大まかな『場所』を指定して術を行使することになりますが――」
レフェの人間であるラデイルは、おそらくハルシュヴァルトの兵舎の場所など知る由もない。
どれだけ遠くに術を飛ばせる技術があろうと、その目的となる場所が分からなければ意味がないのだ。
もっともそれ以前の問題として、彼が実際にこの場にいないのだから無駄な議論だった。
「はあ……ダメか。諦めるしかねーのかな」
しばしそれぞれ注文した茶などをすすり、あれやこれやと事件についての話や雑談を交わす。
ちなみにここでのすり合わせで、流護たちの仲間であるエドヴィンという少年を襲った相手が、『あの』モノトラとミュッティであるらしいことが判明した。
「そうか……そのモノトラとかって野郎は、例の鎧……セプティウスとかってのを着てたのか……」
しみじみと言う流護に、ラルッツは「恐らくな」と返した。
「まぁ、俺の知ってるセプティウスは全身をピッチリと包み込む鎧とはいっても、とても服の下に着れるような代物じゃなかったが……。だが連中の技術力を思えば、他に特殊な仕様のセプティウスを造ってても不思議には思わねぇ」
「……なるほどな」
落ち着いて見える流護のその一方で、元山賊はやや渋い表情を作った。
「しっかし……あいつらが、この国に……どこか近くに潜んでいやがるのか……」
否が応にも思い出す。山賊団のアジトにやってきた、オルケスターの三人組。その圧倒的な存在感、技術力、そして――強さを。
もう随分と昔の話だというのに、男の脳裏からあの悪夢が消えることはない。
「ひえぇ……絶対に会いたくねぇよ……」
そしてそれはやはり弟分のガドガドも同じらしく、食事の手を止めて強く両目をつぶった。
「大丈夫だ」
そこで流護が、何でもないことのように言う。
「そいつらは俺がブッ倒す。二人は、何も心配しなくていい」
あまりにもあっさりと。自分の半分程度の年齢でしかないはずの少年が言ってのけるので、ラルッツとしてはもはや笑ってしまうほどだ。
「はっ、はは……。どんだけ怖いもの知らずなんだよ、お前は……」
「こう見えて天轟闘宴の優勝者っすよ~俺は。怖いモンなんてねえって。……いやまあ、殴ったらすり抜けそうな幽霊とかじゃなきゃ」
冗談なのか本気なのか、場にかすかな笑いが満ちる。
「すげぇよ、やっぱりリューゴの兄貴は頼りになるなぁ!」
ガドガドはすっかり『拳撃』の腕っ節を信頼しているようだ。
弟分ほど純粋に楽観視できないラルッツとしては、恐怖の象徴でしかないミュッティやモノトラをバダルノイスに手配でもしてほしいところだったが、それは難しいだろう。
内通者が王宮内にいる以上、あの二人に情報は筒抜けとなるのだ。兵士や騎士、賞金稼ぎの手が及ばないよう秘密裏に補佐するだろうし、下手に追い込みをかけた結果、連中がどういった反撃に出るのかは想像もつかない。
もし連中の手配を要請するのなら、一か八か……とにかく状況をかき回したいときなどの最終手段として考えておくべきだろう。
「おっと……もうこんな時間か……」
話も尽きないところだったが、ラルッツは店の柱時計に目をやりつつ切り出した。
「そんじゃまあ、今日はこんなところかね。ま、例の新しい布告も出た訳だしな。ちっとばかし、動向を見守ってみるのもありだろうよ」
「だな……」
流護らも頷き、場がお開きになりかけたときだった。
「…………少々、よろしいでしょうか……」
待ったの声をかけたのは、ここまで口数の少なかったグリーフット。当たり前ながら、解散の雰囲気になっていた皆が注目する。
「……先ほどの話ですが……僕ならば、可能です。ハルシュヴァルトの兵舎に通信術を飛ばすことが……」
「何だって?」
真っ先に眉を寄せるのはラルッツだ。他の者も皆、驚きの表情となっている。
「どういうことだ?」
「以前お話ししましたが……僕は、バダルノイスの人間です」
あ、と誰かの声がした。グリーフットの極めて高い技量、そしてこの国が故郷であることを思えば、確かに可能なのかもしれない。
しかし、である。
「おいおい。だったら、どうしてさっき言わなかったんだ」
先の通信術の話題が出たときに提案すべきだったろう。その至極当然なラルッツの疑問に対し、やはり美青年は悲哀の篭もった顔と声で答える。
「……これも先日お話ししましたね。『冒険者や傭兵には、やむにやまれぬ事情で本来の名を隠しつつ活動する者もいる』……と」
「! まさか……」
ハッと息をのむのはベルグレッテだ。
「はい。何を隠そう、僕自身もその一人……。悲しいことですが……本来の名を伏せる以上、やはり相応の理由というものが存在します。あまり人に話したくはない、複雑で悲しい事情というものが……」
だから、すぐには提案できなかった。迷いがあった。
場が静まり返る。厨房の奥から、皿を重ねる音だけが聞こえてきた。
「しかし……やはり、僕の力が役立つのであれば……と思いまして。僕が通信を送れば、おそらく兵舎は応じます。情報を入手することができるはずです……」
「で、ですが」
そこで歯止めをかけるのは、真っ先にこの案に同意したいはずのベルグレッテだ。
「もちろん、可能であるというのなら……私は助かります。しかし……グリーフットさんは、よろしいのですか」
「……ええ。きっとこれも、キュアレネーの思し召し……。今現在、バダルノイスで起きている不穏な何かが解決するのならば。是非とも、お願いします」