438. 信奉者
天気は曇り。いつ降ってくるか分からない灰色の空。
すっかり宿泊場所となったゴトフリー診療所で、待合室のテーブルを挟んで向かい合う流護とベルグレッテ。
そんな二人の間……机上に、『それ』が置かれていた。
ブリリアントカットされたみたいに角張った、緑色の輝石。
その上部と下部は小さな木製の板に挟まれ、石には細かな金の刺繍があしらわれている。部屋にインテリアとして飾られていても違和感のない物品だった。
少しひび割れており、施された意匠もところどころ破損しているが、幸いにして『機能』は失われていない。
その石の表面を、ベルグレッテが中指の爪でキンと優しく弾く。
澄んだ残響も束の間、宝石にも似たそれは、美しい見た目にそぐわない耳障りな異音を発し始める。
ばき、ぐしゃり。ザザザ、と断続するノイズ。ガラスが割れるような甲高い音。
そして、
『ふははははは、は……! どうしタ!? 手も足も出んか!?』
低く篭もった、聞き取りづらい男の声。
「アルドミラール……とかいったっけか、こいつ」
流護の呟きに、ベルグレッテは「ん」と小さく頷いた。
記録晶石、と呼ばれる道具がある。
音鉱石と呼ばれる天然の鉱物を利用して造られた、いわば録音・再生用のアイテムだ。傭兵や冒険者が依頼内容を忘れないために用いたり、兵士が罪人を取り調べる折に活用したりと、その用途は幅広い。
――それは昨夜のこと。
数日ぶりに目覚めたサベル・アルハーノは、まず流護の無事を喜び、ジュリーの身を案じ、隣で眠るエドヴィンの惨状に悔しさを滲ませ、そして最後に――
『リューゴよ。ベルグレッテ嬢は?』
と、少女騎士の姿を探した。
簡単に事情を説明し、ジュリー共々不在であることを伝えると、
『……そうか。ところでリューゴ、俺の上着を知らないか?』
なぜ今そんなことを気にするのかとも思ったが、ジュリーが大事そうに畳んで待合室に置いていたと告げる。
『おお、捨てられてなくて何よりだ。悪いんだが、ちょっと持ってきてくれないか。ああ、もちろん出掛けようってんじゃない。まともに動けそうにゃないからな』
彼の意図を掴めないまま、すっかりボロボロになった茶色のジャケットを取ってくると、
『おっと、スマンな。はは……お気に入りの一着だったんだが、こりゃあ酷いもんだ……。……っと、よし、あった』
まだ思うように身体が動かないのだろう。ぎこちない仕草で内側の衣嚢を探ったサベルが取り出したもの……それが、記録晶石だった。
『途中からだが……壊れてなければ、これに俺と敵との闘いの音声が記録されてるはずだ。ベルグレッテ嬢なら、これを聞いて何か気付くことがあるかもしれん――』
刺客の名はアルドミラール。ボロ切れじみた黒マントを纏い、ノコギリと鉈が合わさったような得物を携えた、禿頭の殺人者。
闘いの最中、その強さに敗死を予感したサベルは、道具のひとつとして持ち歩いていた記録晶石を密かに起動させた。仮に自身が物言わぬ屍となっても、何らかの情報を残せるように。
『はは、まさか生きて渡せるとは思わなかったぜ』
死の淵から生還したトレジャーハンターは、悪戯小僧みたいに屈託なく笑うのだった。事態の進展の足がかりとなるだろう、その『宝物』を手土産として。
――その他、サベルの口から語られた美術館での出来事は、概ねベルグレッテの推理と一致していた。
閑所に立ち寄ったジュリーを外で待ち始めるや否や、やってきたのは一人の男性職員。その人物は「流護が急用で呼んでいる」などと告げ、ついてくるように言って慌ただしく走り去ってしまう。仕方なしに追った先、たどり着いたのは立ち入りを禁じられたはずの西棟第一展示室。
そこでサベルを待ち受けていたのが、オルケスターの一員と思しきアルドミラール。
この敵は案内役を務めた男性職員をこともなげに殺害、戦闘へ突入――。
以降の流れが、サベルの記録晶石に残されていた。
そうして現在、一夜明けて昼前。
ベルグレッテは先ほどから、その『録音内容』を繰り返し聞き続けている。
真剣そのものといった面持ちは、ボイスレコーダーの音声から犯人を割り出そうとしている刑事さながらだ。
『どうしタ? 反撃の手が止まっテいるぞ』
ぼそぼそと聞き取りづらいそれは、アルドミラールなる男の声。
記録晶石そのものが戦闘や高熱の影響で傷んでおり、ところどころ音が途切れがちになっていることも確かだが、
「つかこいつさ、滑舌悪すぎだろ。ド素人のネット配信かよ。何言ってるか分かりづれーわ、もっとはっきり喋れってんだよな」
流護が茶化すように悪態をつくと、
「『た』や『て』の発音が際立って独特に聞こえるわね。口や舌に大きなケガを負ったことがあるのかも……」
