376. フォー・タイマンズ
ここで勃発したドラウトローとの戦闘。
不利なのは人間側だった。
積雪に足を取られるうえ、雪崩を警戒して強力な攻撃術も使えない。この怨魔の凶撃を受ければ、ただでは済まない。そんな悪条件の中、強いられる近接戦闘。
四人は各々の戦法で、敵と対峙した。
馬車の窓からその様子を眺めていた者たちは、後に口を揃えて語ったという。
「まるで蝶に誘われているかのようだった」と。
棍棒。あるいは黒き暴風。往々にしてそのようにも例えられるドラウトローの豪腕を、ジュリー・ミケウスは悠々と躱していた。
「よっ、ほっ、ひゃわっ、と」
振り回される怨魔の長い両腕。捕まらぬよう身を翻す女。
回避は、全て紙一重の領域で行われていた。次の瞬間にはその華奢な肉体が無惨な血塊と化してしまいかねない、危険すぎる綱渡り。
しかし、一向にそのときが訪れる気配はない。
ドラウトローが腕を薙ぐことによって生じる風に乗り、ジュリーが舞っている。ゆえに、絶対に当たらない。そうとすら思える光景だった。
「ほらほらお猿さん、こっちよ~ん」
ジュリーはドラウトローの手を掻い潜りながら、少しずつ雪の斜面を上がっていく。軽やかな足取りで、誘惑するように。
彼女は足元に風を渦巻かせ、雪に埋もれることなく丘の上へ。一方の怪物は腕を旋回させながら、執拗に乱暴に彼女を追い立てる。
ジュリーは雪崩を警戒し、大がかりな術で攻撃することができない。ドラウトローは腕が直撃すれば、彼女など容易に仕留めることができる。
そんな構図となる状況、決着はあまりに唐突だった。
「いくらあたしが魅力的だからって、そんな必死に追わなくてもいいじゃないの」
いつしか傾斜を上り切ったジュリーは、肩にかかった金髪をかき上げて妖艶に笑う。
「でもあたしには、サベルっていう心に決めた人がいるから――」
真横にぶん回された怨魔の一撃。これをやはり紙一重で、やはり楽々と避けながら。
「ごめんなさいねっ」
どん、と衝撃。
女が突き出した拒絶の両手。
そこに発動した、比較的簡易な風の神詠術。その効果は、瞬間的な突風。
少しずつ上り詰め、いつしか達していたその高み。丘の縁から押し出されたドラウトローは、盛大な放物線の軌道で宙を舞った。
街道を望む傾斜、その頂からの自由落下。高さにして、ちょっとした城の三階ほどの高さはあったに違いない。
破裂するような濡れそぼった音とともに、ドラウトローの肉体が雪のない硬い街道へ叩きつけられた。
それでも恐るべきは、その怨魔の頑強さか。
地表に激突したドラウトローは、どうにか起き上がろうとその身を震わせ――
ボン、と爆裂した。
真上から落ちてきた見えない何か。風を凝縮した一撃によってグシャリと強制的に大地へ圧しつけられ、赤黒い染みと化して動かなくなる。
「よっ、と」
その傍らにふわりと降りてきたジュリーの姿は、翅を休める蝶を思わせた。
馬車からその一部始終を見届けた男たちは、一様に心へ刻み込んだという。
「美女の尻をホイホイ追っかけてはいけない」と。
「オイ、この黒小猿よう……」
一歩一歩、サベル・アルハーノは雪の大地を踏み締めていく。――否、濡れた土の地面を進んでいく。
ドラウトローも、近づいてくる男を見て察したようだ。投石をやめ、その顔から笑みに似た余裕げな表情が消える。
蒸発。サベルが纏う薄い熱気により、彼の足元の雪がじわじわと消失、白い靄となって立ち上っていた。
炎という、その属性。その特性。
「石投げなんてイタズラ小僧みてぇな真似してねぇでよ、正面から掛かってきたらどうだ?」
無論、怨魔がその言葉を解した訳もない。ただ単純に、サベルが間合いへと入っただけだ。
