41. 特別
「やあ有海くん、お疲れさま」
水飲み場で頭から水を被っていると、横合いから声をかけられた。
水に打たれながら視線を向ければ、そこには空手の胴着に身を包んだ部長の姿。
流護が言えることではないがあまり背は高くなく、無害そうで柔和な顔立ちをしている。筋肉もさほどついておらず、胴着がブカブカに見えるほどだ。
格闘技をやっている人間や腕に覚えのある人間というのは見れば何となく分かるのだが、そんな流護の目から見ても空手をやっているようには見えない人物だった。
もっとも部長が空手を始めたのは高校に入ってからと聞いているので、無理もないのかもしれない。
「あ……お疲れっす」
流護はタオルで顔を拭きながら水を止めて、部長へ向き直る。
彼はニッと爽やかな笑みを浮かべた。
「いやー、それにしてもウワサは聞いてたけど……凄いな、有海くんは」
「いえ……どもっす」
「最初は、少しは勝負になるかと思ったんだけどね……たった一回組手しただけで、手の内を読まれちゃったみたいな感じっていうのかな? もう俺の技なんて、何も当たらないんだもの」
中学の部活や長年通っている道場でもそうだった。
皆が口を揃えて言う。
『アイツは攻撃が当たらなくなる』。
おかげで今では、流護と組手をしたがらない者も多い。
入ったばかりの空手部だが、ここでもやがてそう言われるようになるだろう。
入部してすぐ、マネージャー(彼氏持ち、かわいい)に「きれいな顔してるよね」と言われて「高校入学早々に禁断の愛か、ついに俺も大人の階段を上るのか十五の春!」などとドキドキした流護だったが、何のことはない。「空手をやってるのに顔とか全然キズがないんだね」という意味だった。とんだ勘違い野郎である。
ようは、『読み』。
即座に相手の動きや癖を読み、対応して反撃に繋げる。そういった技術に長けている。道場の主も、そう流護を絶賛していた。
……マネージャーの意図は読めてなかったですけど。
「でもほんと……有海くんがいれば、ウチから初の県大会突破者が……」
部長は自分の手に視線を落とし、グッと拳を握り締めた。
「いえ……まあ、そこはあんまり期待しないでもらって……」
苦笑いで答える流護だったが、しかし内心では自信があった。
道場でも、部活でも、これまでも。自分に触れることができる者すら、ほとんどいなかった。中学では人数が少なく、大会らしい大会には全く出られずに終わった。
けれどついに、力を試せる機会が訪れたのだ。
県大会どころじゃない。全国にだって、通用してみせる。
――そうして参加した県大会、決勝。
あの男と、激突することになる。
ほぼ無傷で勝ち上がった流護と違い、傷だらけだった。
しかし対峙した流護は、息をのむ。
本当に高校生か、と思うような分厚い躯。触れた途端に爆発するのではないかというほどに肥大化した筋肉。さっぱりと刈り上げた短髪に、削り出した岩を連想させる無骨な顔、それを搭載するあまりに太い頚。眼光は猛獣のそれに近い迫力を帯びており、相対しているだけで思わず震えを自覚してしまうほどだった。
名を、桐畑良造。流護と同じ、高校一年生。
お前のような高一がいるか、どう見ても人間になりそこねた熊だろ、と流護は戦慄した。
「――噂は聞いている、有海流護。俺の技が当たるのかどうか。正直、震えているよ」
ああ、こりゃダメだ。
どう見ても強えくせに、油断が微塵もねえ。
そこで呑まれてしまった……というのは言い訳だろうか。
――試合時間は、十五秒だった。流護に、そこから先の記憶はない。
この化物はここまで強くなるために、並大抵でない努力を費やしたのだろう。
才能なんて言葉は使いたくない。
