371. 揺れる芯
派手に吹き飛んだ身体が、勢いよくゴミ溜めの中に突っ込んだ。残飯が撒き散らされ、近くにいたネコが脱兎のごとく逃げ出していく。
生臭い空気に包まれながら、エドヴィンは夜空を仰いでいた。
倒されたのはエドヴィンで、立っているのは男たちだった。
「何だぁ、立てよ『加護なし』のゴロツキ君よぉ! 立派なのは口ばっか、てめえこそ仲間がいなきゃ何もできねぇ出来損ないだろうが!」
「まっ、この辺で許してやろうや。そろっと死ぬぞ、このチリチリ頭」
「構わねぇんじゃねぇの? アホみてぇに腕と足ばっかり振り回して突っ込んできやがって。術も使えなきゃ、武器のひとつも持ってねぇとは驚きだよ。何がしてぇんだ、このカス野郎」
「無茶言ってやんなって。術が使えねえんだから、突っ込む以外にできることなんてねえだろ。生まれた時点で神に見離されてる、『加護なし』なんだから」
ゲラゲラと笑い合った後、二人はゴミ山に寝そべったエドヴィンをつまらなそうに見下ろした。
「おい、クソ頭。詠術士との実力差ってヤツが分かったか? これに懲りたら、今度からは隅っこを歩けよ。術の使えねぇカスにはな、価値がねぇんだよ。生きる価値が。小さく縮こまって、申し訳なさそうにしてやがれ」
盛大に笑いながら、二人は踵を返し歩いていく。
「……詠術士だの、神詠術だの……そんなに、誇らしいかよ」
切れた唇の合間から発せられた、エドヴィンのかすれた声。
路地の闇に消えようとしていた二人が、同時に振り向く。
「神から与えられた借りモンの力が……そんなに自慢かよ」
ゆっくりと、ゴミの中から身を起こす。
「チンケな連中だなァ」
そうして、座ったまま。ボロボロの顔で、エドヴィンはニヤリと笑った。引っ張られた口の内外が痛むが、そんなことも気にならないほどの心情で満たされていた。
憐れみという名の、心情で。
雷属性の一人が、これ見よがしに腕を帯電させる。
「……もういいだろ、こいつ。誰も見てねえし、殺しちまおう。ゴミがゴミ溜めに転がるだけの話だ、何の問題もねぇ」
「……そうだな。いくらぶちのめしても向かってくるんだ、こりゃ自衛ってやつ――だばはッ!?」
余裕綽々に喋っていた片方が、顔面に火球の直撃を受けて盛大にひっくり返った。
「自衛とやらに失敗したみてーだなァ」
白煙漂う手のひらを向けたエドヴィンが、心底見下した口ぶりで言ってのける。
「な、て、てめぇ!? 火!? 術ッ……使えるのか!?」
残る一人が、倒れた仲間とゴミ山に座るエドヴィンを見比べて狼狽する。
「使えねーなんて一言も言ってねーだろ。ただ、使わねーで闘ってただけだ」
立ち上がってゴミを払いながら、どうでもよさげに言い捨てた。
「ちったァ、鍛えたつもりでいたんだがよ……」
術者に素手で立ち向かうという行為が、いかに無謀であるかを再認識した。
こんな詠術士の出来損ない相手ですら、まともに近づくこともままならないのだ。有海流護という男の特異さを、改めて思い知った。
「な、なんなんだぁてめぇ!? くそ、ふざけてんじゃねぇぞ!」
――そこからの逆転に要した時間は、およそ十秒ほど。
「ぐ、が……こ、この……」
倒れた相手と自分の周囲に散る火の粉を見やりながら、エドヴィンは特大の溜息を吐き出した。
「つまらねェ……」
得意げに神詠術をひけらかす連中が。結局、同じ力に頼らなければ闘えない自分が。
「ち、くしょ……なめ、やがって……」
息も絶え絶えに大の字となった詠術士崩れが、敵意の篭もった目で睨み上げる。『狂犬』は、見下ろしながらさもわざとらしく言ってやった。
「オウ、おめーよ。そーいや、肩が外れたとか言ってなかったか? 何ともねーみてーだが」
「……うる、せえ……ぶっ殺してやる……!」
「どれ、せっかくだからホントに外してやるよ」
