441. 重要人物
「うーん……出てきちゃったけど……よかったのか?」
寒く薄暗い宮殿の廊下を歩きながら、流護は頭を掻く。
何しろ、サベルが回復したことやミガシンティーアが怪しいという疑惑について、まだオームゾルフに話せていなかったのだ。
「仕方ないわ。機会はまたあるわよ。それに……」
ベルグレッテは、辺りを窺うように声を潜める。
「サベルさんの件はまだしも……『氏』の話については、おいそれと憶測を語るわけにはいかないわ」
「いやでもよ、くそ怪しいじゃん。ほとんど確定だろ」
『雪嵐白騎士隊』の一人……ミガシンティーアが、『黒』である可能性。もはや、いかにしてその尻尾を掴むか……その段階まで来ているはずだ。
「『怪しい』だけで決めつけることはできないわ。現状、確たる証拠はなにひとつないんだから」
「そら、そうかもだけどさ……」
ベルグレッテの鋭さや推理力は今や神がかり的だが、さすがに慎重すぎるのではないかと流護には思える。
「私たちは今……綱渡りをしている最中なの」
「? 綱渡り?」
もちろん例えだろう。しかし今ひとつピンとこない流護は眉を動かす。
「届くかも分からない対岸へ向かって、頼りない足場の上を歩いている途中。一気に駆け抜けることもできるかもしれない。けど……少しでも踏み間違えば、すぐに真っ逆さま」
ミガシンティーアを内通者と決めつけ、オームゾルフに報告することはできる。しかし、もし違っていたら――ということだろう。
流護たちはここまで、招聘されていながら何ひとつ貢献できていない。ここでバダルノイスの精鋭部隊の一員が怪しいなどと声高に叫び、仮にそれが違っていれば……。
(使えねーどころの騒ぎじゃねーな……。オルケスターと全然関係ないバダルノイス人に刺されちまってもおかしくねーか……)
そんな『無能』を呼んでしまったオームゾルフの名誉にもかかわってくる。
「まあ、あれか。オームゾルフ祀神長の言ってた告知で、ミガシンティーアがどう動くかだよな」
「そうね……」
とはいえ、よくよく考えてみれば露骨に反対するのも怪しまれる。
となれば一旦は同意し、水面下でオルケスターに情報を横流しする……といった行動に出るかもしれない。
やはり焦らず、ヘフネルの調査結果も待ってみるべきか。
「……はー、ひたすら捜査と待ちが多くてもどかしいな。つかベル子、今日はこれからどうする?」
「そうね……エドヴィンの看病もしないと……」
そんな会話をしながら少し手狭な廊下の角を曲がると、対面からやってくる人影があった。
年齢は五十歳前後だろうか。どこか気品漂う、黒いローブに身を包んだ女性。胸元まで伸びた髪は金色。その身なりと相俟って、薄暗い廊下の燭台に照らされるその姿はおとぎ話の魔女のようだ。
(おっと……)
流護もベルグレッテも、その女性とすれ違うに当たり心持ち隅へ寄った。というのも、彼女が両手いっぱいに荷物を抱えていたからだ。
分厚い書物を何冊も積み重ね、重そうに運んでいる。その通行の邪魔にならないよう、道を空けたのだった。
気付いた女性が、かすかに頭を下げてくる。
流護たちも軽く会釈を返し、そのまますれ違った。
……のだが、ベルグレッテは少し振り返って、本を運ぶ女性の後ろ姿を見つめる。
何だかんだ長い付き合いとなる間柄。流護は、今の少女騎士の心中を手に取るように察することができた。
(あー……大変そうだし、手伝って差し上げるべきかしら……とか思ってますねこの顔は。間違いない)
などと考えた直後だった。
「ああっ……!」
女性のかすかな悲鳴と同時、一番上に積まれていた本が床に滑り落ち、バンと大きな音を響かせる。
「あらもう、やってしまったわね……」
それを拾い上げようと屈んだ彼女だったが、その拍子に他の数冊が次々と落ちてしまう。
「ああ、もう……あらあら……」
結局ほとんどの本を足下にばら撒く結果となり、女性は目に見えて肩を落とした。
