439. ホワイト・ピークス
「…………、」
バダルノイス北端部、コートウェル地方。
脈々と連なる白峰天山を望む平野に位置するカーリガルの街周辺は、冬となれば他のどの地域よりも厳しい寒さに見舞われる。
海が比較的近いため、風が強く降雪は少ない。しかしその風こそが人々にとって悩みの種で、特に白峰天山をから容赦なく吹きつける地薙颪は万物を凍てつかせることで知られていた。
外の見回りに出ようものなら、銀鎧は白い薄氷で隈なく覆われ、その肩口から小さな氷柱がいくつもぶら下がるほど。ちなみに、兜は耳当ての装着を前提とした大きさのものを被る必要がある。
冬季のこの地で勤める兵に特別手当が支払われるようになったのは、オームゾルフが主導者となって二年目のこと。
カーリガル生まれの正規兵、ボドン・ケーシスにしてみれば、祀神長様々と呼ばざるを得ないところだった。地方勤務のため中央の派閥争いとは無縁だが、『オームゾルフ派』に属してもいいと思ったぐらいである。
寒さこそ何かの罰かと思うような加減だが、ゆえに怨魔すらもあまり棲息しておらず、前述の通り雪も少ない。二十年も暮らした地元のため慣れているボドンにとっては、それなりに働きやすい環境。
……だったのだが、耳を疑うような通報が入ったのは数日前のこと。
「巨大な怨魔が近隣の林をうろついている」
ボドンも、街の住民たちも知っている。
極寒の地ゆえ、動物や怨魔の餌もろくに育たない。巨大な個体など、現れるはずがない。
あまり使われることのない物見櫓に登ったボドンは、先の通報を疑ったまま街の外に広がる林へと双眼鏡を向ける。
するとそこには、『怨魔補完書』でしか――挿絵でしか見たことのないような人外の怪物たちが蠢いていた。
例えるならそれは、悪魔に取り憑かれたヤギ。そう表現したくなるような、凶悪極まりない面構え。黒灰色の太い毛並みで覆われた、全長四マイレほどの生物。青く輝く眼光、そして顎下からはみ出した牙の群れは、人類との共存など到底不可能だと否が応なく思わせる。
カテゴリーAに属する怨魔、アンフィヴテルラ。しかも、その数は三体。
本の挿絵で眺めるのとは訳が違う。
その巨大な威容を前に、ボドンは腰を抜かしかけた。一目で理解した。本能が感じ取った。
街の全兵力をかき集めても、およそ太刀打ちできる相手ではないと。対応を誤れば、カーリガルが……自分の生まれ育った街が地図から消え去ると。
未曾有の事態である。
ボドンを始めとしたカーリガルの兵士たちにできることはたったふたつ。
中央に救援を要請し、あとは怪物たちが街に踏み入ってこないよう祈るだけ。
攻めるも守るもない。対策も糞もない。街の外壁と防護術を信じ、ひたすらに助けを待つ。災害級とも称されるその存在が、本物の災害さながらに自分たちを蹂躙せぬよう願って。
だが、国家最高戦力たるメルティナ・スノウが姿を眩ませていると聞く現状。あんな怨魔に対抗できる強者が、果たしてバダルノイス内に何人いることか――
そうして、眠るに眠れぬ夜を過ごすこと幾日か。
『リーヴァー、「雪嵐白騎士隊」のスヴォールンだ。応答せよ』
救世主がやってきた。
兵舎に届いた通信術の波紋へ飛びつくと、精鋭部隊の長と名高い男は全く抑揚のない声で告げる。
『これより我々は対象の征伐に移る。片付き次第一報を寄越す。貴様らはそれまでの間に、カラミド規格の荷馬車を準備しておけ』
――それから二時間後。
「…………、」
指定の場所に馬車を引いて赴いたボドンと駐在たち一行は、寒さも忘れて呆と立ち尽くしていた。
疎らな葉を落とした木々の合間、薄く積もった雪の上に横たわる怪物の骸。傍らに佇む白鎧の騎士団。数は十名。その中からやってきた人物――部隊の長たるスヴォールンが、こちらへとやってくるなりジロリと一瞥を飛ばす。
「遅いぞ」
「も、申し訳ございません。カーリガル駐在ボドン、以下十四名、ただいま到着致しました……」
あれほど恐ろしげだった怨魔たちは、全てが微動だにせぬ肉塊と化し、雪上へその巨体を投げ出していた。
目立つのは、死体の胸元から尻部にかけて穿たれている大きな風穴だ。まるで大砲の弾がそのまま貫通したかのような、円状の形跡。岩石のように分厚い肉や骨をものともせず。
