385. 宵の来訪
昼間に降り出した雪は激しさを増し、やがて風を伴い大荒れとなった。
本来であればすぐにでもバダルノイス本国へ向けて出立したかった流護たちだが、宿の主人に「この天気で北に向かうのは自死に等しいぞ」と諭され移動を断念した。
ちなみにキュアレネー信者の間では、自死を始めとした自棄的な行為は禁忌とされているとのこと。そのため、例えこちらがいくら馬車を出してくれと頼んだところで、御者は絶対に首を縦には振らないだろう、とはベルグレッテの言。
もっとも、流護たちとて命の危険があると分かってまで北上を強行するつもりはない。レノーレは心配だが、逸って自滅しては元も子もないのだ。
何よりこの吹雪も一時的なもので、明日には晴れる見込みだという。
――そんな経緯にて。
その夜、場所はハルシュヴァルトの街角に居を構えた安宿。
不意に、部屋の扉がごんごんと叩かれた。
「あー……い、どう、ぞー……っと」
ストレッチに勤しんでいた流護は、ペタリと床へ伏せながら来客に応答した。
「オウ、入るぜアリウミ……っと、オワッ! すげーな、カラダ柔らけーな、おい」
入室してきたのはエドヴィン。股割りをこなす流護の体勢に驚いたようだ。
「ガキの頃からやってるからなー」
変幻自在の蹴り技には欠かせない基礎である。
「ガキの頃から、か……。俺が今からやっても無理そーだな」
呟いたエドヴィンは、備えつけの椅子にドカリと腰を下ろした。
「んで、どうかしたのかエドヴィン」
柔軟を続けながら尋ねると、
「イヤ、何か妙に落ち着かなくてよ……。こんな遠くまで来ちまったってのもそーだけどよ、レノーレのヤツもどーなってやがんのか……」
『狂犬』にしては珍しく、少し弱気な疲れ顔。
訳も分からないまま馬車に乗せられ、衛兵に捕まり、レノーレが賞金首になっていた……と連続しては、無理もない話ではある。
「ああ……気持ちは分かるよ」
「そーゆーワリには落ち着いてんな、アリウミ」
「はは。任務ですっかり慣れちまったからなー。こういう旅みたいのも。レノーレの件も、そら心配は心配だけど……ここで俺らが気を揉んでもしょーがねーしさ」
そもそも破格の賞金首に認定されているということは、その捕縛なり撃破もまた難しいということ。
流護は以前、レノーレを黒ネコのようだと例えたことがある。するりするりと、追跡者の手を掻い潜っていきそうなイメージだ。その折にミアをハムスターと称し、クレアリアをハリネズミと表現した。後者については当人に聞かれ、あわや大惨事となるところだった。刺されなくてよかったとしみじみ思う。
(にしても……貴族の令嬢を連れて逃亡中、か)
よくよく考えると引っ掛かることもあるのだが、とにかく今しばらくはレノーレが捕まらないことを願うしかない。
何を考えてか天井を仰ぐ『狂犬』の姿を見て、別の疑問がふと浮かんだ。率直に訊いてみる。
「そうそう。話は全然変わるんだけど……エドヴィンってそんな上着持ってたんだな。何かもっと大人が着てそうっつーか、エドヴィンがそういうシックなの着てるの珍しいなと思って」
茶色を基調とした、暖かげなジャンパー風の上着。色合いや状態から、新品ではなさそうだ。が、少なくとも学院で着ているのを見かけた覚えはない。
「ん……あァ、似合わねーか」
「いや、似合ってると思う。二、三歳増しぐらい大人に見える」
素直な感想を伝えれば、
「……そーか」
『狂犬』らしくない、くすぐったそうな笑みだった。お気に入りの一着なんだろうな、と流護も釣られて何となく嬉しい気持ちになる。
「いつもは改造バイクに乗ってそうだけど、その格好だとロッケンロール! ベイベッ! ヨロシクゥ! って感じがする」
「お前ってよー、たまにワケ分かんねーこと言うよな」
そこでふと、廊下から戸を開け閉めする音が連続して響いてきた。正直ガタもきている安宿なので、外の音があからさまに響いてくるのだ。
