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終天の異世界と拳撃の騎士  作者: ふるろうた
12. アザー・オース
445/674

445. 想定外

 新たな年が始まって二番目の月となる浄芽じょうがの月、その二日目。

 早朝、天候は曇り。

 流護とベルグレッテは、ゴトフリー診療所から程近い市場へと買い出しにやってきていた。


「うへー。こんだけ寒くても混むもんだな……」


 平常日にもかかわらず、雪の除けられた雑踏は結構な人出で賑わっている。


「今日は降ってないから、その隙に買い込もうと考えた人が多いのかも……」


 暖かげなイヤーマフを装着したベルグレッテが推測を口にすると、その桜色の唇から白い息が立ち上っていく。


「なるほどな。ま、さっさと買って帰るべか」

「ええ、そうね」


 さして自粛などするつもりもないが、一応は狙われている身の上である。速やかに用事を済ませて戻るに越したことはないだろう。


「うーん……」


 ざっと店先を眺めつつ、流護は声を潜めて呟いた。


「……せっかくだから、エドヴィンにリンゴでも買ってってやろうと思ったけど……何か高くね?」

「冬のバダルノイスは食べ物の確保が難しくなるという話だから、どうしても値が張るんでしょうね……」

「そういやそうだったな……。まあいっか、金ない訳じゃないし」


 見れば品質も今ひとつのようだったが、それでもその中からよさげな代物を見繕って買っていく。 


「…………」

「ベル子? どうかしたか?」


 少女騎士が時折商品でなく周囲の人並みを注視していることに気付いた流護は、小声で問いかける。


「また誰かに見られてるとかか……?」

「あ。いえ、違うの」


 そう呟く彼女の目線を追えば、まだ若そうな男女と、その二人の間で手を引かれて歩く女の子の姿があった。仲睦まじい三人家族と思わしき、微笑ましい光景。

 ただ少し気になるのは、彼らのその格好だ。三人ともが色あせてほつれた衣類を身に着けており、上着も薄手でとてもこの策さを凌げる代物とは思えない。事実寒そうに身を寄せ合っており、女の子は頬や耳たぶを真っ赤に染めている。


「とうちゃん、おなかすいた! あれかって! たべたい!」

「ああ……すまんなぁ。あっちで我慢してくれな」

「えーっ……」

「こぉら、あんまりお父ちゃんを困らせちゃだめよ。うちはひもじいんだから……」


 ……そんな会話を残して通り過ぎていく一行の顔色が優れないのは、寒さのせいだけではなさそうだった。


(……いや、こうして見ると……)