少女騎士が思案するようにそう指摘する。
地球でも捜査官とかでやってけそうっすねベル子さん、と感服する流護だった。
『そんなにやり返されたいのかい? まあちょっと待てよ、お前をどう焼こうか考えてる途中なんだ』
『そうかそうか』
石がサベルの服の内側に収められていたからか、彼のセリフに比べるとアルドミラールの声はやや遠い。これも聞き取りづらさを助長する一因だった。
両者の間で交わされるのは無論、言葉だけではない。激しい破砕音、耳をつんざく衝撃。聞いているだけでも想像できる激しい攻撃術の応酬、そして――
『無様ダな。逃げ回るしか出来んか? 先程まデの威勢はどこへ行っタ? サベル・アルハーノ』
『はっ。そう言うお前さんは、随分と調子に乗ってるじゃないか。他人から盗んだだけの力を振り回して』
『盗んダ……ダけ、デはない。元の持ち主以上、ダ。俺が振るうことデ、「こいつら」は真価を発揮するのダ』
優越感に満ちたアルドミラールのその語りに、ベルグレッテの双眸が鋭くすぼまる。
(ああ、怒ってる怒ってる……)
グリムクロウズの人々にとっては命と等価、もしくはそれ以上に大切な賜り物である神詠術。
これを抜き出し他者への移植を可能とするキンゾルの外法、『融合』。その行為によって人工的に造り出された、極めて強力な詠術士。
かつてベルグレッテ自身が苦戦を強いられたブランダルという男と同様、このアルドミラールもその禁忌に手を染めているようだった。
信心深い少女騎士は、当初から『融合』と人造強化詠術士に対し強い嫌悪感を示している。
「あだだだだだ……!」
と、そこでおもむろに聞こえてきたのはサベルの叫び。目の前の記録晶石からではない。出所は隣の病室、生声だ。
「ひゃっ、ごめんなさいサベル! 痛かった!? 痛かったわよね!?」
「なァに、生き延びてジュリーに世話してもらえるんだ……これしきの痛みなん、ぞぼっ!?」
「きゃああああ!」
「ぐうああぁ、生きてる証拠! 痛ぇのは、生きてる証拠だ! あぁ!」
「ああああ!」
「ああぁぁあ!?」
思わず流護とベルグレッテの頬も綻ぶ。
昨晩ようやく目覚めたサベルだが、もちろん本調子には程遠い……どころか、まだ自力で立ち上がることもままならない。
極めて高位の回復術を扱える者ならば即座に動けるぐらいまで治療することも可能らしいが、ベルグレッテでは不可能とのこと。医師の処置が終わっている以上、あとは自然回復に任せるしかないだろう。
『悲観することはないぞ、サベル・アルハーノ。子供デも分かる簡単な理屈ダ。複数の力を持つ俺に、単一の力しか持タんお前が敵うはずもない。それダけの話ダ』
眼前のテーブルに置かれた緑石は、サベルがそうなるに至った経緯をまざまざと垂れ流している。
『ク、クフ、ク、クククク、これはいい。これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな。血と汚物にまみれタその様は、実に無様デ壮観ダろう。そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ。うむ、まずは腹から掻っ捌いテやろう。自分の腹から腸と糞と小便が噴出する様を見せテやる。人生デ一度しか目にデきん、貴重な光景ダぞ』
際立って感じ取れるのは、このアルドミラールという男の猟奇性だ。
相手を残虐に殺めることを、心の底から楽しんでいる。こんな敵を前に、命を拾っただけでも僥倖といえるだろう。
『どうしタ? 落ち着き払っテ、観念しタつもりか? 先程も言っタダろう。一撃デ首を刎ねテ終わり――デは済まさん。恐怖ダ。恐怖と痛みで嘔吐するまデは殺さん。細かく……とテも元が人間ダっタとは思えんほどに細かく刻んデやろう。何なら、その肉片を連れの女に見せテやるのも一興ダ。その虚勢、すぐに剥ぎ取っテやろう――』
録音はそこで途切れていた。
サベルの言によれば、ここから相打ち狙いで部屋ごと敵を封殺にかかるも失敗。皆が知る美術館の火災へ繋がる流れとなる。
「ようベラベラ喋るよなこいつ……。ベル子、何か気付くこととかあったか? とりあえず俺には、このアルドミラールとかいう奴が変態殺人鬼ってことぐらいしか分からん」
「そうね……」
すでに繰り返し聞き続けたことで覚えてしまっているのか、彼女は手際よく石の一部分をキンと爪弾く。
録音内容は経過時間で区分けされており、触れる部位によって任意の部分からの途中再生が可能だ。