それでも、思ったのだ。才能のある『特別』なヤツってのは、こういうヤツなんだと。
こいつがグリムクロウズに来れば、俺よりずっと凄まじい活躍をするだろう。
そこで――ああ、久々に『向こう』の夢を見てるんだな――なんてことを少年は自覚した。
流護は仕事で荷物を運ぶ用事のため、ロック博士の研究棟を訪れていた。
「ま、少し休憩してったらどう?」という博士の言葉に甘え、椅子に座ってまったりとお茶を飲んでいる。
「流護クンも、そろそろこの世界に来て一ヶ月ぐらいになるのかな。どう? もう慣れたかい?」
十四年も過ごしてすっかり慣れた様子の大先輩が、そんなことを訊いてきた。
「そうすね……何だかんだで。あー、でもラーメンや寿司が食いたくなっても食えねーんだよなーとか、学院と王都の驚異の八時間往復とか、慣れる気がしないこともまだまだ……」
慣れた慣れないといえば、もう一週間もベルグレッテに会ってないんだよな……と流護は思い馳せた。
三日前、ミアとベルグレッテが通信をした際に流護も少しだけ会話はしたのだが、何だかお互いにぎこちなくて、「げ、元気?」「お、おう元気」程度の会話で終わってしまっていた。
やはり一週間前のあの夜、つい衝動的に彼女を抱きしめてしまったのがまずかったのかもしれない。
「お。そろっと二回目の順位公表の時期か」
流護の持ってきた荷物から取り出した資料を眺めながら、博士が感慨深げにそんなことを呟く。
「順位公表?」
と訊いたところで、流護も思い出した。以前ミアから聞いた、全校生徒の順位が発表されるというあれだ。
「そそ。実技と筆記でテストして、みんなの詠術師としての順位を決めるイベントだね。日本でいう中間テストや期末テストみたいなものかな。……とはいっても、こっちのテストのほうが回数も多いけどね」
実はここ二日ほど、流護は昼休みを中庭のベンチで一人寂しく過ごしていた。
ミアから「ちょっと勉強が忙しくて! ごめんね!」と言われていたのだが、この順位公表のためだったのだろう。
「生徒たちが六位から三百八位の間でしのぎを削り合うワケだ。んん、青春だねえ」
「六位から、か……」
五位までが最初から除外されている物言いに、流護はどうしても引っ掛かりを覚えてしまう。
「上位五人の『ペンタ』か。そんなに特別なんすか? そいつらって」
「ああ、その様子だと少しは聞いてるのかな。特別というより……初めから『違う』というのが正しいね」
「違う?」
「言ってみれば、彼らはキミと似てるかもしれない。キミはこの世界において、超人的な身体能力を発揮できるワケだけど……『ペンタ』は、その神詠術版とでも考えればいい。……そうだねえ……、」
と、博士はそこで生徒を指名する教師みたいに流護へ問いかけてきた。
「詠術師にとって、永遠の課題ともいえることって何だと思う?」
「え? いやいや、そんなん言われても……俺、詠術師じゃねえし」
「難しく考えなくていいよ。そうだね、詠術師の弱点……とでも言えばいいかな。これを克服しなければいけない、っていう」
弱点……あ、と流護は思い当たった。
ベルグレッテもエドヴィンも、それをカバーするように立ち回っていたのを思い出す。
「……詠唱時間?」
「そう。どんなに強力な神詠術が使えても、発動までに時間がかかるようじゃダメなんだ。例えばベルちゃんはファーヴナールにさえ致命傷を与えうる大剣の一撃を持ってるけど、しかし彼女単騎ではドラウトロー一体にも勝つことはできない。これは単純に、ドラウトローと一対一では詠唱の時間が稼げないからなんだ」
もう随分と前の出来事に思えるが、初めて学院へ向かう途中だった森の中で、ドラウトローと闘ったときのこと。
あのときベルグレッテは、詠唱時間を稼ぐ以前に、ドラウトローに吹き飛ばされてしまっていた。