 改めて周囲に目を向けてみると、気付く。

 寒そうに身を縮めた細身の女性が、軒先に並べられた小さな野菜に手を伸ばそうとしては引っ込めてを繰り返している。

 一方で、高価そうなコートを身に纏った恰幅のいい婦人が、多量の食料品を次々と買い込んでいる。


 貧富の差が大きいのだ。

 そして、圧倒的に前者の比率が多い。

 割高な商品をものともせず購入していくのは、ほんのごく一部の者だけだ。


「……未だ癒えていないのよね。かつての『試練』の傷痕が」


 呟くベルグレッテの声には悲哀が込められていた。


 総人口の三割が犠牲になったという大災害『滅死の抱擁(グルスァンブルス)』に始まり、『氷精狩り』、そして内戦。

 人、仕事、財産、生活。全てが踏みにじられ、壊されて。

 それらが残した爪痕は今もまだ消えることなく、こうして多くの国民たちを苛んでいる。

 先日通りかかった裏路地で移民の女性がぼやいていたが、純血のバダルノイス人にも苦しい生活を強いられている者は多いのだろう。


「事前にロック博士からも少し聞いてたけど、ほんと実際目にすると実感するな……って、前にも言ったっけか」


 この苦境を乗り越えるため主導者として選出されたのが、あの『真言の聖女』ことオームゾルフで―― 


「あら? まさかこのような場所で。おはようございます、お二人とも」


 と。いきなり横合いからかかった涼やかな女性の声音に、流護とベルグレッテは同時に振り向いた。

 そこには、白いフードを目深に被った人物の姿。灰色の大きな外套を羽織っており、本来の体格が分からないほど。

 白と灰色の何者か、としか表現しようがない。


「――」


 反射的にベルグレッテを守る形で前に出る流護――より早く、


「ああ、失礼いたしました。私です」


『彼女』がフードを少しまくり上げ、素顔を露出させた。

 目の覚めるような青銀色の美しい瞳と、同色の長い髪。小造りに整った、気品と知性を感じさせる顔立ち。


「おっ!? ……オ、オームゾルフ祀神長……!?」


 思わず大声を上げかけた流護は、慌ててトーンを落とした。

 見るからにお忍び、といったその姿。女王たる存在がこの場にいると知れれば、周囲の注目を集めてしまうだろう。

 ベルグレッテもさすがにこの遭遇は予想できなかったようで、信じられないように目をしばたたかせている。


「やはりお二人は、当然のように出歩いておられるのですねっ……」


 少しだけ眉を吊り上げたオームゾルフが、珍しくも不満げに口にする。


「え? い、いや……」


 別に後ろめたくはないはずなのだが、学校をずる休みして出歩いているところを先生に見つかったような気分だ。


「い、いや俺らはただちょっと買い出しに来ただけっすよ。って、それ言ったらそっちこそ……!」


 ほぼ宮殿から出ることがないというオームゾルフのほうこそ、なぜこのような場所にいるのか。

 人目を気にしてか再びフードを下ろした聖女が、小さく頷いて道の端へ寄る。流護たちもそれに倣って移動した。


「……昨夜より、レノーレの布告改訂版を正式に公表しました」

「!」


 ぽつりと告げられたオームゾルフの言に、流護とベルグレッテは揃って目を見張る。

 有力な情報を提供した者に、懸賞額の一割を支払うという内容だ。


「一夜明けて、現時点で百を超える情報が寄せられています」

「百……!? もうそんなにっすか」

「ええ。文官や兵の皆々に協力をいただき、早速ながら証言をまとめ始めています。ここから精査していった結果、どれほど信憑性の高いものが残るか……といったところでしょうか」

「うっへぇ……」


 思わず流護の口から苦い呻きが飛び出る。

 レノーレとメルティナの居場所を絞り込むための策。事前に悪質な情報を流した者には罰則を課すと釘こそ刺してはいるものの、かといって善意の証言に確度が約束される訳ではない。

 多量の砂の中から金の粒を探すような話だ。


「今の時点でも、この皇都の中でいくつか彼女らの目撃証言が集中している場所があります。人手はどれだけあっても困りませんし、これから捜索地点も増える一方……。ということで少しでも早く絞り込むべく、私も確認作業に加わろうと思いまして。候補となる現場へ赴こうとしている最中だったのです」

「って、オームゾルフ祀神長自らっすか……。いやそれにしたって、大丈夫なんですか? こんな街中を一人で……」

「ふふ。お気遣いは無用です。きちんと護衛が同伴しておりますので」


 なるほど確かに、言われて確認してみれば少し離れた道端で白灰色の外套に身を包み佇む大男たちの姿があった。


「それに……私は中流家庭の出ですから。幼少時や学生時代は、街の中で市井の民として暮らしていました。この市場も幾度となく利用したことがあります」


 フードの合間から覗くオームゾルフの青銀の瞳が、優しく細められる。

 当時を思い起こしているのだろうか。懐かしげに、それでいてどこか寂しげに。


「どう映りましたか?」

「え?」

「お二人の瞳に、この市場の様子は」


 答えを待つでもなく、


「先日は……バダルノイスの優れた面をお見せしたくて、老舗の料理店や美術館をお楽しみいただこうと考えました。……あのような事態になってしまい、恐縮な限りではございますが」

