422. かつての誓約
窓から差し込む橙色の光が、静かな室内を染め上げる。
手狭な部屋の中を占めるのは、耳に痛いほどの沈黙と、鼻孔をくすぐるかすかな薬の匂い。
そんな中、流護、ベルグレッテ、ジュリーの三人は、備え付けの長椅子に腰かけていた。
場所は皇都の北西部を少し外れたところにある、小さな診療所。その待合室。
他に客の姿もなく、場には時間が止まったかのような空気が満ちている。ベルグレッテとジュリーは、無言で床を見つめていた。
「……、」
うなだれるように腰かけながら、流護は己の鼻に手を宛がう。
大きな綿紗が貼られたその部分。メルティナの氷弾がかすめたことで鼻骨が曲がっていたため、治療を受けたのだ。
が、こんなのは回復術の存在する世界において……闘いに身を置く者にしてみれば大したケガでもない。
今はそれよりも――
「…………」
なぜこんなことになったのか。
自分なりに状況を整理してみようと考えたところで、すぐ脇の病室に続く扉が開け放たれた。
「!」
三人が弾かれたように顔を上げれば、額に浮かんだ汗を拭う壮年の医者が出てくるところだった。
「先生、二人は……!」
すがるようなベルグレッテの言葉に対し、白衣姿の医師は重々しい頷きを返す。その胸元の名札に、ゴトフリー・ラントネトと記されていた。
「お二人とも、命に別状はありません。とはいえ重傷には違いないので、当分は絶対安静ですな。目を覚まされるまでには、今しばらくお時間が必要かと」
そう聞いて、流護はこれまで溜め込んでいた不安を全て吐き出すように、どっと大きな息をつく。ベルグレッテたちも張り詰めていた表情が和らぎ、胸を撫で下ろしている様子だった。
「ああ、少しの間でしたら入室してもよろしいですよ。様子を見てあげてください。ただ申し上げた通り、二人ともまだ眠っておられますのでお静かに」
最後にそう言い添えて退出していくゴトフリー医師の背に、ベルグレッテが「ありがとうございます」と頭を下げた。
(面会謝絶、って訳じゃないのか……)
ひとまずは安心といったところかもしれないが、根本的な問題や疑問は解決していない。
(……くそ、何がどうなってんだよ……)
――エドヴィンとサベルが、何者かに襲われた。
メルティナとの小競り合いの後、紫炎を燻らせる美術館へたどり着いた流護だが、現場はまさしく混乱の渦中にあった。
屋内から避難してきた従業員たち、崩れ落ちてくる石壁、雪や兵士たちの氷術を浴びても一向に弱まらない紫色の炎。
周囲に知った顔もなく、まさかまだ中に――と考えた瞬間、正面の扉から転がるように出てきたのだ。ぼろぼろのサベルに肩を貸したジュリーと、数名の職員たちが。
二人へと駆け寄る流護だったが、数人がかりで支えられる弛緩したサベルの姿を前に、思わずギクリとした。
とても生きているとは思えなかったからだ。
それほどまでにひどい状態だった。全身に刻まれた切り傷、肌のあちこちに食い込んだ鋭いガラスの破片。洒落たレザージャケットもボロ切れ同然に裂け、血だるまとしか表現しようのない姿。
当然のように意識もなく、その場ですぐに応急手当が開始された。
皆が目まぐるしく動く中――瀕死の恋人を見守るジュリーは、なぜかやけに落ち着いて見えた。全く取り乱す様子がなかったのが、流護の強く印象に残っている。
彼女と従業員の数名が館内の異変に気付いて駆けつけた折、燃え崩れる展示室から立ち去る人影らしきものを目撃したという。
ともあれ最優先はケガ人の対応と並行しての消火活動。それもどうにか一段落した頃、結果としてひとつの部屋が焼け落ちる程度で済んだと判明。
ベルグレッテとエドヴィンについてはやはりまだ到着していなかった、と確認が取れホッとしたのも束の間、その一報が齎される。
エドヴィンが診療所に運ばれた、と。
聖礼式帰りの家族が、住宅地で倒れている彼を発見した。
近くの石畳が大きく陥没していたこと、全身を強く打ちつけていたことから、真上にそびえる崖より落ちてきたことは疑いようもなかった。
美術館火災によって兵士が多く出動していたことが幸いし、発見者の通報後すぐに対応がなされここへと搬送された。
「…………」
二人とも命こそ拾ったものの、重い傷を負ったことには違いない。優秀な神詠術でさえ、即座の回復は見込めないほどの。
先に入っていったベルグレッテたちに続き、流護も病室の扉を潜る。
「――」
分かっていたが、それでも言葉を失った。
手狭な病室。部屋の窓の外は雪壁で塞がっており、光が差し込まないためカンテラの明かりが灯されている。
