390. 氷輝宮殿
薄暗くなってきた頃、ようやく氷輝宮殿の正門前にたどり着いた。
混み入った街の景観からは少し離れた敷地に、デンと鎮座するその建造物。いざ仰ぎ見ると、レインディール王城ほどではないもののかなりの巨大さだった。
(高層マンションばりだな、こりゃ)
見上げるだけで首が痛くなる。屋根の球体だけで二階建て分ぐらいはありそうだ。
壁面に張りついた雪や氷が、きらきらと陽光を反射している。『氷輝宮殿』とはよく言ったものだ、と流護は感心せざるを得なかった。
それはともかくとして、
「さむ~~~いっ……!」
肩を竦めたジュリーの一言が、端的に世界を表現していた。
積もった足下の雪は石のようにガチガチ、石畳はよく見れば氷の薄膜が張っている。外壁や建物の軒先からは一メートル前後もありそうなつららがびっしりと連なっており、まるで怪物の牙のようだ。
「今日はかなり冷えますね。足下が凍ってますので、滑らないよう気をつけてください」
先導するヘフネルについて移動を始めて、
「オワーッ」
忠告も空しく、いきなりエドヴィンがすっ転んだ。いつも通りヤンキー感丸出しの外股歩きだったので仕方ない。ジュリーも「きゃっ」と滑りかけ、咄嗟にサベルにすがりつくことで持ち直している。……ちょっとわざとらしい気もするが。真面目さんのベルグレッテは一歩一歩が丁寧だ。
「……見回りの兵士とか、全然いないんすね」
流護も慎重に歩きつつ、気付いたことを口にする。
曇った寒空の下、白の大地に巨大な宮殿がぽつねんと佇んでいる寂しい印象だったが、人の姿がまるでないのだ。
「そうですね。この氷輝宮殿の周囲には遮蔽物もないので、吹きつけてくる風の冷たさが厳しいことも理由の一つではありますが……あっ、あれを見てください」
彼が指差した先を、皆一斉に注目する。
宮殿の丸い屋根――そこに積もっていたかすかな雪の塊が、今まさに滑り落ちようとしているところだった。このための造りなのだろうから、それはいい。
「オワッ」
「きゃっ」
皆が驚いたのは、直後に鳴り渡ったバァン! という盛大な破裂音。屋根から落下した雪が、石畳に叩きつけられた音だった。
「たったあれだけの雪が……凄いもんだなァ。あの高さから落ちてくると、立派な危険物だ。なるほど、だから見回りがいないのか」
サベルが感心したように頷き、雪国の若兵が「ええ」と同意する。
「あの通り、冬場の宮殿の周りは危ないので迂闊に歩けないんです。皆さんも、この時期の我が国では建物の屋根の下に気をつけてください。街では毎年、『あれ』に当たって死者も出てるんですよ」
元は柔らかな雪でも、冷え固まったものがあの高さから落ちてくれば、これだけの衝撃を生み出すのだ。もはや落石と大差ない。頭に直撃したなら、目も当てられない惨事になるだろう。
そう考えて見てみれば、宮殿の正面出入り口に通じる直上部分は、壁際の造形が少し異なっていることに気付く。衝撃緩和のために段々の屋根が幾重も設けられていたり、扉の上にも頑丈そうな屋根(これも半球状に弓なり)がかかっていたりと、落雪に配慮した造りとなっているようだ。
「正門以外にも宮殿に入れる勝手口はいくつか設けられているんですが、いずれもあのような屋根が上になくて雪が降ると危険なんです。なので、内外から厳重に鍵を掛けています。冬になると封鎖状態ですね」
「はー、そいつは大変だなァ」
サベルの相槌と同時、またも屋根から落ちてきた雪がパンと派手な残響を轟かせた。
「今年のように雪が少ない年は、落雪が直に石畳に当たって、あのような凄い音を立てるんです」
「これで雪少ないのか……」
流護としては驚くばかりである。見れば、その衝撃によるものか石畳はすり減って模様が消えていた。