「いや……」

「率直に申せば、取り繕おうとしたのです。今のこの市場こそが、バダルノイスの現況を……真の姿をそのまま表している。縮図、と呼べるでしょう。高騰する物価、埋まることのない格差、解消せぬ貧困……未だ癒えぬ『試練』の傷が、皆を疲弊させている」


 少し目を伏せた聖女は、すぐにまた前を向いて。


「この苦境を打破することこそ、我が使命。皆が……民が安心して暮らせるバダルノイスを再興させることこそ、私がこの座に就いた意味なのです」


『真言の聖女』は、力強くそう宣言した。


「……オームゾルフさま――」


 名前を呼ぶベルグレッテの声が、一陣の強い風に上塗りされる。あまりに冷たすぎるその空気は、聖女の決意を嘲笑う悪意のようにも感じられた。


「……どうなんだろ。俺らも手伝ったほうがよくないっすかね。その情報まとめるの」


 ふとした思いつきだったが、流護たちとしてもレノーレの一件は早急にどうにかしたい。

 悪くない提案のはずだ……が、


「いえ。お二人の身の安全を考えたなら、兵士たちに交ざって現場へ向かわれるのは避けたほうがよろしいかと……」


 雑踏を眺めていたオームゾルフの顔が、窺うようにこちらを向く。


「……その話題に関連しますが、いかがでしょう。こちらでは、怪しげな動きを見せる者は未だ確認できておりません。そちらでは……内通者について、何か判明したことはござますでしょうか……?」


 ここで発せられる、そんな聖女の問い。


(……! これ……ミガシンティーアのこと言っといた方が……)


 そう考える流護だったが、


「いえ。未だ、その尻尾は掴めておりません」


 迷わず、ベルグレッテがそう返答してしまう。


「……そう、ですか」


 レノーレの件同様、進展なしと思ったゆえか。うつむいたオームゾルフに、ベルグレッテが続ける。


「ところで……オームゾルフさまならば、すでにお気づきかもしれません。レノーレの犯行動機についてです」

「ええ。レニン殿の治療が目的ではない……と?」


 そこで驚くのは流護である。


「え!? 知ってたんすか!?」

「いえ。内通者の懸念が生まれて以降レニン殿の警護を強化こそいたしましたが、そもそもそれ以前から内通者が潜んでいたのであれば……と気付きまして。ならば、未だレニン殿が連れ去られていない時点で……」


 それは先日のベルグレッテと全く同じ意見。

 オームゾルフもそこに思い至っていたのだ。


「ですが、何か裏があるのかもしれませんし……その仮定が的を射ていたとして、事態の進展に繋がるかどうかは疑問と判断いたしました。レノーレが近場に潜んでいるなら、そこを押さえたほうが早い――」


(それこそ今、その現場に行こうとしてたって訳だな……)


 確かに、当初から考えられていたレノーレの動機は覆ったかもしれない。

 しかしそれで捜査が進んだかと問われれば別の話で、むしろ根本からより大きな謎にぶち当たってしまったともいえる。

 解明の糸口が見つからないのであれば、そこに囚われていても仕方がない。


(ベル子は一応、心当たりがないでもないみたいなこと言ってたけど……)


 その内容はやはり確証が持てないとのことで、流護すらも教えてもらってはいない。


「……ただ、仮にレノーレとメルティナがこの皇都のどこかに潜んでいるとして……どのような手段で、検問を掻い潜って都市に出入りしているのか。これが分からないことには、追い詰めたとしても再び逃がしてしまう懸念がございます……」


 これは以前にもオームゾルフが問題視していたことだ。

 工業都市ユーバスルラで流護たちと一戦交えた後、少なくともメルティナはこの皇都に入り込んでいた。


「……オームゾルフさま。その件についてなのですが」


 と、ここでベルグレッテが口を開いた。


「その手口についてでしたら、心当たりがございます」

「! まことですか?」

「え、まじなん?」


 流護も初耳だった。


「ええ。おそらくですが、彼女らが都市への出入り口として利用しているのは――」


 近場で安売りでも始めたか、客を呼び込む店主の大きな声が響いてくる。

 それに紛れる形となった少女騎士の推測を耳にしたオームゾルフは、思わずといった面持ちで口元へ手のひらを宛てがった。


「……、……そのようなことがあったのですね……。しかし、まさか……」

「これについては、ほぼ確定と考えて間違いございません。もし彼女らが皇都に潜んでいるのなら……『ここ』を塞げば、確実に逃げ道を封じることができます」


(……そういうことか。それでベル子、この前……)


