4. 死
流護は、宿の二階にある一室のベッドへと倒れ込んだ。
すぐ脇のサイドテーブルには、ゆらゆらと温かみのある光を放つカンテラが置いてある。火の神詠術を使えない人向けに、マッチも備え付けてあった。電灯なんてものはないので、光源はこれだけとなる。
これからどうなるのか。情け容赦なくファンタジーを突きつけてくるこの世界。昨夜、ミネットがグリムクロウズと呼んでいた世界。
この宿屋、この部屋ですら、やはり日本を思わせるものは何もない。これがただの外国旅行だったら、どんなに気が楽だろう。
流護は何となく制服のポケットを探ってみた。
携帯電話の電池は切れていた。あと財布がなくなっていることに気がついた。知らない間に落としたのだろうか。持っていたとしても、この世界では『円』など通用しないから必要ないのだが……。
そういえば、現実の世界はどうなっているのだろう。時間の進み方は同じなのだろうか。
……夏祭り、行けなかったな。まさかこんな形で行けなくなるなど思いもしなかった。流護は、少し寂しい気持ちになったことを素直に認めた。
ふと壁のほうへ目を向けると、飾りつけてある時計が視界に入る。
木製の円形で長針と短針があり、十二時間表示。数字は書いていないが、目盛りが振られている。つまり地球のアナログ式と同じものだ。
現在の時刻は、六時半を指し示している。
「……あ、そうだ」
時計で思い出した。確かめねばならないことがある。
部屋を出て宿の受付へと向かう。客が少ないのか、退屈そうにしている初老の男……宿の主人に話しかけた。日本語が通じると分かっていても、まだ少し緊張してしまう。
「あー、すんません。体重計ってありますか?」
「んん? 体重計ね。浴場に置いてあるよ」
浴場は、流護のよく知る日本の銭湯によく似た造りをしていた。
時代や国によっては入浴の習慣がないという話も耳にしたことがあったので(それは飽くまで地球での話だが)、昨日に引き続き今日も風呂に入れないとなると、さすがに困るところだった。
しかし今の目的は、風呂ではない。脱衣場の隅に置いてある『それ』の前に立つ。形状は日本にもある家庭用のものとほぼ変わりない。目盛りには、1、2、3などの数字が刻まれていた。言葉が通じることや、あまりにも地球のものに似すぎた時計から、何となく予想はついていた。
流護の体重は七十五キログラム。身長は百六十七センチメートル。
その体重は身長と比べて、かなり重い部類だろう。無論、太っているのではなく鍛えて身につけた筋肉の重みが主となる。
この体重計に単位は全く表示されていないが、これまでの地球に酷似した様々な状況から考えて、おかしな数値は出ないだろう――と、
流護は『考えなかった』。意を決して体重計に乗る。
(――やっぱり、そうか……)
単位が書かれていないので、正確なことは分からない――が。つい今しがた目にしてきた時計や風呂場の仕様からして、体重計もそう変わるものではないだろう。
そのうえで、そこに表示された数字は、流護が想像していた以上に低いものだった。
つまり。このグリムクロウズという世界は、重力が弱い。
コブリアに放った、爆発的な踏み込みからの拳。歩いて感じる浮遊感。それらは軽い重力が引き起こしていることなのではないか、と。
そう考えれば、道行く人々の身長が流護より高めだったことにも合点がいく。
弱い重力の下で育った生物は、重力の影響が少ないため、高く大きく育つと推測されている。しかし同じく重力の影響が少ないため、見た目ほど筋力は発達しない。
コブリアを素手で吹き飛ばしたことに、ミネットもベルグレッテも驚いていた。
つまり流護の筋力はこの世界の人々に比べて、かなり発達している部類となるのでははないだろうか。おそらくは、この世界における常識の範疇を外れるほどに。
無論、こんな考えは学校の成績が中の下である流護の推測に過ぎないうえ、何より神詠術などというものが存在するこの世界。流護の常識など、通用しない部分のほうが多いはずだ。
