435. その日の舞台裏
「ジュリーさんっ」
強い脅しを見かね、脇の路地からベルグレッテが姿を現す。
「はは、冗談だってば」
風の麗女は、おどけたように肩を竦めた。
「……、くっ!」
何が何だか分からないといった様子ながら、そんなやり取りの隙を突く形で、エルサーが踵を返して逃亡を図ろうとする。
「冗談、で済むうちに諦めてくれるかしら?」
ジュリーが指先を鳴らすように閃かせる。その仕草だけでエルサーの眼前に旋風が巻き起こり、彼女の細身を容易くよろめかせた。
「あぁっ……!」
足をもつれさせたエルサーは、力なくその場にへたり込む。秀でた恩恵を持たない人間では、詠術士から逃れることなど不可能に等しい。
「ねぇ、ちょっとお話ししましょうよ。エルサーちゃん」
軽い言葉と裏腹、見下ろす風使いの眼光は鋭く冷たい。
抵抗は無駄と悟ったか、エルサーは震えながらうわ言みたいに繰り返した。
「ど、どうして……どうして……」
「どうして、って? それはどうしてあなたの居場所がわかったのか、って意味? それとも、どうしてあたしがあなたの前に現れたのか、って意味かしら。まあ、どっちも丁寧に説明してあげる」
長く波打つ金髪をかき上げながら、ジュリーはゆっくりと言葉を紡いだ。
「かれこれ二時間ぐらい前かしら。ヘフネルくんにあなたの住所を突き止めてもらって、実際に行ってみたんだけど……家はもぬけの殻だった。近所の人に聞いて知ったけど……あなた、一人暮らしだそうね。で、たまたまちょっと留守にしてるとか、もう寝てるとかってワケじゃないのは一目で分かったわ。家の周りの除雪が全然されてなかったからね」
手つかずの積雪に埋もれた辺りの様子から、自宅を空けてそれなりの時間が経過していることは明らかだった。
「美術館の一件……男性職員の死体が見つかったその直後に、家を出たんでしょ? 怖くなって」
エルサーの返答を待つことなく、ジュリーは淡々と続ける。
「けどあなたは詠術士でもなければ、金を持て余した貴族でもない。日々美術館に勤めて暮らす、ごくごく平凡な市井の民。厳しい寒さと雪で行き先も制限されて、街ごとの出入り口に検問が敷かれてる現状……行ける場所はかなり限られる。とても野宿なんてできる時期じゃないし、高い宿に連泊するようなお金もない。戦う力がなければ、街を離れて遠くに逃げることも難しい」
平民の行動範囲は、冒険者のそれに比べたなら大きく狭められる。冬季のバダルノイスなら尚更。
そして、
「何より後ろめたい思いがあったあなたは、検問を通ることに抵抗があった。ってワケで、皇都内の誰でも転がり込める安宿に、通信で片っ端から当たってみたわ。とりあえず、『鼻の横におっきなホクロがある女性は泊まっていませんか』ってね」
エルサーはハッとした面持ちで自らの鼻を押さえた。
「思ったよりそんな宿は少なくて、ちなみにそんな特徴を持つ同一人物もいなかったみたいで。四件目でアタリを引けてめでたしめでたし、っと。化粧でもしてそのホクロを隠してれば、もう少し時間稼ぎできたかもね」
レノーレの件で賞金稼ぎが少なからず皇都入りしているが、こうした冒険者の類は酒場と宿泊場が兼用となったうえで動きやすい中心地の大型店を好む。
でなくとも、基本的に旅慣れた詠術士や傭兵ばかりが目につく今時期の宿泊客の中で、見るからに平民の女性が一人だけ、という図は店員の印象にも残りやすい。
仮にホクロを隠していたとしても、変装をしていたとしても、絞り込むのはさして難しくなかったろう。
「そもそもあなたは『追手』から隠れたかったワケだから、目立ちやすい大きな宿になんて泊まれなかったでしょうけど」
ふう、と溜息を挟みつつ続ける。
