436. 国家の密命
「お仕事中に失礼。エルサー・メラーさんでお間違いありませんか?」
「は、はあ……そうですけど。えっと……どちら様でしょう?」
「名乗るほどの者ではありません……が、私のことについては後ほど。さて、不躾ではありますがこの度、貴女にお頼みしたいことがございまして」
「はあ、ええ……? 私に……?」
「本日の聖礼式にはご出席されますか?」
「はあ、まあ……。お客様もそんなに多くはないと思いますので、そのつもりでいますけど……」
「左様ですか。そこでお願いなのですが、本日の聖礼式のご予定をお見送りし、その時間帯に美術館へ訪れる客の動向を監視していただきたいのです」
「……? どういうこと、でしょう?」
「貴女にやっていただきたいのは、美術館内における特定の客の居場所の把握。その者らの動きがあった場合に、それを同じく仕事を請け負った人物に伝えること。この二点のみです」
「ちょっ、ちょっと待ってください。特定の客……? 同じ仕事を請け負った人物って……?」
「詳細は、お受けいただける場合にのみお話しします。して、報酬についてですが……この件にご協力いただけるならば、百万エスクを今この場でお支払いします」
「! ひっ、百っ、万……!? 今っ……!?」
「私は、国家に関する密命を帯びて動く者です。今回の任務を遂行するにあたり、貴女にご協力をと思った次第です」
「……そ、そんな……どっ、どうして私なんかに……?」
「目標に気取られることを避けるため、現地で市井の方にご協力を仰ぐことがままあります。今回は、無作為にひとまず貴女を選出させていただきました。お断りになられるならば、それはそれで一向に構いません。その場合、他の方に助力を願うつもりです」
「…………、」
「説明は一旦ここまでとなります。急かすようで申し訳ありませんが、時間もありませんゆえ……ご決断を」
「え、ええと……それは……このご依頼は、お国のため、なんですか……?」
「関連する、とだけ。後ろ暗い点がなくとも、どうしても表沙汰にできない案件というものは存在します。今回もその一つ。危険を伴わない安全な事柄に関しては、このように平民の中から無作為で選び、お声掛けをさせていただいています。この対象に選ばれる方の割合は、数千人に一人……といったところでしょうか」
「……っ、……その……、本当に、ええと……百万エスクも……?」
「この場ですぐに、前金で全額をお支払いします」
「誰かを見張るだけ、なんですよね……?」
「見張り、報告する。これだけです。貴女に危険はありません」
「で、でも……やっぱり、お国のためだなんて、そんな……私にどうにかなるようなことなんでしょうか……?」
「率直に申しまして、誰にでもできる簡単な仕事です。ゆえに無作為の選定をさせていただいています。ご不安であれば、辞退されるのも選択の一つではございます」
「……っ、いえっ、わ、わかっ、分かりました。私にやれることなら、やってみたい……です」
「承知しました。ご協力に感謝します。では、これからお話しすることは他言無用でお願いします。上司や同僚、ご友人はもちろん、家族に対しても、となります。機密情報ですので、漏洩にはくれぐれもご注意を。違反された場合、厳しい処罰の対象となりますので――」
「国家の密命だって……!? 馬鹿げてる!」
真っ先に異論を挟んだのは、この国で正規兵を務めるヘフネルだ。
「民に報酬を支払って、協力を要請だなんて……そんな話、聞いたこともありませんよ!」
憤激した声にビクリとするエルサーへ、彼は「ああすいません」といつもの調子で頭を下げた。
「エルサーさんに怒ったわけではないので……。とにかくですね、我が国にそんな仕事を請け負ってる人間なんていませんよ。少なくとも僕は知らない。それもよりにもよって、オームゾルフ祀神長が治める今のバダルノイスに……。全く、何て奴だ。言葉巧みにそれらしいことを言って、民を騙すなんて」
ふんむ、とジュリーも腕を組んで唸る。
