411. 笹雪
「あのお茶を飲み過ぎましたね、これは……」
トイレに行くこと三回。
最初の高級店で飲んだ、白雪冷茶という白いお茶。やたら冷たかったあれを飲んで、身も凍える外を移動した結果だろう。
ようやく尿意も治まり、ラルッツとガドガドの二人に別れを告げて飲食店を出た流護は、美術館へ向かって雪の歩道を進んでいた。
白に沈む閑散とした街並みは廃墟のような静けさで、その活気のなさがより寒さを際立たせている。
(そういや、お祈りか何かに出てる人が多いんだっけか)
聖礼式なるイベントにより、国民がこぞって神へ祈りを捧げているというこの時間。敬虔な信者は、大切な仕事すら中断して参加するという。
現代日本で生まれ育った流護には、到底理解できない感覚だ。
(レノーレの奴も……今頃、どっかで祈ったりしてんのかな)
何気なく浮かんだ考えにすぎなかったが、きっとその可能性は低くない。
この世界における神への信仰は、原則として何より優先される。バダルノイスのキュアレネーに対するそれは、もはや絶対的だ。レノーレも、そしてきっとあのメルティナも例外ではない。追われる身の上であっても、足を止めて真摯な祈りを捧げる時間を作るのだろう。
そして同じく、オームゾルフやベンディスム将軍、ヘフネル、そして『雪嵐白騎士隊』も。彼らの中にも今頃は、そうした神への務めを果たしている者がいるはずだ。
追う者と追われる者。正反対の対場、対立する関係でありながら、崇める神は同じ。
彼らの信仰を一身に集める氷神キュアレネーは、果たしてどちらに味方するのだろうか。
(さて……)
黙々と雪を踏んで進みながら、流護は今後のことについて考える。
オルケスターの情報収集を申し出たラルッツたちとは、明後日に近くの喫茶店で落ち合うことにした。
とはいえ現在の流護は、バダルノイス兵団に協力中の身。必ずしも出向けるとは限らない。これからの展開次第では、都合により行けなくなる可能性もあるだろう。
そうした場合に備えて、ラルッツとガドガドが滞在している宿の名前と場所を聞いてきた。何かあれば、彼らに手紙を出して知らせる算段となっている。
(不便だよな~、やっぱ……)
こういうとき、現代日本の少年は改めて実感する。
携帯電話の存在しない世界。通信術の使えない自分。
ちなみにラルッツとガドガドはあまり優れた神詠術が使えないようで、遠く離れて所在も分からない相手に連絡を取れるような技量はない、とのことだった。「まともに術が使えりゃ山賊なんてやってねえよ」とはラルッツの言である。
優秀な詠術士の卵ばかりのミディール学院に滞在していると忘れがちになるが、世の中には『持たざる者』のほうが圧倒的に多いのだ。
となるとやはり、
(早いとこ実用化されねーかな、通信具……)
ロック博士が鋭意監修中のそれに期待が高まるばかりだった。
(にしても……オルケスター、か)
闇の社会で暗躍しているという巨大犯罪組織。
おそらくはハンドショットの製造元であり、存在がおいそれと明るみに出ないほどの統制力を持ち、特異かつ強力な詠術士を擁し、大陸各国に根を張っている。……そしてレノーレが、その一員だった。
(もしかすりゃ、レインディールにも……)
潜んでいても、おかしくはない。
騎士でありながら裏で殺し屋稼業を営んでいた、デトレフの前例があるのだ。
流護としても後々小耳に挟んだ程度の話だったが、デトレフは歪んだ裏の顔こそ持っていたものの、アルディア王に対する忠誠は本物だったという。その圧倒的強さに焦がれ、同じ炎属性の使い手として目指すべき標。もしかすればあの男は例の事件において、王と直接対峙することを望んでいたのかもしれない。
だからきっと、王を慕っていながらオルケスターの『兼業』をしている者がいたとしても不思議はない。
ともあれ、ラルッツとガドガドから得た情報は、ベルグレッテたちとも共有しておくべきだろう。
今後、このオルケスターの人間と衝突する可能性は高いのだ。
「う、うお! さ、寒っ」
時折、思い出したように吹きつけていく北風。思考すら寸断する冷たい空気に身を震わせながら、ゆっくりと歩を進めていく。
道なりに長く緩い傾斜を登ると、遠方に大きな城じみた建物が見えてきた。地図と照らし合わせても、あれが美術館に違いない。粉雪に煙る街並み、その向こうに浮かぶ巨大な姿は幽玄で、どこか神秘的な気配すら漂わせている。が、
(ま、まだ遠いな……)
芸術やら美術やらに興味がない少年としては、それが目下の感想だった。
約束の時間まで余裕があるが、サベルとジュリーはすでにあの中にいるはずだ。一方でベルグレッテとエドヴィンは、まだ到着していないだろう。
(外の寒さに晒されるか、あのバカップルのアツさに当てられるか。何気に暑いか寒いかの二択っすね……)
苦笑しつつ、美術館を目指す。遠くとも見えてはいるので、ここまで来れば迷うことはない。……と、考えていた直後だった。
「ん……?」
向かう先の十字路、その横道の右側から、ぞろぞろと出てくる集団。その数は五、六人――かと思いきや、次から次へと現れる。十人、十五人……あっという間に、目で追い切れないほどの人数へ。
(何だ……?)
