378. 問題児、北の大地に降り立つ
――流護たちの山越えから、遡ること数日。
エドヴィン・ガウルは、かすれた意識の中で激しい振動を感じていた。
(なん、だ……?)
ガタガタと、左右前後に全身が揺さぶられる。狭苦しい。薄暗い。尻が痛い。身体の至るところがズキズキする。居心地、現在置かれた状況としては最悪だ。
(……う、お……寒ッ)
次いで感じたのは、いきなり吹き込んできた冷風。
それがまた尋常ではない。身を切るような、とはまさにこのこと。異常なまでの冷たさで、まどろんだ意識が半ば無理矢理に呼び起こされる。
「ぐ……っ、何だ、ここはよ……?」
狭く暗い場所だった。下からは、断続的な揺れと軋むような重い音が響いてくる。
周囲には、ぎゅうぎゅうに詰められた壷や調度品。どれもこれも新品らしく、緩衝材を敷き詰めたうえでしっかりと梱包されている。エドヴィン自身は、いかにも値の張りそうな暖かい毛布に包まれていた。
すぐ目の前に垂れ下がる布の隙間から、眩しい白光が差し込んでいる。異常なまでの寒風も、そこから入ってきているようだ。
やたらと揺れる中、四つん這いになってそちらへ進み、カーテン式になっている布を開け放つ。
「……ッ、な……!?」
愕然とした。
雪景色。
生まれてこの方見たこともないような白銀の世界が、延々と目の前に広がっている。
遠くに見える山も、周囲に広がる平野も、尖った形状の見慣れない木々も。全てが雪に覆われており、またその量が多い。
そして周りの景色が、遠ざかる形で勢いよく流れていく。
「馬、車……!?」
疑いようもない。
自分は今、馬車に乗っている。乗せられている。それも様々な家具やら道具やらと一緒に、荷台へ詰め込まれて。見たこともない雪景色の中を、かなりの速度で進んでいる――。
「なん、だ……? この状況はよォ……!? オワッ!?」
ガタンと車体が大きく跳ね、慌てて木枠に掴まってやり過ごした。
「クソ……! 何がどうなってやがんだよ!?」
とにかく、この荷台から振り落とされてはたまらない。また、空気の冷たさも尋常ではない。カーテン状の布を引き直して奥に下がり、巣に戻った獣よろしく毛布にくるまる。
「何が……何がどうなってやがる……!」
同じ言葉を繰り返し、必死に記憶をたどる。
昨夜は確か――
(街で、詠術士崩れどもとやり合って……)
神詠術を使わず闘おうとして、散々に痛めつけられた。今も、身体中がズキズキする。
結局は、術を使ってボコボコにした。
(その後……そうだ)
耐えがたい疲労感に襲われて、一休みしようと酒場の脇で腰を下ろした――そこから先の、記憶がない。
(まさかこの馬車、あん時停まってたヤツなのか……?)
風避けにちょうどいいと思い、一台の馬車の近くに腰を落ち着けたのだ。
しかしそれにしたって、その馬車が自分を乗せる理由がない。こんな荷台に放り込む形で、となれば尚更だ。
(ま、まさか人さらいかよ!? それにしたっておかしい気がすんがよ……ど、どーする……?)
今は走行中。
荷物運搬用の車両であるため、こちらから御者に呼びかける手段もない。
壁を叩けば気付くかもしれないが、そもそも相手が何者かも、何人いるかも、善人か悪党かも分からないのだ。
迂闊な真似はするべきではない。ひとまずは、どこかに到着して自然と停まるのを待つべきだろう。
(それにしても何だ、このとんでもねー寒さはよ……。どこらへんを走ってやがんだ……?)
毛布を羽織り直し、馬車が停まるのを待とうと息を潜めて――
「……、」
にしてもやたらと質のいい毛皮だな、とエドヴィンはその手触りに驚嘆する。本来ならば、平民の自分には到底縁のなさそうな代物だ。
まだ身体も痛む。疲れも抜け切っていないようで、あっという間にまどろんできた。
心地よい感触に包まれたエドヴィンの意識は、再び眠りの世界へと落ちていく。
「っしゃぁ、どうにか間に合いそうだ……!」
街道を走り続けること、およそ丸一日。
行商人オシブの馬車は、バダルノイス神帝国の手前にある中立地帯、ハルシュヴァルトへと到着した。
本来は二日かかる道のりを、どうにか一日で走破した。無茶も無茶、大無茶である。オシブ自身が御者として優れた技術を持っていることは確かだったが、馬たちに身体強化の術を施し、可能な限り高速馬車として走らせたのだ。元々重い荷物を引かせるための馬なので、力や体力は並外れていた。
速度を緩めると、そんな二頭の牽引者たちも、一息ついたようにブルルと鼻を鳴らす。さすがに疲れたようで、足取りも重い。
「よしよし、どうどう。頑張ったな、お前ら」
目的地のバダルノイスまではまだ遠いが、そろそろ夕方になる。無茶をさせてしまった馬もさすがに限界だ。今日はこの街で一泊し、明朝早いうちに出発すべきだろう。
(一時はどうなるかと思ったが……天気にも恵まれた。氷神様のご機嫌が良かったかねぇ。とにかく助かったぜ)
冬になると、この地方は天候が急変するようになる。北方を支配する氷雪の女神、キュアレネーの気まぐれな性格ゆえだ。
そんな神様のご機嫌を窺いながら、期限内にしっかりと目的地へたどり着く。これもまた、商人に欠かせない才覚のひとつといえよう。
「うぅー、さぶいさぶい。さっさと宿に行って、あったかい蜂蜜酒をやりてぇぜ」
そう呟くと、馬たちが何か言いたげに鼻を鳴らす。
「分かってっらって。お前らにも、たらふく旨いもん食わしてやっから」
相棒らをなだめながら、商人オシブは宿を目指して進んでいく。
「!」
暗闇の中でハッと目覚めたエドヴィンは、長らく続いていた揺れが収まっていることに気がついた。
(馬車が……、間違いねぇ、停まってやがる!)