「で、次。どうしてあなたの前にあたしが現れたのか。もうお察しだと思うけど、今回の美術館の一件――いえ、サベル襲撃について、あなたが裏で手引きしてたと睨んだからよ」
エルサーが驚愕も露わに目を見開く。
「敵は、サベルとあたしがたまたま離れたところを的確に狙ってきた。監視でもしてなきゃできない芸当よね。じゃあ、誰が監視してたのかしら。あの静かな美術館……他にお客さんもいなかった中で」
当時の状況下において、怪しまれずサベルとジュリーの動向を把握できる人物。
「美術館の職員、って考えると自然じゃないかしら? エルサーちゃんとは二回遭遇したわよね」
むしろ、それ以外にない。風の麗女は暗にそう語っている。
「そう考えると、サベルがあたしに何も言わないでいなくなった理由も説明できるわ。例えば外で待ってたあの人に『誰かが急用で呼んでる』とかそれっぽいこと言って急かして、あたしに一声かける間も与えず引き離した……とかね」
サベルってばお人好しだし引っ掛かるわー、と付け加える。
「それで……亡くなった男性職員についてね。あんまり故人をどうこう言いたくはないけど……もしかして、この人がその役割を担ってたんじゃないの? サベルと敵を引き合わせたはいいけど、そこで……例えば用済みやら邪魔とかって判断されて、あえなく切り捨てられた」
エルサーが目に見えてビクリと震えた。その仮説は、彼女を心底怯えさせるに充分なものだったのだろう。
そこで後方の路地から、追いついてきたヘフネルが姿を見せる。
「ふーむ……。確かにそう考えると、エルサーさんのあの時の言葉も納得できますね……」
『話が……っ、違うじゃない……! ……どう、して……何でこんな……!』
「『共犯』があんなことになってしまえば、次は自分が……と考えるのも無理はありませんから」
現れた彼を振り仰いだエルサーは、兵士含む三人に囲まれたからかいよいよ観念したようにうなだれた。
「……なーんて語っちゃったけど、ここまで実はただの推測。証拠なんてなーんにもない」
ジュリーが肩を竦めながら言い放つと、一拍置いて、エルサーがゆっくりと顔を上向ける。表情が如実に「え?」と告げていた。
「そうよね、ベルグレッテちゃん?」
「はい」
傍らの少女騎士が頷く。
「驚いた? あたしのちょこっとしたある違和感を切っ掛けに、この綺麗なお嬢さんが立てた仮説なの。今の話はね。あなたの顔を見る限り、ほとんどアタリだったみたいだけどね」
絶句している職員に、ジュリーがその始まりを語った。
「で、その違和感についてだけど。あの時……いなくなったサベルを探して順路を戻ってたあたしは、途中の展示室で正規の道順通り入ってきたエルサーちゃん……あなたと鉢合わせた。そこであたしはサベルを見てないかあなたに訊いたけど、知らないって素っ気なく返されたわ。そこまではいい。で、問題はその後。あなたが去り際にあたしに言ったこと、覚えてる?」
問われた彼女は、ただ愕然とした様子で固まっている。少なくとも、この状況に繋がるほどの言葉を吐いたつもりはないに違いない。
「あなたはね、こう言ったの」
『……お客様。順路を逆に進むことはご遠慮ください』
「まあ正論よね。いくらサベルを探してたとはいえ、事実あたしは順路を逆行してたワケだし。あの時はごめんなさいね。でもねエルサーちゃん、やっぱりおかしいの。『あなたがそんな注意をできること自体』が。だってあのとき、『先に展示室にいたのはあたしのほうだった』んだから」
エルサーは何も答えない。というより、ジュリーの指摘した意味を理解できていない。そんな顔だった。
「いい? あなたが先に展示室にいて、そこに順路を戻ったあたしが入ってきたなら、あなたが苦言を呈するのは自然よね。あたしが逆行してきた瞬間を目撃するワケだから。でも実際は、あたしがいるところにあなたが後からやってきた。順路に従って展示室へ入ってきたはずの職員は、なぜか知っていたの。自分より先にその部屋にいた客が、順路を逆行してきたって。見てないんだから、そんなこと分かるはずないのにね」