(こっ……、これが……)
噂に聞いたことがあった。その名を、ブリオネク。
スヴォールン・シィア・グロースヴィッツによる必滅の攻撃術。全てを射抜く神の氷槍。その一撃によるものと考えて間違いない。
「……はっ」
呆けていてはまた咎められる。
「お、お怪我をされた方はおられませんか」
「いると思うか?」
「いっ、いえ。大変失礼致しました……」
気遣ったつもりの発言は、気難しい人柄で知られる団長の冷たい視線を引き出すだけに終わる。余計なごますりなどせず、早急に務めを果たしてしまうべきだろう。
「ぐ……お、重い」
駆けつけた者たち総出で、アンフィヴテルラの死体を馬車へと積み込む。
とはいえ、とても持ち上がるような大きさと重量ではないため、駐在たち全員で押し転がす。荷台へ引っ掻けた鉄板による勾配、そこからこの巨躯を押し上げる作業は至難を極めた。明日は足腰が立たないかもしれない。
「よ、よし、あと二匹……」
ランクAに属す怨魔の死体となれば、貴重にすぎる研究材料だ。また、この地域に現れた理由も不明であるため、調査は必須といえた。
つまり、死体をここに放置していく選択肢はない。このためにボドンたちは呼ばれたのだ。
「ぐ……くそ、上がらん……!」
「ぬうう……! お、重すぎる!」
荷台へ渡した鉄板の坂で、怪物の巨体が上がりきらずつっかえる。作業が難航する様子を見かねたか、スヴォールンは隠しもせず舌を打った。
「多少手荒に扱っても構わん、腹の底から力を込めろ。アンフィヴテルラは頑強で知られる怨魔だ。死体といえど、そう簡単に損壊はせん」
なるほど確かに、怪物の躯体は死後の硬直や寒さによる凍結を除いても異常なほど硬い。まるで岩石だ。その頑強な相手をものともせず貫いたスヴォールンの恐ろしさたるや、もはや想像を絶する。
「よし、そっち持って押し上げろ! せーの……!」
いっそ土砂袋を運ぶような心持ちで、ようやく二体目を積み込むことに成功する。続く三体目は比較的小さな個体だったため、さほど労せず乗せることができた。
「よし、こっちは大丈夫だ……。そっちは?」
「ああ……留めたぞ。これなら絶対に動かん」
走行中に死体が落ちぬよう荒縄で幾重にも固定し、不備がないことを念入りに確認する。かのスヴォールンの前で失態を犯そうものなら、どんな処分が下されるか分かったものではない。
「……全て整いました、スヴォールン卿」
「ご苦労。では、まずカーリガルの兵舎へ向かう」
「はっ!」
移動の段になり集まってくる『雪嵐白騎士隊』の顔ぶれを前に、ボドンは改めて驚倒する。
(ハハ、皆さんピンピンしてらっしゃる……。こんなとんでもねえ怨魔とやり合って、本当に誰一人ケガすらしてないのか……)
『雪嵐白騎士隊』。
バダルノイスが誇る至高の精鋭集団。王と切磋琢磨し、国をよりよい方向へと導いていくための機関でもある。
正規兵は皆、任命式の折に氷輝宮殿で彼らと顔を合わせている。場合によっては、今回のように任務で行動をともにすることもあった。
言うまでもなく、その戦闘力は折り紙つき。
(俺みたいのからすりゃ、皆さん雲の上の存在に違いないが……中でも、上位三人がずば抜けてる)
言うまでもなく長にして最強、あのメルティナ・スノウに互すると名高いスヴォールン。二つ名を、『五条穿身』。
彼自身が頑強と評したアンフィヴテルラの肉体に、易々と風穴を通す圧倒的な力。冷徹な性格と相俟って、バダルノイスでは皆にとって畏怖の象徴と呼べる人物だろう。
そして、
「お疲れではございませんか、スヴォールン様」
「問題ない」
容姿端麗な長の隣に立つ、地味な装いの青年。背中を丸め気味にし、どことなく陰気な雰囲気を漂わせる佇まい。
(人は見た目によらない、ってな……。『凍光剣』、ゲビ・ド・フォートゥーン)
上位三番目の実力者。
スヴォールンに絶対の忠誠を誓い付き従う、影のような男。
同僚が目の前で死にかけていてもまるで動じないが、スヴォールンがかすり傷のひとつでも負おうものなら発狂したみたいに取り乱す。
