425. 奇
「なっ、どういうことですミガシンティーア……!」
豪奢な執務室に、オームゾルフの狼狽した声が響く。
――ベルグレッテたちが、王宮への負傷者移送を断った。
戻ってきてその報告を齎した白騎士はといえば、いつもと何ら変わらぬ薄笑みをたたえている。
「クク、当人たちの意向を汲んだまでのこと。まさか、力尽くで連れて来い……という訳でもありますまい、フフフ」
「それは……! ……きちんと事情は説明したのですか」
「もちろんですとも、ククク」
「……、」
「お疑いであれば、同行させた貴女の部下からもお聞きになると良いでしょう、フフ」
「……いえ。あなたの仕事ぶりを疑うつもりはありません」
「クク、恐縮です。ああそれと、近いうちにこの誘いを断ったことも含め、詫びの挨拶に参られるそうですよ、フフフ」
「……承知しました。下がっていただいて結構です」
「クク、では失礼」
退室していくミガシンティーアの背中を見送りながら、オームゾルフは特大の溜息を吐き出した。
(ベルグレッテさん……一体)
聞いたところによれば、彼女が代表して移送を辞退したという。
確かに、彼らにしてみれば突然の申し出だ。
自分たちの貢献度合いを鑑みて遠慮した部分もあるのだろうし、ケガ人を動かして容態が悪化することを憂慮したところもあるのだろう。
だが、そんなことを言っている場合でないのは分かっているはずだ。呑気に後日詫びに訪れる、などいささか悠長に思える。
特にあの聡明なレインディールの少女騎士が、そこに気付いていないとも思えない。となれば――
(彼女は、全て分かったうえで……? だとするなら、理由は……まさか)
その仮定が的を射ているならば、事態は思った以上に……。
「……、」
机上の小さな円鏡には、厳めしく眉を寄せたオームゾルフ自身の顔が映っている。
やらなければならないこと、考えなければならないことが山積みだ。
ひとまず、明確な形となっている目下の懸念は――
(『雪嵐白騎士隊』……)
スヴォールン率いる、バダルノイス最強の精鋭部隊。
(やはり、私には御しきれない……)
彼らは、王に従属する近衛ではない。独自の思考を持って動く集団である。
十二年前、王に忠実……否、隷属する者しかいなかったがために起きた、『氷精狩り』と呼ばれる悲劇。こうした過ちを二度と起こさぬよう設立された、国の主とは異なる意見を主張することが許された機関。
これが『雪嵐白騎士隊』。その在りようは、主なき騎士団とも呼べるだろう。
彼らの役割は原則として王を支えていくことに違いないが、その王が間違っていると判ずれば忌憚なく異を唱えることができる。
時に協力し、時に意見を戦わせ、ともに国をよりよい方向へと導いていくための存在。
しかし――バダルノイスのため、という志こそ同じであるはずなのに、オームゾルフと『雪嵐白騎士隊』の足並みが揃ったことは片手の指で数えるほどしかない。
(彼らにしてみれば、私など宗教家の小娘に過ぎない、ということでしょう……)
認められていない。軽んじられている。
もっとも実際、オームゾルフは教団から引き抜かれて就任し、今年でまだ五年の若輩者。一方、彼らは『雪嵐白騎士隊』結成以前から、バダルノイスに及ぶ危難を矢面に立って切り払ってきた存在。対等に接しろ、と言うほうが無理か。
スヴォールンやミガシンティーアは表面上こそ丁寧かつ紳士的であるものの、慇懃無礼な態度が透けて見える。後者の今ほどの仕事ぶりを鑑みれば、それは疑うべくもない。まさか、「断られたから」と手ぶらで帰ってくるとは予想以上だ。
(バダルノイスがこのような状況だというのに……)
もはや幾度目かも分からない溜息をついたところで、慌ただしい扉打とともに一人の兵士が飛び込んできた。
「オ、オームゾルフ祀神長!」
入室許可はおろか返事すらしていないのだが、転がり込んできた若兵の青ざめた顔を見て、咎めている場合ではないと察する。
「何事ですか」
「コートウェル地方にて、アンフィヴテルラの三体の出現が確認されたとの報告が……! 早急に征伐せねば、カーリガルの街に壊滅的な被害が出るものと予想されます!」
ふう、と聖女は溜息を吐く。
「――場所はコートウェル、で間違いありませんね」
「はっ! しかし、なぜあのような何もない地域にカテゴリーAの個体が現れたのでしょう……。しかも、あのアンフィヴテルラが三体なんて……今まで、そのようなことは一度も……」
オームゾルフは椅子から立ち上がって、脇の衣服掛けに下がっているコートを手繰り寄せた。
「ど、どちらへ?」
行動に迷いがなかったゆえか、兵はやや狼狽したようだった。オームゾルフはさも当然とばかり、堂々と言い放つ。国を統べる者としての威厳をもって。