「ったくよ……上にも下にも気を付けんきゃいけねーのか、この国はよ」
エドヴィンのぼやきに苦笑しながら、いよいよ扉を潜って入城する一行だった。
外と違い、宮殿内部は暖か――ということはなかった。
神々しい柱やステンドグラスは豪華で結構だが、やたら広い石の玄関口はその分だけ寒々しく、空気は冷ややかに澄み渡っている。
敷き詰められた絨毯や吊り下がるカーテン、垂れ幕の類も、青や白といった寒色が目立ち、身を震わせる一要素となっているように感じた。
せめて赤とか暖かそうな色にすればいいのに……と思ってしまう流護だが、これは『バダルノイスの色』なのだという。レフェにおいて赤が魔除けの色とされ、部屋の壁紙や兵士の鎧に使われていたように、この国では青や白が重用されているのだ。
それはともかく、やはり現地人でも寒いことは寒いらしい。広間や廊下を行く兵士らは首を竦め、使用人たちは厚着で身を固めていた。
「あれ、何だ……?」
ヘフネルの後をついて歩きながら。
先ほどから気になっていた光景に、流護は首を傾げた。入城してすぐの大広間の隅や、今歩いている通路脇……そこかしこに、大量の薪が積み上げられているのだ。どうにも、荘厳な雰囲気の宮殿内には不釣合いな印象がある。
その疑問には、苦笑するヘフネルが答えた。
「ああ……見ての通り、薪ですよ。この寒さですから……宮殿の各部屋には大きな暖炉が設置されていて、常に稼動している状態なんです。そのために、大量の薪が必要になるんです」
「ああ、なるほど……」
これほどの冷え込みや広さとなると、もはや温術器では足りない。石油ストーブなどといった文明の利器も存在しないため、こうした備えが欠かせないようだ。
また、バダルノイスの人間はなぜか氷属性を授かって生まれる者が大半のため、炎術で暖を取るということも難しいらしい。
「宮殿内には、薪割り専用の部屋もあるんですよ。兵の仕事の一つで、皆が持ち回りで担当しているんです」
「へえ。大変そうっすね……」
「はは。それでもバダルノイスの男であれば、子供の頃から皆がやっていることですから。慣れっこですよ。……っと、こちらです」
おそらくは一階の中央部分に相当するだろう。
外からでは分からなかったが、廊下の窓から中庭が見渡せた。緑溢れる美しい自然の庭園。美しい装飾の施された巨大な柱がいくつも等間隔でそびえている。
「おお、緑じゃん。ここには雪がないんすね」
「ええ、はい。屋根がありますから」
「あ、ほんとだ。高すぎて気付かんかった」
その太さは一メートル、高さは十メートルにも及ぶだろうか。整列する柱によって支えられる形で天井があった。
荘厳や豪奢と表現すべきなのだろうが、
(あの柱が一本でも折れて倒れてきたら、大変なことになりそうだな……)
倒壊した側の廊下は押し潰され、瓦礫によって埋もれてしまうだろう。
庶民派の流護としては、どうでもいいことが気にかかってしまうのだった。
「この階段から、二階へと上がります」
そうして先導された先には、入り口の大広間に似ただだっ広い空間。二十メートル四方ほどか。やはり青を基調としたカーテンや絨毯で彩られている。壁面に窓が多く、外の明かりがそのまま入り込んでいた。
たった今上がってきた階段は、さらに上へと続いていた。
「二階は騎士の皆さんや使用人の方々の私室などが多いですね。図書室や客間などもありますけど。あ、謁見の間はこの上の三階になります。オームゾルフ祀神長は普段、その生活のほぼ全てを三階でこなし、完結されています」
説明を受けながら上がると、やはり今ほどの二階の広間と同じような大きさの空間があった。階段はここで終わり。三階建てとなるらしい。
