442. 母の答え
「なるほど……この本の山は、そういうことなんすね……」
流護とベルグレッテは自分たちが運んできたそれらで埋まる机上を見やりながら、納得の息をつく。
「ええ。学ぶことが多すぎて、どれだけ読んでも追いつかないわ」
そう。先のやり取りからこの人物がレノーレの母親であることを察した流護たちだったが、考えてみればレニンは記憶喪失の身。
当然、自らが生まれ育ったバダルノイスという国についての知識も完全に無となってしまっている。
ゆえに大量の本を紐解き、その詳細や歴史について学んでいたのだ。
「つい先日までは図書室を利用していたのだけど……二日ほど前かしら。オームゾルフ祀神長に、あまり部屋から出ないように言われてしまって。それで、学者さんたちから本を借りてくる形にしたのだけれど」
(二日前? 部屋から出ないように……? 何でそんな……あ、)
なぜオームゾルフがそんなことを言いつけたのかと一瞬疑問に思った流護だったが、すぐに思い至る。
(あの朝、移送の件を断った詫びを入れに行った時……内通者の可能性をベル子が言ったからだ)
王宮内部に潜んでいる『ユダ』とレノーレは同じオルケスター。つまりその敵がレニンを連れ去ってしまうようなことがあれば、それだけでレノーレは目的を遂げられる。
レニンはレニンで記憶喪失、ありとあらゆる知識を欠いた状態なのだ。強引な真似をせずとも、もっともらしい理屈をつけて王宮外に連れ出すことはそう難しくないはずだ。
「って、あんまり部屋から出ないように言われてたのに、いいんすか。本借りに出ちゃったりして……」
例えばたった今しがたの廊下で遭遇したのが、自分たちでなく内通者だったなら。思わずヒヤリとする流護なのだが、
「長々と外にいない分には構わないって言われているわ。よく分からないけれど」
「そ、そうなんすか」
いいのかそれで。
そんな流護の不安感をよそに、事情を聞かされていないらしいレニンは満足げな笑顔を作る。
「けれど……私もレノーレのことについて聞けて、よかったわ」
「いえ……」
ベルグレッテが控えめに受け答える。
「楽しそうにやっていたみたいで、何よりだわ……」
満足げに頷いたのも一瞬のこと。
「今の私は……自分のお腹を痛めて生んだはずのあの子のことすら、忘れてしまっている身だから……」
重くのしかかるその言葉。
「全てを忘れ去ってしまった私は、あの日……『初めて会った』あの子に、どちら様? なんて問いかけてしまって。けれどあの子は、気丈にも……」
『母様。あなたは……私の、母様です。私は……レノーレ。あなたの、娘です』
「本当に……強くて、まっすぐな子。そんなあの子に少しでも報いるために……私は、かつての母としての姿を取り戻そうと考えました。けれど……」
しばらくためらいがちな空白の時間を置いて、
「私は……レノーレにとって、決して良い母親ではなかったのです」
罪を独白するかのような。
その物悲しい母の顔を見ていられず、流護は思わず口を出す。
「い、いやでも……レノーレは何より母ちゃんが……母親が大事だったって聞きましたよ。レニンさんの喜ぶ顔が見たくて、宮廷詠術士になって……ずっと頑張り続けてたって。レノーレにとって、レニンさんは全てだったって」
「ええ。つまりかつての私は……そうして、あの子に一流の詠術士であることを『強いてしまった』。本来ならば多感な子供時代に得られたはずの、友人や遊び、思い出……そういったものと引き換えに」
「!」
流護は思わず言葉に詰まった。
「学校に行きたかった」。
ミディール学院へやってきたレノーレの動機。単純極まりないそれは、これまで叶わなかった切なる願いだ。
「それだけではありません」
母の懺悔は続く。
「私は……レニンという人間は、そうしてひたむきに励み続けた彼女を……突き放したのです」
「え?」