「おっ、ベルグレッテちゃん。これからお風呂?」
「あ、はい。そのつもりでしたが……ジュリーさんもですか?」
「そうよー。そいじゃ親睦を深めるためにも、一緒に入りましょーか!」
「ええっ、でも……」
「何よ何よ、女同士なんだから気にしない! あっそうだ、せっかくだから比べっこしましょーよ。あたしだって、結構いいカラダしてるんだから。オトナの本気、見せ付けてやるわよ~」
「い、いえ、私はその……」
二人の声と足音が遠ざかっていく。
「……」
「……」
(ど、どこを比べっこするんですかね……)
つい想像を逞しくする思春期の少年だったが、どうやらエドヴィンも同じらしい。冷静を装っているようでいて、鼻の穴が膨らんでいる。
「に、にしてもよ……お前ら、また二人で遠征任務に出たんだよな……」
変な空気を払拭しようとしたのか、エドヴィンが不意にそんなことを言い出す。
「え? ん? まあ、そうだな……」
「……」
「……」
またも妙な沈黙。
「羨ましいのか? エドヴィン」
「は、はァ!? そっ、そんなんじゃねーよバカ、な、何言ってんだおめーバカ、ふざけんなバカッ」
類稀なほどのひどい正直者だった。
「おっ、俺ぁ別に……ベルのことなんて何とも思ってねーっつーか、あれだ、そのあれだ……好きなんて、これっぽっちも思ってねーしよ……」
「すげえ、何か勝手にどんどん自爆してる……」
自白剤でも打たれたのか、と思わず感心する流護だったが、直後『狂犬』の思わぬ反撃に困惑することになる。
「だ、大体アリウミよ、お前はあの『眠り姫』と深い関係なんじゃねーのかよ!?」
「は?」
「学院の連中がウワサしてんぜ。何やらワケありそーだってよ」
「ったく、エドヴィンまでそんなこと言い始めんのか……」
流護とベルグレッテの再転移、それに巻き込まれる形でこのグリムクロウズへやってきてしまった――と推察される蓮城彩花。
直後に気を失い、それ以降一度も目覚めることなく眠り続けているあの幼なじみは、学院生の間で『眠り姫』と呼ばれている。
ちなみに、それを機にエドヴィンに対しても流護は自分が抱えるおおよその事情について説明している。記憶喪失から回復したこと、日本という遠い異国からやってきたこと。
それについての『狂犬』の感想は、
『はァ。そーか、記憶が戻ったなら良かったな』
いまいちよく分かっていなさそうだったので自分が特異な世界の住人であることについて言及しようとしたが、エドヴィンは「どうでもいい」と手を振った。それを知って何か変わるのかと。取るに足らない些細なこと、お前はお前だと。俺とお前の関係は何も変わらない、と。
きっと、仮初めの事情でない……本当に本当のこと、異世界転移を経験した件について説明しても、彼なら受け入れるのだろう。
「あ? 正直になってみろよアリウミよ。あの女、お前の『コレ』なんだろ? お?」
「違うっつの。小指立ててんじゃねえ、へし折るぞ」
そんなやり取りを交わしていると、廊下からドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
直後、
「リューゴ! いる!?」
コンコンコンと、忙しなく部屋の戸がノックされる。
たった今しがた、ジュリーと一緒に風呂へ向かったはずのベルグレッテだ。ついさっき話題に出ていた当人がいきなりやってきたからか、エドヴィンは「オワッ」と慌てている。
「おう、どしたベル子」
「失礼するわねっ」
答えるなり、勢いよくドアが開け放たれた。
「あっ、エドヴィンもいたのね。ちょうどよかったわ」
「ちょうどいい? どしたんだベル子」
「二人とも、ちょっと下まで来てほしいの」
ジュリーも同じようにサベルを呼びに行っていたようで、五人は一階の手狭なロビーに集まった。
そこで待っていた人物を見て、何事かと流護は訝しむ。