戦闘後の会話でも、詠唱時間についての話が出ていた覚えがある。
「詠唱の短縮。これが詠術師にとっての課題だね。ま、ベルちゃんはいずれ、単騎でもドラウトローを倒し得る素晴らしい騎士になると思うよ」
それは流護も全くもって同意だ。
自分のことのように、腕を組んでうんうんと頷く。
「しかし『ペンタ』はこの根底を覆す。まず、術を行使するにあたって詠唱時間というものが必要ないんだ」
「え?」
流護の口から思わず間の抜けた声が漏れた。
「手を振るっただけで竜巻を発生させる。身に纏う炎の余波だけで敵を焼く。手をかざしただけで全てを凍らせる。そういう、詠術師がどれだけ詠唱時間を費やしても不可能な、自然災害以上の現象。そういったレベルのモノを詠唱も何も必要とせず、息をするように起こすことができる。その身体に秘める魂心力も桁違いで、術を使うことによって枯渇したという話は聞いたことがない。そんな存在が『ペンタ』なんだ」
「……な」
絶句した。
ゲームで考えれば分かりやすい。強力な攻撃魔法には、長い詠唱時間や大きな消費マジックポイントというリスクが伴うのが普通だ。だからこそ、ゲームバランスというものが成り立つ。
そのリスクがなく、好きなだけ大技を出せるというなら、もはやバランスも何もない。もう目茶苦茶だ。
「だから国は優秀な人材として『ペンタ』を必死に確保したがるワケだね。現在、レインディールに所属してる『ペンタ』は八人。学院在籍中の五人を含めれば十三人となる。学院に五人も在籍してるのは過去に例がなくてね。国としては、この五人が卒業したら正式な『ペンタ』として何としても引き入れたいところだろうね」
一騎当千という言葉がある。『ペンタ』についての話に誇張も何もないのなら、まさにそんな言葉通りの存在だろう。国が欲しがるといった話も当然のように思えた。しかし。
「……でもそれ、『ペンタ』に悪い奴がいたらどうなるんすか? 大変なことになるんじゃないんすか?」
それほどの存在が敵に回った場合、誰が止められるというのか。
「ああ。だから要職には『ペンタ』が就いてるのさ。例えば『銀黎部隊』の長であるラティアス隊長とか」
「え!? あいつ『ペンタ』なの!?」
思わず大声で言ってしまった。
ミア以下の追及能力やデトレフの件で、すっかり噛ませ役だと思ってしまっていた。
「はは。あとはこの学院の長である、ナスタディオ学院長も『ペンタ』だよ。忙しい人でね、いないことが多いから、流護クンはまだ会ったことないんじゃないかな」
「あ、そうすね……」
ナスタディオ学院長。名前も今初めて聞いたぐらいだった。
流護は学院で働いているというのに、知らなかったなんて失礼な話かもしれない。
「しかしまあ、悪い奴で思い出したけど」
ふー……とやや困ったような顔で、ロック博士は溜息と煙を同時に吐き出す。
「学院の『ペンタ』に、ディノって少年がいるんだけどね。それこそ素行があまりよくなくてねえ。いやまあ『ペンタ』はそんな感じの子が多いんだけどさ。最近は定期検査にも来てないし、どこで何やってんだか」
先日の昼休み、ミアやレノーレからも聞いた名前だった。確か学院四位で、最高の炎使い。
「ま、流護クンが『ペンタ』とかかわるようなことはまずないと思うよ。普段は学院に来ないからね。その能力を活かして外で活動してることがほとんどだから」
「そうなんすか……」
「とりあえずまあ『ペンタ』ってのは、そういう色々と特別な人たちってワケだね」
「……特別、か」
流護は今朝の夢を思い出した。
「……って、あ!」
そんな話をしているうちに随分と時間が経ってしまっていた。流護は慌てて仕事へ戻るべく研究棟を飛び出すのだった。