「……私が以前、どのような人間だったのか。それを知るために、色々な方に話をお聞きしました。そこは私自身が直接尋ねているからか、皆さん遠慮がちな様子でしたが……ただ、いくつか気付くことがありました」
レニンは重い口ぶりで語り始めた。
まず、彼女を前にした皆が一様に緊張しきりな面持ちであったこと。特に若い詠術士などは、怯えた風にすら見えたという。
大半の者が見せる、過剰なほど畏まった態度や愛想笑い。
そうした反応から、概ねの予想はつく。
「宮廷詠術士の見本。多大な実績を残した偉人。レニンという人物は、概してそんな風に讃えられていたようですが……極めて気難しい人柄だったと考えられます」
「まあ、でも……、一流の詠術士の家系ですし、それぐらいは」
何で俺が擁護してんだろう、と思いつつ流護が食い下がる。
するとしばし無言でいたレニンだが、おもむろに立ち上がって部屋の片隅にある鏡台へと向かっていく。引き出しから一冊の本を取り出し、すぐに戻ってくる。
「これを……」
遠慮がちに――しかし意を決したように差し出されたそれは、表紙に何も書かれていない薄い本。色褪せた紙の状態から、結構な年月が経っているものだろう。
「何ですか? これ……」
「私の日記です。大まかで構いません、ご覧になっていただけますか」
「え、日記!? いや、そんな……いいんすか」
「ええ。『かつての私』が書いたものですから」
「じゃあ、失礼して……」
恐る恐る頁を開くと、ここまで黙って話を聞いていたベルグレッテもレニンに断りを入れて覗き込んできた。
『本日、レノーレが晴れて宮廷詠術士となった。バダルノイス史上最年少での認定とのことで、大変喜ばしい栄誉であるが、慢心は許されない。今後も、より厳しく指導に当たっていく。けれど、今日ぐらいは素直に褒めてあげても良いだろう。おめでとう、レノーレ。さすがは私の愛する一人娘ね』
『レノーレが教団から依頼された仕事を迅速にやり遂げたようだ。司祭が大層喜ばれていたとのこと。私も鼻が高い。今日は奮発して、あの子の好きな夕食にしてあげたいと思う』
『レノーレの作成した手配書が切っ掛けで、罪人の一人が捕縛された。実際に捕まった人物と似顔絵は瓜二つで、王宮の皆も大層驚いていた。親馬鹿ながら、あの子は実に多才だ。正直、私にこのような絵の才はない』
ざっと目にする限り、レノーレが宮廷詠術士となって以降の出来事が断片的に記されている。
(こうして見ると……レノーレ、すげえペースで仕事こなしてんな。しかも評判いいみたいだし。デキる女、って感じ……つっても、宮廷詠術士になった頃って中学生ぐらいの年齢なんだったけか。すげえな……)
文学少女な見た目に反し、何をやってもそつなくこなす。学院でもそうだった。
そのような万能さは、幼少の頃から宮廷詠術士を目指し……そして実際に任命された後も仕事をこなしていくことで身につけたものだったのだろう。
あの無表情でシュバババと迅速に働いている様が思い浮かんで少しコミカルだったが、次の文章で眉をひそめることになる。
『レノーレはすっかり王宮の仕事に慣れた模様。しかし、相変わらずよく喋ってよく笑う子だ。誰に似てこんなに明るい性格になったのだろう?』
(ん……?)
違和感を覚えたのはベルグレッテも同じだったようで、思わず互いに顔を見合わせる。
きっと、言いたいことは一緒に違いない。
「……頁を……めくってみましょう」
「……、ああ」
『レノーレの評価が日々着実に上がってきているようで、実に喜ばしい。そんな愛娘は、相も変わらず私にあれこれと報告してくれる。本当にお喋りな子。おてんばで、いたずらっ子で明るくて。けれど、幸せだ。私が願った道を、この子はまっすぐに……ひたむきに邁進してくれている。このような幸を授けてくださったキュアレネーに感謝を』
やはり間違いない。
(レノーレが……よく喋る……? おてんばで、いたずらっ子……?)