「……あっ?」
「右と左、どっちだっけか?」
「な、に、言って……」
「頭がワリーもんで、忘れちまったなァ。ま、とりあえず両方外しときゃ問題ねーか」
「は? や、やめ……やめろ、ああぁ――っ!」
「ぐっ……」
生ゴミの臭いが鼻をつく。寒風が傷に染みる。
道端に唾を吐き出せば、薄く積もる白雪に赤い点が刻まれた。
いくら何でも打たれすぎたか、とエドヴィンは今さらながらに自嘲する。
そもそも、飛んでくる攻撃術を生身で捌くことができない。身体能力のみで防ぎ、躱すことができない。
もっとも、だからこそ身体強化や防御術といった類の技術が生み出されているのだ。今回の件を街の連中に話したなら、さぞ馬鹿にされることだろう。「そんなことができる訳ないだろ」「お前には無理だ、ガイセリウスじゃあるまいし」と。
学院の仲間ならどうだろうか。ベルグレッテは傷だらけになったことを心配してくれるだろうが、クレアリアは憐憫の眼差しで一瞥して終わりの可能性すらある。
(……っと。そーいや、学院もしばらく行ってねーな……)
ダイゴスが当分戻らないらしい、と耳にしたこともあって、何となく行く気がしなかったのだ。制服にも、随分と袖を通していない気がする。
もっとも、彼とつるむだけが学院生活ではない。密かに思いを寄せるベルグレッテの顔を見たい気持ちもある。が、あまりに完璧すぎる彼女を前にすると、己の不出来さ加減を突きつけられるような、ひどく惨めな気持ちになるのだ。とてもではないが、あの少女騎士と自分は釣り合わない。というより、絶対に叶わない恋なのが目に見えている。
「っ、痛ってーな、クソ……」
ボロボロになって歩く自分が『狂犬』ですらない哀れな『負け犬』に思え、もはや苛立ちも湧いてこなかった。
「ったくよ、痛ぇし寒みーし……」
冷たい裏通りをトボトボ歩いていると、一台の馬車がエドヴィンの目に留まった。かなり大きな車両で、薄汚れた酒場の脇に停められている。どっしりした丈夫そうな灰色の馬が二頭、暇そうに鼻を鳴らしたり前脚で地面を蹴ったりしていた。
馬の背や乗車室の屋根、そして御者台には、うっすらと雪が積もっている。降っていたのは、今から数時間も前のことだ。もし御者が酒場の中で飲んだくれているなら、すっかり出来上がっているだろう。
「おめーらも寒い中、ご苦労なこったな……」
薄い雪を被った馬たちに苦笑いを向けつつ、横を通り過ぎようとして――
「……ッと」
身体がふらついた。思わず車両に手をつき、エドヴィンはどうにか転倒を拒否する。
ここのところ、昼も夜もない生活を送っていた。そこへきて先ほどのケンカで、身体も服もボロボロである。思った以上に疲労が溜まっているらしい。
どうにか顔を起こすと、この馬車が人を乗せるためのものでないことに気がついた。屋根つきの車両後部から、丸められた絨毯の先が飛び出している。目で追えば、他にも壺や木箱、暖かそうな毛布などが隙間なく詰め込まれているのが見えた。行商の馬車か。
(うっ……や、やべぇ)
ケンカの興奮が消え失せ、身体も冬の空気で冷やされたか。急激な疲労感と倦怠感が押し寄せてくる。
猫背になりながらよたよたと歩いたエドヴィンは、馬車と酒場との間に生まれている狭い隙間に入った。崩れ落ちるように座り込み、壁にもたれかかる。
(ちっとだけ……休んでくとすっか……)
ここなら、冷たい風にも吹かれない。
しかし休むのはいいが、眠らないように気をつけなければならないだろう。この寒さの中、外で寝てしまえば確実に凍死する。
(ちっと、だけ……ち……っと……)
眠ってはいけない。そう思っていながら、急速に意識が遠のいていくのを自覚する。
(……俺、は)
強くなりたい。
どういう風に? 徒手空拳で? 神詠術を使ってでも?
