433. 違和感と閃き
いつしか空は、分厚い雲で隙間なく覆われていた。
この季節、晴れてもなかなか長続きはしないらしい。
「降るんかね?」
「どうかしら……」
帰途につく流護とベルグレッテは、揃って目線を上向けながらぼやき合った。
舗道はきれいに除雪され、行き交う都民たちで賑わっている。なるほど確かに、雪が降ろうが止もうが、この街から人の姿が消えることはないようだ。
「ところでベル子さん」
辺りを見渡しつつ、流護はようやくといった感じで呼びかけた。
「あのグリーフットって人、大丈夫なんか? 色んな意味で……」
「あ、ははは……」
人を悪し様に言わないベルグレッテだが、さすがにというべきか返答に困ったような苦笑いを浮かべる。
当然だろう。何しろサベルやジュリーと同年代らしき大人の男が、いきなり人目も憚らずに泣き出したのだ。それも、調理された子羊がかわいそうだとの理由で。
かと思いきや、その直後もりもりと遠慮なく食事を進めていた。涙を流しながら、さも満足そうに。
「思い返してみれば……グリーフットさんは、天轟闘宴でも『そう』だったの……」
「そう、って?」
敵を前に、悲しむ。悲嘆に暮れ、涙を流した後に感じる心地よさを楽しむ。そのためならば、悲しむべき状況を自ら作り出すことも厭わない――。
それが、グリーフット・マルティホーク。
かの武祭で実況席についていた『凶禍の者』ツェイリンから、そういった旨の説明があったという。
「やべーやつじゃん」
「だ、だめよリューゴ。そんな風に言っちゃ……」
相変わらずの聖母ぶりである。
「……いやでも実際んとこ、どう思うよ? あの人さ」
先と同じような流護の問いに、今度はベルグレッテの表情が引き締まった。
グリーフットの特殊な性癖についてではない。
信用できるのか。ひいては、オルケスターの一員という可能性はないのか。そんな含みを察したのだ。
「ん。その点は大丈夫だと思うわ」
少女騎士は存外にあっさり、あの変わり者を白だと判じる。
「ほう。なして?」
「もし氏がオルケスターの人間なら、レフェでのくだりを話す必要はないと思うの」
ハンドショットを完封したという怪しい男、デッガとの出会い。誘われるも断り、しかしその人物が残した言葉を頼りに故郷のバダルノイスへとやってきた。
……というのが、グリーフットの語りの概要か。
「ふーむ」
確かに敵だとしたら、こんな内容をわざわざ話す必要はない。今の状況でオルケスターの名を出せば、無駄に繋がりを疑われるだけだ。実際に流護がこうして嫌疑を抱いたように。
「もしグリーフットさんが敵で、私たちを騙すつもりなら……オルケスターには一切触れず適当な話をでっち上げるか、いっそ余計なことはなにも話さないほうがいいように思うの」
そういった対応をされていれば、流護もグリーフットについて『ラルッツたちの知り合いの何かやべー人』ぐらいにしか思わなかっただろう。
もっとも、彼がオルケスターとまるで無関係な人物であれば、今日こうして紹介されることすらなかっただろうが、ともあれ『黒』なら他にそれらしい口実はいくらでも考えられるはずだ。
「確かにな。そこは信用しても大丈夫っぽいか……」
彼の話に偽りはない。オルケスターの人間ではない。ひとまず、そう仮定して問題ないはず。
となると――
「ベル子はさ、何だと思う? そのオルケスター容疑の……デッガとかって奴が言ってた、『とてつもない闇』とかっての」
「さあ?」
今ほどの話しぶりからは一転、ベルグレッテの返事は素っ気なかった。
「インベレヌスとイシュ・マーニの存在を否定するような輩の妄言なんて、議論する価値もないわ」
(オヒョー)
流護は思わず首を竦める。
地雷を踏んだか、敬虔な少女騎士はまたしてもおかんむりになってしまった。もっともグリムクロウズでは、これが当たり前の反応で――