壁面上部にズラリと並ぶ採光用の窓から、外の雲間が覗いている。
きめ細やかな茨の意匠が施された二対の柱が高い天井を支え、床一面には毛足の艶やかな青絨毯。厳かな雰囲気漂う、広く静謐な空間。
「やっぱりどこの国も、こういうお城ってなるとほんとに大きいわね~」
感心したような、それでいて呆れたような口調で零すのはジュリー。
「そうですね。この氷輝宮殿は遥か昔、外敵の侵入から身を守るための城塞だったそうです。そのため、入り組んだ複雑な造りになっているんです」
「へー。そのあたりはレインディールの城と同じような感じだな」
流護が呟くと、隣のベルグレッテが「そうね」と頷いた。
「例えば僕らが今いるこの広間も、謁見の間に向かうには必ず通らなければならない場所ですね」
「ふむ。侵入してきた敵を簡単に王の下へ行かせないよう、ここで迎撃するって訳だな」
「ええ、はい。今のご時世にそんなことはまずあり得ませんが……有事の際には、そうなりますね」
周囲を見渡しながらのサベルの言に、ヘフネルが頷いた。
そうした戦闘を想定した意図もあってか、確かに広く動きやすそうな空間だった。
廊下へ敷き詰められた青い絨毯を踏み締め、先導するヘフネルに続く。
(三階はあんまり広くなさそうだな)
上階へと進むにつれ、山なりに建物の面積も狭くなっていくらしい。
あちこち見回しながら進むことしばらく。行く手へ、大きく豪華な黒い扉が現れた。
「着きました。ここが謁見の間です」
「おお……」
重厚な扉からそれとなく察せる。アルディア王との顔合わせはすっかりおなじみとなった流護だが、異国の王に会うのはこれが初めてだ。
その入り口を守るように、二人の兵士が佇んでいた。鎧兜に施された蔦の意匠が華美かつ派手で、明らかに一般の兵でないと察しがつく。
「オームゾルフ祀神長の命により、お客人をお連れしました」
ヘフネルの報告を受けて、兵士らは謹直な物腰で流護たちに頭を下げた。
「遠路遥々、ようこそお越しくださいました」
挨拶もそこそこに、一人が「失礼」と名簿のようなものを取り出す。
「念のため、ご入室前に確認を。リューゴ・アリウミ氏に、ベルグレッテ・フィズ・ガーティルード氏に、サベル・アルハーノ氏……」
ここで入国時と同じく、本人確認が行われた。
今さらまたですか、と思わないでもない流護だったが、バダルノイスは厳戒態勢中。外から来た旅人を女王相当の人物に会わせようとする以上、この程度はやって然るべきなのかもしれない。
順々に確認していった兵士の瞳が、ジュリーとエドヴィンに向けられる。
「……そちらは……お連れのご友人、でしょうか?」
そこで形のいい眉を吊り上げたジュリーが、さも不機嫌そうに進み出た。
「ちょっと、『また』なの? ちゃんと連絡を通しておいてほしいわね。私はジュリー・ミケウス。サベルの相棒よ。彼とは切っても切れない間柄なんだから、同等に扱ってほしいわね」
入国時と同じ『その他』扱いに、彼女はまたもご立腹だった。
「これは失礼しました」
片方の兵士が頭を垂れる。丁寧だが、どこか心のない淡々とした事務的な詫び。それが不服だったか、ジュリーは目を平坦にした。
「『お連れ』のあたしたちは歓迎されてないよーね。外で待ってたほうがいいみたいよ、エドヴィンくん」
「はァ。俺は別に、それでも構わねーんだけどよ」
ミディール学院切ってのヤンキー生徒としては、他国のお偉いさんとの謁見など堅苦しいと考えているらしい。慮外の扱いにさして文句もなさそうだ。
「いえ、大変失礼いたしました! こちらの不手際で申し訳ございません。お二方を含め皆様、ご入室ください」
もう一人がとりなすように言い繕い、謁見の間の扉が開かれた。