 あれは、グリーフットと初めて対面した時のこと。

 そこで交わされた会話の中で流護が感じた違和感は、『これ』だったのだ。

 

「……あとは、確実にレノーレたちを追い立てることさえ可能ならば……」

「ええ。もちろん今回の情報を統合・精査する作業において、内通者が存在するならばその妨害が入る可能性も考えられます。そこも念頭に置いて、対応していくつもりではございますが……」

「……あ!」


 と、オームゾルフのその発言で、流護もふと思い出した。

 今回の、レノーレに関する新たな公布。これを受けて、現時点で限りなく怪しいミガシンティーアはどう反応したのか。


「オームゾルフ祀神長。あの、ミガシンティーア……さん、のことなんすけど」


 せっかくの機会。これを尋ねておくことぐらいは問題ないはず。

 そう考えて口を開いた流護。

 その背後から、


「ククク。私がどうかなさいましたかな?」


 反射的に口をつぐみ、振り返った。


「どうも、お二方。このような朝早くから買い出しですかな? フフフフフフフ」


 丈長な真白の外套に全身を包んだ、その男。ロシア帽に似た大きな防寒具を深く被った『らしくない』装いだが、間違いない。


(こ、いつ……も、来てたのか……!)


雪嵐白騎士隊グラッシェラ・デュエラ』、ミガシンティーア・エルト・マーティボルグ。

 流護がわずかに目だけで隣のベルグレッテを窺うと、彼女は小さくコクリと頷いて白騎士に向き直った。


「おはようございます、ミガシンティーア殿。先ほどから、お買いものをなさっておられましたね」


(! だからか……)


『いえ。未だ、その正体は掴めておりません』


 先の、内通者について問われた折の少女騎士の即答。

 気付いていたのだ。この男がやってきていることに。


「ええ。フ、ククク。市場の雑多な雰囲気、嫌いではないのですよ。思わぬ掘り出し物に巡り合うこともありますしな。フフフ」


 そう言ってほくそ笑む長身の男は、その手にふかし芋を握っている。

 彼を見やったオームゾルフが珍しくも、少しこれ見よがしな溜息をついた。


「……どういった風の吹き回しか……今回の布告を受けて、真っ先に協力を申し出てくださりまして。無論、人手が多くて困ることはございませんので歓迎なのですが……、よろしいのですか? ミガシンティーア。スヴォールンが知れば、よい顔はなさいませんよ」

「クク。そのお言葉は、そのままお返しいたしましょうぞ。何、この大胆な策……実に面白いと思いまして。ならば乗るのも一興、と考えたまでですよ。ククククク」


(真っ先に協力した、だぁ……?)


 反対するどころか、率先して。

 どういうつもりなのか。


(……いやつーかあれじゃん、こいつが来ちまったら……!)


 現時点で限りなく黒に近しいこの男がいては、これ以上内通者の話などできない。

 サベルとエドヴィンが目覚めたことについても、口にする訳にはいかなくなってしまった。


「ところでリューゴ殿。先程、私がどうの……と仰っていたようですが。ククク」

「……いや。ちょうど今の話をしようと思ってたんす。今回の新しい布告の件、ミガシンティーアさんにも協力してもらえれば……って……」

「おお、左様でしたか。クククク」


(余裕そうにしやがって……。くそ、頼むぜ。ヘフネルさん……)