急ぎつつも慎重に、音を立てないように這っていき、布の隙間から外を伺う。
(どこだよ、ここは……?)
まず、赤く染まりつつある街並みが目についた。
遠目に見える人の数からして、時間帯は夕刻。かなりの積雪に包まれる建物の景観は、まるで見覚えがない。
ともあれ、どこかの街に到着したことは間違いないようだ。
「……、」
そっと耳を澄ます。周囲から誰かの会話が聞こえてくるようなことはない。
外で自分の人身売買について交渉中、ということはなさそうだ。
(とにかく、こーしててもしゃーねぇ……!)
辺りを警戒しながら、意を決して荷台から降りる。
(さ、さみーなオイ……!)
しかし今はそれどころではない。まずはざっと這いつくばり、車体の下を覗き込む。馬車の近くに人がいれば足が見えるはずだが、幸いにしてそのようなことはなかった。
(誰もいねーみてーだな……)
恐る恐る前に回ってみると、思った通り御者も不在。見覚えのある頑丈そうな馬が二頭、桶に入った餌をがっついている。
「やっぱりかよ……」
間違いない。昨夜の馬車だった。
それこそ夕べと同じく、すぐ脇に建物。おっかなびっくり確認してみると、これは宿だった。馬車の持ち主は、ここで一泊しようとしているのか。真っ当な施設を利用しようとしている人間なら、無法者ではないかもしれない。
馬車の規模を考えても、乗れるのは二人か三人。怪しいギャング集団、というセンはなさそうだ。
(中に入って訊いてみるか……?)
そうすれば少なくとも、馬車の持ち主は判明するはずだ。なぜ自分を乗せてきたのか、その理由も問い質せる。
が、相手がまともな人間とは限らない。何か悪意があってやったことなら、自分からわざわざ危険に近づくことになる。
(イヤ……でも、待てよ……。縛られてたワケでもねーし……)
身柄が目的なら、動けないように拘束するのではなかろうか。しかしそうでないなら、どうして馬車に乗せて運んできたのか。
どちらを仮定しても、解決できない疑問が生まれる。
(あークソ、ワケ分かんねーぞ……!)
ベルグレッテなら理路整然と考えて答えを導き出すのかもしれないが、エドヴィンの頭では何も分かりそうになかった。
さて、とりあえずどうするか。
(まずよ、ここどこなんだ……?)
街並みを見渡しながら、すぐ近くの通りに顔を出してみる――
「た、助けて! 助けてくださいっ!」
「オワッ!?」
あまりにも突然。
すぐ脇の小道から飛び出してきた少女が、いきなり腕にすがりついてきた。
歳はふたつかみっつ下だろう。ベルグレッテやミアと同年齢ぐらいか。地味で化粧っ気のない、質素な服装の娘。長い茶髪を頭の後ろで束ねているが、あまり艶も感じられない。平民、それも貧しい部類の生まれと見える。
何事かと問うよりも早く、理由のほうがやってきた。
「おいおい、そんなに逃げなくてもいいだろー?」
「そうだよ、子ネコちゃんよぉ」
「ん? 何だよ、このオモシレー頭した野郎は」
少女と同じ道から現れたのは、三人の少年たち。
それなりにこざっぱりした身なりの、いかにも悪さと格好よさを等価に捉えていそうな風情の若者らだった。肌が妙に色白なのが特徴的か。
別段珍しくもない。女の尻を追っかけてきた悪ガキ連中、といった構図である。
ただ少しばかり変わっていたのは、助けを請われたのがエドヴィンだった、という点か。
何しろ、
「あっ……」
助けを求めるべく腕を掴んでいた娘が、弱々しい声を残して離れる。
そう。エドヴィンは、自他ともに認める悪人面だった。
少女も必死で、すがった相手の顔をよく見ていなかったのだろう。時間帯柄、街を包む橙色の眩しさも一因だったに違いない。
ともあれ、『すがろうとした相手が、追いかけてくる連中よりもっと悪そうだった』。
彼女が希望を失うには、充分すぎる理由だったはずだ。
実際のところ、エドヴィンは間違っても善人などではない。その心根も、年齢に見合った『ごく普通の悪童』のものだ。
ゆえに、
「オォイ、そこの白いの三番目よォー」
やってきた連中の一人をビッと指差し。
「誰の頭が馬のクソみてーだとォ? 死にてーのか、コラ」
腹を立てて揉め事に発展する理由も、極めて単純でくだらないものだった。