平民にとっては破格となる報酬を提示し、動揺させて判断力を奪う。国家との関係を匂わせ、警戒を解かせる。数千人に一人が選ばれるなどと嘯いて、特別感を煽る。早々の決断を迫り、冷静に考える時間を与えない。
外の世界で揉まれた人間ならば仕込まれた話術の数々に気付けるが、壁の内側で平和に暮らす民に見破れというのは酷な話だろう。
そしてもうひとつ、敵が意図的に仕掛けたであろう策がある。
「エルサーさん。そいつは、どんな奴だったんです? 外見の特徴とか喋り方とか、何か気付くことはありませんでしたか」
「……ううん。さっきも言ったけど……特徴のない普通の人だったの。顔や背丈も、格好も……お国の密命を帯びてる、なんて感じはしなくて……」
「無駄だと思うわよ、ヘフネルくん」
ジュリーは諦め声で、意気込む兵士に忠言する。
「手掛かりを掴ませないために、わざとそういう無個性な人間を使ってるのよ。この手の悪党の常套手段だわ。それにそいつ自身、下っ端の使いっぱしりでしょうしね」
「くっ、やはりそうですか……」
仮に捕らえることができても、そこからオルケスターの核に届くかは怪しいところだ。
そんなやり取りの傍ら、ここまでずっと黙考していた様子のベルグレッテが口を開く。
「報酬だという百万エスクは、実際にその場で支払われたのですか?」
エルサーはうつむきがちにコクリと頷いた。
前金で全額が支払われたとはいえ、そこで裏切って仕事を放棄するという選択肢は浮かばなかったに違いない。
依頼内容は至極簡単で、国のためにもなると言い含められれば無理もない話だ。
「……なるほどね~。まっ、しょうがないわよね。百万エスクだもの、乗っちゃうわよねぇ」
仕方ないと頭では理解しつつも、ジュリーの口からは皮肉が飛び出す。最愛の人を窮地に追いやられた以上、やはり簡単に割り切れるものでもない。
エルサーはといえば、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「……何とでも言って。……こんなところで百万エスクが手に入るなら、どうしても私は……」
消え入りそうな声を聞いて、義憤に燃えるのはヘフネルだ。
「エルサーさんは被害者ですよ。ったく許せませんね、その詐欺師。それでですが……話の流れからすれば、その男が言った『監視対象の客』というのがサベルさんとジュリーさんで、『同じく仕事を請け負った人物』というのが、亡くなった男性職員……ニクラスさん、というわけですね?」
――と事実が明らかになりかけたはずだったが、
「いいえ、ちょっと違うわ……」
当の職員は首を横に振った。
「監視対象は三人。そのうちの一人があの男の人……サベルさん、だった。ジュリーさん……は、あなたよね。あなたは違うわ。見張るようには言われてない」
しばしの沈黙を挟み、ヘフネルが一同の顔を見渡した。
「え……? ジュリーさんは、対象じゃない……? どういうことだ……いやそれ以前に、監視対象は三人、って……? あ、あとの二人は誰なんです!?」
「それは知らない……。実際にその時が来たら、ニクラスから聞くことになってた……」
ぼつりと呟き、バツが悪そうにうつむいた。
「ち、ちょっと待ってください。何がどうなってるんです? 敵は、捜査に協力した皆さんを……『五人』を狙ってたんじゃなかったのか……?」
ヘフネルのそれは半ば独り言だったのだろうが、エルサーが悪夢から逃れるようにかぶりを振った。
「知らないわ……! 狙われてるとか狙われてないとか、そんな物騒な話……! 私は言われた通り、仕事をしながら男の人をこっそり見張ってただけ。それで一緒にいたあなたが閑所に行って離れたから、急いで戻ってニクラスに伝声管で連絡して……。私がやったのはそれだけ……それだけなのに……」
それだけなのに――ニクラスが無惨な死体となって発見された。美術館の一角は焼け落ち、多大な損害を被った。そして、監視対象の男性が瀕死の重傷を負った。
自国のためと誘われて話に乗ったはずが、とんでもない事態に繋がっていった。
「……、」
