444. 遠回りの果てに
どこまでも広がる花畑。
空は青く澄み渡り、雲ひとつない快晴が見渡す限り続いている。
「…………」
ここはどこだ、とエドヴィン・ガウルは不思議に思った。
なぜ自分はこんな場所にいるのか。そんな疑問が浮かんだのも一瞬のこと、エドヴィンは自然と歩を進めていく。そうしなければならない気がした。
とはいえ、まるで見覚えのない場所。もちろん道も何も分からない。
花畑を割って延々と続く、街道のような筋に沿って歩いていると――
「……ン」
やがて分岐路に差しかかった。道は右と左の二択。その中央に、雑な木製の看板がポツンと立っている。
そこには素っ気なく黒字でこう記されていた。
『 ←メリアーティスの別荘 Styx→』
「……はァ?」
これを見ても、どちらへ行けばいいのか分からない。
左へ行けば誰かの別荘らしいが、右は――
(んだぁこりゃ、古代イリスタニア語か? 何て書いてあんのか分かんねー)
自分がどこにいるかも不明な以上、左へ進んで素直に人に道を聞くのもいいだろう。だがそれより、
(……右に行ったら、何があるってんだ……?)
好奇心を刺激された。
昔からそうなのだ。人の普通とは逆をやりたがる。そんな捻くれた性格なのである。
危険そうなら引き返せばいいだけのこと。さして深く考えず、右の道を選択した。
しばらく進むと、次第に耳に届いてくる音があった。
(……こりゃ……近くに川があんのか)
水のせせらぎに違いない。
少しずつ大きくなってくるそれを聞きながら進んでいくと――
「……お!」
道沿いに、大きな川がその姿を現した。
空からの光を照り返してキラキラと光っている美しい支流。その向こう岸には、こちら側と同じような花畑。遠方は白く靄がかかってぼやけている。そして――
(お、誰かいるじゃねーか)
少し先に桟橋があり、その隅で腰を下ろして釣りに興じている人影。
近づくにつれ、その姿がはっきりとしてくる。
そこで水面に糸を垂らしているのは――――自分自身。
エドヴィン・ガウルだった。
己がもう一人いることも別段おかしく思わず、エドヴィンは釣りをしている『自分』に話しかける。
「よー、釣れるか?」
言いながら彼の脇に置いてある桶を覗けば、何も入ってはいなかった。何をやってもダメな自分らしい、と妙に納得する。そういえば子供の頃、王都の街中を流れる川で釣りをして遊んだこともあったが、ろくな魚が捕れなかった覚えがある。
「なぁ。もうよ、終わりでいーんじゃねーの?」
光に揺れる水の流れを見つめながら、『もう一人のエドヴィン』がつまらなそうにそんなことを言ってきた。
「俺ぁ、アリウミやダイゴス……ベルとも違う。どんだけ頑張ってもよ、あいつらみてーにゃなれやしねー」
「……そーだな」
ドカリと『彼』の隣に腰掛け、魚の姿など一匹もない水辺を眺める。
一方で、もう一人のエドヴィンが続ける。釣糸を垂らしたまま、抑揚のない口ぶりで。
「俺は、とても一流の詠術士になんざなれねー。アリウミみてーな、拳で闘う英雄にもなれやしねー。結局は何者にもなれねぇ、ただの負け犬だ」
「そーだな……」
否定する気も起こらなかった。
何せ、現実が全てを物語っている。
学院では下から数えたほうが早い劣等生。模擬戦闘ならばそれなりなどと評価されているが、ベルグレッテやダイゴスたちには到底届かない。クレアリアにも、レノーレにも、今はバルクフォルトへ留学しているマリッセラにも敵わない。
そうして得意分野ですら一番になるどころか五指にも入れず、『これならば誰にも負けない』という特化した部分も持ち合わせていない。
己が肉体のみで全てを切り抜ける流護の出現に希望を抱き、自分なりに身体を鍛えたりもしてみたが、彼やガイセリウスのようにはなれないという事実を痛感しただけだった。