ただ重力がどうこうではなく、神詠術やら何やらの影響で、流護の知らない何かが作用している可能性も高い。
そのあたりはともかくとして、重力は弱い。身体は軽い。今はそれが分かっただけで充分だろう。
ちなみに、それでミネットに体重を尋ねてみたりもしたのだ。
当然、答えてもらえるはずがないのだが、そのあたりは少年の思慮の浅さである。
「……、ま……ドラウト……」
そんなことを考えていると、外から声が聞こえてきた。
脱衣場の隅にある、曇りガラスの大きな引き戸の外からだ。脱衣場にこんなデカイ窓って……まあ男湯(?)だからいいのかもしれないが、などと考えて窓に近づき、少しだけ開けてみる。窓の外には、薄汚れた路地裏が広がっていた。
「……うーん。考えづらいかなぁ」
澄んだ美しい声は、聞き間違えようもない。ベルグレッテだった。
狭い路地の壁に背を預け、腕組みをしながら唸っている。腕組みをすることで、相変わらず素晴らしい胸が強調されていた。
……そういやアレに触ってしまったんだな……と、悶々としそうになったところで、思春期の少年はようやくベルグレッテの隣に人がいることに気付いた。おっぱいしか見てなかったから仕方がない。
男だった。銀色の鎧に身を包んで、腰から剣を提げている。兵士のようだ。
さっぱりとした赤茶色の頭髪に、精悍な顔つき。背も高い。年齢は二十ぐらいか。爽やかな雰囲気の好青年だった。
ベルグレッテの彼氏……だろうか?
なぜか少し残念な気持ちになる流護だったが、むしろ彼女の美貌で男がいないほうがおかしい気もする。彩花にだって彼氏がいるぐらいだ。
「オレは町民の見間違えじゃないか……とも思うんだけどな」
声までイケメンだ。なぜか少し腹が立ってくる流護だった。
「念のため警備を増やしてもらってていい? なんらかの怨魔か山賊かなのは間違いないだろうし」
「了解しました、ベルグレッテお嬢様」
青年は、苦笑しながら仰々しく答える。
「もー、『お嬢さま』はやめてってばロムアルド。仕事上の立場では、あなたのほうが上なんだから。私はあくまで見習いでしかないし」
「ハハッ。そう言われてもな~」
ピシャリ、と窓を閉める流護。
むう。あれか。身分とか立場を超えた職場内恋愛とかそういうやつか。見てはいけないものだったろうか。ロムアルド? さん? ベルグレッテさんのおっぱい揉んですんません。さて風呂にでも入るか。
服を脱ぎ放ち、浴場へ入り、浴槽のお湯を汲み、身体にかける。
「ダァラアアァッシャアアアァイィ!」
水だった。
「な、なんじゃァ兄ちゃん、なにがあっ……おっほ、兄ちゃんすンげェ身体してんなぁ!」
なぜか頬を赤く染めている宿の主人の話によれば、近所で井戸端会議を開いている彼の奥さんが帰ってきて火の神詠術で沸かすまで、風呂には入れないのだそうだ。
箸というものが存在しない夕食や、使い方のよく分からないトイレ(しかし水の神詠術で整備されているらしく何と水洗だった)などに悪戦苦闘しながら、現代日本少年の夜は更けていく。
翌朝。流護は眠気を引きずることもなく起床した。
異常な世界に来てしまったことにまだ慣れないのか、眠りは浅い。時計を見ると針は六時半を指し示している。二度寝するほどの眠気はなかったので、起きてしまうことにした。
これも両開きの、観音開きといっていいのだろうか。部屋の中央にある巨大な窓を押し開ける。
「……うおお……」
思わず、感嘆の声が漏れた。まだ高くない位置にある太陽。この世界ではインベレヌスとかいう名前の神だったか。うっすらとした朝霧と、まだ弱い陽射しに包まれる、これまでは教科書やテレビでしか見たことがなかった中世風の街並み。流護は、そんな美しくも幻想的な光景に目を奪われ――
「ん?」
そこで気がついた。
二階から見下ろす街並み。ざわついた様子で、街の入り口付近に人が集まっている。雰囲気からして、日常的な光景ではなさそうだ。
こんな早朝に何だろうか?
