38. 鋼鉄の砲弾
「…………えぇ?」
デトレフは思わず間の抜けた声を漏らしていた。
今、何て言った。あのベルグレッテが、「助けて」と言ったのか。
「え? えぇー? えええぇ?」
デトレフは首を左右に振る。
そんなにこの小僧を信頼しているのか。確かにこのままでは、クレアリアがすぐにでも死ぬ。助けが欲しい状況かもしれない。
しかしだからといって、あのベルグレッテが……、やっぱり恋人か。もしかしてやっぱり、その大きく育った胸を触らせたりしちゃってるのか。
「あ? あぁー? ンンー」
おう。それならそれで、問題ない。このガキを痛めつければ、ベルグレッテの悲痛な顔が見られるだろう。相手がクレアリアからこのガキに変わっただけの話だ。何も問題はない。
――混乱しそうになった思考をまとめ上げた男は、少年へ語りかける。
「君。君さぁー。邪魔しないでくれるかなぁ?」
「あ? 誰だよ、うっすい顔しやがって。引っ込んでろクソモブ」
デトレフの内側で何かが切れる音がした。
「は、はは。まぁ、いいや」
パァン、と破裂音が反響する。デトレフは炎の鞭を生み出し、その場で縦横無尽に振り回した。地面が灼け、空気が焦げる。その様はデトレフを包む、赤い竜巻。
ベルグレッテとクレアリアが息をのんだ。自分たちが限りなく手加減されていたことに気付いたのだろう。
これが――『銀黎部隊』。
鞭の演武をピタリと止めて構え、男はつまらなそうに言葉を投げる。
「えぇーと、それじゃ殺すけど、いいよねぇ? いたぶってやろうと思ったけど、いいや。瞬殺になっちゃうけど」
その言葉に、少年はぽつりと呟いた。
「殺す…………ねぇ」
流護は、倒れているベルグレッテとクレアリアの二人に視線を向ける。
二人とも、ボロボロだった。
きれいな肌はすり傷だらけになり、豪奢なドレスも土や砂、血にまみれている。
クレアリアに至っては危険な状態だ。肩口から大きく裂けたような傷を負っている。急がなければならない。
ベルグレッテが発した「助けて」という言葉。あれは、自分を助けてくれという意味ではない。早くしなければ妹が危ない。自分の力では妹を救えないと悟ったベルグレッテが、誇りを捨てて助けを求めたのだ。
デトレフがどうして暗殺者のような格好をして敵対しているのかはよく分からない。この男が黒幕だったのか。しかし今、そんなことはどうでもよかった。
流護は上着を脱ぎ捨て、さらに両腕に装着していたパワーリストを外す。地面に落ちたそれらが、ドンッと重々しい音を立てた。右足で左足を、左足で右足を叩き、両足首にはめていたパワーリストも外す。
――全ての枷から、己を解き放つ。
「ははっ、それ何? 『俺は力を封印してるんだぜー』みたいな感じ? ははは、みんなに勇者様だなんておだてられて、ちょっと気分よくなっちゃった?」
おかしくてたまらない、といった様子で身体を折り曲げて嗤うデトレフ。流護は反応せず、手首をプラプラと振った。
ベルグレッテも言っていたが、流護が素手でファーヴナールを倒したという話をまともに信じてなどいないのだろう。
「でぇ? 準備はいい? 勇者様と闘えるなんて、光栄でーす! なんつって! はははは!」
流護の脳裏に、ロック博士の言葉が甦る。
『世の中にはね、度し難い悪党ってのがいるんだ。ただ無力化しただけでは改心なんて絶対にしない、生まれながらの悪がね。もし、ベルちゃんたちがそんな人間に襲われたら――その可能性は、考えておいたほうがいい』
シヴィームのときにも、ちらついた感情。
『流護クンは。人を、――――』
きっと誰しも、ふざけて口にしたことぐらいはあるのではないだろうか。
その言葉を流護は――脅し文句ではなく。
ただ宣言として、告げた。
「殺してやるよ」
「ひゃーははは! カッコいいなぁおい! まあ分かるよ、ベルグレッテちゃんたちの前だし、カッコつけたいよねぇ!」