ドラウトローは低い唸り声とともに、小柄なその体躯を屈めて前傾姿勢となった。誰が見ても明らかな、獲物に飛びかかるための予備動作。
「へっ、そーでなきゃ! 来な!」
サベルが満足げに身構えると同時、ドラウトローは大地を蹴り砲弾さながらに躍りかかった。
「オラァ!」
迎え撃つ青年。咆哮を合図に舞い上がる爆炎、その色彩は紫。
彼は怪物の暴力に対して策を弄するでもなく、真っ向から立ち向かった。上から振り下ろされたドラウトローの長い腕を、紫炎纏う左腕で受け止める。
鈍い音と衝撃。軸足がぬかるんだ地面に沈み込む。術を盾として、なおこの威力。
歯を食いしばり耐えたサベルは、口の端を強引に吊り上げた。
「へっ、チビのくせにこの怪力……! たまらんぜ……!」
怨魔との戦闘は少しばかり苦手だ。サベルは常々そう思っている。
遠距離での術の撃ち合いがそもそも不得手。ゆえに、炎を纏わせた拳足での接近戦が主となる。
が、詠術士相手ならまだしも、力、速度、頑強さ――全てにおいて人間を大きく凌駕する怨魔相手に近づかなければならないという点で、あまりに分が悪い。
苦手。不利。噛み合わない。
しかしそれでも、安易に「勝てない」とは考えない。より燃え上がるのがサベル・アルハーノだった。
「ゥオォラァァッ!」
愚直なまでの反撃。
今度は自分の番だとばかりに拳を大きく振りかぶり、
「歯ァ食いしばれエェ――ッ!」
右の拳打が、横の軌道で弧を描いてドラウトローの顔面へ直撃。一拍遅れて爆発が巻き起こり、両者の姿を覆い隠す。
煙が晴れるや否や、力を失った敗者の身体が大地へと傾いでいった。
即ち、頑健と恐れられるドラウトローが。耳や口から黒煙を吹き上げ、ゆっくりと倒れ伏す。
「っしゃァ! 一丁あがり!」
ニッと力強く笑むサベルの表情は、ケンカに勝ったことを喜ぶ腕白小僧のようでもあった。
拳足のみによる近接戦闘。
有海流護の戦闘形態は、サベルのそれに近しい。
明確な違いはやはり、神詠術を扱えないこと。この一点が、他のあらゆる戦士とも隔絶した無二の要素だろう。
そして早速、その特徴がサベルの戦闘とは異なる展開を生んだ。
「よーっし、そんじゃ一丁やるとすっ――」
坂の上で待ち構えるドラウトローに接近すべく、雪の斜面へと踏み入った流護だったが、
「と、っ!?」
いきなり、左足がズボッと埋まり込んだ。
「ちょっ……!」
それも、思った以上に深く。
運悪く、たまたま足場が緩んだ箇所でもあったのだろう。もちろんサベルと違い、纏う熱気で雪を溶かして進むことなどできはしない。
そして、この機を逃す怨魔ではない。
下り坂となっている地の利もあって、ドラウトローはほとんど転げ落ちる勢いで流護へと突っかけた。
「うおっ」
飛びかかる怨魔、身動きの取れない人間。本来であれば、もはや覆しようもない死の確定。
しかし。
その人間は、有海流護だった。
「……っ、んなろっ――!」
むしろ軸足となる左がはまり込んだことを利用し、空手使いはその場で力強く踏ん張った。
「シィッ!」
そして、右拳一閃。
裏表なく単純な、力と力の正面衝突。
そこに番狂わせが起きる余地はなく、当然のごとくより強い者が勝つこととなった。
渓谷に事故めいた破砕音が木霊する。
全身で突っ込んだドラウトローは、凄まじいまでのカウンターを浴びて縦方向へ回転した。顔から雪の大地に激突、埋まり込む。馬車に撥ねられたような勢いで叩きつけられた怪物は、それきり身じろぎひとつすることもなかった。
「呼っ」
敵の沈黙を確認し、流護は残心の動作を取る。
一撃必殺。刹那の決着だった。
――余談だが。
馬車からこの光景を目の当たりにした商人らは、後に酒の席で合流した仲間たちへ熱っぽく語って聞かせたという。