 先日彼に依頼した、料理店などの聞き込み。

 ここで意見陳情会に随伴したのがミガシンティーアであるとの確認が取れれば、言い逃れのできない証拠を得ることができるかもしれない。


 念じたところで、随伴した人物がミガシンティーアと確定する訳ではない。

 それでも、そう願わずにいられない流護だった。






 場所は皇都中心部に位置する、例の高級料理店。

 格調高い椅子に座ったヘフネルは、メニューを凝視したまま硬直していた。


(よっ……予想してたより、零の数が多いぞ……)


 快適な室温が保たれている店内にもかかわらず、冷や汗が伝いそうになる。

 ちなみに、この極寒の季節に過不足ない暖が提供されていることからも、やはり店の格が推し量れよう。


(ぼっ、僕の給金でこんなところに通ってたら、あっと言う間に破産だ……)


 何というか、格差とは無情である。

 しかし幸いというべきか、多少の蓄えや持ち合わせはあった。

 酒や女に金を注ぎ込むような趣味もなし、堅実に溜め込む性格がここで身を救ったといえる。たまの贅沢と思えばいいだけだ。


(け、けど、一番安いやつにしよう……それでもお高いけど……)


 ベルグレッテに言えば立て替えてもらえるとのことだったが、ここはあえて自腹を選択した。

 自分とて、バダルノイスに巣食う悪を暴くと決意した身。ベルグレッテや皆と対等な立場で捜査に協力したい。ここで金だけ負担してもらうのは違う気がするのだ。


「でっ、では、えーと……これで……お願いします……」


 料理名も基本的に長ったらしくて訳が分からない。記された文字を指差して伝えると、


「かしこまりました」


 完璧な業務用の笑顔を作った中年の男性店員が、見本のような丁寧さで注文を受諾した。すぐさま、音もなく奥の厨房へと消えていく。


「…………」


 改めて店内を見渡す。

 昼を少し回った時間帯。いかに平常日とはいえ、ヘフネル以外に客の姿はない。そこはもちろん、大衆が押しかけて盛り上がるような店ではないのだろうが――


(……この様子だと、経営の維持も大変なんじゃないか……?)


 店を開けておくだけでも経費がかかる。値段を考えれば、庶民がおいそれと利用することは難しい。

 貴族や金持ちご用達の老舗と聞くが、そもそも度重なる試練によって今や貴族の数が激減している。十二年前の内乱以前と今を比較すれば、売り上げには天地の差があるのではなかろうか。

 となれば――


(……充分ありえるぞ。エルサーさんみたいに、お金に困った事情があって……それで、例の勧誘に……)


「お待たせいたしました」


 運ばれてきたそれが、静かにテーブルへと置かれる。


「当店自家製の白雪冷茶ナーゼルとなります。当店では、食前に一杯お飲みいただくことをお願いしております。体内に溜まった澱を浄化するとともに、料理をより美味しくいただける効能がございます」


 きれいな乳白色をした食前茶。程度の差こそあれ、これを提供する飲食店は少なくない。バダルノイスでは多くの者に親しまれている飲料。無論、この店のものは最高品質の素材が用いられていることだろう。

 ちなみに、わざわざ注文はしていない。出てくることが当たり前なのだ。


「……いただきます」


 ヘフネルも例に漏れず、バダルノイス国民の一人として子供の頃から飲んでいる。

 よく冷えた喉越し。清涼な爽やかさが、身体の内側を浄化するように染み渡る。


(……うまい。……でもあの日は、これに支臓剤リテーアが仕込まれていたかもしれないのか)