「……って、以前の私なら言ったでしょうね」
と、表情を緩めたベルグレッテが苦笑う。
「ん? ベ、ベル子さん?」
「もちろん、その人物の発言は罰当たりだと思うわ。眩暈を起こしそうになったぐらいには。でも、その詠術士が本当に『なにか』を見た可能性は否定できないわよね。神の不在を疑いたくなるようなものや、世界を包む闇と表現したくなるようなものを」
「……」
流護は思わず、ベルグレッテの顔をまじまじと見つめる。
「どうしたの?」
「いや……何と言いますか……」
「私も、少しは融通がきくようになったかしら?」
ふふ、と髪をかき上げた少女騎士は自嘲気味に微笑んだ。
「だって去年の春以降、信じられないような現実をたくさん目の当たりにしてきたもの。魂心力をまるで持たない人がいたりだとか、素手で怨魔をやっつけちゃう人がいたりだとか」
「へえー、マジですか! すごいっすねー」
「ええ、『まじ』よ。すごいわよね、アリウミリューゴくん。そんな風に聞いたこともない言葉を使ったりだとか、私たちの常識からは考えられない行動を取ったりだとか。世の中にはそういう人がいて、またそういう人が住んでる『別世界』があることも知ったわ」
かつて地球にも……日本にも降り立ったベルグレッテはしみじみと頷く。
「私の凝り固まった知識や常識で計りきれないことなんて、きっと世界には数えきれないほどあるのよね。だから、納得のいかないことでも頭から『ありえない』って否定するんじゃなくて、まずは『ありえるかも』って考えてみようかなって」
「ベル子……、そっか」
思考の柔軟性、客観的な視点。
この異世界では神への絶対的信仰から欠けてしまいがちになるそれらを、やはり少女騎士は着実に身につけつつあった。
「しっかし、何だろうな。オルケスターはそのヤバそうな『闇』だかに対抗するために、キンゾルの技術を使って臓器集めたりしてんのか? それであのテロの時みたいな複数属性の使える詠術士を作ったり、グリーフットさんみたいな強い人とか勧誘したりしてんのかな」
「……どうかしら。でも」
ベルグレッテの瞳が、キリリと鋭さを増す。
「どんな理由があるにせよ、許されないわ。守るべき法を犯し、危険な武器を安易に流通させて……ましてや人から神詠術を奪うなんて行為は、絶対に」
広い視野を持てるようになったといえど、やはりそこは信心深い彼女として譲れない部分であるらしい。
「闇、か」
流護としては話を聞いた当初、昼神と夜神の存在を否定するような発言から、太陽と月の理解に至ったのかと考えた。
(でも、何かやべー闇が世界を包もうとしてる、とか言ってるとなるとなー……。いかにもファンタジー的、っつーか)
惑星や恒星についての知識があっての発言、とはやはり考えづらい。
「グリーフットさんを引き込みたくて、適当言った可能性もあるよなあ」
「……ん、そうね……」
あれこれ考察しようにも情報が抽象的で、また量も少ない。
「おっと。診療所って向こうだろ……こっち行ったら近いんじゃね?」
「そう、ね」
大通りを外れ、小道へと入ってみた。表に並ぶ建物の影で覆われたその一帯は薄暗く、陽光が届かないため肌寒さが増す。道の端々に残る雪は解けることがないのだろう、固く凍りついて久しいようだ。
「微妙に下り坂になってんな……。滑るなよ、ベル子」
「ん……」
ショートカットのつもりだったが、失敗だったかも……と流護は少し後悔した。
影に覆い尽くされ、寒々と凍った道。バリバリに固着した氷塊のおかげでむしろ転びそうにはないが、凹凸がひどく歩きづらい。日向を歩いているだけでは気付かない、裏の顔を見せられた気分だ。
「……まだ下があるんだな」
この小路からさらに枝分かれし、下方へと続いている道がある。
そしてその分岐路に、
(なんだあの荷物……、いや、人?)
