429. これも兵士の職務
「……、これは…………」
階段を上がって現場に到着したヘフネル・アグストンは、しばし呆然とその場に立ち尽くした。
バダルノイスが誇る王立美術館、その二階部分の一角……西棟第一展示室と呼ばれていた部屋は、今や見る影もなく崩れ去っていた。
廃墟と見紛うばかりとなったそこには、溶解した石壁や天井の残骸、ガラスの破片、整然と陳列されていたはずの展示物の数々が、見るも無残に散乱している。
(……予想以上にひどいな……)
目を背けたくなるような破壊の痕跡。
ヘフネル自身客として訪れたこともあったその場所に、もはやかつての面影はない。
サベルと何者かの激しい戦闘を物語るそれら光景の上には、昨晩降った雪が吹き込んで薄く積もっていた。
「今日は晴れ間も覗いてるが、術士さんの話じゃ明日も降るそうだ。さっさと片付けねえと、しんどくなる一方だなこりゃ。どうにか今日中に一段落させたいとこだが……」
億劫げに頭を掻いた先輩兵士が、白い溜息を漏らしながら指示を出す。ヘフネルもそれに従い、瓦礫の撤去作業に取りかかった。
「……くっ……、だめか……」
崩落した石壁の一部と思わしき塊を持ち上げようとするも、これが微動だにしない。よくよく見れば、石が見たこともないような艶を放ち、床と完全に固着している。
(……これはきっと、サベルさんの……)
紫色に燃え盛り、鎮火にも手間取ったという異質な炎。
並の使い手ではこうはなるまい。『紫燐』の二つ名を有する詠術士、音に聞こえたその実力は伊達ではない。
なればこそ、余計に不可解だった。
そのサベル・アルハーノの術すら凌ぎ、彼を瀕死へと追いやった敵。それは一体、どれほどの強者だったのか。平々凡々たるヘフネルには、もはや及びもつかない領域だ。
「よっ。あんまり気張り過ぎんなよヘフネル。動かせそーにないもんは、そのままでいいってさ」
石に手をかけたまま押し黙っていたことで勘違いさせたか、後ろから軽く声をかけてきたのは――
「……ガミーハ……」
幼少時代からの旧友にして同僚だった。
ちなみにここで会ったのは偶然。ヘフネルが突発で駆り出されたのと同じく、彼もまたベンディスム将軍の指示で助っ人としてやってきたらしい。
「これがサベル・アルハーノの炎術かね。石がこんな風に溶けるなんて初めて見たぜ。まっ、とりあえず無理そーな瓦礫は放っといて、せめて展示品の回収かねえ」
「そうだね……」
しかしこの惨状では、破損してしまった品も多いだろう。果たして、被害額はいかほどになるか。
(エマー……じゃない、オームゾルフ祀神長にまたひとつ悩みの種が増える……。ただでさえお忙しい方なのに……)
憧れの聖女の心労を思っていると、作業に当たる他の兵士たちの会話が聞こえてきた。
「えぇい寒ィったらありゃしねえ! とっとと片付けてよー、キレイな姉ちゃんのいる店で一杯やろうぜぇ~!」
「そうしてぇのは山々だが……しかしひどい有り様だな。何がどうなったら、石がこんなツルッツルになるんだ……?」
「そもそもだ、ただの火事じゃねえらしいよな。サベル? とかって奴が原因なんだろう、これ。何者かとやりあっただとか聞いたが、果たして本当かねえ?」
「どういうことだ?」
「西棟の第一展示室って言やぁ、古今東西の封術道具を集めた宝の山だぜ。ちょいと拝借しよう、なんて魔が差してもおかしかねえ。何でも、トレジャーハンターだってんだろ? そいつ。火事場泥棒のつもりが自分も燃えちまった、なんてなぁ?」
「ははっははは! だとしたら間抜けもいいところだな」
彼らは品もなく笑い合う。
「……! 勝手なことを……!」
反射的に兵士たちを睨むヘフネルだが、その肩に手が置かれる。
「言わせとけ。どうせ口だけの連中だ」
振り返れば――いつもの軽薄な雰囲気ではない、ひどく冷めたガミーハの顔があった。
