437. 静かで寒い夜に
夜も更けてきた雪の街を、女性二人が行く。
「ほんっと毎晩毎晩、冷えるわねぇ」
ジュリーの口元から立ち上る白い息。
「……そう、ですね」
ベルグレッテは曖昧な返事をするに留まった。
今この場にヘフネルはいない。しっかり回収してきた百万エスクをエルサーに渡した後、彼女を家へ送り届けるとのことで同伴していった。
怪しい依頼を受け、起きたことの重大さに怯えていたエルサーだが、命の危険はないとベルグレッテは判断、帰宅するよう説得した。
そもそも一行は、近隣住民への聞き込みや宿への問い合わせの結果、わずか二時間ほどで彼女の元へたどり着いている。敵に『その気』があったなら、とっくの昔に実行していたはずだ。
「ベルグレッテちゃん。どう思う? この件」
「……そう、ですね……」
先の会話と同じような返答が、自然に零れ出る。
エルサーが父親の治療のために欲していた金額が、百万エスク。今回、彼女が謎の男からの依頼で提示された金額もまた、百万エスク。
果たしてこの一致は偶然なのか。そうでないなら――
「ミガシンティーア……」
ジュリーがポツリと呟く。
エルサーが参加した意見陳情会……その場に同席していた、その騎士の名を。
ここまで情報が揃ったなら、誰もが想像する。
エルサーは父の病気を治療するため、百万エスクを欲していた。謎の依頼人――おそらくオルケスターの手の者――は、この事情を知っていた。必ず『乗ってくる』と判断し、同金額を提示した。その符合に、エルサーは動揺したはずだ。そして、ほぼ反射的に考えたのではなかろうか。「その金さえあれば」と。少なくも多くもないピタリ同額を提示することで、思考をそこに直結させ判断力を奪った。
では、仕掛け人はどこからエルサーの個人的な情報を入手したのか。
彼女が誰にも……意見陳情会以外では話していない、その事情を。
オルケスターと繋がっていたのは、誰なのか。
王宮に潜むと考えられる、その裏切り者の正体は――
「よくよく考えたら……真っ先にサベルとエドヴィンくんを王宮に移送しないかって提案してきたのは、『カレ』だったわね~」
ジュリーの目はかすかに据わっていて、少しでも刺激を与えようものなら爆発してしまいそうな危うさが感じられる。
「あの時点で知るはずもない、サベルとエドヴィンくんの容態もなぜか知っていた、っと」
『聞けば、お連れの方……男性二名が重傷を負われたそうで。まあ、命があって何よりといったところですが……そこでオームゾルフ祀神長より、お二人を王宮の治療室にお連れしたい……との話がございましてな』
オームゾルフを通じて事情を知った風な空気を出していたが、実際どうなのかなど分かりはしない。
「どうしてサベルを狙ったのか……どうしてあたしは蚊帳の外だったのか。エルサーちゃんの話じゃ他に二人狙われてたみたいだけど、あの日実際に襲撃を受けたのはエドヴィンくんとリューゴくんよね。ベルグレッテちゃんは結果として襲われてないんでしょ?」
少女騎士がコクリと頷くと、彼女は存外気楽な調子で「ま、いーわ」と微笑む。
「まどろっこしいことなんて全部すっ飛ばして、『黒幕』に訊けばハッキリしそうだし? どう思う?」
肯定しようものなら、今すぐミガシンティーアの首を獲りに行くとでも言い出しかねない雰囲気だった。
だからこそ、少女騎士は止め石になる必要がある。
「……『まだ』です、ジュリーさん。今回の一件……氏を黒と断ずる前に、知っておかねばならないことがふたつあります」
「二つ? まだ何かあるっていうの?」
「はい」
目を合わせて頷くと、ジュリーは案外あっさりと表情を和らげた。
「そ。まっ、ここまで来たら付き合うわよ。ベルグレッテちゃんの言うことなら信用できるしね。焦って失敗したら元も子もないし」
「ありがとう、ございます」
夜も更けた皇都を行く、女二人。
人の気配もなくなり、静かすぎるほどの夜半。