思いがけないエルサーの発言にしばらく困惑していたジュリーだったが、
(……まあでも、あの時のは……そういうことね)
ひとまず、戻った展示室でエルサーと遭遇した折のやり取りについては納得がいった。
依頼を受けた彼女にしてみれば、監視対象から邪魔な女が離れた直後。一人で順路を戻ってきたその女に、余計な横槍でも入れられて失敗するようなことがあってはたまらない。
『存じ上げません』
ゆえの、あの突っぱねた物言い。しかし、
『順路を逆に進むことはご遠慮ください』
続くこの言葉。美術館に勤める職員としての性分か、本来であれば言う必要もなかったその一言。これが疑いを抱く切っ掛けになってしまったあたり、運命とは何とも予測できない現実を振る舞うものである。
「エルサーさん。お疲れのところ申し訳ありませんが、いくつかお尋ねしたいことがございます」
混乱と恐怖から頭を抱える女性職員に、優しく包み込む声音で問うのはベルグレッテだ。
「亡くなった男性職員……ニクラス氏も、あなたと同じく指示を受けて動いていたようですが……お二人の他にそういった人物は?」
「いないはずよ。私とニクラスだけ……」
「へー。そのニクラスさんとあなたはどういう関係だったの?」
特に他意はなかったが、質問したジュリーにエルサーの恨みがましい視線が飛んでくる。
「何を勘違いしてるのか知らないけど、ただの同僚だから。それ以上でも以下でもない。客室で依頼の説明を受けた時に、『この件はもう一人、あなたの同僚のニクラスさんにも協力いただいている』って……。選ばれたのは私たち二人だけ、って」
そのニクラスが首なしの焼死体となって発見されたのだから、エルサーとしては気が気でなかったに違いない。もしや次は自分が……と考えて逃げ出すのもやむなしだ。
「彼……とても張り切ってた。重要な任務のために選ばれて、お金までもらえて。ちょうど借金があったから助かった、って。それまであんまり話したこともなかったけど、妙な連帯感が生まれてたのは否定しないわ……」
「借金、ですか」
「ええ。確かにそう言っていたわ。詳しいことは知らないけど」
「お話しいただきありがとうございます。ニクラス氏が負った役目については、なにかお聞きしていませんか?」
ベルグレッテの優しい口調に安心感を覚えてか、エルサーもぽつぽつと話していく。
「あの男の人――サベルさんを指定の場所まで連れていくこと、って聞いたわ……。ニクラスは西棟二階の副室長だったから、ちょっとした権限もあって……色々と融通をきかせることもできたはずよ」
ある程度は思い通りに人を動かせた、ということだ。もちろん、詳しい事情など話さずとも命じることで。
「ふーむ、そういうことか。ニクラス氏は、そうやってサベルさんを西棟第一展示室に連れていったんだな……」
この部屋が選ばれた理由は容易く想像できる。通信術を遮断する一室であり、準備中のため他の客が迷い込む心配もないからだ。
位置的にも他の展示室から遠く離れており、隔離するにはもってこいの場所だったろう。
ニクラスに権限があったなら、他の職員にここへ近づかないよう言い含めることも可能だったはずだ。
顎先に指を添えたベルグレッテが、次の質問を投げかける。
「エルサーさん。美術館内で、サベルさんとジュリーさんのお二人は常に行動をともにしていたと思われますが……」
「……そうね。見てて胸焼けしそうになるぐらいには」
ジトリとした職員の視線に麗女が肩を竦めた直後、
「では、もしジュリーさんがお花摘みに行かなかったら……お二人が片時たりとも離れることなく一緒に居続けた場合は、どうされるおつもりだったのですか?」
あっ、とヘフネルが硬直し、当事者たるジュリー自身も瞠目した。
そう、偶然なのだ。
ジュリーはたまたま催したから、閑所に行くことになっただけ。離れ離れになる時間が生まれたのは、全くの偶然。
もし何もなければ、美術館内でも終始サベルと一緒にいたことだろう。
監視対象から邪魔者が離れなかった場合、どうするつもりだったのか――?
