401. 彼女の矛盾
延々と続く石造りの廊下には窓が見当たらず、昼夜の別なく薄暗い闇が辺りを覆っている。
壁面に一定間隔で備えつけられた燭台のみが光源となっているが、その火も小さく頼りない。それらが照らす手狭な石の空間は、地下迷宮さながらの陰鬱な雰囲気に包まれていた。
しかしこの場で何より異常なのは、やはり身を切るような寒さだろう。
温度計の類が存在しないため、正確な気温は分からない。ただ水分が簡単に凍りついてしまう点から、零度を下回っていることは間違いなさそうだ。
この場でうっかり眠り込んでしまったなら、そのまま遥か遠い未来まで冷凍保存されるのではないかと思えるほどだった。
(今が真冬だからこんなだけど、夏になればさすがに違うんかな……)
などと異国の季節に思い馳せつつ、有海流護は隣の部屋の扉をノックする。
凍える手に息を吐きかけると同時、中から「はい」とよく知る少女騎士の応答があった。
「うっす。俺だよ俺俺、流護だけど」
どうぞ、との声を受けて入室すると、おなじみベルグレッテ・フィズ・ガーティルードが小さな円卓で頬杖をついていた。
何事か考え込んでいるようなその姿も、息をのむほど美しい。
造形美を極限まで追求した結果生まれたような顔立ち。気の強そうな切れ長の瞳は薄氷色に輝く宝石みたいで、腰まで届く艶やかな藍の髪は最高級の絹も顔負けだ。細く均整の取れた身体つきも、彫像の手本となりそうなほど非の打ち所がない。
知り合って八ヶ月ほども経つというのに、流護は未だこうして彼女に目を奪われてしまうことが多々あった。
が、そんな思春期真っ盛りな少年としても、今は邪な気持ちなど湧きそうにないぐらい気がかりなことがある。
「……ベル子、レノーレのこと考えてるのか?」
このバダルノイス神帝国において現在、破格の千五百万エスクという賞金首に指定され、国中の兵士や賞金稼ぎに追われる立場となっている少女。レノーレ・シュネ・グロースヴィッツ。
ベルグレッテにとって級友であり親友でもある彼女の名を出すと、
「ん……」
悩める少女騎士は、肯定とも否定とも取れる曖昧な反応を返した。
新たな年を迎え、冬の長期休暇も終わってしばらく。学院生活が再開されるも、実家へ帰ったレノーレが一向に戻ってこない。
そこへバダルノイスの騎士団が攻め込むようにやってきて、彼女が罪人として手配されていると知らされたのは十日ほど前のこと。
その後、ベルグレッテですら知らなかったレノーレの事情が次々と明らかになった。
幼くして宮廷詠術士に抜擢された才覚。それゆえに周囲から妬まれ、疎んじられた過去。バダルノイス唯一の『ペンタ』メルティナ・スノウとは、主従にして無二の親友という間柄でもあったこと。
そして――母親が記憶喪失となり、その治療のために邪道へ身を堕とそうとしている『かもしれない』こと。
多くの人々の助力を得て、異国のどこにいるとも知れなかったレノーレを探し出し、ようやくの対面を果たしたのが昨日の昼過ぎ。
しかしいざ再会した彼女は、「レインディールに帰って」と流護たちを突き放した。それどころか、「帰らないのなら殺す」とまで脅しかけた。
どういうつもりなのか問い質す余地もなく、突然割って入ってきたメルティナによって流護たちは蹴散らされてしまった。
そしてまた彼女らは行方知れずとなり、一夜明けて今。事態は振り出しに戻ったといえる。
(……いや、振り出しなんかじゃねーな……)
昨日までは、レノーレに会うことさえできれば事態が好転……もしくは解決するのでは、との期待があった。
しかし、いざ対面した彼女は流護たちを拒絶した。
これでは、もう――
「レインディールに帰って、か」
ベルグレッテが小さく、その拒絶の言葉を呟く。
「レノーレは、どういうつもりであんなことを言ったのかしら……」
「……、」
親友にあんなセリフを突きつけられたベルグレッテの胸中は、察して余りある。
「……?」
どう声をかけたものかと迷う流護だったが、少女騎士の表情を見てようやく気がついた。
瞳に宿る強い光。彼女が何事か考え込むときに見せる、顎先へ指を添える仕草。