『ク、クフ、ク、クククク、これはいい。これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな。血と汚物にまみれタその様は、実に無様デ壮観ダろう。そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ。うむ、まずは腹から掻っ捌いテやろう。自分の腹から腸と糞と小便が噴出する様を見せテやる。人生デ一度しか目にデきん、貴重な光景ダぞ』
その語り口だけで、顔も知らないアルドミラールなる男の異常性が垣間見える。正直、あまり何度も聞きたいような声やセリフではない。
「やべーよ、絶対ぇやべーよこいつ……。滑舌悪いくせにめっちゃ早口だし。あと何でやたらグロ好きなんだよ」
流護が表情を渋くする一方、ベルグレッテは手遊びみたいに石の表面をキンと叩く。
『ク、クフ、ク、クククク、これはいい。これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな。血と汚物にまみれタその様は、実に無様デ壮観ダろう。そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ。うむ、まずは腹から掻っ捌いテやろう。自分の腹から腸と糞と小便が噴出する様を見せテやる。人生デ一度しか目にデきん、貴重な光景ダぞ』
キン。
『ク、クフ、ク、クククク、これはいい。これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな。血と汚物にまみれタその様は、実に無様デ壮観ダろう。そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ。うむ、まずは腹から掻っ捌いテやろう。自分の腹から腸と糞と小便が噴出する様を見せテやる。人生デ一度しか目にデきん、貴重な光景ダぞ』
キン。
『ク、クフ、ク、クククク、これはいい。これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな。血と汚物にまみれタその様は、実に無様デ壮観ダろう。そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ。うむ、まずは腹から掻っ捌いテやろう。自分の腹から腸と糞と小便が噴出する様を見せテやる。人生デ一度しか目にデきん、貴重な光景ダぞ』
ちょっと待て、と流護はつい口を挟んだ。
「いやベル子さん、そんな繰り返さなくていいから……」
よりにもよって何でこのパートなのか。
「リューゴ、おかしいと思わない?」
「え? いや、そりゃおかしいよ。何もかんもおかしいよ。こんなおかしい奴、そうそういねーよ」
「そうじゃなくて。この男……どうしてこんなことを言ったのかしら」
『これデお前の首を落とせば、ゾロゾロと逆流しテくるダろう。喉から……切断面から、食っタばかりの麺がな』
『そうダ、サベル・アルハーノよ。小便に行きタくないか? 行きタいはずダ』
「食べたばかりの麺が逆流する? サベルさんが『麺を食べたばかり』だと、どうして知っているのかしら。後者のセリフも同じ。サベルさんが、その……『尿意を催している』と確信しているような口ぶりだわ」
言われてみれば、と流護も考え込む。
「美術館でサベルとジュリーさん……、つかサベルは完全マークされてた訳だよな。てことは、外でもずっと前から……メシ中なんかも見張られてたってことか?」
「その可能性は否定できないわね。……けど、そこでひとつ気がかりなことがあって」
石を操作したベルグレッテが、その部分を再生する。
『小便に行きタくないか? 行きタいはずダ』
「この言葉、結果として外れているのよね。サベルさんはジュリーさんのお花摘みに付き添っただけで、ご自身は外で待っていた。さっきお話を聞いたけど、美術館にいる間も、とくにその……催したりはしなかったって。改めて音声も確認していただいたけど、言われてみればアルドミラールのこの部分の発言は少し変かも、って首を傾げておられたわ。奇妙な発言が目立つ相手だったから、戦闘中はさして気にされなかったみたいなんだけど」
「はあ、そうなんか」
推理に集中してもらうべく朝食の用意を引き受けていたため、流護としては初耳だった。
「つかさ、そうなると……このアルドミラールって奴、『サベルはションベンに行きたいはず』って勝手に思ってた訳だよな。実際は違うのに。……いや、何だこの話題……真面目に考える必要あんのか?」
『下の話』寄りというか、清楚なお嬢様であるベルグレッテもやや喋りづらそうにしている。
そもそもこのアルドミラールなる男は、あからさまな異常者だ。その発言の意味をまともに考えること自体が無駄である可能性も否定できない。