室内にぎりぎり詰めて設置された、二つ並びの寝台。それぞれに横たわる、エドヴィンとサベル。
白い人型かと思うほど、二人の全身には幾重もの包帯が巻かれていた。
常にビシッと決めていた男前のサベル。パンチパーマ風の頭がトレードマークの不良学生エドヴィン。似ても似つかぬ二人のはずが、一見してどちらなのか分からないほどだった。
地球なら点滴でも繋がれているところだろうが、この世界にそのような処置はない。回復術や薬草による治療が全てとなる。ベッド脇の小さな棚には、薬液らしきもので満たされた銀色の器が載せられていた。
「……」
ケガの深刻さから予想はしていたが、それでもやはり二人の姿は目を背けたくなるほどに痛々しいものだった。
サベルの隣に屈み込んだジュリーが、無言で優しく彼の手を握る。金色の長いウェーブヘアに隠され、その表情は窺えない。
「エドヴィン……」
一方で変わり果てた級友の姿を前に、呆然と立ち尽くすのはベルグレッテだ。
「やっぱり、あのとき……無理にでも学院に帰しておけば……」
「ベル子」
悔恨の呟きを漏らす彼女の背後から、流護は小さく呼びかける。
「それはナシだ」
「え……?」
「エドヴィンは自分の意思で残ったんだ。それに……」
「それに……?」
「……いやほら、雪山の天候も崩れてそうだったし、帰るに帰れなかっただろ」
「そう……だったかも、しれないけど」
納得し切れないのだろう。少女騎士は目を伏せてうつむいた。
「……」
本当は違う。「それに」の後に続く流護の主張は本来、まるで別のものだった。
エドヴィンは望まない。
思い人のベルグレッテに『守るべき対象』として見られることを望んでいない。それどころか、本当なら自分が彼女を守りたい――最低でも、ともに肩を並べて戦いたい、と考えていたはずだ。
惚れた女子に対する男子の思いとしては、至極真っ当だろう。
それが力量不足で叶わないことなど、エドヴィン自身が誰よりも理解している。
「やはり帰しておくべきだった」。
事実その通りであったとしても、彼にしてみればベルグレッテから最も聞きたくない言葉に違いない――
「……?」
とそこで、エドヴィンの寝顔を見つめていた流護はふと気付く。
『トサカ』が崩れてしまったパンチパーマ風の髪型。面長の顔を包む形で巻かれた包帯。隣の寝台で眠るサベルと見比べる。
(…………エドヴィン……耳を……ケガしたのか?)
彼の両耳に、白い綿が詰められている。耳たぶならまだしも、戦闘で負ったケガとしては、部位的にやや妙だ。片方のみならず両耳とも、となれば尚更。サベルのほうには、当然というべきかそういった処置はみられない。
(……、これって……)
そこでおもむろに、サベルの傍らについていたジュリーがスッと立ち上がった。そのままいつも通りの足取りで、出入り口の戸へと向かっていく。
「ん? え、ジュリーさん? どしたんすか」
いきなりどうしたのか。疑問に思った流護が声をかけると、
「長居してもよくないしね。出ようと思って」
手を振りながらそう言い残し、あっさりと退室してしまう。
「え、ちょっ……」
意外だった。
見ているだけで砂糖を吐きたくなる、仲睦まじい恋人同士。自信家のサベル、彼にべったりのジュリー。普段の二人の様子からすれば、サベルのこんな姿を目にしたジュリーは、もっと取り乱すと思ったのだ。
無論そうしてほしい訳ではないが、あまりにも落ち着き払った反応に流護としては困惑を隠せない。
「お、俺らも出とくか」
「え、ええ……」
やはりベルグレッテも面食らったような顔だった。もっとも長居がよろしくないのは確かなので、二人揃って部屋を出る。
待合室へ戻ると、ジュリーは窓辺に立って暮れなずむ夕刻の街並みを眺めていた。
「ジュリー、さん……?」
名前を呼べば、彼女が振り返る。朱色の逆光で眩しく、その表情は分かりづらい。
ただ、
「……、」
見間違えでなければ、彼女は至極いつも通りの顔をしていた。何事もなかったかのように。
「いや、なんつーか……その……」
「何?」
「大丈夫っすか、っていうか……」
「ん、心配してくれてるの? 大丈夫よ」
「いや、その……大丈夫そうだから大丈夫なんかな、っつーか……」
流護も自分で何を言っているのか分からなくなってくる。すると、
「ああ、あたしのサベル! こんなひどいケガをしちゃうだなんて! 心配だわ! あたしはどうすればいいの!?」
ジュリーが胸に手を当てて身をよじった。どこかわざとらしく、素人の劇のように。
「……っていう風に、あたしが取り乱すと思ってた?」