……そしてやはり、そんな光景を黙って見過ごすベルグレッテではない。
「あの、大丈夫ですか?」
すぐさま寄っていき、本を拾う手伝いを始める。
「ああ、申し訳ありません。ありがとうございます」
言葉通りすまなそうな面持ちをする女性に対し、少女騎士は「いえ」と笑顔を返した。
(ったく、ベル子も相変わらずお人好しっていうか……)
自分たちは一応、この宮殿内に敵がいる身。他人の世話を焼いている場合でもないのだが、優等生な彼女らしいといえばそうなのだろう。
「……えっと、こっちにも一冊ありますよ」
結局、流護も二人の死角に落ちていた本を拾い上げた。
「あらっ、ありがとうございます」
女性は少し皺のある顔を綻ばせ、丁寧に受け取る。
(……にしても辞書みたいな分厚さだな、これ……)
表紙には文字も絵もなく、一見しただけでは何の本だか分からない。ハードカバー風のそれは、優に千ページを超えていそうだ。こんなものを女性の細腕で何冊も運ぶとなれば、結構な重労働に違いない。
ベルグレッテも同じことを考えたようで、
「あの、これらはどちらまで? よろしければ、お運びいたします」
そんな風に提案する。
「あらそんな! そこまでしていただくわけには……」
それに対する女性の反応も予想通りというか。
ここで埒の明かない遠慮合戦に突入しても仕方ないので、流護も口を出していく。
「こんな重いの、足の上にでも落としたら大変すよ。俺らのことは気にしないで大丈夫っす、手伝います」
半ば強引に申し出るが、
「いえ、しかし……私は……」
女性もなかなかに頑なだ。
「ケガしてからじゃ遅いっすから。任せてください。どうせ暇なんで」
何だかんだ流護自身、すっかりお節介になってしまったとの自覚がある。遊撃兵としての職業病みたいなものか、とにかくグリムクロウズにやってくる以前では考えられなかったことだ。……以前はもっと、他人に興味なんて持たない現代っ子だった。
ようやくに観念したか、女性も弱々しく首肯した。
「すみません。では、お言葉に甘えて……」
流護だけでも全部運べるが、そこは手伝いなのでベルグレッテと二人で分担する。
「えっと、どこまで持ってくんですか?」
目的地を尋ねる少年に、女性はやはりすまなそうに答えた。
「はい、私の部屋です」
「ああすみません、本当にありがとうございます。では、ここにお願いします」
部屋に到着し、指し示された円卓に本を積み上げる。
室内は質素な装いで、この宮殿にて流護たちに宛てがわれた客間とあまり変わらない印象だった。
(そいや、あの部屋も結局は最初に一泊しただけだったな……)
すでに荷物類も診療所へ移している。少なくともオルケスター関連の問題が解決しない限り、今後泊まることもないだろう。
「えーと、それじゃ俺らはこれで」
「失礼いたします」
では、と退室しようとした流護たちだったが、
「あ! お二人とも、ちょっとお待ちになって」
両手を打ち合わせた女性が声を張る。
「せめてものお礼に、お茶の一杯でもご馳走させてくださいな。ささ、そこの椅子にお掛けになって。遠慮なさらず」
「え? あ、えーと」
返事をする間もなく、女性は部屋の奥に引っ込んでいってしまった。
「……ありゃ。どうする? ベル子さん」
「う、うーん」
無理矢理に帰ってしまうのも気が引ける。
所在なく立ち尽くしていると、ポットとカップ一式の載ったトレイを手にした女性が戻ってきた。
「ささ、どうぞどうぞ。お座りくださいな」
判断は任せる、とばかりに流護がベルグレッテに目を向ければ、彼女は苦笑しつつ頷いた。
「ありがとうございます。では、少しだけお言葉に甘えさせていただいて……」
相手もすっかりその気になってしまっている。頑として断るのも悪いし、またそれほどまでに拒否する理由もない。
(まさか、この人が敵の刺客ってこともねえだろうし……ねえよな……?)