何か違う話題を……と流護なりに気遣った結果、
「あ! ションベンっていやさ。あの襲撃があった日、俺もやたらと近かったんだよな。ラルッツたちと会った店でもトイレばっか行ってたし。いや、メルティナの姉ちゃんとドンパチやってる最中に漏らさんでよかったよホント」
ふと思い出したことを突発的に喋ったため、極めてどうでもいい内容が飛び出した。
(……つか、言う必要ありましたかね? これ……)
と自省するも後の祭り。
ほれ見たことか、高潔な少女騎士は驚き顔で固まっている――
「……それ、本当なの? リューゴ」
「あ、え? 何が?」
思いのほか真剣な表情で尋ねられ、ついうろたえる。
「だからその……事件のあった日、近かった……って」
「ん? ああ、まあ……」
動揺しつつ頷くと、少女騎士は黙り込んでしまった。これはいけない。ションベンの近い人なんてイヤア! と思われてしまったのかもしれない、と一抹の不安が思春期少年の脳裡をよぎる。
「……なんか汚い話しちゃってすんません……、あとホラ、近かったのはお茶飲んだり寒かったりしたからであって……ベル子?」
が、ここで流護はようやく気付く。彼女は呆れて閉口したのではないのだと。
「ねえ、リューゴ。夕べ……あなたとヘフネルさんのやり取りを見たときに、少しハッとしたの」
「俺とヘフネルさん? 何かあったっけ?」
『ああヘフネルさん、おかわりあるっすよ。どうぞどうぞ』
『あっ、お構いなく。あまり飲むと、その……出すほうも近くなってしまうので』
「事件のあった日、アルドミラールはサベルさんが『催しているはず』と考えていた。ジュリーさんは実際にお花摘みに立ち寄った。それで……リューゴも、幾度となく尿意に苛まれた」
「に、ニョーイにサイナマレたって……。つかそれが、…………――」
どうかしたのか、と続くはずの言葉は出なかった。
(もしかして……)
流護自身、ある仮説にたどり着いたからだ。
職員によって行動を監視されていた美術館。それ以前から見張られていた可能性。
では、『それ以前』とはどこか?
「飯屋……」
そう、高級料理店で滅多に食べられないようなフルコースを堪能した。
そして。
美術館では、そこで働く職員がオルケスターに利用されていた。
では、『料理店でも同じようなことが行われていた』としたら――?
「料理に……仕込まれてたのか……?」
流護の呻きに、ベルグレッテは「おそらく」と推測の言葉でもって答える。明らかに確信を抱いている口調で。
「あの日……私は聞き込みに行った兵舎で一度だけお閑所を借りたぐらいだったから、この異常に気づくのが遅れちゃったけど……リューゴも『そうだった』って聞いて、疑惑はこれ以上ないほど深まったわ」
「……、」
では、具体的に何が仕込まれていたのか。たった今しがたの議論内容、その後の流護やジュリー、ベルグレッテが置かれた状況からして、
「まさか……利尿薬、か? 俺らの世界にある、ションベン行きたくなる薬なんだけど……こっちの世界にもあんのか?」
「ええ、それなら……私たちの世界では、支臓剤と呼ばれているわ。一般にお医者さまが扱っているから、きっとこの診療所にも常備してあるはずよ。そんなに強いお薬ではないから、『盛られた』とも思わない……」
流護の知識上どうしても地球での例えとなるが、フロセミド成分を用いたとある商品などは、経口投与からおよそ一時間程度で効果を発揮する。持続時間は約六時間。思えば今回の件、流護が実際に味わった症状とも近しい。
ちなみに利尿薬は、現在の格闘技界やスポーツ界では禁止薬物に指定されている。尿量が増えることで体内の水も増え、その体積も増加し、他の薬物の濃度を下げてしまえるからだ。ドーピングをごまかせる性質があるのだ。
学校の勉強は今ひとつの流護だったが、格闘技を嗜む者として無関係な話ではないため、一応こういった知識を備えていた。主に師匠経由で。彩花からは、勉強もそれぐらい頑張ってとよく言われたものだ。
「でも、利尿薬盛るとか、そんな……なんつーか……」
そこでふと少年の脳裏に甦ったのは、
『流護ちゃんよ。お前さんに、どうしてもブチのめしたい奴がいたとする。何とかタイマンに持ち込みたいが、そやつはいっつも仲間とツルんでて一人にならない。さて、どう狙うかえ?』
老いてなお生き生きとした、衰えを知らぬ師の教え。
『あるんじゃよ。強い奴、臆病な奴……何者でも例外なく、ほぼ確実に一人になる瞬間が。それ即ち――』
あれはサベルたちと出会ってすぐ、山越えを果たしたとき。