流護の胸中を察したように微笑む。
「え、いや、えーと……? ジュリー、さん?」
分からない。少年としては、もはや彼女の真意がまるで読めなかった。
「約束なの」
呟いたジュリーが、細めた視線を窓外の夕暮れに移す。
「あたしたち、旅の流浪者でしょ? 自由気まま、好き勝手に生きてるけれど……それは裏を返せば、何者の庇護下にも置かれないということ。自分の身は自分で守らなくちゃいけなくて、でも外の世界は思った以上に厳しくて……」
少し寂しそうな、懐かしそうな眼差しで。
「旅にも慣れて、どうにか食い繋いでいけるようになってきた頃……。ちょっと大きな仕事で危ない目に遭って、それでも運よく生き残れたとき……あたしとサベルは、ある誓いを立てたの」
胸に手を当てる彼女の瞳は、これまで見たことがないほど凪いでいた。
「誓い……ですか」
ベルグレッテの呟きに頷くジュリーの表情で分かる。その誓いとやらが、彼らにとってこの上なく大切な契りであるのだろうと。
「サベルとあたしは、死ぬまでずっと一緒」
恋人同士にありがちな、ありきたりで陳腐にすら感じる約束。……しかし続く言葉は、違っていた。
「――なら、もちろんそれが一番いいんだけどね。でも、きっと無理。こんな生き方をしていれば、いつか必ずどちらかが斃れる。でも、決して足を止めないこと。生き残ったほうが、もう一人の分まで必ず幸せになること。悲しみを引きずらないこと。だからせめて二人でいるうちは、いつ何が起きても悔いが残らないように、毎日を全力で楽しんでいこう……って」
その言葉を聞いて、流護の中で符合するものがあった。パズルのピースがカッチリとはまり込むように。
(そういう、ことか……)
毎日、人目も憚らない熱愛ぶりだったサベルとジュリー。
それこそが誓いの履行。
決して後悔が残らぬよう、片時たりとも無駄にしないよう、二人の時間を過ごし続けていた。
その幸せが永遠には続かないと知ったうえで、いつか破滅の瞬間が訪れると覚悟したうえで。
(だから、美術館でも……)
担ぎ出されたサベルについていたジュリーの落ち着きぶりにも納得がいく。
いつか訪れると考えていた、終わりの時。それがやってきたかもしれないと覚悟し、受け入れようとしていた。
「だからね。……これは前にも言おうとしたことなんだけど……リューゴくんとベルグレッテちゃんも、悔いの残らない関係を築くべき。つかず離れずの淡い恋愛も結構だけど、お互いもっと正直になったほうがいいかもしれないわよ?」
思わぬセリフに顔を見合わせる流護とベルグレッテだったが、すぐにどちらからともなく視線を逸らす。
「いや、んな話してる場合じゃねーでしょって言うか……」
場を取り繕うように流護が言うと、ジュリーはふふと薄く笑った。
「…………」
誰も言葉を発さず、沈黙が舞い降りることしばし。
「でもさー……。悲しまない。割り切る。言うのは簡単だけど……納得できるワケ、ないわよね……」
わずかうつむいたジュリーが、これまで聞いたことのない低い声で独白する。
「少なくとも今のあたしの幸せは、サベルがいてこそなんだから。いざこんなことになれば、平静でなんていられるわけないわよね……!」
ぐっと握り込んだ拳を震わせながら、今にも溢れ出ようとする感情を抑え込むように。
「ジュリーさん……」
二人で交わした大切な誓い。
しかしいくら覚悟を決めていたとはいえ、実際にこのような事態に直面して、心穏やかでいられるはずがない。
「そりゃそうっすよ。ずっと一緒にやってきた幼なじみ兼恋人がこんなことになりゃ、落ち着いてられる訳がねえ。つか、サベルは死んでないっすよ」
「……うん。アリガト、リューゴくん」
知り合ってまだ日も浅い間柄だが、ここでようやく流護の中にあったジュリーの印象と実像が再び合致した。
「今度はあたしの番だわ」
力を滾らせたジュリーの言葉。
「あたしの番……って?」
「知り合ったとき、ちょろっと天轟闘宴の話はしたわよね。あたしたちは、風使いの大男に負けて脱落したって」
「そう、っすね」
「記憶もあやふやなんだけど……サベルはあのとき、相手に捕まったあたしを懸命に助けようとしてくれたの。そこだけは確かに覚えてる」
敵わないと理解した相手に。おそらくは、あのエンロカク・スティージェに。自らの命も省みず、愚直なまでに立ち向かっていったという。
「だから今度は……あたしがサベルを助ける番よ……!」
先ほどまでの作っていた淡白さはすっかり彼女の顔から消え失せ、いつもの活発な表情が戻ってきたようだった。