「少年が神詠術も使わずに、拳一発でドラウトローを沈めたんだ!」と。
そして例外なく、「もう酔ったのか?」と笑われたそうだ。
ゆっくりと、一歩一歩。ベルグレッテ・フィズ・ガーティルードは、敵との距離を詰めていく。
雪の足場を確かめ、怨魔の一挙一動に気を払いながら。
抱えていた石を全て投げ切ったようで、ドラウトローは近づいてくるベルグレッテをただじっと見つめているのみ。
だがよくよく見れば、周囲にはまだ手ごろな石が多数転がっている。訝しく思い、様子を見ているのかもしれない。脆弱な人間風情が、たった一人で自分へと向かってこようとしている状況を。
静かで慎重な立ち上がり。
されど、交錯は直後だった。
間合いに入ったと判断したか、ドラウトローが跳んだ。
矮躯からは想像もできない身軽さと力強さで滑空、ベルグレッテの眼前へと着地する。
「――」
少女騎士の瞳に映る、黒の残像。過去の残像。かつて同じ攻撃を受け、無様に吹き飛ばされた自分の姿――。
「はあぁっ!」
そんな忌まわしき過去を振り払うかのような一声。
横から迫り来る怨魔の長い腕を、彼女は発現した分厚い水流で受け止めた。
秘術、アクアストーム。
除雪のために備えていたそれを、ここで解き放った。
このまま術をドラウトローに叩きつけてやりたい心境だったが、それはできない。先のサベルの指摘通り、雪崩れを誘発してしまう恐れがある。
「ふっ……!」
莫大な奔流を翻し、凝縮、変形させる。それは身体の左側半分を丸々と覆い隠す、壁さながらの巨大な盾となった。
そして、右手に携えた黒の長剣を一閃する。
右斜め上方からの軌道。 その剣はかつてと同じく、ドラウトローの手のひらによって軽々と握り抑えられる――
「はあぁ――っ!」
ことはなく。振り抜いた黒の刃が怪物の胸部を浅く裂いていった。
練磨されているのだ。かつての己と比べ、全ての速度や技量、そして覚悟が。
かすかに散る赤黒い飛沫。迸る怨魔の怒号。
(浅かった……! けど!)
機を逃さず追いすがる少女騎士。その力強い一歩は、過去の己を踏み越えるかのようでもあった。
――が。
「っ!?」
怯んだドラウトローへと肉薄したベルグレッテは、そこで驚きに目を見張った。
長い腕をしならせた連撃が、接近を拒むようにしなり飛んできたからだ。
「くっ!」
盾としたアクアストームで咄嗟に凌ぐも、そこで前進を阻まれてしまう。黒の暴風との異名に恥じない、強靭な膂力に任せた荒々しい乱撃。
「くっ、……!」
傷を負わされたことで逆上したのだろう。
大猿じみた咆哮とともに繰り出される連打、連打、連打。凝縮した水流の上からお構いなしに叩きつけられる黒い拳。その凶腕は時折アクアストームの隙間を抜け、ベルグレッテの頬を浅くかすめていく。
華奢な少女騎士にしてみれば、怪物の攻撃全てが致命の一打。もらった時点で終わる崖っぷち。
防御で手一杯となり、後退を余儀なくされる。
「……っぐ、……」
劣勢に陥り、否が応にも実感する。
怨魔の、ドラウトローの恐ろしさを。自らの凡庸さを。そして、こんな怪物を難なく仕留めてしまう有海流護の強さを。
「……、」
彼なら、どのように窮地を脱するだろう。
反対側で戦闘中の遊撃兵を意識する余裕もないが、彼はいつか言っていた――。
その内容を思い起こしながら、大きく振り下ろされたドラウトローの右腕をいなす。盾と構えた水で受け流し、相手の身体を傾がせる。
「――」
体勢の崩れたそこへ、横薙ぎの一刃を差し込む――より早く。
「か、はっ!?」
左のこめかみ付近に、焼けるような痛みが迸った。
至近で過ぎ行く黒い残影を目にし、ベルグレッテの背筋にゾッとしたものが走る。
右腕を捌いた直後、返しの左が飛んできていたのだ。あと一歩分も深く踏み込んでいたなら、頭を砕かれていたに違いない。