ボロ切れ同然の服を着て屈み込む、女性の姿があった。年齢は二十歳ほどだろうか。着飾れば充分に目を引きそうな容姿のはずだが、どう見ても防寒の役目を果たせていないだろう適当に重ね着した外套と、ほつれた茶髪、汚れ切った浅黒い肌が身分を物語っている。
そもそも流護としては一瞬、失礼ながら布の袋か何かが打ち捨てられていると勘違いしたほどだった。
「ねえ。お兄さん、お姉さん。お金ちょうだいよ」
通りかかった流護たちに対し、がらがらの声で率直な要求を叫ぶ。
近くでよくよく見ると、肌の色や髪の質……風貌がこれまで見てきたバダルノイス人とは明らかに違っている。
「何日も食べてないのよ」
……レインディールにも物乞いは少なくない。
バダルノイスでは、その厳しい気候もあってより過酷な生活を強いられるだろう。
そうした状況を推察してなお、見て見ぬふりができるベルグレッテではなく。
「お役立てください」
寄っていって、いくばくかの硬貨を恵む。
「ありがと。あんた、美人で性格もいいときた。最高だね。創造神の加護があらんことを」
「……このような場所にお一人では、危険ですよ」
「大丈夫よ。この辺りの連中はみんな顔見知りだし、何よりその日暮らしでいっぱいいっぱい。女を襲うような無駄な体力なんてありゃしないの。あんたらは格好からして旅人かい」
「ええ、まあ……」
「そうか。羨ましいね。私も、こんな場所離れてどっかに行ってみたいけど」
零した女性が、建物の隙間から見える曇り空を仰ぐ。叶わぬ夢に焦がれるように。
「私ら移民にゃ、選択できる余地なんてありゃしないしね」
そうか、と合点がいく。バダルノイス人らしくない風貌。
移民。つまり――前王の安易な政策によって連れて来られた、『被害者』とも呼べる人々。
「自分で選んだ道なら後悔もできる。けど……私は物心もつかない頃、親父に引っ張って来られたからね。その親父はろくな仕事にも就けず盗むしかなくなって、バダルノイス兵に斬られちまった。……まっ、この奥にゃ似たような過去を持つ連中がゴロゴロしてっけど。移民なんて今や、ほとんどがそんな状況だし」
自嘲気味に笑った彼女は、さらに下方へと続く小路を見やる。
ロック博士によれば、政策によって招き入れられた移民の数は全国民の三割。内乱でその数がどう変わったかは知らないが――
(……移民のほとんどがこんな状況……? そんなんで、経済とかって大丈夫なんか……?)
社会のことなど何ひとつ分からない流護でも、ふとそんな危惧を抱いてしまう。
「あんたら、こんな糞みたいな国に何しに来たのさ。あっ。いやでも、前王は間違いなく糞野郎だけど、今の主導者……えーと、オー……オーム……」
「オームゾルフさま、です」
「そうそう。その人は、結構頑張ってくれてるらしいよね。まだまだ、私たちの生活に変化があるほどじゃないんだけどさ。雪かきとか気合入れてくれてて、私らとしても過ごしやすいよ」
(オームゾルフ祀神長も大変だな……)
元はといえば、前王の不始末の結果だ。完全に尻拭いでしかない。
成さねばならぬことは山積みだと。そう零していた聖女の疲れた顔が思い起こされる。
「ああ、すまないね愚痴聞いてもらっちゃって。ありがとね、今日はいいもん食べさせてもらうよ」
二コリと黄色い歯を見せた女性は、おぼつかない足取りで下の小路へと消えていく。
「事前にロック博士から聞いてはいたけど……しんどい生活してそうだな、移民の人らも」
「ん……」
曖昧な声を漏らしたベルグレッテが、顎先に自らの細指を添える。いつもの、何事か考え込む仕草。彼らの未来を憂えているのだろうか。
「ああいう人たちの生活が、ちっとでもよくなりゃいいんだけど……。偽善なのかもしんねーけど、実際に目にするとそう思うな」
