42. メランコリックミア
重々しい風切り音が大気を裂き、唸る。
一日のトレーニングを終えた流護は、拳の素振りをすることで己の調子を確かめていた。
かなり劣化しつつあった筋力にも何とか歯止めをかけてはいるが、取り分けひどいのは左腕だ。
ファーヴナールに吹き飛ばされるわ、暗殺者の件で腱を傷つけるわで、中々まともにトレーニングができず、筋肉が落ちる一方なのだ。落ちたとはいっても、この世界の人間とは比較にならない筋力があるのだが。
さらに。
「はあー……」
自然と、溜息が漏れる。
二週間。
ベルグレッテを抱きしめて別れたあの夜から、すでに二週間が過ぎていた。
もう自分をごまかすことも難しい。
顔が見たいし、声が聞きたい。許されるなら……また、抱きしめたい。
こうして離れたことで、今更かもしれないが完全に自覚してしまった。
有海流護は。
ベルグレッテという少女のことが、好きなのだと。
「ヒャアアァァ!」
奇声を上げながら正拳を繰り出す。
「う、うおっ」
ちょうどそこで建物の影から現れたエドヴィンが、驚いてのけ反っていた。
「何だアリウミ……精が出るな」
ベル子に別の精を出したいです、とアホなことを考えたあたりで、エドヴィンは意外なことを言い出した。
「ところでアリウミよ、ミア公見てねーか?」
「え? いや?」
この男がミアを探しているというのも珍しいが、流護もこの日、まだあの元気娘を見かけてはいなかった。
「そうか……いつもは探さなくても勝手に出てくるクセに、探してると見つかりゃしねー」
「何かあったのか?」
「ん? あー……」
エドヴィンは困ったように頭を掻きながら答える。
「……お前ならいいか。イヤ今日、順位公表があったんだけどよ」
「おお」
生徒でない流護には関係なかったが、そういえば今は順位公表の時期だったのだ。
それでここ最近、昼休みを一人で過ごすはめになっている。
夕食時には顔を合わせているが、いつものように雑談に興じることもなく、すぐに散会となっていた。
ちなみに、この順位公表のためにベルグレッテが戻ってきたりしないかなーと淡い期待を抱いていたのだが、そんなことはなかった。現実は非情である。
「そんで……今回の順位公表で、ミア公の奴……随分と順位が落ちちまってな。かなり気にしてたからよ」
「そう、なのか……」
以前は三十七位だと言っていたが、そこから結構落ちてしまったのだろうか。
「俺なんか三百位ピッタリだったけど気にしてねーからよ」
それは気にしようよ。
「今、クラスの連中と探してるとこなんだよ。アリウミんとこかと思ったけど、違ったか」
「そうだな……」
「まー見かけたら、ちっと気にしてやってくれや」
「ああ」
エドヴィンは片手を上げて去っていった。
その後の夕食時、ミアは来なかった。
夜。時刻は十一時前。
寝る前のストレッチを終えた流護だったが、この時間になって小腹が空いてきてしまった。
ちなみに明日、明後日は安息日のため休みである。たまにはいいっすよね、と自分に言い訳しつつ、食堂へ向かうことにした。
この時間の食堂にはまず人がいないため、すぐに分かった。
入り口から遠く、背を向けて座っている小さな後姿に声をかける。
「よ、ミア」
「あ…………。リューゴくんだ……」
少女はこんな時間に食事のようだった。
それでも食欲がないのか、食べ始めたばかりなのか、ミアの前にあるトマトリゾットは減っていない。
向かいの席に腰掛け、流護も食べ始める。メニューは『ザルバウム・ライト』。
「…………」
「…………」
エドヴィンが言っていた通り、目に見えて元気がない。
「ミア、夕方はどこいたんだ? みんな探してたみたいだぞ?」
「うん……」
「…………」
「…………」
「ミア、こんな時間に飯食うと太るぞ?」
「うん……」
「…………」
「…………」
まさかこの元気娘相手に間がもたない日がくるなんて……と頭を抱えそうになったところで、ようやく彼女は自分から言葉を紡ぎ出した。
「リューゴくんはさ……元の世界では、学校にも行ってたんだよね? ……成績とか、どうだったの?」
「フッ……この俺が勉強できるように見えるか? 自慢じゃねえが、エドヴィンと大差な……、あれ、なんか悲しくなってきたぞ……?」
「……ふふっ」
やっとミアが笑顔を見せた。
「そなんだ。勉強の大事さとかは一緒なのかな?」
「んー……」
流護は頭を掻きつつ、今や懐かしささえ感じるようになってきた、日本という国について語る。
「そんなに違わないと思う。いい成績とって、いい職業に就いて、いい金もらって……将来いい暮らしができるように、みんな勉強すんだ。俺の国は今、不況ってやつで仕事がないんだよな。いい学校出ても、いい仕事に就ける保証なんてない。仕事に就けなければ金がもらえない訳で、金がなければ生活ができねえ訳だ。そんな世の中だからかは知らんが、一年間に何万人も自殺者が出てるんだぜ」
ミアが大きく目を見開く。
「ま、万? え? 万って……え? まん?」
いやあんまり連呼すんなよ。
「だ、だって王都の人口でも五万人ぐらいだよ? 一年に何万人も自殺なんてしちゃったら、すぐ国がなくなっちゃうよ?」