少し野次馬根性を発揮して、流護も外に出てみることにした。
正確には街の入り口……門の辺りではなく、門を出て少しした街道に、人が集まっていた。
兵士たちが、「離れて!」「近づくな!」などと厳しい声を上げている。
人々のざわめきに混じり、悲鳴のようなものも聞こえた。
何か、よくないことが起きたのだろうか。そこまでして見ようと思った訳ではなかったが、人ごみに近づき、騒ぎの中心に目を向ける。
やはり日本とは違う。日本と違い、厳重に現場の封鎖などされてはいない。
だから、見てしまった。簡単に、視界へと入ってしまった。
死体。
仰向けに倒れている、人の死体だった。
しかも、ただ死んでいるのではない。凄惨。その一言に尽きた。
下手糞な塗り絵みたいにぶちまけられた赤。手足は棄てられた廃材のように折れ曲がり、内側から白いものが飛び出している。引き裂かれ、ズタズタになった身体の至るところから、ピンクと赤と黄色の何かが覗いていた。内側から咲こうとして失敗した花みたいだった。割れた果実を思わせる頭からは、ピンクと灰色が零れ出ている。
赤く濡れて顔に張り付いた髪。片方だけ飛び出した眼球。砕かれた顎。
あれでは、顔の判別すら難しい。
しかし、流護には分かった。
そこで力なく倒れているソレが。ミネット。
ミネット・バゼーヌという少女だと、分かってしまった。
「――――――――――――――」
流護の思考が、停止した。
――なんだ。なにが、起きた。
なんでミネットが……あんな赤くなって、壊れたマリオネットみたいに、……いや、あれはミネットじゃないだろ。もう、違うだろ。人の形をしてない。別の生き物だ。いや生き物ですらない。肉。あれはもう、肉――
口の中に酸味が広がった瞬間、流護は胃の中身を街道の脇にぶちまけていた。
「……ッ、げぇっ……はあッ!」
なんで。昨日、「またお会いしましょう」って。
そう言って別れたミネットが、あんなとこで寝てる……ワケが……
顔をあげる。ああ、ミネットだ。半分崩れてたって分かる、ミネットの顔だ。真っ赤に染まってても分かる、ミネットの服だ。あれは間違いなくミ、
「リューゴ!」
今、この場にやって来たのか。走り寄ったベルグレッテが名前を呼ぶ。流護は反応できずに、ただ呆然と、ミネットを――ミネットだったそれを、見つめる。
「……ッ!」
流護の視線を追い、事態を察したベルグレッテが駆け出した。
「どいて! 私です! ベルグレッテです!」
人ごみをかき分け、兵士へ名乗る。
「これはベルグレッテ殿!」
流護はそこから先をよく覚えていない。
思考が、現状を否定しようとしたのかもしれなかった。
流護は、街道の脇にある路傍の岩に腰掛けていた。
ミネットの遺体はすでに片付けられ、辺りは日常を取り戻したようだった。
「はい」
声に顔を向けると、木のコップを差し出すベルグレッテの姿。呆けたように無言で受け取り、口に含んで飲み込む。中身は水だった。散々に嘔吐したせいか、喉が焼けるように痛かった。
「…………ミネット、は?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
「……、実家の、ご家族のところに」
ベルグレッテの表情は、痛みを堪えているように苦しげだった。
「なんだよ……これ。なんでこんな」
「……怨魔、ドラウトロー。ミネットの遺体のそばに、奴らの体毛が落ちてた。間違いない」
口にするのも忌々しいという様子で、ベルグレッテは告げる。