少なくとも流護が知る彼女とは正反対。
『私も歳だろうか。最近、細かな術の制御が上手くいかなくなってきた。しかしレノーレの手本であり続けなければ。弱音など吐いてはいられない』
『ここのところ、ひどく調子が悪い。しかしこれもキュアレネーの試練に違いない。精進しなければ』
『本日、レノーレが「凍雪嵐」の二つ名を授かった。国内で最年少の栄誉となるようだ。私も負けてはいられない』
『私の不調に反し、レノーレは随分と評判を上げているようだ。今日の私は朝から集中力を欠き、やや苛ついていた。昼食時、レノーレが仕事の成果について嬉しそうに報告してきた際、反射的に「うるさい」と言い放ってしまった。はっとした娘の顔を見て、私も我に返った。レノーレは私の望み通り一流の詠術士となって頑張っているというのに、何ということを言ってしまったのだろう。ごめんね、とレノーレを抱き締めた。二度とこのような過ちを犯さぬよう、戒めとして書き記しておく』
『また術が制御できず、依頼者に迷惑をかけてしまった。一時的な不調と思っていたが……そろそろ身を引くべき時がやってきたのだろうか。だが、皆がまだまだ私に期待を寄せている。後進の育成も済んでいない。何より、娘の手本であり続けなければならない。国一番の宮廷詠術士として、先頭を走り続けなければならない』
『またレノーレに怒鳴りつけてしまった。あの子は何も悪くなどないのに。我ながらどうかしている。しかし、歯止めが利かないのだ』
『レノーレはどうしてこんなにお喋りなの? 私を元気づけようとしてくれているのかもしれないが、少し静かにしてほしい』
『「大丈夫」? 「少し休んだほうがいい」? 上から目線で何のつもりか。うるさい』
(……、これ……って)
雲行きが怪しくなってきた。自然、流護の口の中に苦いものが込み上げてくる……。
『最近、レノーレが笑顔を見せなくなった。口数も減った。静かになったのはいいが、こちらの顔色を窺うような態度が腹立たしく感じる』
『レノーレ、お前は私を超えたつもりでいるの? 誰のおかげで今の地位を授かれたと? 黙りこくったって、お前の考えなんて手に取るように分かる。心配するふりをして、私を見下しているのだ。調子に乗るな』
その後は文章の体をなしていない暴言の羅列、文字ですらない何かをグシャグシャと書きなぐった跡、そして破かれた頁……。
本の中ほどで、日記の更新は止まっていた。
(……、こ、りゃあ…………)
一体何を見せられてしまったのか。期せず流護の思考が停止する。
隣のベルグレッテについても同じ。息をのんだ様子から、顔を見ずともその心境は窺える。
重苦しい沈黙の中、日記の持ち主……かつてそうだった人物、というべきだろうか。彼女が静かに口を開いた。
「レニン・シュリエ・グロースヴィッツは……どれだけバダルノイスに尽くした功績があろうとも、一人の母親としては最低の人間だったのです――」
先ほどまでと違い、流護の口を突いて出る言葉もない。
「私自身、かつての記憶の手掛かりを求め、この日記を発見して……。期待に任せるまま目を通し、ただ愕然となりました。……見なければよかった、とさえ……」
「……、」
「早、一月も前の話になりますか……。レノーレが冬の休暇のためレインディールより帰ってきたと聞いた私は、いても立ってもいられず彼女の下へ出向き、伏して詫びました。……きっと、何も覚えていない私が謝ったとて、彼女の心には響かない。そうと分かっていても、懺悔せずにはいられませんでした……」
「……、そう、だったんすか。それで、レノーレは……何て?」
辛うじて絞り出した流護の問いに、
「……、一度記憶を失った者が言うのも烏滸がましい限りですが……それでも、私は『忘れない』と思うのです。あの時の、レノーレの言葉を」
『……母様の苦悩は、私が覚えています。……それは、見ているほうが苦しくなるような辛い日々の連続で。……きっと忘れられるなら、忘れてしまったほうがいい』
『……でも、それでも母様が記憶を取り戻したいと願うなら……私は力を尽くします。……今のままを望むのなら、それも喜んで受け入れます』
『……どちらでも、関係ないんです』
『……記憶がどうであれ……母様は、母様なのですから。……母様は、私のたった一人の家族なのですから……!』
「っ、レノーレ……」
吐き出すようなルグレッテの声が震える。
「どんな謗りだろうと受け入れるつもりでいたんですよ。なのにあの子は、恨み言どころか……」
宮廷詠術士の名家として、レニンが背負った重圧。娘を立派な一流に育て上げなければ。そして、己も確固たる規範であり続けなければ。
しかし力の衰えを自覚し始め、焦りが募る。
次第に抑えきれなくなっていく負の感情を、溢れるまま娘にぶつけるようになり――しかしその娘は、決して母を憎んだりはしなかった。それどころか、どこまでも母の身を案じていた。