「すみません、皆さん。夜分にお休みのところをお呼び立てしてしまって……」
ソファから立ち上がって一行に頭を下げるのは、昼間にレノーレの屋敷で会った若い兵士のヘフネル。そしてその隣には、
「ふん……」
偉そうに座って腕組みをしたまま鼻を鳴らす、兵士長ヒョドロの姿があった。
「んん? こんな時間にどうしたってんだい、一体」
対面の席に座りながらサベルが切り出すと、答えたのはヘフネルだった。
「ええ、はい。実は……オームゾルフ祀神長よりお達しがありました。あなた方をバダルノイス王宮に招聘したい、とのことです」
一瞬、言葉の意味が分からずにわか停止する流護だったが、
「ん、あれ? オームゾルフ……ししんちょう、って……」
聞き覚えのある名前だった。流護の疑問には、誇らしげなヘフネルの声が答える。
「ええ、はい。現在のバダルノイスを統治されているお方です」
つまり、レインディールでいうところのアルディア王に相当する。ようは国のトップである。
流護としても、事前情報としてロック博士からバダルノイスの話を聞いていたのだが、その折にまず耳にした名前だった。
現在のバダルノイスは、キュアレネー神教団出身の若き女性によって治められていると。
「え、ええっ……!? オームゾルフさまが、私たちを……? そっ、どうしてそんな……!?」
ベルグレッテはもちろんその名を知っていて、当然のように驚く。
「それが……ほんの半刻前、王宮より連絡がありまして……」
「ふん、何を他人事みてぇに言ってやがんだ、ヘフネル。お前ぇのせいみてぇなもんだろうがよ。ったく」
「も、申し訳ありません」
「? どういうことっすか?」
兵士二人のやり取りの意味が分からず、流護は眉を寄せる。
原因だという気弱な若兵が、すまなそうに告白した。
「ええと……実は僕が、皆さんのことを他の詰め所の友人に話したんです。何しろ、あのサベルさんにジュリーさん、レインディールのロイヤルガードであるベルグレッテさんと、そうそうたる顔ぶれでしたので……」
(俺は?)
ちょっと不服な流護だが、まあそれはいい。
確かに昼間、サベルたちの名を聞いたヘフネルは目を白黒させていた。ミーハー気質なのかもしれない。
「そ、そうしたらですね――」
友人からそのまた友人へ、そこからまた他の者へ……といった感じで話が伝言ゲームみたいに伝わっていき、最終的にはオームゾルフの耳に入り、今回の招聘に繋がったということだった。
このハルシュヴァルトからバダルノイス皇都イステンリッヒまでは、馬車で五日ほどの距離。よほどの手練でもなければ通信術も届かない距離だが、兵士たちの間でどんどん連絡が繋がっていったことにより、珍しくもこんな事態となったらしい。
「……、……そんなことが」
ベルグレッテも若干口が開いている。
「いえ、僕自身も驚きました……」
「ったく……巡り巡ってまさかオームゾルフ祀神長のお耳にまで入るたぁな。どいつもこいつも、噂話なんぞにかまけやがって」
初老の兵士長はあまり快く思っていないようで、そう苦言を呈する。
ともかく本来であれば、国の最高権力者との面会がそう易々と叶うはずはないのだが――
レノーレの件について現状、進展がないこと。ミディール学院で親しかった者の話が聞ければ、何か手がかりに繋がるかもしれないこと。
この辺りが決め手で、流護たちを呼んでみようとなったのではないか、とのことだった。
「はあ……なるほどなあ」
裏を返せば、親交のない国の兵士の力すら借りたい――ネコの手すら借りたい状況に陥っている、ということなのかもしれない。
(……うーん、でもな……)
ただ。そうなると、どうしても流護の脳裏に浮かぶ疑問がある――
「ふん……天轟闘宴を制したって小僧の噂は聞いてたが……まさか本当に、こんな小さなガキがねぇ」
とそこで、ヒョドロが流護に疑わしげな目を向けてくる。それはもう無遠慮に。
