384. 死臭
暖かな酒場の一角にて、彼らは遅めの昼食をとっているところだった。
急に天気が悪化したためか、冒険者風の団体から地元民らしき人々まで、結構な数が店内に駆け込んできたようだ。それまで静かだった店内が一気に騒がしくなった。
窓の外では、雪が横殴りになって激しく吹きつけている。
「くそが……気に食わねぇっ」
口癖みたいに同じ悪態をつくその男へ、
「まーだ言ってんのかよ、コッラレ。もう諦めろって」
仲間の一人がどうでもよさげに応対した。
「だってよ、腹立つじゃねぇかよ! あんな小僧に、あんないい女がよぉ!」
がん、とコッラレはテーブルに拳を打ちつけた。載っている食器やグラスがガシャンと耳障りな音を立て、それが余計に苛立たしさを募らせる。
昨日の山越えで晒してしまった醜態。
突如として現れた怨魔を前に、情けなく馬車へ駆け込んでしまった自分。
『む、無理だ! ドラウトローなんざ冗談じゃねえっ! あんなバケモンと闘えるかよ!』
情けない自分の悲鳴が、未だ耳の奥にこびりついている。
「ドラウトローぐらい……その気になりゃ、俺だってやれるっつうんだよ」
「そりゃ初耳だ。それなら、俺達ももうちょっと楽な旅ができそうだな~」
「うるせえっ、くそっ! リューゴ・アリウミとかいったな……あのガキめ……」
酒をやりながら、何気なくついた悪態だった。
それを、
「リューゴ・アリウミ? っテ言っタか? 今」
拾う者が、いた。
混雑した酒場。さっきからひっきりなしに行き交う人々。
その中の一人が、振り返っていた。
「あぁ?」
当然ながら、コッラレは訝しげな視線を投げる。
相手は、痩身を隈なく頭の先まで黒のローブに包んでいた。一見しただけでは、男か女かも分からない。が、
「リューゴ・アリウミっテ言っタよな? 今」
妙な滑舌のしゃがれた声と、目深に被ったフードから覗く角張った顎の造形が、間違いなく男であることを示していた。
「何だ、てめぇはよぉ。立ち聞きしてんじゃねぇぞ」
食ってかかるコッラレだが、
「問題は、お前の口ぶりダ。『リューゴ・アリウミとかいっタな……あのガキめ……』と、お前は確かにこう言っタ。実際に会っテきタような口ぶりダ。天轟闘宴の話をしテるとか、そんな感じじゃあない。確認するように名前を繰り返しテるあタり、親しいっテ訳でもなさそうダ」
妙に説明的な口ぶりでぶつぶつ言いながらやってきたローブ姿は、テーブルにバンと手をついてコッラレの顔を覗き込んだ。
「――どこデ会っタ?」
「あー!? なんだぁ、てめっ――、!?」
相手の無遠慮な態度に激昂しかけるも、
「……、ッ」
コッラレは曲がりなりにも、経験豊富な冒険者である。
苛酷な外の世界を渡り歩き、ここまで生き延びてきた身の上。安全や危険を見極めるため、それなりの勘というものが培われていた。
その感覚が、告げる。
こいつはヤバイ、と。
この至近距離ですら深く被ったフードが影となり、はっきりと男の顔は窺えない。
ただ、露出している顎先は不気味なほど白く、脣は生気のない紫。まるで死体のようなその顎から脣にかけて、古い切創らしきものが幾重も乱雑に刻まれている。この様から考えると、顔すらも傷だらけなのではなかろうか。
よくよく見れば、テーブルに置かれた手のひらにも、痛々しい線の痕跡が縦横無尽に走っている。
それよりも何よりもコッラレが戦慄したのは、
(こいつ……、臭うぞ)
死の臭い。死の気配。
そういったものが、身体の芯に深くこびりついている。死。殺戮。蹂躙。そういった負の業が染みついている。
明らかに、尋常の相手ではなかった。
こいつに比べればドラウトローなど、ただの猿だ。そう思えるほどの凄み。
「……あ、会ったっていうよりよ、昨日……団体で王都方面の山を越えてきたんだが、その中にたまたまいたんだよ。まだこの街にいるか……他に行ったかは知らねぇ……」
逆らわないほうがいい。何をされるか分かったものではない。そう判じたコッラレは、身を引きながら包み隠さず話していた。
ローブ姿は少しだけ考えるような素振りを見せた後、
「リューゴ・アリウミは一人ダっタか?」
「あ、いや……その、ベルグレッテっていう、連れの女がいたよ……」
一拍の間を置いて。男の口が吊り上がり、笑みを形作った。
黄ばんだ不揃いな歯列にゾッとしたものを感じながら、コッラレは「もういいかい」と及び腰になる。
「他にはいなかっタか?」
「い、今も一緒にいるかどうかは知らんが、サベル・アルハーノとジュリー・ミケウスっていう、トレジャーハンター二人がいた。その界隈じゃ名の知れた連中らしい。俺は直接会うまで知らなかったんだが……あんたは、聞いたことあるかい」
ローブ姿はまたも一拍置いた後、
「サベル・アルハーノ……? はテ、聞き覚えがあるな……。! ああ、確か……。それはそれは」
少し驚いたような含みを持たせながら、男はまたも不気味に笑った。
「お、俺が知ってるのはこの程度だよ。もういいか」
男は返事をするでもなく、踵を返して去っていく。もはやコッラレの存在など忘れ去ったかのように。
本来のコッラレの気性であれば「礼ぐらい言え」と噛みついていくところだが、この相手にそんな気は更々起きなかった。
「……~~っ」
ただただ、何事もなく済んでよかった、という安堵が胸を満たすのみ。心臓がばくばくと脈打っている。酔いもすっかり覚めてしまった。
「殺し屋、かねぇ……」
仲間の一人が、やはり顔を引きつらせながら口にする。
「……いや、何か……もっと……」
思わずそう呟くコッラレだったが、『もっと』何なのか。自分でも分からないまま、ただ身震いを感じていた。
黒ローブの男はするりするりと影のように人の合間を抜け、混雑した店を後にしていく。
「…………、」
コッラレは経験豊富な冒険者である。
駆け出しの頃は生き抜くことが当面の目的だったが、人とは欲が芽生えるもの。もっと金を稼ぎたい、もっと名を売りたい、もっといい女を侍らせたい、と次第に欲求は膨らんでいった。サベルや流護がそれらを満たしていそうなこともあって、彼らに反感を覚えたのも事実。
だが、
(こっ……このままで、いい……)
あんな手合いに目をつけられるぐらいなら――現状のまま、うだつの上がらない木っ端のままでいい。
自分の情けない悲鳴が耳から離れない? 大いに結構じゃないか。
悲鳴が出るということは、思い悩めるということは、『生きている』ということだ。
そうだ、久しぶりに思い出した。
壁の外は、命があるだけでも幸運な世界。ここ最近は比較的上手いことやれていたから、すっかりいい気になって失念していた。
存在するのだ。世の中には、ああした得体の知れない『何か』が。あんな輩に目をつけられてしまえば、自分のような凡骨などそこで終わり……。
無難に、欲張らず、何事もなく。それこそが最良。
コッラレはすっかり畏縮しきって、ローブ姿が消えていった外を見つめていた。
風雪はさらに激しく、密度を増していた。
 