あのドラウトローとの戦闘で思いつくも、何の役にも立たないと放棄したその考えは――
『便所に行く時、じゃ』
「俺たちを……トイレに行かせて、分断しようとしたってことか……」
流護が至ったその答え。
一聞した限りでは馬鹿げているとすら思える仮定。
しかし少女騎士は重く首肯する。
「もし本当に『盛られていた』なら……そうなるでしょうね」
「っ、でもあれだ。俺とジュリーさん……あと一応ベル子にも効果あったみたいだけど、サベルは何ともなかったんだろ? そりゃどうしてなんだ? でも、アルド……何とかって奴は、サベルにも効いてると思ってたんだよな」
効果にムラがありすぎる。というより、狙った相手のうち半数に効いていないなど、策略としては杜撰と言わざるを得ない。
(いや、つか、これ……分断とかそれ以前にさ……)
まず流護ですら容易に思いつく、とある大きな疑問がある。
それを口にするより先に、ベルグレッテが話を進めていく。
「そうね。けど……サベルさんは、支臓剤が効かなかったわけじゃないの。摂取しなかっただけ。その事実を知らないアルドミラールは、あんな風にサベルさんを挑発した。奴はおそらく、私たち全員が『それ』を摂取したと思っていたんでしょうね。食事に支臓剤が使われるという話だけ聞いていて、実際に自分の目では見ていないんだと思う」
「……ベル子。薬が何に仕込まれてたのか、もう分かってるのか?」
彼女は小さくコクリと頷いて告げる。
「――白雪冷茶よ」
それは、食前酒代わりに提供された飲み物だ。
『当店では食前に一杯、この白雪冷茶をお飲みいただくことをお願いしております。体内に溜まった澱を浄化するとともに、料理をより美味しくいただける効能がございます』
店員が説明した、あの店での食事作法。
牛乳に似た乳白色の、冷たい飲み物。
「リューゴは何杯もおかわりしてたし、ジュリーさんも普通にいただいてた。私は……お花摘みが近くなるから、最初の一杯だけに留めた。サベルさんは『エンメリーフが苦手だから』と仰って、一切手をつけなかった。エドヴィンは作法を無視して先に食べちゃったから、結果として飲んでいないの」
「…………、」
「料理については、みんなが同じものを取り分けて同じようにいただいてる。口にした人としなかった人がはっきり分かれてるのは、この白雪冷茶のみよ」
『口にした』流護とジュリー、そしてベルグレッテは、その後頻度に差こそあれ尿意を催している。
『口にしなかった』サベルとエドヴィンは、当然ながら何もなかった。自覚もないまま、無意識にこの罠を回避した。
各人の症状と状況がピタリ合致する。
「い、いやでもよ……なんつーか、俺らを各個撃破するための仕込みにしちゃ、こう……いい加減ってか、雑じゃねーか? 馬鹿みてえな話、っつーかさ」
何せ、子供の悪戯ではないのだ。闇組織が目標を殺すために仕掛けた手段にしては、規模も小さく確実性もない。実際に、飲まなかった者が二人もいるのだ。
「それでも構わなかったの。現に私たちはここまで気づかなかったし、狙われたサベルさんは分断されて、危ないところまで追い込まれた。……充分に効果はあったのよ」
馬鹿みたいな話だからこそ、誰も考えなかった。寒い冬の時期、冷たい飲み物に混ぜられていたことで、その後の催しに疑問も抱かなかった。いい加減で雑な仕込みだったからこそ。それでもこれによって尿意を催した人間が一人でもいれば、その者を狙うことができる。
(……そういや、師匠も言ってたな……)
『便所ってのは、実のところ特殊な空間じゃ。若い頃、海外で連日連夜バーに入り浸った時期があったんじゃがね。大体、トラブルが起きるのはトイレなんよ。治安の悪い街なんかじゃ、屈強な大男にいきなりケツを狙われる可能性もある。マジじゃぞ』
『外という開けた環境にありながら、人目につかず単独になりやすい場。ケンカの舞台としちゃワリとポピュラーだしの、襲撃場所としても悪かない』
何より、行くか行かないかはこの際どうでもいい。
確実に集団の分断がなされる。その点こそが重要なのだ。
「それに、これはおそらくだけど……」
加えて、ベルグレッテはいくつかの推測を語る。
流護たちが昼食をとったのは、皇都でも有数の高級店。本来ならば、金持ちや貴族たちといった上流階級の人間が利用するような格調高い料理屋だ。
雰囲気が重視され、食前にお茶を嗜む、という作法に則って然るべき場。
エドヴィンのような、素直に人の指示に従わない悪童が訪れることなど想定すらしていない。本来であれば、そんな場所ではない。
サベルが茶に用いられている一般的な原料を苦手としたことについても、想定外ではあっただろう。