もはやその気遣いぶりは狂信の域。明らかに度を越していることから、「ゲビは男色家だ」と揶揄する者も少なくない。
(はっきり言って、何を考えてるか分からん気味悪い人だが……)
しかし、その実力は本物だ。
己が信奉する最強の長とともに、勝利を量産し続けるだけの技量を秘めている。スヴォールンや仲間の補佐など後方支援に徹することが多いが、単騎でもその戦闘力は極めて高い。
(で、『雪嵐白騎士隊』の二番手といやぁ……)
その姿を求め辺りに視線を巡らせたボドンは、
「…………あれ?」
ようやくに気付き、困惑に首を傾げた。
「どうした。出発するぞ」
冷ややかに見下ろしてくるスヴォールンの長躯を仰ぎつつ、ボドンはその疑問を投げかける。
「あ、ええと……まだ、ミガシンティーア卿がお見えになっていないようですが……」
そう。『雪嵐白騎士隊』の二位。一体何が楽しいやら、常に笑みを絶やさぬ『喜』の白騎士。遠目にも目立つ美丈夫だが、この場に姿がない。
一位のスヴォールンはといえば、実に素っ気なく言い放つ。
「奴は最初からおらぬ。これで全員だ」
「あ、さ、左様でしたか。で、では出発致します」
二番目の実力者が不在でこの戦果か。
もはや一兵卒のボドンには理解の及ばぬ域だが、改めて確信したことがある。
『雪嵐白騎士隊』がいれば、このバダルノイスは安泰に違いない――と。
さすがに積み込んだ荷物が重いため、軽快に馬を走らせることはできなかった。
幸い、カーリガルの街まではさしたる距離でもない。厳しい北風に吹かれながら、一行は黙々と徒歩で街道を進む。
スヴォールンの青い瞳は、前を行く馬車を――その後部に載せた『重すぎる荷物』を捉えていた。
「ゲビよ。貴様はどう見る」
意図を汲むには短い言葉。しかし敬愛する長の視を追ったゲビは、その意味を取り違えることなく答える。
「……不可解極まります。なぜこの地にアンフィヴテルラが三体も現れたか……」
飢えて迷い込んだ――などという理由はありえない。この怨魔の餌となる動植物は周辺地域に多く棲息している。それらを無視して、このような僻地にやってくるはずがない。
「やはり調査結果を待つしかないな。しばらくはカーリガルに留まることになるか」
「はい」
判明するかどうかは別として、アンフィヴテルラが現れた理由を調査しておく必要がある。厳格かつ誠実なスヴォールンは、決してこういった仕事に手を抜かない。
だからこそ、
(奴め……)
忠実な臣下として、ゲビは納得がいかない。
「……スヴォールン様」
「どうした。機嫌が悪いようだが」
「はっ。恐れながら、ミガシンティーアの奴めについてでございます。流石にこのところ、単独行動が目に余るのではと……」
確かに今回の任務、負傷者は出ていない。
だがそれは、己が普段以上に裏方に徹し、部隊を――スヴォールンを補佐し続けたからだ。そもそもあの男がいれば、より安定した火力で押し切ることができていた。
これからの調査についても同様。単純に人数が多ければ、その分だけ仕事は早く終わるのだから。
「オームゾルフ祀神長の依頼より自己都合を優先するなど、度が過ぎているように思われます」
言いながら、ゲビは内心自嘲した。『真言の聖女』に……教団から引き抜かれた世間知らずの小娘に対し、忠義など感じてはいない。己が尽くすのは、この世でスヴォールンただ一人。
ミガシンティーアを批難するための方便として、このような物言いをしただけにすぎない。
「先般、レインディールへ赴いた任務についても同じこと。奴には『雪嵐白騎士隊』としての自覚が足りておらぬように思います」
レノーレが属していたという『猫の国』くんだりの学院まで、わざわざ手掛かりを探しに行った折のことだ。これについてもミガシンティーアは、何のかんのと理由をつけ同行していない。
「フ、気に食わんか」
珍しくも、かすかに吊り上がる長の口角。
「あの男は自由よな。世辞にも騎士の鑑とは言い難い」
そんなスヴォールンの呟きだが、怒の情は感じられない。むしろ暗に一目置いている心の裡が伝わってきて、ゲビは言いようのない焦燥感を覚えた。
そうした忠臣の胸中には気付かず、長は切れ長の瞳をすっと細める。
