431. 雪国の朝
一夜明けて、時刻は朝の八時前。場所はサベルとエドヴィンが眠り続けるゴトフリー医師の診療所。
待合室のソファで身を起こした流護は、カーテンの隙間から漫然と窓の外を眺めていた。
天候は雪。
空はどんより薄暗く、いつから降り続けているのか、昨夜より目に見えて白い塊が増えている。そんな悪天候のため街は閑散としている――などということはなく、むしろ逆で、雪かきに勤しむ人々の姿が多く見受けられた。
歩道や家の前でせっせとスコップを振るう者、建物の屋根に上がって下に雪を落とす者。広い舗道は、毛長牛カロヴァンが引きずったハケのようなものでモリモリと平らに均していく。
そうして寄せ集めた雪を、道路沿いの巨大な側溝――流雪水路へと皆で次々に放り入れる。その中で勢いよく流れる水が、雪塊を溶かしつつ押し運んでいく。
ヘフネルの話では、水路は一日に二回ほど放水されるということだった。まさに今がその一回目に当たるのだろう。
故郷やレインディールではお目にかかれないこともあり、除雪作業の様子を飽きもせず見守る少年の背後から、戸を開閉する音が聞こえてきた。
「ふわ……あ、起きてたのねリューゴくん。おはよー」
「あ、おはようございまっす」
エドヴィンたちの病室から待合室に入ってきたのは、眠たげに目をこするジュリー。昨晩は念のためサベル(とエドヴィン)に付き添い、病室で夜を明かすと言っていたのだ。
ちなみに二人が眠る部屋の窓の外は積み上がった雪の壁で完全に塞がっているため、侵入者や襲撃を警戒する必要もないのだが、そこは気持ち的な問題である。
「二人の様子はどうっすか?」
「変わりないわ。ゴトフリー先生が言った通り、あとは目を覚ましてくれるのを待つだけなんだろうけどねー……」
「っすね……」
そうは言えども、二人が実際に起きるまで不安は尽きない。
特に流護の場合、彩花が現在進行形で数ヶ月も眠り続けているのだ。エドヴィンたちが同じようなことになってしまったら――と、不吉な考えがまとわりつくのもやむなしだろう。
そんな事例を知らないジュリーとしても、やはり安心などできるはずもないことは明白。目の下にうっすらとクマができていた。
「ジュリーさん、少しは寝たんすか?」
「んー、ちゃんと寝たわよ。ま、朝方になってからだけどね……」
目下の不安は、サベルたちの具合だけに留まらない。
敵の襲撃。現状それはないと予測したところで、予測は予測。心理的に安眠は難しい。流護自身、目を閉じているうちに朝になったような心地だった。
「ベルグレッテちゃんは?」
「ああ、ベル子ならあっちの部屋で朝食の準備中っす」
それもこの診療所に保管されていた携帯食料だが、今日は昼から外出予定である。ひとまずの腹ごしらえができればそれでいい。
「リューゴくんたちは今日、誰に会うんだっけ? えーと……ガ、ガドガドガド……?」
「惜しい、ガドが一個多いす。ガドガドとラルッツっすね」
元山賊にして今は何でも屋の冒険者。レフェの天轟闘宴にて顔見知りとなった二人組である。
一昨日たまたま入った飯屋で偶然の再会を果たした折、改めて今日顔を合わせると約束したのだ。ちなみに彼らはサベルとジュリーを知っていたが、逆は成立していなかったらしい。
「オルケスターと面識があるって話だったわよね、その人たち」
「みたいっすよ」
ハンドショットやセプティウスの話を聞く限り、流護の知る情報と一致している。彼らの言葉に嘘偽りはないはずだ。とはいえ、
「その、こんなこと言うのもあれなんだけど……信用できるの? その人たちってば」
ジュリーが懐疑的になるのも当然か。彼女にしてみれば、ラルッツやガドガドは面識のない赤の他人。特に、どこの誰が敵とも知れない今の状況で、見ず知らずの人間をすんなり受け入れられるはずがない。
「そこはまあ……大丈夫だと思いますよ」
流護とて、彼らを詳しく知っている訳ではない。殺しご法度とはいえ、山賊稼業に身をやつしていた過去を持つ者たちだ。