いつぞやのベルグレッテではないが、誰も彼も疑ってしまうのは考えものだ。たまたま顔を合わせただけ、しかもこんな人のよさそうな初老の女性が『黒』だったなら、もはや人間不信になってしまいそうである。
それに仮に敵だったとしても、このバダルノイスで毒が用いられることはない。つまり最悪、茶を飲んでも死にはしない。
勧められた椅子に二人横並びで座り、部屋の主が持て成しの準備を進める様子を眺める。
(そいやこの人、どういう人なんだろ……。使用人とかじゃなさそうだし)
立派な身なりや宮殿内に部屋を持っていることから、貴族ではないかとの想像はつく。
ただ、それにしては腰が低い。
明らかに余所者だと分かる流護たちに対し、本を運んでもらった恩があるにしても丁寧すぎるほどだ。
(スヴォールンみてえなヤツ見てると、尚更な……)
などと考えていると、
「お二人は、その……バダルノイスの人、ではないわよね?」
向こうから質問が飛んできた。
「はい。我々はレインディールの者です。このたび、ゆえあってオームゾルフさまの招聘に応じ、この地へやって参りました」
属する『派閥』によっては、流護たちのことをよく知らない者もいる。
先日知ったそんな事情を踏まえてという訳でもなかろうが、ベルグレッテが端的に素性と立場を明かした。
……のだが、
「……! ……そう、レイン、ディール……。オームゾルフ……祀神長に。……なるほど、招かれてやってきたお客様、なのね」
「……?」
何だろうか。ひとつひとつの単語を噛み締めるような。自分に言い聞かせるかのような反芻。
「レインディールは……相当に遠いのでしょう? まだお若いのに、こんな雪国まで……」
「そうすね。まあ、色々ありまして……」
流護が答えるが、女性は少しうつむきがちにお茶の準備を進めている。どちらかといえば独り言のようだった。
しばし、茶器と匙の触れ合う音のみが部屋を満たす。
(何だろ。急に元気がなくなったっつーか……)
ほどなくして、紅茶の美味しそうな香りが漂ってきた。
「……お待たせいたしました。ささ、どうぞ。お召し上がりくださいな」
流護たちはそれぞれ礼を述べてカップを受け取り、挨拶の後に口へと運ぶ。
部屋の主たる女性はといえば、なぜか妙に落ち着かない様子でソワソワしていた。
「あの、あなたたちは……」
ややあって、彼女が意を決したように呟く。
「はい」
ベルグレッテがカップを置きながらそう受け答えて、たっぷり十秒ほども経っただろうか。
「その……レインディールにある、ミディール学院……という学舎はご存じかしら……?」
女性の口からいきなり飛び出したその名前。流護は内心で驚いたが、ベルグレッテは動じぬ笑顔をもって頷いた。
「はい。私はそのミディール学院にて、生徒として在籍しております」
まあ、と目を剥いた女性は、絶句したように口元を手で覆う。
(……。いや……さっきから、この人の反応……もしかして)
まさか、と流護の脳裏に浮かんだ疑問。ベルグレッテは、それより早く感づいていたのだろう。その問いを投げかける。
「……あの、失礼ながら……もし間違っていたなら、申し訳ございません。あなたは……レニン・シュリエ・グロースヴィッツさまではございませんか……?」
かすか息をのんだ女性だったが、どこか観念したような面持ちとなる。
「……ええ、ごめんなさい。あなたたちのことを根掘り葉掘り尋ねておきながら、こちらは名乗らず失礼したわよね。私は……レニン・シュリエ・グロースヴィッツと申します。……ふふ、やはり私の名前はご存じなのね」
今現在、国を挙げて追われている賞金首レノーレ。その母親。
バダルノイス中の誰もが――外からやってきた冒険者や傭兵たちまでもが、知っていてもおかしくない名前。
なぜなら、世紀の大罪人の親なのだから。
と、レニンはそう考えたのだろう。
それらを正しく察したうえで、ベルグレッテという少女は毅然たる顔と声で言ってのけるのだ。
「はい。こちらこそ名乗り遅れまして、申し訳ございません。私は、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード……レインディールにて、準ロイヤルガードを務めさせていただいております。ミディール学院では、お嬢さんとは級友の間柄となります。僭越ながら私は、彼女を親友と考えております。今までも、そしてこれからも」
「親、……友」
「こちらは、遊撃兵を務めるリューゴ・アリウミ。レノーレの無実を証明するために協力してくれている、友人の一人です」
ベルグレッテに紹介され、少年は力強く頷く。
「そう……、そう、なのね」
レニンはかすかに声を詰まらせ、目頭へと指先を添える。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと……驚いてしまって」
無理もないだろう。まさか宮殿内で、それも異国の人間に、娘の友人を名乗られるとは思っていなかったはずだ。
流護たちはレニンの動揺が治まるまで、静かに紅茶をすすりながら待っていた。