流護が疑問に思う間にも増えていき、やがて周囲はその道からやってきた人々で埋め尽くされた。今の今まで無人だった街が、一瞬で活気に溢れ返る。
よくよく見れば皆が一方向を目指している訳でもなく、それぞれ思い思いの道へと別れていく。顔ぶれは老若男女様々、姿格好に統一性もなく、全くの他人同士がひとつの場所から出てきたような印象だった。
「大丈夫かしらねぇ、神父様……」
「こんなことは、今まで一度もなかった。悪いことの前触れでなけりゃいいが……」
年配の夫婦らしき二人とすれ違いざま、そんな会話が流護の耳に届いてくる。
「へっへー! 早く終わったから、いっぱい遊べるなー!」
「こらー! そんなこといっちゃだめ! ばちあたりなんだからー!」
兄妹だろうか、幼い少年少女が元気いっぱい駆けていく。
(神父様……早く終わった、罰当たり……ってことは)
十字路へと差しかかり、流護は未だ多くの人々が溢れてくるその道に目を向けた。他と変わらぬ街並み。大勢の通行人。そこから特別な何かが垣間見える訳でもなかったが、
(もしかして、例のお祈りの時間とかってのがもう終わったのか?)
今の状況や聞こえてきた会話から察するに、その可能性が高い。予定外の事態が起きて、早めに切り上げとなったのかもしれない。
(いやまあ、どうでもいいけど)
無神論者な流護にとっては、さして興味もない話である。
すっかり賑やかになった雑踏の中、引き続き美術館へ向かっての歩みを再開した直後、
「もし、そこのお兄さん」
その行く手を遮るように、佇む人物がいた。
モコモコのファーが施された、薄ブラウン色の防寒着に身を包んだ女性。台形に広がるドレススカートは足首を覆い尽くすほど長く、顔は目深に被った暖かそうなロシア帽らしきものに隠されよく分からない。露わになっている鼻から下を見る限り、かなりの美人ではないだろうか。年齢は流護より少し上、といったところだろう。
「……えーと? 俺、っすか?」
これだけの混雑だ、人違いかもしれない。流護は念のため周りを確認した後に、改めて自分の顔を指差しながら問う。
「そう、あなた。ちょっとお尋ねしたいことがあるの、私についてきていただけるかしら?」
透き通った清涼感のある声でそう告げた彼女は、返答を待つ素振りもなく回れ右で歩き始めてしまう。
「え!? いや、あの、ちょっと?」
焦るのは思春期の少年である。逆ナンっすか!? と思ってしまうほど浮かれ小僧でもないが、全くの無視ができるほど冷血漢でもない。早足でツカツカ歩いていってしまう彼女の後を慌てて追う。
細い小路に入り、いくつかの角を曲がり、建物と建物の隙間に生まれたような狭い空き地に出る。ここまで来ると、先ほど急に溢れてきた人々の姿もない。
四方を高い建造物の外壁に囲まれた、閉塞感のある空間。隅っこに放棄された花壇らしきものがある程度で、他には何もない。しかしきっちりと除雪がされているあたり、誰かしらの敷地なのではないだろうか。
そんな二十メートル四方ほどの開けた場所、その中央に女性は佇んでいた。
戸惑い気味に路地から出た流護は、五メートルほどの距離を隔てて彼女と向かい合う。
「えーと……」
遠慮がちに呼びかけると、彼女は深く被っていたロシア帽を煩わしげに脱いで小脇に抱えた。
その中に仕舞い込んでいたのだろう、さらりと一気に広がる、長く美しい純白の髪の毛――
「!」
瞠目するのは流護だ。
明るみに出た女性のその素顔は、
「……メルティナ・スノウ……!?」
長めに整った柳眉、人形のように繊細な睫毛、その奥に隠された猫目がちな瞳。その全てが、汚れなき純白。
つい昨日、兵団や流護たちの包囲を躱して……否、叩き伏せてあっさりと切り抜けた『ペンタ』が、当たり前のようにそこに立っていた。