絶対にオルケスターの手の者が現れない、とは言い切れない――むしろ襲撃にはもってこいの状況。
ではあったものの、当然のように。
ついぞ、刺客に襲われるようなことはなかった。
珍しく雪が降らない夜。しかしその代償なのか、冷え込みは一段と厳しい。
「はー、くそさみー……」
待合室の暖炉に薪をくべながら、有海流護はズズと鼻をすすった。
これが終わったら、次はサベルとエドヴィンが眠る病室だ。意識のない二人が眠り続ける部屋なので、万が一の火災などを思うと暖炉をフル稼働させる訳にもいかない。かといって、しっかり暖めなければ凍死しかねないこの寒さ。
温術器、と呼ばれる異世界ならではの製品も併用しているが、この寒さの前ではいまいち力不足感が否めなかった。
「……ッ、ふえっくしょーい! ちきしょーめー!」
こんなとき、日本生まれの少年としてはやはり文明の利器が恋しくなる。
ストーブのボタンを押し込めば、後は待っているだけで得られる快適な室温。延長ボタンや給油ランプがピーピー点滅するたびに面倒だと思っていたが、そんなものは薪を入れて火かき棒でいじくり回す暖炉の手間に比べたなら苦でも何でもない。
(そんでも、これからは……)
結晶化した魂心力の発見により、レインディールでは新たな道具の開発が進められている。近い将来、ストーブやエアコンに負けないほど便利な『魔法の機器』が生み出されるかもしれない。
「…………、」
一人でいると、どうしても色々な考えが頭の中を渦巻く。
未だ眠り続ける彩花のこと。
シャロムを始めとした女性治療士が世話をしてくれているだろうが、もし自分がいない間に目覚めたら……と思うと、どうしても落ち着かない。レインディールを離れて長い。状況が変化している可能性はある。
そして、ハッピーエンドで終わる図式が見えない今回の一件。
レノーレがミディール学院へ戻ることは、もう叶わないのか。皆で過ごしていた日常の景色から、彼女は欠け落ちたままになってしまうのか。
そんな懸念すら今さらかもしれない。
サベルとエドヴィンが襲われ、オルケスターとは明確に敵対する形となっている。
(こっから……ありえるか? 元通り、以前みたいに……なんて)
学院ではきっと、ミアを始めとした級友たちが期待して待っている。流護たちが、必ずレノーレを連れて帰ってくるはずだと。
その思いを裏切ることになってしまうのか。
「はー……」
憂鬱な溜息とともに、柱時計へ目を向ける。
(……そろっと日付が変わるな……)
出ていったベルグレッテたちはまだ戻ってこない。
オルケスターの襲撃とて、絶対にないとは言い切れないのだ。もし皆が敵と遭遇していたら――
「!」
ガタン。
そこで流護の思考を寸断したのは、病室から聞こえてきた大きな音だった。
「な……」
間違いない。サベルとエドヴィンが眠る部屋からだ。気のせい……ではない。かすかな衝撃がここまで響いてきた。
二人の病室には一応窓があるが、外に積もった雪壁で塞がれている。よって、出入りはこの待合室のドアから以外に不可能。何者かが外部から侵入してくることなどありえない。はず、なのだが――
「――」
素早く思考を切り替えた流護は、息を殺して病室の前へと忍び寄った。最悪の事態を思えば、悠長に様子を見ている暇などない。
「うらっ!」
至近での敵との遭遇も視野に入れつつ、病室の戸を盛大に開け放った。
「!」
流護が踏み込むと同時、待合室からの明かりがサッと差し込んだその部屋。患者二人が眠るだけであるはずのそこに、蠢く人影がひとつ。
こちらに目を向けたその男が、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「おう……リューゴか。随分と……久しぶりに、顔を見た気がするなァ」
全身を包帯に巻かれたサベル・アルハーノが、どうにか寝台から起き上がろうとしているところだった。