「ん? 信用できないなら、試してもらってもいいっすよ。今すぐ、この場でも構わないすけど」
流護は正面から老兵の目を見て言ってのけた。
元々、師からも『何でもアリ』や『常在戦場』の精神を叩き込まれて育った身だが、この苛酷な異世界へやってきて以降、その気概はより磨かれている。
「はん……オームゾルフ祀神長のご決定だ、一兵卒の俺がとやかく言うつもりはねぇよ。で、だ。この話に乗るかどうか、今すぐ決めてくれ。乗るなら、明日の早朝に馬車を寄越す。で、そのまますぐに皇都へ向けて出立してもらうことになる」
「ったく……こっちの都合はお構いなしか。忙しないね、公僕の方々は」
サベルがしっかり皮肉を返しつつ、一行の顔を見渡した。
「さて、あちらさんはああ言ってるが……どうする?」
「あのっ、私は……!」
勢い込むのはベルグレッテだ。
彼女の意見は聞かずとも知れている。
これは好機。本来ならば宛てもなくバダルノイス入りし、手がかりもなくレノーレを捜し回らなければならないところ、国の中枢から声がかかったのだ。
バダルノイスの兵力そのものを味方につけられるうえ、レノーレの罪について恩赦を持ちかけることすらできるかもしれない。
全ての状況が好転する可能性すらあった。
「俺とジュリーは付き添いだしな。判断はベルグレッテ嬢に任せるぜ」
「そうね、サベルが言うなら文句はないわ」
一心同体なトレジャーハンター両名に頷きつつ、ベルグレッテは次にエドヴィンの顔を見る。近距離から見つめられた彼は、
「オ、オウ。まー、いいんじゃねーか? オウ」
明らかに状況を理解していない、デレデレの表情だった。
(エドヴィン……将来、美人局とかにアッサリ引っ掛かりそうだな……)
そして最後に、少女騎士は流護を見つめてくる。
ここのところ沈みがちだった彼女が見せる、久しぶりに嬉しそうな顔。エドヴィンでなくとも、無条件に首を縦へ振りたくなってしまう少年だったが、ここは引っ掛かり続けている疑問を提起することにした。
「ちょっと待ってくれな、ベル子。その前にヘフネルさん、質問なんすけど」
「はい、何でしょうか?」
「レノーレって、そんなに捕まらないもんなんすか? 人質取って逃げ回ってるなら余計、そんな身軽に動けるとも思えねえし……」
現代日本でも、人質を取るような犯罪の成功率は極めて低いと聞いた覚えがある。レノーレは現在、多くの兵士たちや賞金稼ぎに追われる身。
まして今回の件、彼女は貴族の令嬢を連れ回していると聞く。となればその人質の体力がもたず、思うように動けなくなるのではなかろうか。この雪の量も移動を阻害する要素になる。盾にするつもりの人間が重荷になっては本末転倒だろう。
流護が呈した疑問に、ベルグレッテも少しハッとしたようだった。彼女とて、考えていなかった訳ではないはず。ただ親友の件で前のめりになるあまり、冷静になりきれていない部分がある。
この点、流護は一歩引いた視点から見ることができていた。
「はァー……」
そこでいかにも嫌そうに反応したのは、兵士長ヒョドロだった。
「その様子じゃ、どうせ乗るんだろ。話したくなかったんだが……教えん訳にもいかねぇ……」
頭をボリボリと掻きむしり、観念したような口ぶりで。
「まず、レノーレが攫ったっていう貴族についてだが……。誘拐されたのは、スノウ家の現当主……って言やぁ余所者のあんたらにも分かるかい」
いや分からないんですけど、と言おうとした流護に反し、ベルグレッテやサベル、ジュリーは言葉を失っていた。
「……ん? あ? スノウ、だと……?」
彼らから一拍遅れて、理解が追いついたらしいエドヴィンまでもが唖然となる。
(ん? スノウ……? あれ、それって)
そこでようやく、流護も思い至った。
「そうだ。バダルノイスでただ一人の『ペンタ』にして救国の英雄。二つ名は『無刻』。北方最強の詠術士、メルティナ・スノウなんだよ。レノーレが攫った相手ってのはな」