違う。
ベルグレッテは、親友からの言葉に傷つき打ちひしがれているのではない。その発言の裏にある真意を探ろうとしている。
「レノーレだって、考えるまでもなく分かっているはず。あんなことを言われたって、私が素直に従うはずがないことぐらい」
それはもっともだ。こんな遠方まで何日もかけて遠路遥々やってきた人間が、「帰れ」と言われて「はい分かりました」と納得するはずもない。見ず知らずの人間ならいざ知らず、同じ学舎でともに暮らしていた友人同士なのだ。
レノーレ自身、ベルグレッテの妙な頑固さなどはよく分かっているだろう。
「だから……その後の言葉には、もっと疑問を感じるわ」
『帰らないなら……今この場で、殺す』
無感情なあの顔を思い起こす。
「……はは。エドヴィン、ぶち切れてたもんな」
そうして激情のまま突っかかっていった『狂犬』は、あえなく返り討ちにされてしまったのだが。
流護自身、言われて絶句したのは確かだった。
「『私たちを殺す』。レノーレはあの局面で、どうして『実行できないこと』をああも強く言いきったんだろう、って。そこが腑に落ちなくて」
「……ふむ、なるほど」
流護自身、そこまで深く考えはしなかった。というより、そこまで大した意味などないと思ったからだ。なにせ、ありがちな脅し文句である。
しかしよくよく考えてみると、
「俺たちどころか、何十人も兵士がいる状況だったからな。たった一人で、んなことできる訳がねえ。脅しにしても、苦しいっつーか……正直、チャッチく感じるわな」
「仮に包囲されていなかったとしても、レノーレの実力は私とほぼ互角……。私やエドヴィンはともかくとして、あなたには絶対に敵わない。なのにレノーレは、平然と言いきった」
そうなのだ。レノーレは、あの場で対峙した相手に「殺す」などと脅しをかけられるような強い立場ではなかったのだ。
「あっ。あれか? あのメルティナって姉ちゃんの力をアテにしてたとか」
「それはないわ」
流護としては冴えた閃きのつもりだったが、ベルグレッテは即座に否定する。
「え、なして?」
「あのときの状況、詳しく覚えてる? あのメルティナ・スノウ氏が現れて以降のことを」
「……んー……」
そう言われ、脳内で昨日の記憶を掘り返す。
メルティナが現れて以降といえば――
『メル、どうしてっ……』
あの『ペンタ』が文字通り降臨した直後のレノーレの言葉や、
『メル、どうして来たの……!』
『どうしてもこうしてもないでしょう、レン。私が来なかったらどうなってたと思ってるの?』
皆が総崩れになった直後の、彼女らの会話が思い起こされる。
「……、レノーレは……メルティナが助けに来ることを想定してなかった……?」
今さらながらにハッとしつつそう問えば、
「ええ。あの子の様子からして、間違いないと思う」
ベルグレッテは力強く首肯した。
「となると、レノーレのあの態度や言葉はより不可解ものになる。『ペンタ』の助力がないことを前提で、あんな風に言ったんだから」
『私が来なかったらどうなってたと思ってるの?』というメルティナの言から考える限り、他の誰かが救援に駆けつける算段などもなかったように受け取れる。
「……うーん。まあないとは思うんだけど、例えばいっそもう……その、自爆するつもりだったとか? ほれ、天轟闘宴の時の魔闘術士みたいにさ……」
今もはっきりと覚えている。うだるような暑さの中、鬱蒼とした森で対峙した異質な黒衣の男。
劣勢に追い込まれ、対峙していた流護やエンロカクもろとも巻き込もうとしたあの狂気を思い出す。窮すれば人間、そのような行動に出てもおかしくはない。
「いいえ。身内目線を抜きにしても、それはないはずなの。バダルノイスの人々――とくにキュアレネー教徒は、外的要因による死を『導き』と受け取る一方で、自ら命を絶つことを絶対の禁忌としているから」
「あー。そういや、んなこと言ってたっけか……」
自害は、キュアレネーに己の魂を『押しつける』厚かましい行為と認識されるのだという。どんな苦境に陥ろうとも、バダルノイス人が自ら死を選ぶことはないらしい。