 ベルグレッテのその推測。

 ちなみに仮に今回盛られていたとしても、結局はちょっと小便が近くなる程度だ。そもそも、見知らぬただの客に仕掛けてくるはずもない。飲むことに抵抗はなかった。


 そしてヘフネルは、ただ食事を堪能しにやってきた訳ではない。

 務めを果たすべく、事前に考えてきた質問を投げかけてみる。


「いやあ、噂には聞いていましたけど……このお店の白雪冷茶ナーゼルは格別ですね。えーと、どなたが作られているんですか?」


 傍らで佇む店員に尋ねると、彼は丁寧な所作で頭を垂れた。


「僭越ながら私が。お褒めに与り光栄にございます」

「あ、そうなんですか。では、料理はどなたが……?」

「はい、そちらも私が」

「えっ、そうなんですね。お一人でそんなに担当されるとなると、大変なのでは?」

「いえ……私自身の店ですので」

「え? あれ、じゃあ店長さんだったんですね……!」

「ええ、まあ。恐縮です」


 てっきり従業員の一人かと思っていた。

 驚いたが、あれこれ尋ねるには好都合でもある。


「他の店員さんは……おられないんですか?」

「私の他には数名ほど。交代制で、基本的には一人から二人で担当させていただいております。本日の勤務は私のみとなりますが、過不足なく対応させていただく所存ですのでご安心を……」

「ははあ、少数精鋭なんですね」

「いえ……それほど多くの従業員を雇う余裕もない、というのが実情でして。しかしながら少しでもお客様にご満足いただけるよう、日々精進させていただいております」


(……人を雇う余裕もない、か)


 謙遜か、それとも本音だろうか。

 ヘフネルには判断がつきかねるところだが、


「……そういえば店長さん。ついこないだ、美術館があんなことになったじゃないですか。びっくりしましたよね」

「ああ……、驚きましたね。由緒ある王立美術館でしたから。当店で食事をなさった後、あの美術館へ向かわれるという方も多かったので。どうにか復旧されるといいのですが……」


 店主の反応に白々しさは感じられない。

 例の一件とは無関係なのか。

 もしくはエルサーがそうだったように、必要最低限の情報しか知らされていないのか。であれば、支臓剤リテーアを盛っておきながらも、その目的までは把握していない可能性がある。

 ともあれ、予定通りに話を進めていく。


「ええ、はい。そういう日程で楽しむ人も多いみたいですね。そういえば確か……つい最近、オームゾルフ祀神長に招かれたお客人がたが、そうした日程で過ごしたとかなんとか……」

「…………ええ……、その方々でしたら……いらっしゃいましたよ。それも……まさに、美術館の火災があったあの日に」


 ヘフネルとて、曲がりなりにも兵士である。

 その狼狽を見逃しはしなかった。


「店長さんが……対応されたんですか?」

「…………ええ、まあ……」


 これまでの口ぶりとは異なる、明らかな歯切れの悪さ。


「……失礼します。そろそろ、煮込みが完了しますので……」


 露骨に目を逸らして。話を打ち切るように、店主はそそくさと厨房へ戻っていく。

 仮に何の事情も知らなかったとしても、どうしたのかと違和感を抱くほどの動揺ぶりだった。


(これは……、間違いないぞ。やっぱり盛っていたんだ……それも、この店長が……!)


 はっきり言質を取れた訳ではないが、もはや確定的と考えていい。

 そして、ここまでの会話からおおよその当たりもつく。

 店主はやはり例の『密命』を持ちかけられ、その誘いに乗った。ベルグレッテ一行に支臓剤リテーアを盛りはしたものの、その理由までは把握していないと思われる。今しがたの動揺ぶりとは裏腹に、美術館のくだりでは平然としていたからだ。ついでに言えば、その支臓剤リテーアを盛った相手の一人が美術館火災にかかわっていたことも知らないと見える。

 ヘフネルでも、この程度は察しがつく。


(よし。この件については、これで十分だ……)


 間が生まれてしまった以上、また戻ってくる店主にこの話題を引き続き持ちかけるのは不自然だ。ヘフネルに、そこを違和感なくやれるような話術はない。

 というより、すでに自分なりにかなり上手く聞き出せたのではないかと自画自賛する。


「……お待たせいたしました」

「おお! すごい!」


 運ばれてきた料理を前にして、世辞ではなく心からの声が漏れる。

 予算の都合で最も安い品を注文したのだが、それでも普段はお目にかかれないような逸品が登場した。ちなみに長ったらしいメニュー名から自分が何を頼んだのかすらもよく分かっていなかったが、卵を使ったリゾットとサラダ、小鉢のセットだった。その盛りつけの贅沢ぶりが半端ではない。