(……でも、ストレスがなかったはずはねえ。この日記を読む限り、レノーレは昔は明るい性格だったんだ……)
うるさいと怒鳴られ、口をつぐむようになり。
宮廷詠術士となって以降、同僚から妬まれていたとも聞いている。そうした要因も重なって、今の人柄へと変わっていったのかもしれない。
物静かながら、たまに面白い発言が飛び出すというユニークな一面を併せ持つ変な少女。これは、元の性格が顔を覗かせていたのか。
(……、やっと、分かってきたよ……)
何でもそつなくこなす、謎のクール系美少女レノーレ。
明らかになってみれば何のことはない。
彼女は――愛する母親の期待に応えるため、ひたむきに頑張っていただけの少女。特別でも珍しい訳でもない。どこにでもいる、ごく普通の女の子だったのだ。
「……レニンさま」
ここまであまり喋らなかったベルグレッテが、極めて真剣な面持ちで問う。
「レニンさまは今、どのようにお考えなのでしょうか。失われた記憶を取り戻すべきか、それとも……」
わずかな逡巡の後。
「無論……バダルノイスのためを思うのならば、私はレニンの記憶を取り戻すべきです。宮廷詠術士として蓄えていた知識や経験の数々は、国としても失うには惜しい財産でしょうから。……ですが……」
彼女は、自らの両手のひらに視線を落として。
「全てを思い出したなら、『私』は……また、レノーレにつらく当たってしまうのではないか。あの子に対して抱いたであろう醜い負の感情までもが、再び甦ってしまうのではないか。そう考えると……」
かぶりを振って、消え入るような声で『今のレニン』は吐露する。
「逃げ……なのかもしれません。あの子に過去の仕打ちを詫びるなら、かつての私でなければ意味もないのでしょう。母として今度こそ過ちは犯さぬと、迷わず言うべきなのでしょう。しかし……記憶の戻った『私』は、果たしてどう動くのか。今の私が抱く思いは、どうなってしまうのか……。分からない、自分自身でも。ただ、怖いのです」
何という苦悩。
これが、記憶喪失。
(……、)
いかに不可抗力とはいえ、かつてこの症状を偽った流護は自責の念を抱いてしまう。
「皆……当たり前のように私の記憶が戻ることを望んでいます。お医者様やレノーレも、治療の手掛かりはないかと懸命に調べてくれていたようです」
「…………」
その話を聞いた流護の脳裏に甦るのは、あの冬の日……学院の書庫で出会ったレノーレとの会話だ。
『……何が切っ掛けで記憶を取り戻したの?』
『記憶が戻る前後で、心身に何か変化はあった?』
『記憶を失う前と後、両方のことを覚えてるの?』
『記憶がなかった期間はどのくらい? お医者様には診てもらった?』
全ては母のために。
あの物静かな少女が、取り乱すほど必死になって。
「…………あれは……レノーレが姿を消す少し前のこと。そうして葛藤する私に、あの子は言ってくれたのですよ」
レニンはかすかな微笑みを浮かべ、胸に手を当てた。
「……『無理をして、記憶を戻す必要なんてない』と。本当に、どこまでも優しい子で。……今の私に、お腹を痛めて彼女を生んだ記憶はございません。これまで一緒に過ごしてきた思い出もありません。それでも……我が過去の過ちを少しでも清算するために、今度は『良き母』として……生まれ変わった気持ちで、あの子に接していけるのなら……」
「――――……レニンさま……」
「……うふふ、内緒ですよ? もちろん、かつてのレニンに戻らなくてよいだなんて……バダルノイスを思えば、許されることではありませんから……。けれど、レノーレがそれで構わないと言うのなら、私は……」
それが、『今の』彼女の……母の答え。
「……だから私は、信じられないのです。あのレノーレが、国を挙げて追われる存在となっているだなんて……。今の私に、あの子を語るほどの知識も資格もないことは百も承知です。しかしそれでも……悪事に手を染めるような子でないことは分かります。きっと、何かの間違いだと。オームゾルフ祀神長も、彼女を処刑するつもりで手配している訳ではないようですが……」
沈痛な面持ちの『母』に、『親友』が言う。強く、光の宿った眼差しで。
「……レニンさま。私は、レノーレを連れ戻すために……彼女の無実を証明するために、このバダルノイスへとやってきました。そして」
胸に手を当て、高らかに宣言する。
「今も、その気持ちは変わりません。しばしの間、お待ちください。私が……彼女の潔白を、必ず証明してみせますから」
可否はともかくとして、その言葉は予想していないものだったのだろう。
「……ありがとう。まさか、『娘』に味方してくださる人がいただなんて……本当に……本当に、嬉しいわ」
少しだけ目元を潤ませたその表情は……きっと、良き母のものに違いなかった。