転じて、自棄や破れかぶれといったような、己の命をないがしろにするような行為も忌避される傾向にあるようだ。
「自分の命や生命力を糧とするような神詠術に関しては、習得も固く禁じられているみたい」
この異世界における宗教というものは、現代っ子の流護からしてみれば思いもよらない重要度を占めている。傍若無人な悪党ですら、当たり前のように神の存在を信じているのだ。たとえ友人や家族を裏切ろうとも、神だけは信奉する。
「これに関係して、バダルノイスでは毒物の使用が固く禁じられているのよね。誰でも容易に自らの命を絶てる手段ともなりうるし、そもそも氷の女神キュアレネーが毒を嫌うと言い伝えられていることもあって」
「ほえー」
教義は絶対。となれば、キュアレネー信徒であるレノーレが自爆という行為に及ぶことはありえない。
「俺らを殺すのは無理。『ペンタ』の助太刀も考えてない。破れかぶれの自爆のセンもない。つーことは……どういうこった?」
「少なくとも今、確実なのは――」
少女騎士は、自信に満ちた口調で言い切った。
「レノーレには、最初から私たちを殺すつもりなんてないってことね」
「ううむ……」
「そもそも本当にその気があったなら……私たちがメルティナ氏に無力化されて、動けなくなっていたあのときに実行していたはず」
「あ……言われてみりゃ、確かにな」
おそらくはレノーレの意に反し、メルティナが救援に現れたあのとき。
白き『ペンタ』の攻撃術によって、流護も含め全員が昏倒させられたという驚愕にして屈辱の結果。
ベルグレッテの言う通り、やろうと思えばあの場面で止めを刺すことだってできただろう。
しかし実際はそれどころか、ケガ人らしいケガ人すら出ていない。
そうして皆が身動きできなくなっていた隙に、二人は逃亡という道を選んでいる。
「『レインディールに帰ってほしい』。これが本心なのは間違いないと思うけれど」
「ふーむ」
であれば、レノーレはなぜあのように無意味と思える挑発を口にしたのか。
ベルグレッテに負けず劣らず、頭の切れる少女である。あの局面で意味のないことをするとは思えない。
「……とまあ、昨日は気がかりな点が多かったから、色々と考えてたんだけど……あ、ごめんなさいリューゴ。まだ時間には早いわよね。なにか用事?」
「あ、いや。むしろ俺も、改めてそういう話をしにきた感じなんだけどさ」
昨日は事後処理でゴタゴタしていたり、ほぼ無傷だった流護がレノーレらの足取りを追うための捜索隊に協力したりしていたので、腰を据えて話す時間がなかったのだ。
ちなみにレノーレとメルティナは他の兵士たち――あの包囲網に居合わせなかったヘフネルやガミーハらの追跡を躱し切り、走行中の馬車に飛び乗ったとの報告が寄せられている。
今頃どこにいるのか、まるで見当もつかないのが現状だ。
「つーかさ、あれだよ。レノーレも、事情があるならハッキリ言やぁいいんだよ。いきなり帰れ、とか言われたって素直に帰る訳ねーだろっていう」
もちろん、状況が状況だった。
囲んでくる兵団と一発触発の緊迫した空気の中、悠長に話している余裕などなかったのかもしれないが――
「そうね。考えられる可能性としては……あのとき、あの場ではどうしても言えない理由があった。あるいは、説明したところで到底信じてもらえそうにない事情を抱えていた。……もしくは」
「もしくは?」
「その両方、かしら」
「うーむ……」
もしそうだと仮定するなら、それはどれほどの事情だというのか。一体、彼女の身に何が起きているのか。
「詳しいことは、オームゾルフさまも交えてからにしましょうか」
「だな」
ちょうどこれから、昨日の一件についての詳しい報告やこれからのことについての相談をする予定となっていた。
「……、」
流護としては、あのメルティナ・スノウと実際に遭遇してから、ひとつ気になっていることがある。
それも、皆が集まった場で提起すればいいだろう。
時間になるのを待って、二人は指定された一室へと向かうのだった。