「私も随分と長い付き合いになるが……正直、奴の考えは読み切れぬ。道化を演じているようでいながら、底に秘めている何かがある。油断ならぬ男よ。……だが」
珍しく躊躇うように一呼吸置いて。
「敢えて言うならば……血、なのだろうな」
スヴォールンは低く、そう呟いた。
「血……でございますか……?」
その意味するところを即座に察することができず、ゲビは己に舌打ちをした。敬愛するスヴォールンに無駄な説明を強いてしまうからだ。
「奴の系譜……マーティボルグの一族については貴様も知っておろう」
通称、『奇なる一族』。
当主は一見して人当たりのいい紳士ながら、怒らせると手がつけられない激情家。ある分家の姉妹令嬢はいつも笑顔を絶やさない。自分たちの親が死んだその瞬間ですらも変わらず。
全員が全員『そう』ではないが、どこか感情に壊れた部分を抱えている。そんな血脈だった。
そうした彼らであるが、優れた詠術士を輩出する系譜としても名高い。中でも分家の生まれながら史上最高の逸材と謳われたグリフィニアという名の少年が存在したが、やはり彼も『奇』を宿していた。その血が祟っての紆余曲折を経て、今は姿を消している。
道を外れねば、今頃はミガシンティーアと並び『雪嵐白騎士隊』の一員として名を連ねていたに違いない。
「喜怒哀楽。様々な情を抑えもせず発する彼らだが、根底にあるものは皆同じだ。――そうすることで充足感を得る。そうだな……悪し様に言い換えるなら、その『情』を得るためならば、手段など問わずあらゆるをやってのける」
――つまるところ。
壊れているのだ。マーティボルグは。
「奇異なる者には、正道が通じぬ。味方の間は扱いづらくも心強いが……敵に回せば、厄介なことこの上なかろうな」
「――以上であります。……僭越ながら私見となりますが、やはり間違いはないかと」
氷輝宮殿中央塔二階、階段踊り場。
部下からの報告を聞いて、窓辺に立つミガシンティーアはくくと喉奥で笑った。
「そうか、間違いないか。お前もそう思うか。フ、ク、ククク」
常に『喜』の顔を崩さぬ騎士であるが、ここのところその様相はより顕著だった。そんな彼の後ろ姿に向かって、部下の兵士は訝しげな声音で問う。
「しかし、なぜ今になって……。それに傭兵か冒険者でしょうか、仲間が力添えをしているらしい、との話も気になります。一体、何を企図してのことなのか」
一人は、ひげ面の冴えない細身男。もう一人は、その舎弟と思しき小太りの男だという。
ミガシンティーアはまるで意に介さず肩を揺らす。
「何、取り立てて奇異な話でもなかろう。貴人が平民と結託してならん決まりもあるまい。奴は為せるのだよ。凝り固まった既存の枠に囚われぬ、柔軟な対応が……とでも言おうかね。ククク」
それに、と白騎士は上機嫌に窓外を見やる。
「『雪嵐白騎士隊』と白士隊の関係とて、基本的には似たようなものだろう?」
貴族と平民、という身分で区別などされない。命のやり取りを通じて繋がった間柄。
「……確かに仰る通り。浅薄に過ぎる発言、失礼いたしました」
「フフ、気にするな。奴は知りたくてたまらんのだ。今の状況をな。それも当然、好きに泳がせたらよい。フ、ク、フフフフ……、……む?」
高みから眺める光景。この宮殿へと続く一本道に、兵たちの見慣れた銀色とは異なる姿が二つ。
やってくるその二人は、オームゾルフが招聘した異国の来訪者。リューゴ・アリウミなる少年と、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードなる少女騎士。
(おっと、ク、クク。おやおや。確かに、自由に出入りしたらよい……とは言ったがね)
狙われていると知りながら平然と赴くその心境はいかなるものか。
自分の立場をまるで理解していないのか。それとも、身の安全を確信するに足る何らかの保証があるのか。
「……フ、フフフクククク。……届かんよ」
片目をつぶり、遥か眼下を歩む少年少女へと手を伸ばす。ここからでは豆粒じみた小ささに映る二人の姿を、指先で摘まむように。
「何をしようとも――奴は、私に届かぬまま終わる」