「……ええ」
曇った空から日の光が差すことはなく。それが『答え』のように感じられて、あまり晴れない気分のまま路地を抜けた。
「どうぞ、ヘフネルさん」
「ええ、はい。ありがとうございます……」
ベルグレッテが淹れた紅茶をすすった若兵は、気の抜けたような顔で息をついた。
外もすっかり暗くなった夕方過ぎ。昨日約束した通り、勤務を終えたヘフネルが診療所にやってきた。
「でも……とりあえず安心しました。サベルさんたちが無事で……」
ソファに浅く腰掛けた彼は、病室の扉を見やりながらしみじみと呟く。
「大丈夫よ。『紫燐』のサベル・アルハーノは、そう簡単に死んだりしないんだから」
一時は『覚悟』も決めていたジュリーが、いつもと変わらない笑顔で言い切った。
「エドヴィンくんも、かなり熱が下がってきたみたいよ」
流護も帰ってきてからちょくちょく二人の様子を見ていたが、彼らの容態は明らかに快方へ向かっている。このままいけば、遠からず目を覚ますはず……と思いたい。
ベルグレッテなどは、時間さえあればエドヴィンのそばについて看病している状況だった。
「そいやヘフネルさん、昨日は急な仕事でも入ったんすか?」
サベルとエドヴィンの話題も一段落したところで、流護は気になっていた疑問をぶつけてみた。
当初は昨日、美術館の片付けが終った後に来ると言っていたのだ。それが急遽取り止めとなり、今この時間にずれ込んだのである。
「ああ、それなんですが……昨日はちょっと、ガミーハのことで……。色々とゴタゴタしていたので、時間的にも無理そうだなと」
「ガミーハさん……が、どうかしたんすか?」
ヘフネルの幼なじみ、ユーバスルラの街で出会ったお調子者っぽい正規兵だ。軽そうな態度に反し、実は訓練生首席で優秀だという。
「ええ、はい。どこから話したものか……、ええとですね――」
ヘフネルは昨日の美術館で起こったことについて、細かに報告してくれた。
まず、現場が予想以上の惨状だったこと。瓦礫の中から、襲撃者の得物と思しき凶器が回収されたこと。それをベンディスム将軍に引き渡そうとしたガミーハが、他の兵士と揉めて現場から摘み出されたこと。
「はー、そりゃまた何つーか。んで大丈夫だったんすか? ガミーハさんは」
「ええ、はい。こってり絞られたみたいですが、普段の優秀な仕事ぶりも考慮されまして、大事には至らず済みました……」
「ふふっ。不真面目な先輩に食って掛かった、かあ。最初は軟派なコかなーなんて思ったけど、なかなかどうして熱い男じゃない。とにかく、無事に収まってよかったわね」
そんなジュリーの言葉にも、しかしヘフネルの表情は晴れない。
「ええ、はい。その点については、僕もひとまず安心しています」
「……他に気がかりなことが?」
ベルグレッテの問いに頷いた彼は、重々しい口ぶりで語った。
「焼け跡から、一人の男性職員の遺体が発見されたんです」
そこで誰よりも瞠目したのはジュリーだった。
「……それって、闘いの巻き添えで……?」
つまり、伴侶の炎が市井の民を殺めてしまったのかと。
そんな麗女の困惑を察したか、ヘフネルが慌てて首を横へ振った。
「ああいえ、違うんです。火事や崩落に巻き込まれたにしては、遺体の状態がおかしかったので」
「どういうことっすか?」
「ええと……遺体には、首がなかったんです。それで――」
先の話に出た、敵の遺留品と思われる得物――ノコギリじみた大振りの鉈。これに大量の血がこびりついていたことから、それによる凶行と予想された。
「ん? そのノコギリの持ち主って、オルケスターの奴っすよね多分。流れ的に。ってことは、そいつが美術館の人を? 何でまた」