ただ少なくとも、天轟闘宴でラルッツを助けた際の感謝は本物だと思えたし、先日オルケスターについて語った折の怯えも演技には見えなかった。そんな兄貴分を慕うガドガドも、人のよさが隠し切れない少年である。
「まぁ、ベルグレッテちゃんも一緒だし心配無用かしらね」
「えっ、あれ? 俺だけだとそんな信用ない?」
「うふふふふ、そんなことないわよ~。……それにしても」
井戸端のおばちゃんみたいに含み笑ったジュリーは、居住まいを正して待合室を見渡した。
「ほんとにいいのかしらね? あたしたち、ここにお世話になっちゃって……」
「いやま、ゴトフリー先生もマジで出てっちゃいましたし……」
この診療所は現在休業中である。
他の患者はおらず、いるのは流護たちだけ。ミガシンティーア一行が訪れた折に事情を知ったゴトフリー医師が、ここを宿泊場所として提供してくれたのだ。
もちろん、そこまでしてもらう訳には、と遠慮したのだが、
「実は前々から、休みを取って遠方に住んでる娘夫婦に会いに行こうと考えていてね。なかなか実現できずにいたけど、この際だから」
と、あっさり決断してしまったのだ。
無論、狙われている流護たちから離れるための方便かもしれなかったが、巻き込んでしまうよりは断然ましではある。自分たちのせいで気を使わせてしまった感も大きいが、ここは厚意に甘えることにしたのだった。
「あっ。おはようございます、ジュリーさん」
「おはよー、ベルグレッテちゃん」
隣の部屋から戻ってきた少女騎士が、携帯食料と紅茶の載ったトレイをテーブルに置く。
「それにしても、雪がすごいわね……」
カーテンの隙間から覗く外の冬景色に目をやりながら、
「……でも、敵が聖礼式に乗じて襲撃を仕掛けてきたことは間違いなさそう」
と、唐突に口にする。
「ん? 何だよベル子、いきなり」
「あ、うん。きっとバダルノイスでは、『これ』が日常の景色なのよね。だから……」
外で多量の雪と格闘する住民たちを眺めつつ、その推測を呟く。
「こんな悪天候でも、街には除雪作業のために多くの人が集まる。つまり、なにか事を起こそうとすれば『目撃者』が出てしまう可能性が高い。だから敵は、街から人の姿が消える聖礼式を利用するしかなかったのかな、って」
その儀式が執り行われた先日、街には人の気配もなくひどく寂れた印象だけがあった。
しかしそれこそが異質で、本来の皇都は天候にかかわらず人が溢れる。今の賑わいこそが日常。加えてレノーレの件で兵士たちの監視や警備が強化されている昨今、白昼堂々誰かを襲撃することは難しいに違いない。
ゆえに、聖礼式に乗じた。
そして先日ヘフネルとも話したように、兵士ひしめく宮殿内での襲撃は内通者の存在を自白するようなもの。
「はえー……よう考えるなあ」
ちょっとした点からヒントを見出だす、少女騎士の相変わらずの慧眼っぷりに舌を巻く流護だが、
「…………」
その説を唱えたベルグレッテ自身が、顎先に指を添えて沈黙していた。
「どした? ベル子さん」
「んー……そうなのよ。オルケスターは、大陸中を渡り歩いてきたサベルさんやジュリーさんにすらその名を知られていなかった、秘匿能力の高い集団。なのに……」
何やら一人でぼそぼそ呟いている。と思いきや、
「……うん。あなたはどう思う?」
前を向いたまま、そんな風に問いかけてきた。
「え? 俺っすか? 俺にはちょっと……」
流護が遠慮がちに答えると、少女騎士はハッとしたように両手を振った。
「ああ、ご、ごめんなさい。気にしないで」
「ん? お、おう……」
それからも彼女はあれこれ考察しているようだったが、その思考能力は流護についていけるものではない。余計な口は挟まないことにして、朝食をいただくことにする。
「そういえば、今日は夕方ぐらいにヘフネルくんが来るんだっけ?」
壁の柱時計を見やりながらのジュリーの言葉に、流護は「らしいすね」と相槌を打った。