その今さらといえば今さらな疑問に対し、エルサーは予想だにしないことを口にした。
「それは……『絶対に途中の閑所に寄るから見逃すな』ってニクラスに言われてて……」
「は!?」
素っ頓狂な叫びを漏らすのはジュリー当人である。
「な、何よ『絶対に寄るから』って……! どうしてそんなことが分かるワケ!?」
当然ながらジュリー自身、鑑賞中に閑所へ寄ることを最初から決めていた訳ではない。あくまで、ふと催したから立ち寄っただけなのだ。本人すら想定していなかったその行動を事前に予測することなどできるはずがない。
「人のお花、摘みっ……、何!? 何なの!? そのニクラスって人は未来視の使い手か何かだったの!?」
世の中には、これから起こることを先読みできる詠術士が存在するという。
ちなみにこれまで大陸各地を渡り歩いてきたサベルとジュリーだが、実際にそのような使い手に出会ったことは一度もない。ジェド・メティーウ神教会の聖女がそれらしき力を持っていると聞いたことはあるが、その辺りで簡単に見かけるような存在でないのは確かだろう。少なくとも、雪深い北国の美術館で職員として働いているようなことはないはずだ。
「エルサーちゃんもねぇ、言われておかしいと思わなかったの……!?」
「それは……まあ、思ったけど。でもこっちからの質問は受け付けないって契約だったし……。そう言ったニクラスだって、きっと依頼人から聞かされてただけだと思うわ。私としては、そういうことが分かる神詠術でもあるのかな、って……」
「あるかそんなもんっ。本っ当にもう……!」
こんな寒い中でも火照ってしまった顔を両手でパタパタ扇ぐジュリーは、そこで傍らの少女騎士が黙りこくっていることに気付く。
「どしたのベルグレッテちゃん? ……まさか、本当にオルケスターに未来視持ちがいるかも……とか考えてる?」
「……いえ、さすがにそれは」
しかし実際、ニクラス――正確には彼へ指示を出した人物――がどのようにしてサベルとジュリーの行動を先読みしたのかは、まるで見当がつかないところだ。いくら聡明なベルグレッテでも、悩んで然るべき疑問に違いない。
……はずなのだが、
「エルサーさん、他にも気になることがございます。今回の件で、あなたが得た報酬についてなのですが」
彼女は思いのほか、あっさりと次の話題に移った。
「……何、でしょう?」
「不躾な質問をお許しください。エルサーさんには、なにか大金を手に入れなければならない理由がおありだったのでは?」
「……っ、ど、どうしてそんなこと……」
「報酬のくだりで先ほど、エルサーさんはこう仰いました」
『……何とでも言って。……こんなところで百万エスクが手に入るなら、どうしても私は……』
「今回の件にかかわらず、以前から大金を……それも具体的には、百万エスクを欲していたような。そんな印象を受けたので」
指摘された当人は驚き顔から一転、ふっと観念したような息を漏らす。
「……本当に鋭いわね、あなた。……そうよ。私はお金が欲しかった。百万エスクがね」
「なぜ……百万エスク、なんです?」
ヘフネルの疑問に、女は疲れきった口調で答える。
「父が病気なのよ……」
そもそもエルサーはこの皇都からは遠い田舎町の出で、その治療費を稼ぐために都会へ単身やってきたという。美術館での仕事が見つかり、勤め始めたのが一年前。
「正直、考えが甘かったわ。何の取り柄もない女が、一人で生活しながら百万エスクを稼ぐなんて……。最初は、とにかく税金が高くて驚いたっけ」
三歩進んで二歩下がる。下手をすれば三歩、四歩と後退し蓄えが減ることすら。
そこで申し訳なさそうに目線を下向けるのは兵士たるヘフネルだ。
「そうですね……皇都は除雪の仕組みに優れている分、その維持に多額の税金を使っているんです。カロヴァンの飼育、食料の輸入、流雪水路の工事や保全……どれも莫大なお金がかかることですから。もちろん兵士の数も、国の中で一番多いですし……」
「ああごめんなさい、別に文句を言うつもりはないの。実際、雪かきは故郷にいた頃よりも楽だし。ただ私が、世間知らずな田舎娘だったってだけ……」
そんな一進一退の入出費を繰り返し、ろくに貯金もできずにいた毎日。父の病状も日に日に悪化していき、焦りだけが募って一年。
「そこに、ちょうど百万エスクで今回の件を頼まれた、と……」
苦いヘフネルの呻き。共鳴したように、エルサーも重く首肯する。
「そんな事情があったんで……、あれ!?」
彼がいきなり大声を上げたので、女性陣は何事かと注目する。
「エ、エルサーさん、その百万エスクは今、どこにあるんです!? 手ぶらのようですが……!」
「え? あ、あぁ、……部屋に置き忘れてきたわ。あなたたちを殺し屋と勘違いして、必死で飛び出してきたから……」