「……それは……分かりません。それでですね、他にも気になることがありまして――」
ヘフネルが口早にその内容を説明し、
「――ふぅーん。つまり様子のおかしな女性職員がいた、ってことね?」
ジュリーがのんびりとその一言にまとめる。
「ええ、はい。最初は、遺体で発見された男性の恋人かな、なんて思ってたんです。ですが……彼女が妙なことを口走ったので、どうにも引っ掛かっていまして……」
「妙なこと、ってのは?」
流護に促されたヘフネルが、それをなぞる。
『話が……っ、違うじゃない……! ……どう、して……何でこんな……!』
「――と、言っていました。確かに」
「……ふーむ。まあ、恋人の死体が見つかって言うセリフ……って感じじゃないっすね。つかあからさまに怪しいっすけど」
「ええ、はい。僕も怪訝に思ったので、はっきりと覚えているんです。男性の死に衝撃を受けていることは間違いなさそうでしたが、悲しんでいる……という感じではなかったんですよね」
ちなみに、昨日ヘフネルが報告したがっていたのはこの件だったらしい。
「本人に詳しく訊かなかったんすか?」
流護が尋ねると、若きバダルノイス兵は困り顔で肩を落とした。
「そうしようと思ったのですが……彼女、すぐに走り去ってしまいまして」
「そらまたくっそ怪しいな……」
「その直後にガミーハの件が起きたので、完全に追う機会を逃がしてしまって……」
加えて、その時点ではちょっと引っ掛かる程度の疑念。同僚の死に動転して、彼女自身でも意味不明なことを口走ったのかもしれない。兵士の権を使ってまで……追いかけてまで問い質すほどのことだろうか、との迷いも生まれたとのこと。
「そこで、皆さんに意見をお訊きしたいと思いまして……」
皆さんに、と言いながらも、彼の視線は聡明な少女騎士へと向けられていた。実際、この場で正答にたどり着く可能性を最も秘めているのは彼女に違いない。
「そう、ですね……」
その当人こと顎先へ指を添えたベルグレッテが、たどたどしく自らの考えを口にする。
「男性職員が遺体となって発見されたのは、その女性職員にとって想定外の出来事だった……。口ぶりから、『本来の予定とは違ったことが起きてしまった』と動転しているようにも捉えられますが……」
「本来の予定とは違うこと、ですか」
『男性職員の死』がそれに該当するのであれば、何がどうなれば期待通りだったのか。
「関係あるんでしょうか? 今回の一件と……」
すがるような兵士の言葉に、さしものベルグレッテも眉を寄せた。彼女もエスパーではない。さすがに情報が少なすぎる。
(もちろん、俺にはさっぱり分からん)
流護は早々に諦めモードだった。
「うーん……」
唸りながら紅茶をすすったヘフネルが、空になったカップを机上に戻す。
「ああヘフネルさん、おかわりあるっすよ。どうぞどうぞ」
各々が考えを巡らせる最中、何となく手持ち無沙汰な流護がポットを手に取ると、
「あっ、お構いなく。あまり飲むと、その……出すほうも近くなってしまうので」
「はは、それもそっすね。分かりました」
何せこの寒さである。もっともな話だろう。
(そいやあん時、やたらトイレばっか行ったっけな俺も……)
あれは、それこそ襲撃のあった日だ。
(つか、メルティナの姉ちゃんとドンパチやってる最中に漏らさんでよかったっすわ……)
ちなみに『近かった』のは昼食後しばらくの間だけで、夕方以降はパタリと治まった。襲撃の件で精神的にそれどころではなかったからか。
実は闘いに身を置く者にとって、トイレ問題は切っても切り離せないものだったりする。
事前に必ず、膀胱は空にしておく。例えば『何でもあり』の潰し合いにて金的が決まったりすれば、色々な意味で大惨事を引き起こしかねない。