昨晩の夕食を終えた頃、待合室に通信術の緩やかな波紋が広がった。ベルグレッテが応答してみたところ相手はヘフネルで、曰く「美術館の件で報告したいことがあるんです!」。
本来であれば昨日、その美術館の片付けが終わった後に寄るつもりだったようだが、都合がつかなくなったらしく本日夕方に訪れる運びとなっていた。
「何だか、一刻も早く話したそうにしてたわよねぇ」
「だったっすね。何か新しい発見でもあったんかな?」
気になるところだが、第三者の傍受を避けるため通信術でのやり取りはせず、直接会って話す予定となっていた。
「ん……そうねー。実際に聞いてみな――」
そこでジュリーの言葉を断ち切ったのは、窓から聞こえてきたガンと叩きつけるような音だった。
「!」
皆が素早くそちらに視線を飛ばす。
強い風に煽られた大粒の雪が、激しく窓ガラスに吹きつけていた。外は完全な白一色に染まり、壁や天井からも多量の砂利が叩きつけられるような音が聞こえてくる。建物の隙間からは、凍てつく風が容赦なく入り込んできた。
とはいえそれも一瞬のことで、すぐに元の静寂が戻ってくる。強めの雪と風は相変わらずだったが。
「……、……みぞれか? 粒がデカそうだから、雹なんかな。とにかくすげー吹雪いてんなあ」
すわ襲撃か、と身構えた肩の力を抜く流護だったが、直後のベルグレッテの言葉に耳を疑うこととなった。
「朝食を済ませたら、雪かきをしましょうか」
「へぇっ!?」
「なによリューゴ、変な声を出して」
「いやいや、何よはこっちのセリフですよベル子さん。この外の荒れっぷり見て言ってるんすか」
「あら、だからこそじゃない。きっと診療所の周り、雪ですごいことになってるわよ。ゴトフリー先生の留守を預かってるんだから、私たちがきちんと診療所を管理しないと。街の人たちもがんばってるんだし」
いざ聞いてみればなるほど、優等生の彼女らしい言い分だった。
「うへえ……」
外を見やれば、ばっさばっさと際限なく降り続ける多量の雪。視界が霞むほどだ。果たしてどれほど積もるのか、故郷でも北国とは無縁だった流護には想像すらつかない。放置したら、建物が埋まってしまったりするのだろうか。
ともあれベルグレッテの言う通り、寝泊まりさせてもらう身である以上、見て見ぬふりを決め込む訳にもいかないところか。
「はあ……そいや雪マイスターの桜枝里先生が言ってたっけな。雪かきのコツはこまめにやることー、とかって」
「ふふ、そうね」
「仕方ねーか。んじゃ飯食ったら、一仕事しときますかね……」
と、食事の準備に取りかかった三人の耳に届いたのは、外から聞こえてきた悲鳴だった。
「!」
またも全員が窓の外へ素早く意識を向ける。
「……、何だ?」
駆け寄って窓越しにその光景を見た流護は、咄嗟に事態を把握できなかった。
雪かきに勤しんでいたはずの街の人々が、何やら一斉に走り出している。皆の顔は一様に下……足下を向いており、屈み込んで手にしたスコップを流雪水路の穴の中へと伸ばす者もいた。
「……? ありゃ、何してんだ……?」
水路だ。その中を何かが流れているのだ。人々はそれを追って――
「いけない!」
先に答えへ行き着いたのはベルグレッテ。勢いよく席を立った彼女が、珍しく乱暴に上着を掴みながら駆け出す。
「ベル子!?」
「きっと誰かが水路に落ちたんだわ!」
そこで流護も思い当たった。
この皇都イステンリッヒに着いてすぐ、流説水路を眺めていた際にヘフネルから聞いた話。毎年、落ちて流される者が出ていると。
「おいベル子……! ああ行っちまったか……、すんませんジュリーさん、俺もちょっと行ってくるんで待っててもらっていいすか……!」
「え、ええ」
寝たきりのサベルとエドヴィンを置いたまま全員で出ていく訳にもいかない。
ひとまずジュリーに後を任せた流護は、一目散に飛び出していったベルグレッテの後を追うことにした。