ヒュッと空を切らせ、デトレフが灼熱の鞭を構えた。
「――だが残念だ。君は、ブタのような悲鳴を上げて死ぬことになる」
まるで別人としか思えない眼光と、声音。
油断なく構えた暗殺者は、流護を見据える。
ミディール学院、深夜の食堂。
こんな夜更けに一人、どかっと席に腰掛けているのはエドヴィンだった。
「あれ、エドヴィン? 明日だって授業あるだろうに、こんなところで何してんだい?」
その声に、エドヴィンは首だけをぐるりと回して顔を向ける。
「あー、ロックウェーブのおっさんっすか」
手にしたコップの中身をぐいっと飲み干し、疲れたように続ける。
「いやー最近、結構遅くまでシュギョーしてんすよ」
「修業? ああ、流護クンの影響か」
ロック博士――岩波輝もここ最近、微笑ましい光景をよく目にしていた。
学生たちの校外授業の様子を眺めていると、「男子ー、ちゃんとやってよー」などというお決まりの女子生徒のセリフが聞こえてきたりして、何事かと思い目を向ければ、男子生徒が神詠術の稽古そっちのけで腕立て伏せの真似事をしていたりするのだ。
率直なことを言ってしまえば、このグリムクロウズの人間が身体を鍛えたところで、流護のような体躯は手に入らない。元が違うのだ。
「はァ。俺がアリウミに勝つにはどーしたらいいか。おっさん、こう……科学的? みてーな感じで分析してみてくれよ」
「分析ねえ……」
博士は炎の不良生徒の対面に座ると、ぽつぽつと語り始めた。
「まず……キミたち詠術士が彼と闘う場合……接近されてはならない。これは大前提だね。彼の手が届かない、遠い間合いが必要だ。そこで考えなければならないのが、流護クンの脚力。これがね、百マイレを約七秒。馬と大差ないんだ」
「は、はァ? う、馬!?」
予想通りの反応に博士は笑い、続ける。
「だから基本、強力な神詠術の詠唱に二十秒は欲しいキミたち詠術士としては、できれば三百マイレ近い間合いが必要なワケだ。しかしそれも、一撃で流護クンを倒せなければおしまい。殴り倒されて終わり。キミたちの身体能力ではまず、彼の拳には反応できない」
イヤイヤ、とエドヴィンが手を横に振る。
「三百って……ソレもう間合いって呼ばねーよ。体力測定かよ。遠すぎて顔も見えねーし、そもそも神詠術が届かねーっての。狙撃専門で鍛えてるヤツでもなきゃーよ」
「そういうことだね。つまり理論上、キミたちと流護クンじゃ、最初から勝負が成立しないんだ」
ごくり……と、炎の少年が喉を鳴らす。
言ってしまえば、有海流護と正面から向かい合った時点で、すでに勝敗が決まっているのだ。
「ただ……彼はほら、記憶喪失で神詠術のことをよく知らないから、まず最初は相手の出方を見ようとするんじゃないかな」
「あー……そういや、確かに」
「それがあったにしても、ベルちゃんは確か、上手いこと流護クンに一撃当てたって聞いてるよ。さすがだよね。で、エドヴィンはどうだったんだっけ?」
「う、うるせーよ」
目を逸らす炎の『狂犬』。
「流護クンは言ってみれば……意思を持って自由に飛び回る、鋼鉄の砲弾だ。彼の筋量は凄まじいものがあってね。その体重は、ダイゴスよりも重いんだ」
「え? ほんとかよ!?」
「純粋な暴力において、重さはそのまま強さに繋がる。自由自在、且つ高速で飛んでくる巨大な砲弾に、どう対処するかな?」
エドヴィンは沈黙した。
本当にどう対処しようか考えているのかもしれない。
「だから彼に対抗し得るとなると、やはり『ペンタ』か……でなければ、神詠術の扱いに長けた達人クラス――」
「『銀黎部隊』とかか……」
この国の住人であれば、真っ先に浮かぶ名前だった。
「ま、実際のところ、彼は砲弾なんかじゃなくただの人間だからね。付け入る隙はあるはずだよ。誰にだってね。彼、意外とヘタレだし。ははは」
「はー……、何にせよ、先行きは遠そうだぜ……こりゃ」