そもそも部屋内の人間がどんな道順をたどってそこにいるのかなど、遅れてやってきた人間に知りようはない。
とはいえ、先に展示室にいる客を見て「正規の道順を遡行してきたな」などと思う職員はいまい。のんびりと鑑賞する客、そこへ通りかかる勤務中の職員――といった光景は、美術館における日常のはずだ。
「まあ、あたしもエルサーちゃんを見かけるなり『サベル知らない?』なんて訊いたから、『この女、男探して順路を戻ってきたんじゃ』って思わせちゃったかもしれないけど。それにしたって、まずは『お客様、もしかして順路をお戻りでは?』とかって言うわよねえ」
いずれにせよ、『順路を逆に進むことはご遠慮ください』と最初から決めつけて発言した時点で疑念は拭えなかったのだ。
客の動向を細かに監視、把握でもしていなければ出ないだろう、その言葉。
その疑念を切っ掛けとし、ベルグレッテやヘフネルの協力を得てここへ至ることができた。
「聞かせてもらえないかしら? エルサーちゃん。ごく普通の平民でしかないはずのあなたが、どういう経緯でこんなことに加担したのか。他に共犯はいるのか。知ってることは、何もかもね」
狭く暗い裏路地を――四人の間を、寒々しい一陣の風が吹き抜けていく。
「……他に……」
ここまで黙り通しだったエルサーが、ようやくにその重い口を開く。
「他にどうしろって言うのよ……! あんなことになれば、誰だって……誰だって……っ!」
決壊したように、彼女の瞳から涙が溢れ出す。
「何がどうなってるのか説明してほしいのは私の方なのに! もううんざり! 私が憎いなら殺しなさいよ、それで気が済むなら……!」
取り乱すエルサーの肩にそっと手を置くのはベルグレッテだ。
「私たちが憎むのは、あなたを利用した輩です。その者を裁くためにも……どうか、お話を聞かせてはいただけないでしょうか」
「っ、何よ……! あんたに何が分かるって言うの!?」
「ええ、分かりません。このままでは、なにも。ですから……教えてはくださいませんか」
真摯な少女騎士の瞳に見据えられ、エルサーは気勢を削がれたか力なく肩を落とした。
「……でも……、いや、やっぱり無理よ。言えない。他言無用って……」
それでも頑なな彼女に、ジュリーは諭すような口調で告げる。
「あなたがそれを貫いたところで、相手は約束を守るかしら? あなたの命の保証はある? よく考えなさいな」
片棒を担いだと思しき男性は殺害されている。
酷なようだが改めてその事実を突きつけると、エルサーは恐る恐る辺りに視線を彷徨わせた。その意図を察し、ジュリーはニヤリと微笑んでみせる。
「大丈夫よ。周りには誰もいないから。そもそもあなたを追うために風峰の術っていう気配隠蔽の神詠術を使ったから、他の誰かに気付かれることはないわ。さ、安心してゲロって?」
ジュリーとしてはにこやかに優しく促したつもりだったが、エルサーの顔は明らかに引きつっていた。
「分かった、分かったわ……! 言えばいいんでしょう……!?」
ようやく腹を括ってか、ぽつぽつと語り始める。
「事件があったあの日……朝の十時過ぎぐらいだったわ……。勤務中、館長に呼ばれたの。私にお客さんが訪ねてきてる、って。わざわざ仕事中の美術館に来るなんて誰だろう、と思って客室に会いに行ったんだけど…………、」
「それは、誰だったんです?」
言い淀むエルサーにもどかしさを感じたか、逸るヘフネルが先を促すが――
「……分からない。知らない人だったわ。どこにでもいそうな、これといった特徴もない……若い男の人」