その表情も一瞬のこと、
「ほれほれ、バカに付き合って時間を無駄にするなんて勿体ないぞ。俺らは口じゃなくて手を動かそうぜ」
「……、ああ、うん。そうだね」
いつもの調子に戻った彼が、すぐ脇の瓦礫へと向き合う。
(ガミーハ……)
子供の頃からそうだった。
一見して軽く見られがちなこの青年は、実のところ誰よりも真面目だった。気弱な割には突っ走りがちなヘフネルを諫める側に回ることも多く、同じ年齢ながら頼れる兄貴分のような存在だった。
正義感が強く文武に秀でていた彼は、早くから兵士を志し、同期訓練生の中で最も優れた成績を残した。未だ色々と危なっかしいヘフネルとは違い、立派なバダルノイス正規兵と呼べる存在になっている。
(……そうだ。ガミーハなら、間違いなく信用できる。ベルグレッテさんが話してた内容について相談すれば、心強い味方になってくれるはず……)
かの聡明なレインディールの少女騎士によれば、誰が内通者かは分からない、誰であってもおかしくない、とのことだった。
(でも、こいつは……ガミーハだけは絶対にない……)
人一倍熱く国を思うこの昔なじみが、得体の知れない闇組織に与するなどありえるはずがない。むしろ間違いなく、そういった輩に憤る側の人間だ。ヘフネルと同じ平民の出で、ベルグレッテが唱えた条件にも当てはまっていない。
(……よし)
相談してみよう、とガミーハのほうに顔を向けたヘフネルは、そこで気がついた。
「……ん?」
瓦礫の撤去作業に当たっている自分たちから離れた位置。野晒しになった階段の近くで、遠巻きにこちらを眺める男女の姿があった。
服装からして美術館の職員で間違いない。男性は白髪が目立つ壮年、女性は茶色い髪を短くパッツリと切り揃えていて、ヘフネルやガミーハと同年代に見える。
自らの勤め先がこんな惨状になってしまい、心配で様子を見に来たといったところだろうか。
(気持ちは分からないでもないけど、ここにいるのはちょっと危ないかな……)
近くの壁や天井がいつ崩れるとも知れない現状、市民がここに留まるのは好ましくないだろう。
注意しようと近づいたヘフネルより早く、彼らの存在に気付いたガミーハが行動に移していた。
「どうしました? ここは危ないんで、我々にお任せくださいよ」
「あ、いえ……」
寄っていって自らの胸を叩くガミーハに、男性職員が曖昧な反応を返す。一方の年若い女性は、妙に青い顔をしていた。近くで見ると、鼻の横に大きなホクロがあるのが特徴的だ。その彼女が少し身じろぎした拍子に、胸元で何かがキラリと発光する。
(! 眩し……何だ、って)
それは、昼神の明かりを照り返した名札だった。『エルサー・メラー』と記されたそれが、彼女の名前のようだ。
「何か気になることでもおありで?」
二人の様子を怪訝に思ったか、ガミーハが真面目な顔で尋ねる。
重苦しい表情のまま口を開いたのは、上役と思しき男性のほうだった。
「実は……昨日の一件以降、当館の従業員が一人行方知れずになっていまして。昨日は過去にない事態で皆一様に混乱しておりましたから、落ち着いて確認する余裕もございませんでしたが……いざ今日になって、どうも一人いないぞと……」
そう言葉を結び、周囲へと顔を巡らせる。
「……うーむ、そういうことですか……」
事情を聞いたガミーハも困ったように目線を追従させた。つまり、
(この中に……)
巻き込まれてしまったか。消し止めることが難しいというサベルの炎に包まれ崩れた部屋、その時点で仮に無事だったとしても、生き埋め状態で冬のバダルノイスの冷気に晒され一晩経過。……言うまでもなく絶望的だ。
「……では、『その可能性』を念頭に置いて作業します。なぁヘフネル、先輩方に知らせ――」
と、ガミーハがこちらを振り返った直後だった。
「うわっ、何だこりゃぁ!?」
近場で掘り返していた兵士の悲鳴に似た声が、皆の注目を集める。