人ならざる、野を生きる獣ゆえの速度。
「……!」
怯むな。焦るな。相手を見ろ。
呪文のように、少女騎士は自らへと言い聞かせる。
『俺なんか見ての通り、どっちかってーとチビの部類だし。こっちの世界だとパワーゴリラとか言われるけど……言うのクレアさんだけど……向こうじゃ、一発当てて離れるタイプだったんだよ』
有海流護という少年の強さ、その秘密。
どうしても桁外れの身体能力に目が向きがちとなるが、そんなものは二の次だと彼自身は言う。
『だから、こっちに来た当初……特にエドヴィンとの決闘なんかだと、自然とそうしたんだけど――』
見る。
相手をしっかりと観察、分析する。敵を知る。
まずそれが肝要だと、彼は語った。
「――――」
ドラウトローという怪物を注視する。
異常に長い両腕。反面、足は極端に短く、攻め手に用いられることはない。顔の造形は平坦で、牙がさほど発達していないため、噛みつきも行わない。
そう。警戒すべきは、棍棒じみた腕のみだと理解できる。
しかしそれが力強く、そして速い。
まともに正面からぶつかったなら、到底勝ち目などない。
『自分よりデカい奴とか、力の強い奴とかと闘ることも多かった。まーそんでも、最終的に立ってるのは俺なんだけどな!』
はっはっと笑う流護へ、問いかけた。
そんな相手に、どうやって勝っていたの? と。
すると彼は、にっと笑って言ったのだ――。
「!」
そこでベルグレッテの思考を引き戻したのは、凄まじいまでの咆哮。
なかなか相手が倒れないことに業を煮したか、ドラウトローは一際大きく腕を振りかぶった。
直後、
「ぐ、ぅっ!」
ベルグレッテの身体が浮いた。
まさしく力任せとしか表現しようのない、渾身の拳による重撃。盾に凝縮したアクアストーム越しですら伝わる、とてつもない破壊力。
ドラウトローは身体ごと捻りながら、しならせた腕を叩きつける。
一発。身体ごと旋回させ、もう一発。
手数は減ったが、一撃の威力を高める戦法へと切り替えたのだ。
「……!」
そして――これこそ、ベルグレッテにとって好機の訪れだった。
下がる。
その分を埋めるべく、ドラウトローは拳を振りかぶりながら前へ。
空を仰ぐほど大きな予備動作は、ようやく少女騎士が入り込むに足る充分な隙となった。
「――しっ……!」
彼が、有海流護が提示した手段の実践。自然、その呼気も似たような響きを伴う。
数瞬後には重撃が飛んでくるその間合いへ。
臆さず、一歩。
踏み入り、一閃。
直後、溜めに溜めて振り抜かれるドラウトローの拳。
双方ともに、軌跡は黒。剣と拳が交差し、十字を描く。
『自分より格上の相手を沈められる……かもしれない、一発逆転の切り札。それが――カウンターだ』
唸った怨魔の拳が、少女騎士の頬をわずかにかすめて裂き。
彼女の閃かせた黒刃は、怪物の面を割った。
崩れていく。
己の技量では一対一の戦闘を固く禁じられていた、恐るべき怨魔が。かつて手も足も出なかった、黒き殺戮者が。
濡れた音を立てて倒れたドラウトロー、その矮躯から血潮が溢れ出て、大地の雪を赤黒く染めていく。
「……はっ、……、はぁっ……!」
剣を振り、血糊を払う。
額に滲む汗と、頬を伝う血。荒く弾む呼吸。それら全てで、
「……、…………勝っ、た……」
自らの生を。勝利を、実感した。
さく、と雪を踏む音に振り返れば、
「……あ、リューゴ……」
「よう」
当たり前のごとく傷ひとつ負っていない少年が、斜面を上がってくるところだった。なぜか、片側の足首だけを妙に泥だらけにして。
「ナイスカウンター。やったな」
親指を立ててくる彼に対し、
「……うん」
少女騎士は小さく頷いて、はっきりと答えた。