「い、いけません! そんな大事なお金、なくしたら大変ですよ……! 僕が取ってきますから、少し待っててください!」
「えっ、あ……」
当人の返事も待たず、若い兵士は自分のことのように慌てて走っていってしまう。
「ったくヘフネルくんったら、お人好しねぇ」
これまでの状況やエルサーの置かれた境遇から、彼はすっかり肩入れしてしまっているようだ。怪しい金とはいえ、それを没収してしまう気はないらしい。
「……エルサーさん。お父上の件について、他のどなたかにご相談されたりはしていませんか?」
ヘフネルの姿が建物の角に消えていくところを見届けながら、ベルグレッテがさらに質問する。
「……してないわ。私、見栄っ張りだから……変に同情されたくなかったし、『絶対に私が何とかするから』なんて言って飛び出した手前、故郷に戻ることもできなくて……。同僚にも、誰にも言ってない。まぁ、ひもじい生活をしてたから、近所の人は貧乏そうな娘ぐらいには思ってたかもしれないけど……」
近隣の住人から話を聞いた際、それらしいことは言っていた。あまりお金がなく苦労しているようだ、と。
「……では、エルサーさんの事情を知る第三者は存在しない……はず、ということですね」
少女騎士の念押しの確認に、しかし当人は「あ」と固まった。
「その……周りの誰かに言ったりはしてないんだけど…………、いえ、やっぱりいいわ。何でもない」
「どのような些細なことでも構いません。お話しください」
「ん……分かったわ。……私、一度だけ意見陳情会に参加したことがあるの」
「意見……陳情? 何ソレ?」
ジュリーの疑問に、エルサーは「知らないの?」と言いたげな反応を見せる。ベルグレッテに対する素直さとはえらい違いだ。
「オームゾルフ様が定期的に開かれてる催しよ。私みたいな平民でも、王宮へ入ってあのお方と直接お話をすることができるの。それだけじゃないわ。意見や要望があれば、親身になって聞き入れて検討してくださる」
「ふーん……、ってそういえば前に、ヘフネルくんがそんなこと言ってたかしら」
革新派のオームゾルフは、今までにない新たな試みに挑戦していると。意見陳情会もそのひとつ。
「では……エルサーさんはその陳情会に参加されて、お父上のご病気に関することをご相談なさったのですね」
「……ええ。私の場合、ほとんど愚痴を聞いてもらったようなものだったけど。田舎から出てきて美術館で働き出したけど、思うように収入が得られなくて……でも百万エスクを稼がなきゃいけなくて、って。オームゾルフ様は、美術品の流通経路や労働条件についてもっと見直して、給与が上がるように取り計らうと約束してくださったわ。……私の場合、当たりの部類だったからよかったけど……」
「? 当たりの部類、とは?」
ベルグレッテが尋ねると、エルサーはまたも周囲に視線を巡らせ、小さな声でジュリーに囁いてきた。
「……ねえ、本当に……周りに誰もいないんでしょうね?」
「うん? 何よー、疑り深いわねぇ。試しに叫んでみたら? 助けてー、とかって。誰も来ないから」
「……や、やめてよ、怖いたとえは……。……ああ、話の腰を折ってごめんなさい」
後半の言葉をベルグレッテに向けつつ、彼女は口にする。
「陳情会は、オームゾルフ様と一対一で話せるわけじゃないの。必ずどなたか、兵士や騎士の方が同席されるわ。……まぁ、一国の主導者を平民と二人きりになんてできない、ってことなんでしょうけど。……だからその、たとえばスヴォールン様あたりが同席されたら……」
エルサーが言い渋ったその先を、「あー」と察したジュリーが続ける。
「不平不満なんて満足に言えるワケがない、ってことね」
「……まあ……スヴォールン様の前で、まともに不満なんて言える命知らずはいないわよ……。だから都民たちの間では、陳情会に誰が立ち会うかで『当たり外れ』があるなんて言われてるの。平民目線で親身に考えてくださるベンディスム将軍や、そもそもこっちの話なんてまるで聞いてないゲビ様は『当たり』」
「あっははは、なるほどねー。スヴォールンって、『雪嵐白騎士隊』の隊長さんだったわよね。めちゃくちゃ厳しい人なんでしょ? さしずめ、『大外れ』ってところかしら」
ジュリーがころころ笑うと、エルサーは「さ、さあ?」と白々しく目を逸らした。平民としては畏敬の対象で、おいそれと下手なことは言えないのだろう。
「ではエルサーさんの場合は、どなたが立ち会われたのですか?」
浮かんで然るべき疑問をベルグレッテが告げると、
「ああ、それなら――」
その名前が、エルサーの口から飛び出した。
「私の時は、ミガシンティーア様だったの。……いつも笑ってばかりで、何をお考えなのかはよく分からない方だけど……あまり厳しい方でもないから、助かったわ」