「討伐のために『雪嵐白騎士隊』を総動員するよう、スヴォールンの下へお願いに参ります」
ランクAの個体が複数となれば、彼らを向かわせる他にない。いかに気に食わない小娘からの依頼とはいえ、こればかりはさすがに即断で承諾するはずだ。
『バダルノイスのために』。
どれだけ主義主張が異なろうと、この国の人間として根底に根差すそれだけは、互いに確かなものであるはずなのだから。
夜も更け、明日を間近に控えた時間帯。
自室で寝酒を嗜んでいたミガシンティーアは、ふと出入り口の樫戸に目をやった。人の気配を感じてのことだったが、その感覚の正しさを証明するかのごとく、扉が控えめに叩かれる。
「フフ、どちら様かな? 開いているよ」
音もなく戸の隙間から顔を覗かせたのは、そう年齢の変わらぬ一人の若い兵士だった。
「夜分に失礼致します。急ぎ、ミガシンティーア殿にお知らせしたいことがございまして」
「クク、何かな。とにかく、入って戸を閉めたまえ。寒くてかなわぬよ、フフフ」
そう声をかければ、兵も恐縮した様子なく入室した。
「フッ、勤務中かね?」
一杯どうだ、との意味を込めて酒瓶を掲げるミガシンティーアに対し、兵は否定の素振りを見せた。
「本日は夕刻から朝方まで夜警であります」
「クク、そうかそうか。ならば、暖まるために必要だな?」
「いえ。今夜は吹雪いておりますから、酔うて外に出ればキュアレネーの御許へ召されてしまうでしょう」
他愛ない会話で、両者の笑い声が同調した。
この兵とミガシンティーアの間に、上下関係の堅苦しい空気はない。それには理由があった。
現在のバダルノイス兵は自然、大きく三つの派閥に分けられる。
ひとつは、オームゾルフを主と仰ぎ支持する者。
彼女の王座就任に際し教団からついてきた元僧兵もいれば、その思想に共感したか容姿に入れ込んだか、ともかく統治者となった聖女に忠誠を誓った男たちも少なくない。
夕方、ミガシンティーアが診療所を訪れた際に連れていた兵士らは、まさしく教団出身だった。負傷者搬送のためオームゾルフに宛てがわれた人員であり、『雪嵐白騎士隊』直属の部下ではなかった。結果として、そんな助っ人も不要だったのだが。
ふたつめは、『雪嵐白騎士隊』に付き従う者。
『氷精狩り』や内乱の折に、スヴォールンやミガシンティーアらと肩を並べて戦った兵たちで構成される。
付き合いも長く、ともに死線を潜り抜けてきた間柄であるため、皆一様に戦友として接する向きが強い。
実戦派で場慣れした強者が多く、他の兵士たちからは白士隊と呼ばれ区別されている。部屋へやってきた若い兵はこの一人だった。
ちなみにみっつめは、そのどちらにも属さない者である。
オームゾルフ寄りでもなければ、『嵐白騎士隊』寄りでもない。ある意味で当然――本来の立ち位置というべきか、全体の六割強がこれに該当した。
「ククク、それで私に知らせたいこととは何だ? ん? 私でなくてはならんのか? 面倒事ならスヴォールンに投げてくれんか? フフフ」
茶化すミガシンティーアだったが、やってきた同僚の顔からはすでに笑みが消えていた。
「いえ。これは他でもない、ミガシンティーア・エルト・マーティボルグ殿にお知らせせねばならぬことであります」
この局面で全名を読んだからには、それなりの意味があるのだろう。
「よかろう。話してみよ」
察した白騎士も真面目に先を促す。
「は。実はつい先刻、街の巡回より戻ってきた者から聞いたのですが――」
その報告を受けたミガシンティーアは、かすかなほろ酔いが霧散していくのを自覚した。
「ク、クク。それは……フ、フフフ……フフフフ」
酔いの快感を上回る――高揚によって。
「無論、確証はございませぬ。しかし、『おや?』と……もしかしたらそうなのでは、と思う程度には気を取られたようでした。それほどまでに似ていた……もしくは、本人だったのではないかと」
「ふむ……そうか……まさかな……そうか……フ、フフフフフフ」
ひとしきり喉の奥で笑ったミガシンティーアは、おもむろに右手を虚空へとかざす。指を振るえば、宙にうねる波紋が出現した。通信の術。その向こう側から、
『スヴォールンだ』
『嵐白騎士隊』隊長の低い声が響いてくる。いつ聞いても不機嫌そうな、愛想の欠片もない応答。
「やあ隊長。ク、ク。私だ。ミガシンティーアだよ、フ、フフフ」
一方でミガシンティーアは、抑え切れぬ『喜』を噛み締めていた。
『貴様か。随分と機嫌が良いようだが……このような夜分に何用だ?』
問われたミガシンティーアは、迷いなく告げた。
「ああ。オームゾルフ祀神長の依頼……明朝よりコートウェルへ怨魔退治に向かう件だが、私は辞退させてもらう。他に、興をそそられることができたのでね。フ、フフフ」