格闘技の試合においても、意図せず攻撃が下腹部に入ってしまう事故はありうる。このため流護は、昔から用足しには人より気を使っていたりするのだ。
そんな取り留めもないことを考えていると、
「ねえねえ」
茶菓子を摘んだジュリーが、おもむろに切り出した。
「悩むぐらいなら、やっぱり本人に訊いてみればいいんじゃない? その職員の人の名前は? 聞いてたりしないの?」
「あっ」
ヘフネルが雷に撃たれたように背筋を伸ばす。
「わ、分かります! 聞いてはいませんが、名前なら分かります……!」
半ば取り乱しながら、彼は自分の上着の衣嚢をまさぐり始めた。
「美術館の職員は皆、胸元に名札をつけているんですよね。彼女の名前も、行動が怪しかったので忘れないよう控えて……、あ、あった! ありました!」
しわしわになった小さな紙切れを取り出し、読み上げる。
「エルサー・メラー……というのが、彼女の名前です」
はあ、と相槌を打ちながら、流護は提案した。
「そんじゃ、そのエルサーさんに話を聞いてみる感じっすかね?」
やはり情報が限られる現状、怪しいと思ったなら当たってみるべきだろう。気分は刑事である。
「そうですね……。何か、有益な情報が得られればいいんですが」
「まあ、丸っきり無駄ってこたぁないんじゃないすか? あからさまに怪しいし、その人」
そこで流護は、おや? と顔を横向ける。
女性陣が会話に入ってこないからだ。見れば、二人とも考え込むような仕草で沈黙していた。特に、
「ジュリーさん? どうかしたんすか?」
推理担当のベルグレッテはともかく、話を振ってきた彼女がいきなり黙ってしまったのは、どうにも違和感が大きい。
「うん? ああ……いえね、エルサー・メラー……って名前なんだけど、どこかで……」
「え? 聞き覚えがあるんすか?」
「そんな気がするのよね~……うぅーん……」
確信が持てるほどではないのか、自信なさげに唸っていた。
そこで今度は、不意にベルグレッテが顔を上げる。
「ジュリーさん。今さらの疑問なのですが、ひとつお尋ねしたいことが」
「へ? なぁにベルグレッテちゃん。改まって」
「美術館にて、サベルさんとはぐれた……とのことでしたよね」
「ええ」
「そのときのことを、より具体的にお聞きしたいんです。そもそも、お二人はどうしてはぐれてしまったんですか? 他にお客さんは皆無だったと聞いていますし……」
沈黙。数秒の間を置いて、
「……そう、ね。ええと」
ジュリーはなぜか、口ごもって流護とヘフネルの顔をちらりと窺う。
「? なんすか?」
当然ながら問えば、彼女は観念したように語気を荒くした。
「……お花摘みに行ったの、あたしがっ。どうにも我満できなかったから!」
思春期の少年は黙りつつ納得した。だから言いづらそうにしていたのだ。男二人の前ではなおのこと。
「用を済ませて閑所を出たら、外で待ってるはずのサベルがいなくなってたの。それで……」
ごほん、とヘフネルがわざとらしい咳払いを挟む。
「な、なるほど。しかしサベルさんは、なぜジュリーさんを置いていってしまったんでしょう? どこそこへ行く、など何か言い残されたりは……」
「してないわ。いつもなら一言ぐらいあるはずだから、あたしも気になってはいたんだけど。……女性の共用閑所だったし、外から声をかけることに抵抗があったのかもしれないわね。彼ってば紳士だから。それでも、通信術のひとつも飛んでこなかったのは解せないとこだけど……」
「……そういえば、サベルさんが敵と交戦した場所と思われる西棟第一展示室は、封印術が施されていて通信術などが通じない部屋でした」
