434. 後悔と代償
静まり返った暗闇の中で、息を殺していた。
寝台の上で薄い毛布を被り、両膝を抱えて。背を丸め、限りなく己を小さく縮めるように。
はした金で誰でも泊まれる安宿だ。少し身じろぎするだけで、古い寝台が軋みを上げる。その音で『誰か』に居場所を悟られる気がして、可能な限りじっとしていた。
「…………、」
歯の根が噛み合わない。手足や身体も小刻みに震える。
寒さだけが原因ではなかった。
どうしてこんなことになったのか。いつまでこうしていればいいのか。長くは続かない。いや、続けられない。
「……っ、」
すぐ手元には小さな鞄。この中には百万エスクもの大金が入っている。これだけは、何としても……。
狭苦しい一室には、不規則に漏れる自分の吐息の音のみが木霊していた。
(大丈夫。大丈夫よ。こうしていれば……)
偽名を使って宿泊している。こんなところに隠れているなんて、誰も思わないはず……。
自分に言い聞かせているだけだと半ば理解しながらも、女は念じ続けた。そうすることしかできなかった。
――そんな思いと現状を嘲笑うかのごとく。
ごん、ごんと部屋の扉が外から叩かれる。
「すみませーん」
驚いて漏れそうになった悲鳴をどうにか抑え込み、女は入り口の戸を凝視する。
「エルサー・メラーさんのお部屋ですよねー? いらっしゃいますかー?」
扉の向こう側から聞こえてきたのは、若い男の声だった。
「……ッ!」
薄く頼りない木製の扉。その隙間からかすかに差し込む廊下の照明。そして、それを遮る何者かの影。
食事や世話の類は一切頼んでいない。
「エルサー・メラーさーん?」
再び名前を呼ばれ、そこでハッとした。女は――エルサーは、またも飛び出そうになった悲鳴を噛み殺す。
(ちょっと待ってよ……! 私、偽名で泊まってるのに、どうして――)
恐怖に凍りついた直後、答えが明かされた。
「ええと、僕はバダルノイス正規兵のヘフネル・アグストンと申します。エルサーさんにですね、少しお尋ねしたいことがございまして」
心に光明が差す。
兵士。王宮の兵士なら、助けに――
立ち上がりかけて、ふと足が止まった。
兵士に全てを吐露したその後、自分はどうなる? 『あんなこと』になったのだ。罪に問われるのでは? そもそも、なぜここへ? 自分を捕まえにやってきたのでは? それ以前に、この相手が本当に兵士であるという保証は?
『あいつ』の関係者に居場所を突き止められた。
そう考えたほうが自然なのでは?
「~~ッ……!」
恐怖で喉が干上がりそうになった。
エルサーは寝台から転げ落ちかけながら、一も二もなく戸口とは逆側、部屋の奥へ駆け寄った。
氷が張って重くなった窓を無理矢理に開け放ち、外の様子を窺う。
誰の姿もない、表通りから隔絶された路地裏。
ここは一階。脱出は簡単だ。
「あ、物音がした! エルサーさん、いるんですよね!? いいですか、入りますからね――、ってああっ鍵が!」
ヘフネルと名乗った男がもたついている間に、窓枠を跨いで石畳へと降り立つ。
「~~、っ」
何てことだろう。荷物を置いてくる羽目になってしまった。他の何はなくとも、あの鞄の中には大切な百万エスクが入っていたのに。あれを得るために、こんなことになったのに。
だが、そんなことを言っていられる場合でもない。相手の目的は金品などではない。
――命、なのだから。
いざ危機に直面して思い知る。あの金だって大事だ。どうしても欲しかった。しかし――やはり、自分の命以上に惜しいものなんてない。
走る。
「……、っ、はぁっ……!」
暗い路地を、身の切れるような冷気が吹き抜けていく。
無造作に放置されたごみ箱を蹴倒しながら、建物の薄汚れた壁にぶつかりながら、ただひたすらに走る。膝が震え、足がもつれ、なかなか思うように進めない。
「く、か、……はっ……ぜぇっ!」
それは寒さのためか、はたまた恐怖によるものか。もはやエルサーには判断もつかなかった。
(どうして……、どうして私が!)
なぜこんな目に遭わなければならないのか。
(あぁ氷神キュアレネー様! どうかお慈悲をっ……!)
直後、その願いが叶ったのかと思考が空白に染まる。路地の先に、一人の女性の姿が現れたからだ。
「……、……っ!?」
そして気付き、絶望した。
波打つ金色の長い髪。明らかに通りすがりではない、こちらの行く手を遮る佇まい。
女神などではない。知っている顔。
なぜ? どうしてこの女が? 何でここに?
疑問が溢れ返る中、その相手が口を開く。
「どうもー、エルサー・メラーさん。数日ぶりね。あたしのこと覚えてる?」
動揺のあまり、エルサーは無意識にガクガクと首を横へ振っていた。それを否定と受け取ったか、
「あらっ、つれないわねー。なら、サベル・アルハーノは知ってるわよね? だって、あなたが罠に嵌めて殺そうとした相手だもの。そうよね? 知らないなんて言わせないわ。返答次第じゃ……ぶち殺すわよ、あなた」
その女――ジュリー・ミケウスは、この上ない笑顔でこの上ない怒気を滲ませていた。