「『仕掛人』は、なんの疑いもなく『標的があの店の作法に従って白雪冷茶を飲む』と考えていた。なぜなら……その人物にとって、この作法は当たり前のことだったから。守らない者がいるなんて、想定すらしていないから」
ハッとした流護が、その予想を口にする。
「……そのマナーが当たり前……ってこたぁ、そいつはあの店をよく利用する人物なのか」
「それはまだ確定できないけど……私たちが珍しがった白雪冷茶を嗜むことが『当たり前』……だとするなら、間違いなくバダルノイスの生まれでしょうね」
加えて、外部からやってきたはずのオルケスターの者も、この罠に賛同し協力している。
「それだけの地位、実力……あるいはその双方を持ち合わせている人物――かもしれないわね」
バダルノイスにいる以上、バダルノイスの流儀で行う。それを押し通せる『力』がある。
「でも、敵も拍子抜けだったでしょうね。料理店で支臓剤を仕込んで、それぞれ用足しに行く私たちを個別に仕留めていくつもりだったんでしょうけど……」
そんなことをするまでもなく――昼食を終えた流護たち五人は、素直に美術館へは向かわず、自分から散り散りになってしまった。
そして、
「エドヴィンがハンドショットを持った奴に襲われて、俺のとこにはメルティナが来た……か」
話には聞いている。どうやらジュリーはターゲットではなかったと。狙われていたのは三人。実際に起きた結果から考えれば、サベル、エドヴィン、流護――となる。どうしてこの男三人なのかは不明だ。
「は、は……敵も笑ったろうな。こいつら、自分からバラけやがったぞって……」
流護としてはそれなりにこの世界で揉まれ、命を狙われてもさほど動じなくなってきた。
……だが今はそれよりも、大きな疑問が少年の脳内に立ちはだかっている。
「……ベル子。俺には一つ、どうしても分からないことがあるんだけど」
「? なにかしら?」
そう。それは先ほど、会話の途中で流護の脳裡に浮かんだ疑問だ。
ここまでの推論を展開したベルグレッテなら気付かないとは思えないほど、この話には前提の部分におかしな点が……穴がある。
「敵の目的はもちろん、俺らを殺すことだよな? サベルと闘った変態野郎が喋ってた内容からしても、それは間違いないと思うんだけど」
最終的にエドヴィンを見逃した意図は分からないが、原則これは確実なはず。
「ええ、そうね」
ややきょとんとした面持ちの聡明な彼女に、流護は告げる。まさか本当に気付いていないのか、言いたい気持ちで。
「なら敵は、何で『飲み物に利尿薬を混ぜる』なんて回りくどいことをしたんだ? どうせ混ぜるなら毒とかにすれば、そっちのがよっぽど確実だろ? それもあのお茶だけじゃなくて、食い物の方にも入れたりしてればさ。俺ら全員が確実に食って、みんなやられてたはずだと思うんだけど」
それなのだ。そもそも毒物なりで最初から一網打尽にしていれば、わざわざ分断だのを考える必要すらない。
その時点で狙われていることを知らなかった流護たちは、何も知らずに昼食をとってあっさりと全滅していたはずだ。ジュリーやベルグレッテはターゲットでないかもしれないが、かといってわざわざ避けてまで生かす必要もないだろう。
なのになぜ、それをしなかったのか?
流護が抱いた、この最大級の疑問。
これに対するベルグレッテの答えは、
「リューゴ。この間話した氷神キュアレネーの教義について、覚えてる?」
「?」
「キュアレネーが嫌うから、このバダルノイスで自死を図る者はいないし、毒が用いられることはない、っていう話」
「ああ…………、……っていやベル子、もしかして」
「それに加えて、環境が厳しいこの国では食べ物はとても大事にされるわ。ヘフネルさんが言っていたわよね。食べ物の実りが少ないって。『主』が厭う手段の踏み台にすることなんてできないのよ」
「……いや、そんな……ウソだろ?」
馬鹿げている。
オルケスターと密かに通じ、罪なき民を利用し、自らは姿を見せずに流護たちを抹殺しようとした何者か。
断言できる。
そんな輩は、紛うことなき本物の悪党だ。
なのに、
「そいつは……キュアレネーが毒を嫌うから、使えなかった……?」
加えて、食料は貴重。だから、『飲み物』に『毒以外』の薬を使った。
いやいやいや、と流護は自分で至ったその答えを即座に否定する。
「そんな素直に教義とか守ったりするようないい子ちゃんなら、そもそも俺らを殺そうとしないだろ……!?」
しかし、ベルグレッテはゆるりとかぶりを振る。
「リューゴの目には、きっと極めて異様に映ることと思う。けど、これがグリムクロウズにおける『信仰』なの」