「何だ、面白いもんでも見つけたか~?」
隣にいた不真面目そうな中年兵士が、興味津々のにやけ面で首を突っ込む。その手には瓦礫の中から回収したのだろう、珍しい意匠の施された銀色の曲剣が握られていた。
「いや、これ……」
悲鳴の主が、倒壊した石々の合間から恐る恐るといった手つきでそれを引き抜く。
「あぁん……? な、何だそりゃ……?」
武骨で大振りな、鉈と思しき得物だった。
剣身にはギザギザの刃が波打っており、ノコギリをそのまま武器に転用したかのような荒さが感じられる。傍らの兵士が握る美しい銀剣と比べたなら、あまりにも品性に欠ける代物だ。展示物にしては価値もなさそうだが、問題はそこではない。
「……まさか……これは……血、か……?」
その刃には、どす黒い何かがビッタリと付着していた。焦げついているため確証はないが、凶悪な形状をした得物の印象から、おそらくは誰もが自然とその想像へ行き着く。
「おい、誰か!」
職員も含めた皆が黙り込む中、今度は別のところから声が飛んだ。少し離れた位置で作業をしていた実直そうなその兵士が、渋い顔で告げた。
「死体だ。服装からここの職員だと思われるが……首がない」
兵士たちはともかく、絶句したのはやはり二人の職員だ。男性のほうが、動揺しつつも申し出る。
「ま、まさか……、あの、確認させていただけますか」
「ん? おお、職員の方ですか。お願いできればそれに越したことはありませんが……、その、大丈夫ですか」
少し言い淀んだことで察せる。口に出すのも憚られるような状態、なのだろう。射抜かれたみたいに、歩み寄っていこうとする男性の足が止まった。
「……、う、その……そうだ、胸元に名札を付けておりませんか」
「……む……それらしきものは確認できますが……」
焼けたか溶けたか煤けたか、上手く読み取れないようだ。ガミーハを含めた兵士たちが集まっていき、にわかに小さな人だかりができる。
「……、」
ヘフネルとしてはわざわざ無残な遺体を調べる気にもならなかったので、遠巻きにその光景を眺めるに留めた。仕事上で必要があれば死体とも向き合うが、名札を確認するだけの作業に人数ばかり集まっても仕方がない。……と、胸中で言い訳しつつ。
せめてと思い余計な気遣いかもしれなかったが、先ほどから真っ青な顔で硬直している女性職員……エルサー・メラーのほうに声をかけた。
「……その、お気を確かに」
「………………」
彼女は、ヘフネルには一瞥もくれず兵士らの確認作業を凝視していた。
「しかしなぜ首なしだ? 火事や崩落に巻き込まれたにしては妙だな」
「殺られたってことか?」
「となると、より妙だぞ。襲われたサベルとかって奴はともかく、どうして美術館の職員が首を落とされなきゃならんのだ?」
人だかりからのぼやき。エルサーが自分のことのようにビクリとした。
(もしかして恋人かな。だとしたら気の毒に……)
上役らしき男性に一人だけ随伴してきたことからも、その関係が脳裏に浮かぶ。
「これは……ニクラス……、ニクラス・ラッドと書いてあるのか?」
「そう、だな……間違いなさそうだ」
兵士たちの解読が一致し、男性職員が「ニクラス……! ああ神よ」とうなだれた。いなくなった人物がその遺体だと決定づけられた瞬間だった。
会話を耳にしたエルサーは、もはや顔面蒼白で唇を震わせていた。
「…………、」
こうなってしまっては、どんな言葉をかけても慰めにならないだろう。
それでも兵士として何か言うべきか――と迷うヘフネルの耳に、やっと届くような声量だった。
「…………く、……そく……が……」
ガタガタと震えながら、彼女が呟く。
ほとんど無意識に零したのだろう。
「話が……っ、違うじゃない……! ……どう、して……何でこんな……!」
それは――あまり鋭くないヘフネルでも、即座に違和感を覚えるような発言だった。