何をやっても何も成せない、ただの半端者。
――そして今回。
オルケスターの刺客に遭遇、撃破の大金星――かと思いきや、結局は敗北。
記憶も定かでないが、うっすらと聞こえてきた敵の会話から察するに、自分が死闘を演じた相手はまともな戦闘要員ですらなかったらしい。しかも、最終的には与えた傷すらも回復していたようだ。
もはや半端ですらない。完全なる無駄。
「……ヘッ」
隣で釣りに興じる『自分』は、まさしくそれを体現しているのだ。
何もいない川に糸を垂らし、訪れることのない釣果を待つ。全くの無駄な行い。
そんな彼が言うのだ。今一度。
「もう、終わりでいんじゃねーの?」
と。
エドヴィン・ガウルには何もない。気張ったところで、何の成果も残せない。
だから、ここまででいいのではないか――と。だからもう、『戻る必要もない』のではないか、と。
「…………」
見渡す限りの美しい花畑、清々しい青空。居心地はよさそうだ。何もかも忘れ、ずっとここに留まるのも悪くないかもしれない。
だが。
「なぁ。俺ぁ、気付いちまったんだけどよ」
秘密を告白するかのように、エドヴィンはもう一人の自分に独白する。
「別に俺は、『強く』なりてーワケじゃなかったんだ。あれだけ『強くなりてぇ』なんつってよ、身体鍛えたりしてたけどよ。本当の目的は、他のとこにあったんだ」
もちろん男児たるもの、『強さ』には憧れる。一番強くなれたなら、それはもう文句なしだ。
しかし、である。
「俺が欲しかったのは、強くなることで付いてくるオマケの方だったんだよ。強くなって、他の連中から一目置かれたかったんだ」
称賛を浴び、認められ、誰もが羨む存在に……特別な何かになりたかった。
「一目置かれるなら、別に『強さ』じゃなくてもよかったんだよ。笑っちまうだろ。俺自身、気付いてビックリしちまったぜ。てめーの、あまりの小物っぷりによ」
だから、子供の頃からツッパった。
他の連中と同じなんて御免だ、と。規則に反し、目立つことばかりやって。
突出した術才もなく、優れた頭脳もなく、恵まれた容姿でもないエドヴィンには、それが一番手っ取り早かった。むしろ、それしかなかった。
「あいつはやべー、すげーって言われたかったんだ」
そうして――あいつは馬鹿だ、どうしようもない、と後ろ指を指されるようになった。
「実際んとこはまるっきり逆の評価だもんな、ダセェ話だよ」
流護やガイセリウスに対する憧憬も同じ。
神詠術を使わずとも最強と称される、その特異性に惹かれたのだ。
生まれ持った魂心力の量で序列が決まってしまう、この世の中で。優れた神詠術を扱える者ほど勝ち組だという、その常識をぶち壊したかった。
それを実際に成し遂げた流護やガイセリウスが特別な存在として認知されていて、自分もそうなりたかった。
己が唯一、妥協せず突き詰めようとしていたはずの『強さ』。
真剣に目指していたつもりのそれは、人の評価を得るための手段でしかなかった。ただただ不誠実だった。
その事実に気付いてしまった。
「そんな風に、ロクでもねーことばっかやってきたからよ。『あれ』は、ちっとばかし新鮮っつーのかな……ワリと、衝撃的だった」
『……よかった。やっぱりエドヴィンさんは、いい人です』
「笑っちまうよなァ。この俺がよ、いい人だとよ。ったく、あの小娘は……俺のことなんざ、何も知らねーくせして」
『娘を助けていただいて、本当に感謝しています』
「………………でもよ、俺は……それが、嬉しかったんだ」
人に喜んでもらえた。感謝された。
今までにない昂ぶり。
胸の奥に広がった充足感。