なだらかな曲線を描くその胸に手を当てて。そう語る自らも決して例外ではないと、信心深い少女騎士は言外に告げている。
「……、」
流護とて、すでに理解しているつもりでいた。
この世界における絶対的な神への敬愛。親兄弟を裏切ろうとも、友人や恋人を騙そうとも、自らが信奉する『主』だけには決して背かない――。
(この『犯人』も……そんな中の一人、ってことなのか……)
闇組織と繋がり、バダルノイスという国家を欺いているとすら表現できるはずのその人物。しかしその者は、氷の女神キュアレネーを奉じ、彼女が厭う手段は決して用いない。例えそれが、より確実で楽なやり方であっても。
「……、まあ、それはそれとしてさ。『そいつ』は、俺らがあの飯屋と美術館に行くことを完全に把握してた訳だよな」
料理店で利尿剤を仕込ませ、美術館でアルドミラールを待機させた。
前もって流護たちの行動を知っていなければ、こんな周到な段取りはできまい。
「どこで『そいつ』は俺らの予定を知ったんだ? そもそもあの日、俺らが出かけることになったのはオームゾルフ祀神長の気まぐれで……」
『では皆様、本日のところは皇都の観光をお楽しみください!』
レノーレたちに逃げられ、事態が振り出しに戻った。沈みがちになる空気を払拭する意味合いも兼ねてだろう、聖女が提案した突発的な話。
言うなれば、その場のノリで決まったのだ。事前に定められていた日程などではない。
「他の誰かの耳に入る機会なんて……」
まさか、言い出しっぺ……一国の主たるオームゾルフが?
(……いや、そもそも俺らを呼んだのはあの人なんだ。刺客を仕向けるぐらいなら、最初から呼ばなければいい……)
なら。
(……………………他に、いるじゃねーか……)
そこで流護はたどり着く。
『……クク。どうも皆さん。私はミガシンティーア・エルト・マーティボルグ。『雪嵐白騎士隊』の一員です。隊長の命でしてね、騎士として一応の顔出しといいますか、本日の会議には私が同席させていただきます、ククク』
あの日、唐突に決まった流護たちの予定を知っていた人物。
内通者の正体。
財力、武力、統率力といったあらゆる『力』に秀でているであろう、高い地位を備えた人物。氷の女神キュアレネーが絶対視されるバダルノイス神帝国に仕える騎士。
昨夜、エルサーからの聞き取りでも出たというその名前。
あらゆる条件に合致する。自然と浮かび上がってきた、その存在。
もちろん、現段階では推測に過ぎない。
あの料理店で支臓剤が盛られた……『かもしれない』という仮定の元に展開された推論。
だが、これが真実かどうかは調べれば判明することだ。
そしてもしこの予想が的を射ているなら、もはや――
「!」
流護がそれを告げるより早く。テーブル付近の大気が、おもむろに波打った。
「……、通信術か」
ん、と頷いたベルグレッテが、指を閃かせて波紋を手繰り寄せる。
「リーヴァー、こちらベルグレッテ・フィズ・ガーティルードです」
『リーヴァー、こちらヘフネルです。ベルグレッテさんですね、おはようございます。昨夜はどうもでした』
揺らぐ虚空から響いてきたのは、すっかりおなじみとなった実直な若兵の声だった。
彼の言葉に交じり、人の喧騒らしきものが聞こえてくる。街中か宮殿か、とにかく通行量の多い場所にいるようだ。
「おはようございます、ヘフネルさん。昨夜はお世話さまでした。あの後、エルサーさんのご様子はいかがでしたか?」
『ええ、はい。ベルグレッテさんの説得で、随分と落ち着きを取り戻されたようでした。もう心配はいらないんじゃないかと』
「そうですか……、それなら安心しました」
『ああ、それでですね。彼女を送っていく道すがら、ベルグレッテさんのことについてしきりに尋ねられましたよ。一体何者なのかとか、只者じゃないでしょうとか。レインディールの騎士だと説明したら、驚きつつも納得されてました』
「あはは……。そうなのですね」
『ついには、「あんな素敵で優しい騎士さんがいるなら、レインディールに移住しちゃおうかな」なんて仰ってですね……。バダルノイスの兵を務める僕としては、何とも複雑な……、とと、すみません。話が逸れてしまいました。ええとですね、ベルグレッテさんにお伝えしなければならないことがあって、こうして連絡を差し上げた次第でして』
「私に、ですか?」
ゴホンと仕切り直したヘフネルが、兵士らしい口ぶりで本来の用件を告げる。
『オームゾルフ祀神長がお呼びです。本日午後一時に、氷輝宮殿へお越しいただきたいとのことです。急で申し訳ありません、とのことでしたが……可能でしょうか?』
流護とベルグレッテは思わず顔を見合わせた。
(直々の呼び出し、か。何かあったのか……?)