「では、ごゆっくり……」


 やはり気まずい思いがあるのか、先ほどとは打って変わってこの場に留まろうとしない店長に対し、


「あ、ちょ、ちょっと待ってください!」

「……何か?」

「ええっと、……、あ、フォークをいただけますか!」

「……フォークでしたら、そこのトレイにございます」

「あ、ああ! う、うっかりしてました!」


 去ろうとする彼を引き止めるための策だったが、こうなるあたりやはり自分は凡人なのだとヘフネルは改めて実感した。


「そ、それでですね! 話は変わるんですけど!」

「……何でしょう? 申し訳ありませんが、仕事がございますので……」

「いえ! 少しだけ! 色んな人に聞いているんですけど、参考に! ちょと、意見を伺いたくて! お時間は取らせませんので!」

「……何でしょうか……」


 観念した様子の店主に安堵しながらも、いつ気が変わるか分からない。逸る気持ちを抑えながら続ける。


「いえ、すいません。実は今度ですね、友人がオームゾルフ祀神長の意見陳情会に初めて参加することになったんですけど……僕はまだないんですよね。店長さんは、参加されたことってありますか?」


 もうひとつの疑問。

 店長はこの催しに参加していたのか。していたなら、その場で立ち会ったのは誰なのか。

 ベルグレッテの推測。敵は陳情会を通じて、エルサーや職員らの個人的な事情を掴んでいたのではないかという疑惑。


「……意見陳情会、ですか。ええ……参加したことは……ございますよ」

「! おお、そうなんですね!」


 そう。参加しているのは分かっていた。間違いないと踏んでいた。

 これは答え合わせなのだ。予想が的中していることを確認するための。

 ヘフネルはまだベルグレッテから詳細を聞いていないが、これに立ち会っていた人物が誰であるかで、いよいよ内通者の正体が確定するかもしれないと。


「ほら、オームゾルフ祀神長の付き添いが誰になるかで、その……色々とありそうじゃないですか。まぁそういうのもあって、事前にどんな感じなのか参考までに聞いてみたいなと思いまして。店長さんの時は、誰だったんですか……?」


 慎重に尋ね、思わず唾を飲み込む。

 その時、聖女に随伴したのは誰だったのか。どんな名前が飛び出すのか。


 そう身構えていたからこそ、


「いえ、それが……実は私の時は、想定外のことが起きてしまって」

「え? 想定外、ですか……?」


 ヘフネルはポカンとなった。店長も、その当時を思い出してか困惑するように眉を寄せる。


「ええ。後に聞きましたが、私以外でそのようなことはなかったとか。実は――」


 そうして店長の口から語られたその内容は、ヘフネルにとってまさに『想定外』のものだった。


「……、…そんなことが……?」

「ええ。そのような状況でしたが、出来得る限りの対応をいただいたと思います」


(……だと、するなら……? どうなる? これ……おかしいぞ。意見陳情会は、関係ないんじゃ……?)


 おそらく、ベルグレッテとて想定していまい。こんな展開は。何しろ、こんなのは間違いなく『偶然そうなっただけ』だ。


「ですので、ご心配は不要かと思いますよ」

「? 心配? 何の話……です?」

「いえ……お友達が参加なさるのでしょう? 何やら、意見を参考にとのことでしたので……どんな形であれ、きちんと対応いただけるかと」

「あっ、ああ……そ、そうですね。あ、ありがとうございます……」


 衝撃のあまり、そんな建前の理由もすっ飛んでしまっていた。


 この後、亡くなった美術館の職員ニクラスについても同様の内容を調査する予定だ。

 が、しかし。


(…………、どういうことなんだ……ぼ、僕にはもう……訳が分からないぞ)


 現時点で、大事な前提を崩されてしまったような。

 ただそんな焦燥感が、若兵の裡をざわつかせていた。

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[気になる点] この章不穏なこと多すぎる・・・ [一言] ヘフネル、頑張れ
[一言] ヘフネルさん、話の流れで殺されそうですごく心配です
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