「カテゴリーB。私が知る限り、最悪の怨魔。光り物を集める習性があって、金属やら鉱石やらをなんでも集めるんだけど……奴らの最高の『趣味』は、それじゃない。ただ……ただ遊びで、人間を襲う。その様子を、『音鉱石』っていう音を保存する性質がある石に記録するとも言われてる。……害獣って呼ばれる生物ですら、人を襲う理由がある。生きるため。食べるため。でも奴らは、ドラウトローは違う……ただ、ただの遊びで、遊びで……ミネットをっ!」
ガン、と。ベルグレッテは拳を街灯に叩きつける。
「…………」
流護は無言で立ち上がった。
「どこだよ?」
「え?」
流護の言葉の意味が分からなかったのだろう、ベルグレッテは呆けた声を上げる。
「そいつ、どこにいんだよ。殺してやる。ブッ殺してやる」
「無理よ」
「なんでだよ」
「カテゴリーB。これは、直接相対する場合に王宮の兵士が最低三人で戦うことを前提にした指標よ。まして、分析結果から確認されたドラウトローの数は三体だった。たとえ素手でコブリアを撃退したあなたでも、絶対に無理」
「じゃあ、どうすんだよ! このまま! ミネットが、あんな……っ!」
「もう城に『銀黎部隊』の出動を要請した! 放っておいても奴らは死ぬ! 絶対に『銀黎部隊』が裁きを下す! 私だって……私に力があれば、この手で奴らを殺してやりたいわよ! でも無理なの、私じゃ無理なの! 私は……、私だって……!」
ベルグレッテのきれいな顔が、涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。
「……、っ……」
流護は言葉に詰まった。
当たり前だ。ミネットと知り合ったばかりだった流護とは違う。ベルグレッテがいつミネットと知り合ったかは知らない。それでも。彼女のその悲しみ、怒り。それらはきっと、流護のものよりも大きいはずだ。
「…………、悪かった」
「……ううん。ありがとう。ミネットのために、そこまで怒ってくれて」
鼻をすするベルグレッテ。
流護は涙を乾かすように、空を仰ぐ。
インベレヌスという神が輝く空は、どこまでも青かった。
やりきれない気持ちを抱えたまま。
ミディール学院へ向かうべく、流護はベルグレッテと二人で歩いていた。
「なあ、ベル……様」
「ベルでいいってば」
「じゃあ、ベル。街道って安全なんだよな? その……ミネットが倒れてたのは、街道の中だったと思うんだが」
「そこが不可解なの。ごく一部の強力な怨魔には魔除けが効かないこともある。けど、カテゴリーBのドラウトローには有効なはず……Bクラスに魔除けが効かないなんて話、聞いたこともない」
「……、じゃあ、なんでミネットは……」
力なく流護が呟く。
「……数日前から、ドラウトローらしき目撃談は報告されてたの。でも私も含めて、みんな半信半疑だった。そもそも、このサンドリア一帯にいるはずがないのに。私自身、その姿は一度しか見たことがないわ。子供の頃、父さまに連れられて行った国外の森でしかね。……もっと、厳重な警備を展開しておくべきだった……」
悔やんでも悔やみきれない。そんな口調だった。
日本でいえば、住宅街にクマが出たという話に近いのかもしれない。
「……じゃあ今、この辺りはとてつもなく危ない状況ってことなのか?」
「ドラウトローは夜行性だから、昼間は安全よ。ただ……夜はしばらく、厳戒態勢が敷かれることになるわね。でも必ず……必ず、『銀黎部隊』が奴らを掃討する」
「国の部隊か何かか?」
「我がレインディール王国の誇る精鋭部隊。構成人数は六十四名。たとえ伝説に謳われるようなカテゴリーSクラスの怨魔が相手だろうと、遅れは取らない」
「そう、か……」
流護は、ただ願うしかなかった。
その『銀黎部隊』とやらが、ミネットの仇を討ってくれることを。