「むしろよ、まさに俺が求めてたモンがそこにあったんだ。すげーって感謝されて、一目置かれて」
今なら分かる。面倒臭がりだという流護が、今も遊撃兵を続けている理由が。
――やはりエドヴィン・ガウルは本物の馬鹿だ。
ただひたすら、目指した方向とは逆の道を突き進んで。『ここ』にたどり着くため、十年以上も遠回りをしてしまったのだから。
「……レノーレのヤツが何か抱えてんのは明らかだ」
「……『感謝』されっかなァ。今回の一件、片付けたらよ」
「そりゃ今までにねぇ、ドでけぇヤマだからな。どーするよ? これがキッカケで、あいつに惚れられたりしちまったらよー」
「ケッ、バカ言ってんじゃねー。…………、……でもあいつよ、よく見るとその、カワイイ顔してんだよな……」
「…………」
「…………」
「って、そーじゃねーよバカ、何言ってんだバカ……!」
「は!? お前が言い出したんだろーがバカ……!」
そう。硬派エドヴィン・ガウル、残念ながら他に惚れた女がいる。真の男たるもの、浮ついた真似は許されない。
「ケッ、そんじゃ行くのかよ?」
面倒そうに言いつつも、見上げてくる彼の顔には笑みが浮かんでいる。
「オウよ」
こちらも、意気揚々と頷いた。
「あん時よ、オルケスターの連中は俺を殺り損ねた。……イヤ、どっちかっつーとあれは……」
消えていく意識の中で、二つの影が交わしていた会話。思考はまともに働かず、耳もろくに聞こえなくなっていたが、
「……ヤツらは、ワザと俺を見逃したよーに思えた」
「……だよな」
「ナメ腐りやがってよー」
「何のつもりかは知らねーが――」
『後悔させてやろーぜ』
その笑み、その言葉は完璧に重なって。
もう、ぶれない。
エドヴィン・ガウルという馬鹿が目指す先は、完全に定まった。
「さて、まずはやることがあんだろ」
未だ川面に糸を垂らすもう一人の自分に笑いかければ、
「ああ」
彼は釣竿を手放した。桟橋に落下したそれが、実体を持たぬ幻のように霧散していく。
「行くとすっか」
「オウ」
今はただ、目を覚ませばいい。
少なくともそれだけで、彼女は『喜ぶ』。
残念ながら、エドヴィンに対して特別な感情を抱いている訳ではない。しかし心優しいあの少女は、級友が無事だったとなれば間違いなく安堵するのだ。自分のことのように。
「俺が惚れたベルって女は、そーゆーヤツなんだよな」
「ああ、そーだな」
世界が白む。
遠い青空が、延々と続く花畑が、煌めく小川が、視界の全てが眩い光に包まれていき――――
消えていく。
何も見えないほどの白い闇が掃われ、次第に、ぼんやりと視界に何かが映り込んでくる。
……白い、見覚えのない天井。息をすれば、薄い薬の香りが鼻をつく。
そして、
「……エド……、ヴィン……?」
恐る恐るといった様子で覗き込んでくる、美しい藍色の少女。耳に違和感があり、声がよく聞こえない。それでも、彼女の声を聞き間違えはしない。
随分と久しぶりに、その顔を見たような気がする。
「オウ……」
軽く返事をしたつもりが、喉が張りついていた。さっきまでの花畑と違い、ろくに声すら発せないことに気付く。
身体も痛い。それでも、言わなくてはならない。
「……心配、かけた、かよ……?」
ベルグレッテは、ぐしぐしと自分の目元を拭って。
「……かけたわよ、思いっきり……当たり前じゃない……」
鼻をすすったその声は、震えていた。
ああ、やはりそうなのだ。
エドヴィン・ガウルがこれからどういった道を歩んでいくのかは、本人にもまだ分からない。それでも、今は思うのだ。
「エドヴィン……よかった。……よかった、本当に……っ」
この少女が『喜んで』くれる。
「……すまねーな……。『帰ってきた』、ぜ」
それだけで、目覚めた価値は充分にあったのだ――と。