オームゾルフは内通者の存在を感知している。
先日、それを知っていながら宮殿へ赴いた流護たちに、危険だと諫言したほどだ。その事情を織り込んでなお、直に会って話さなければならないことがあるのか。
「承知しました。……リューゴの随伴があってもよろしいでしょうか?」
彼女の目線を受けて、指名された少年はうんうんと頷いておく。断る理由もない。
『あ、ええ、はい。同行者の指定は特にありませんでしたので、問題はないかと。……それにいかに宮殿内とはいえ、万が一を考えると……お一人は危ないでしょうし』
「ええ。では、私とリューゴの二名で伺います」
『承りました。では、そのようにオームゾルフ祀神長にお伝えしておきますね!』
ヘフネルの声はやけに明るく弾んでいる。その理由は、流護でも簡単に推理可能だ。
(報告ついでにオームゾルフ祀神長と話せるのが嬉しいんだろな……)
果たして彼の身分違いの恋が報われる日は来るのだろうか。
「あっ、ところでヘフネルさん。本日のご予定は?」
『僕ですか? 今日は特に何もないので、宮殿でのんびりするつもりでいますが……』
「そうでしたか。実はもしお手すきでしたら、ちょっとお願いしたいことがございまして……」
『ええ、はい。何でしょう? 僕にできることでしたら』
「詳しくは、そちらでお会いした際にお話しします。予定より少し早めに……そうですね、十二時半前後に伺いますので、勝手ながらそのときでもよろしいでしょうか?」
『あ、はい。大丈夫ですよ。じゃあ、自室で待機してますね』
では後ほど、と互い言い合って通信を終える。
そこであっと声を上げたのは流護だ。
「そいやベル子、サベルが復活したことは言わなくてよかったのか?」
ヘフネルも随分と彼を心配していた。無事目覚めたと知れば喜ぶことだろう。
「ん……ヘフネルさん、人通りの多い場所におられるみたいだったから」
「あ、それもそうか」
誰に聞かれるか分からない。先日もそうだったが、第三者の傍受を考えると、通信術での込み入ったやり取りは避けるが吉か。
敵がサベルの目覚めを知ったとして、どう動くかは未知数だ。
「……でも、ちょうどよかったかもな。オームゾルフ祀神長に報告するだろ? あのアルドミラールとかって変態野郎と――『あの野郎』のこと」
いよいよ確定的となった、内通者の正体。
特にアルドミラールについては、声が録音された記録晶石という証拠品もある。名前や外見的特徴も割れた以上、賞金首に指定することも可能なはずだ。
しかしベルグレッテはといえば、
「……、……それが……少し、難しいところなのよ」
もどかしげに、形のいい眉を寄せる。
「たとえば……アルドミラールがお尋ね者として手配されたとするわ。本人やオルケスターは、どう反応するかしら?」
「どう、って? そりゃ焦るんじゃね? ざまあ、って感じだわ」
ここまで実体が掴めなかった謎の組織、その一人がついに大っぴらに賞金首となるのだ。ようやくやり返すことができる。
「そうね、反撃に転じて意趣返しをしたいところだけど……まず一番最初に、疑問に思うんじゃないかしら。『どこから』アルドミラールの情報が漏れたのか」
「…………あ」
ここまで徹底して自らの存在を秘匿し続けているオルケスター。そんな中、姿を見せて直接サベルを襲ったアルドミラール。
「アルドミラールの情報が公になると……敵に、サベルが回復したことを知られるって訳か……」
生き残って回復したサベルが喋る以外に、あの刺客の情報が漏れる経路がないのだ。少なくとも現時点で、こちらが知る限りは。
実際のところサベルは記録晶石を仕込んでいたので、万が一彼が斃れてもその内容を得ることはできただろうが、さすがに敵はそんなことまで知るよしもない。
サベルが生き延びたことがオルケスターに知られれば、どう動いてくるかは未知数。現状を維持するためにも、今は下手に刺激しないほうがいいかもしれない。
「くっそ、まどろっこしいな……!」
なかなか思うように動けず、苛立ちが募ってしまう。
「ここまできて焦りは禁物よ。着実に足場を固めていきましょう」
「おう……」
ひとまず今は、午後からの予定に備える。
オームゾルフが何を企図しているのかで、今後の展開にも変化が起きるかもしれない。
――結果として、流護はすぐ知ることになる。
革新派だというエマーヌ・ルベ・オームゾルフという人物の、ベルグレッテに勝るとも劣らぬその柔軟な思考。既存の枠組みに囚われぬ、型破りの戦略を。