「俺の国は一億人以上いるからな……」
「お、億……?」
ミアはただひたすらに驚いているが、この世界の感覚では無理もないかもしれない。
「それは……、一億人もいるから仕事がないんじゃ……」
「ははは。かもな」
「リューゴくんは将来どうするつもりだったの? やっぱ怨魔をやっつける仕事とか、傭兵団とか? いくら仕事がないっていっても、怨魔がいればそういう仕事はたくさんあるでしょ?」
ミアには以前、日本のことを少し話したのだが、やはりいまいち理解はしていないようだ。ベルグレッテもだが、この世界のどこか遠くにある国だとでも思っているのかもしれない。
怨魔なんていない云々の話をすると脱線しそうなので、そこはまたの機会としつつ、質問にだけ答える。
「……将来のことなんて、考えたこともなかったよ。俺の国の場合、ほとんどの奴がそうなんじゃねえかな。同い年だとさ」
高校一年生にして、すでに将来の目標が決まっていた彩花の方が珍しいぐらいなはずだ。
「このグリムクロウズに来てからだって正直、何も考えてないしな……」
元の世界へ戻るという、当初の目標も失われてしまった。
「ミア、今回で順位落ちたんだってな。でも俺は詠術師じゃないから、簡単に『次はがんばれ』なんて言えねえ。けど家族のために頑張って一人前の詠術師になろうとしてるとか、何も考えてない俺より全然偉いしさ。んー……上手く言えねえけど、次もがんばったらいい」
考えがまとまらないまま、自分でもよく分からないまま、流護は口走っていた。
「……ふ。ふふ、あははは! 『簡単に次はがんばれなんて言えねえ』とか言ってるのに、結局最後にそう言ってるよー?」
「あれ? う、うるせー。簡単に言えねえから、難しいけど言ったんだよ」
「はは、なにそれ。よく分かんないや」
「俺もよく分からんくなってきた」
よく分からなくても、今のミアの顔を見て、それでいいと少年は頷いた。
「やっぱミアはそうやって笑ってるのが一番だな」
「えっ? そ、そう?」
少女は少し照れたように目を泳がせる。
「そ、そんなこと言って! ベルちゃんにも同じこと言ってるんでしょ! ベッドの中で!」
ようやく調子が戻ってきたようだ。
流護が食事を終えてしばし後、ミアもすでに冷めてしまっていたリゾットをようやく完食し、カチャリとスプーンを置いた。
「……ごちそうさまでした。よーし、この休みは家に帰ろう!」
ぐーっと両手を上げて伸びをしたミアは、意を決したように言う。
「おー実家か。どこにあんだ? ……って訊こうと思ったけど、場所聞いてもどうせ分からんので俺はやめとくことにした」
「変な説明口調になってるよ? 西のほうにディアレーって街があるんだけど、そこよりもっと先。ラドフっていう小さな農村だよ。ふひひ……リューゴくん、一緒に来る? 挨拶してもいいんだよ? ウチの父さんに」
「え、いや、な、なんでだよ」
今度は流護が視線を泳がせる番だった。
「ん~でも実際、一人だと移動中ヒマだしねー。片道、五時間だし……」
「ごっ……五時間……?」
王都よりも遠いじゃねーか、と少年は目を剥く。
「そんでもあたしなんてまだマシなんだよね。ベルちゃんは七時間だし、レノーレとダイゴスの場合なんて外国だから、帰るのに何日もかかるんだよ。つまり実質、週末の安息日じゃ帰りたくても帰れないっていう」
「まじか……」
王都の四時間コースですら勘弁してくれと思っていた流護にしてみれば、気の遠くなりそうな話だった。
休日に実家帰りをせず残っている生徒の大半は、遠くて帰れないのが理由なのかもしれな――
「……あれ、ベル子が七時間?」
「そだよ。どうかした?」
「いや。ベル子って、王都に住んでるんじゃないのか?」
「あ、ううん。違うよ。まあほとんど住んでるようなもんだけど、王都よりすーっと東に行くと、ガーティルード家のお屋敷があるの。ヘタな村より大きな領地とお屋敷だよ。何回かお呼ばれしたけど、すんごいお屋敷で。……もうベルちゃん、あたしのこと買ってくれないかな……千エスクぐらいでいいから……ペットでいいから……犬小屋でいいから……」
「ミアしっかりしてくれ」
虚ろな目で人としての尊厳を捨てつつある少女を諭す。
「でもあれだな、よく考えると俺はまだみんなのことあんまり知らないんだな」
こうして聞くまで、ベルグレッテの実家がどこにあるかすら知らなかった。あの少女騎士や皆のことだけではない。この世界……グリムクロウズのことも、まだよく知らない。
知る間もなくドタバタしていたのもある。日本に帰るつもりで、知ろうとしなかったのもある。
しかし――今後は、この世界で生きていくのだ。有海流護は。
「もっと色々知らないとだな……」
「え、どしたの急に。あ! それで『ミアのこと、もっと知りたいな。だからお互いをもっと知り合うために……どうだ、これから? クイッ』とかいってベッドに誘うつもりでしょ! フケツ!」
クイッてなんだ。
ようやく調子の戻ったミアとつい話し込んでしまい、流護が部屋に戻る頃には日付が変わってしまっているのだった。