博士は、指でメガネのフレームを押し上げる。
「しかしまあ……例えば、の話なんだけど。――愚かにも、敵が流護クンを怒らせてしまった場合」
その仮定に、エドヴィンはハッとしたようだ。
先日の、怨魔たちに学院が襲撃されたときのことを思い出したのか。ドラウトロー二十四体を無傷で殲滅したという話は、目にしてなお信じがたい。
今後、新たなゴーストロアのネタとして語り継がれていくだろう。デタラメさでいえば、百名からなる屈強な傭兵団を一人で壊滅させたという、あの『エリュベリム』に並ぶかもしれない――と博士は分析する。
「完全な敵意……いや……殺意を、彼が抱いた場合。それこそファーヴナールのような規格外の相手ならともかく……人間相手なら、よくも悪くも、様子を見るなんて真似は一切しないだろうね。自分の被弾すら厭わずに――」
博士は、パシッと自分の手のひらに拳を打ち合わせた。
「鋼鉄の砲弾は、ただまっすぐに敵を粉砕するだろう」
「――――」
約二十マイレ。
流護は、その間隔を一瞬でゼロにした。
デトレフの瞳が、ギョロリと動いて目前に迫った流護の姿を捉える。
――馬鹿が。考えなしにまっすぐ突っ込んで来やがった。
確かに、速い。凄まじいまでのスピードではある。
だが、所詮は素手。このガキは、ただの丸腰だ。
しかも何を思ったのか、腰溜めに構えた拳の向きからして、明らかに腹を狙っている。顔を殴って昏倒させるならともかく、腹打ちなどで人間を無力化することはできない。神詠術を使う素振りもない。何か策があるようにも見えない。
怒りに駆られ、冷静な判断もできず、ただ殴りかかってくるという愚かしさ。
確かに速い。防御は――間に合わない。
いいだろう、一発もらってやる。僕を殴れて、スッキリするだろう?
直後、鞭でその顔を灼き飛ばしてやる。
一秒も経たずに響き渡るだろう、ベルグレッテの悲鳴が楽しみだ――
掬い上げる軌道を描いた流護の右拳が、デトレフの腹へと叩き込まれた。
「――――、――、」
デトレフの細い体躯が、くの字に折れ曲がる。派手に吹き飛んだりはしない。ただ少しだけ、デトレフの身体が宙に浮いた。
突き入れた拳の面積だけ、腹が窪む。破裂音が響き、筋繊維が断裂する。肋骨がばきりとまとめて砕け、踊り狂う。
鋭利な刃となった骨の欠片は、弾け飛んだ勢いのまま次々に内臓へと突き刺さった。うち数本は、肺に鋭く食い込む。
臓腑から追い出された血液が逆流する。行き場をなくしたそれは、滝となって口から溢れ出す。
「……、ぶ、げ、ぼぶっ……? ――、…………、ごぶああぁっ……!」
トン、と着地したデトレフは、そのまま折り畳むように膝をつき、口から赤黒い液体を噴出させた。
正座に似た姿勢で液体を垂れ流す様は、公園の噴水に設置されている像を彷彿とさせる。
身体を支えきれなくなったのか、デトレフはゆっくりと横倒しに倒れ、血泡を撒き散らしながらゴロゴロと転がり始めた。
「ぶば、ばっっ、ぶ、があ、ぁぁあああぁッ!」
ブタのような悲鳴を上げながら転げ回るデトレフに一瞥すらくれず、残心すら取らず、流護は歩き出す。
やはり――衰えている。
影すら掴ませないつもりで間合いを詰めたが、デトレフの瞳は流護を捉えていた。
全力で放った拳も、入院前であればドラウトローの頭部を文字通りの意味で粉砕していたのだ。たった今、殺すつもりで放った一撃は、無様に転がる余裕を与えてしまった。
……だが、構わないだろう。滝のような鮮血。
放っておけば――死ぬ。
それでも顔を殴っていれば、完全に終わっていたはずだ。
だというのに、無意識に腹を叩いてしまった。結局は……非情に、なりきれていないのか。……答えは、出ない。
ただの一撃で敵を無力化した流護は、二人の姉妹へと歩み寄る。
のたうち回るデトレフの悲鳴が響き渡る中、何でもないことのように、いつも通りの声で言った。
「さ。帰ろうぜ」