「ええ、知ってるわ。立て札に書いてあったわよね。あの日、そこから先の展示室も準備中って書いてあったわ。サベルと一緒に通りかかったとき、『今日は見られないのか』って残念がってたのよ」
「ううむ。ではお二人とも、それについてはご存じだったんですね。ならサベルさんは……どうして後になって一人で、しかも立ち入りが禁じられた部屋に……?」
ふーむ、と流護も考えてみるべく腕を組んだ。
ともあれ、いつも二人で行動しているはずのサベルとジュリーは、用足しが切っ掛けとなって一時別れた。
そこから何がどうなったのかは不明だが、結果だけ見れば、一人となったサベルが刺客に襲われた。
(……ってのも何か変なんだよな~。相手が単独になったとこを仕掛けんなら、この場合サベルよかジュリーさんの方が楽だろ……)
そこは神詠術が存在するグリムクロウズ。少女が大男を軽々と吹き飛ばすこともある世界だ。単純な戦闘力で女性が男性に後れを取るとは限らない。
それでも普通に構えている青年よりは、用足し中の女性のほうが奇襲しやすいことは明らかだ。
そもそも離れ離れになった二人を各個撃破――ではなく、サベルだけが襲われている点も腑に落ちない。
(いや、そもそも色々おかしくねーか? ジュリーさんがトイレ行ったのなんて、どう考えたって完全に偶然だろ? なら……)
彼らが片時も離れずずっと一緒だったなら、敵はどうするつもりだったのか?
まとめてみれば、全体的に不可解な点ばかりだ。
なぜサベルだけが的にかけられた? なぜ彼はジュリーに声もかけず置いていった?
(はー、いやもうワケ分かんね――)
流護の思考が完全にこんがらがった直後。
ガタン、と大きな音が部屋中に響き渡った。
「……、どしたんすか? ジュリーさん」
それは、彼女が唐突に立ち上がった音だった。
「……思い出したわ」
彼女にしては珍しい、低く呻くような声。
「な、何をです?」
あまりにいきなりのことで、ヘフネルも面食らいながら問いかける。
「エルサー・メラー。その子ってば……茶色っぽい髪を肩のあたりで切り揃えてて、ちょっとカゲのある感じの大人しそうな顔してなかった? で、鼻の横に大きなホクロがある」
えっ、とヘフネルが声を詰まらせる。
「そっ、そうです……! けどジュリーさん、どうして分かるんです!?」
「美術館で会ってたのよ、彼女に。おかげで、ちょっとした疑問も思い出したわ。サベルのことで、すっかり頭の中から飛んでっちゃってたみたい……!」
言うなり、彼女は足早に衣類掛けへと向かっていって自分のコートを掴み取った。
「ヘフネルくん、あとベルグレッテちゃんも。これからちょっと付き合ってくれる? エルサー・メラーに会いに行きましょ」
いきなりのことで、さすがに皆が目を丸くする。
「会いに、って……これからですか!?」
「あら、ヘフネルくんは夜もお仕事?」
「あ、いえ、今日はもう上がりましたが……」
「それじゃお願い。きっと早いほうがいい。兵士として、彼女から話を訊けるよう協力してくれないかしら」
有無を言わさず、といった迫力である。
「ベルグレッテちゃんもいい? 答えを知るには、きっとあなたの推理力が必要だわ」
「え、ええ……」
その頭脳を見込まれている少女騎士ですら、勢いに押されたのか流れで頷いている様子。
「リューゴくんは、悪いんだけどお留守番をお願いできる? サベルとエドヴィンくんを放っとけないしね」
「は、はあ」
三人の困惑を感じ取ってだろう、ジュリーは支度を進めながら口にした。
「エルサー・メラーには、是非とも答えてほしい疑問があるの。『なぜあの時、あんなことを言ったのか』。あの美術館で……あたしたちの知らないところで何が起きてたのか、これで分かるかもしれないわ」