それすら定まらない中途半端。結局、先ほどの連中にすら術を使う羽目になった。ただのやられ損だ。
そもそも、強いとは何だろうか。
(俺は……、もっと――――つよ、く)
その根源すら定まらないまま、しかし渇望して。
エドヴィン・ガウルの思考は、少しずつ……しかし確実に薄らいでいった。
「かーっ、終わりだ終わり! クイッと熱い蜂蜜酒をやりたいねえ!」
「ああ……冷え込みそうだしな、今夜は」
仕事を終えた正規兵の二人は、急ぎ足でなじみの酒場へと向かっていた。
つい先ほど、裏通りのゴミ捨て場に転がっていた二名を当直に引き渡したところで、お勤めの時間は終了した。一人は両肩を外されていた。ケンカなのだろうが、この寒い中よくやるものだ、と呆れるばかりである。若人には、そのあり余った元気をもっと他のことに向けてもらいたい。
目的地であるなじみの酒場が見えてきたところで、よろしくないものが視界に入った。
「んん? 何だありゃ……。おいおい、厄介事は勘弁だぞ……」
「全くだが、さて……生きてるのか、死んでるのかね」
建物の脇。停められている馬車の近くに、人がうずくまっているのだ。
いかに勤務時間外とはいえ、見てしまった以上何もしない訳にはいかない。生者だろうと死者だろうと、崩れ落ちている人間を放置したとあっては、このディアレーの治安維持を統括するケリスデル・ビネイスに何を言われるか分かったものではない。
寄ってみれば、それはまだ若い少年だった。年齢は十代中盤から後半だろう。チリチリの頭をした、人相の悪い面構え。全身ボロボロで服も擦り切れている。
「息はあるな。この寒い中、こんな場所で就寝ってこともなかろうが。この少年もケンカか?」
「エクスペンドかもしれんぞ」
ズタボロの様子からして、奴隷の可能性も否定できない。
すぐ傍らには大きな馬車。例えばこれが商人の車両で、この少年は付き人というセンも考えられる。見張りを任されていたが、寒さや疲労から倒れてしまったか。
死に至るほどの大ケガではないが、このまま放置すれば命にかかわる。
「おい、君。大丈夫か」
ペシペシと頬を叩いてみるも、彼はかすかに呻きながら眉根を寄せるのみ。
「うっ、妙に生ゴミ臭いな……。やはり奴隷かな。しっかりしろ、こんな所で寝てるんじゃない。死んでしまうぞ」
「……てぇ」
「ん? どうした」
「……り、てぇ……」
「馬車に乗りたい、と言ってるんじゃないか」
「む、なるほどな。そうなのか、君?」
「……りてぇ」
「乗りてぇ、と言ってるように聞こえるが」
「うむ。この馬車は、君の関係する車両で間違いないか?」
耳元で問いかけるも、返事がない。眠ってしまったようだ。
「とりあえず放置もできん。押し込むぞ」
「分かった」
馬車の持ち主は酒場の中にいる可能性大だが、そこまで気にかけてやる義理もない。お勤めはとっくに終わっているのだ。
そもそも、出発前に積荷を確認するはずだ。全く関係ない人間が乗っていれば、気付いてどうにかするだろう。
「行商の馬車かね。随分といい毛布を積んでいるじゃないか。これに包んでおけば大丈夫だろう」
これが異国の兵ならば、仕事の時間でないからと見て見ぬふりをしてもおかしくない案件なのだ。
寛容なレインディールという国、そして勤勉なディアレーの兵に感謝してほしいものだ、と思いながら、二人はチリチリ頭の少年を馬車の荷台へと押し込んだ。
――さてこの兵士二名、適当な仕事でケリスデルにお小言をもらうことが多かったりするのだが、もちろん荷台に押し込まれた少年も馬車の持ち主も、そんなことを知るよしはない。
商人オシブは、この仕事に携わるようになって早二十年。熟練中の熟練である。
しかし人間、誰しも失敗はある。
「あああぁくそ、まーたやっちまったがな!」
酔いの回った赤ら顔を青く染める、という器用な芸当をこなしたオシブが酒場から飛び出してきたのは、勤務を終えたらしいディアレーの兵士たちが入ってきて十五分ほど後のこと。
「くそお、俺ってヤツぁどうしてこうなんだ! ったく!」
ほんの少し酒場に寄って英気を養うはずが、中で長々と眠りこけてしまったのだ。
「急がな、急がな……!」
御者台の雪を払い落とし、勢いよく腰掛ける。
「お前ら、随分と待たせちまったな……! ほれ、行くでぇ!」
振るわれた鞭に応え、灰色の毛並みをした二頭の馬たちが石畳を蹴って駆け出す。商品を満載した大きな荷台も、軽快に前進を始めた。
「ったく、できるだけ早くバダルノイスに行かなきゃならんってのに、やっちまったなぁ……! けどまァ、俺様の手綱捌きなら……!」
ぼやく御者は、知るよしもない。
自らの繰る馬車、その荷台に、まるで無関係な少年が乗せられていることを。
「……強く……なり、てぇ」
そしてその少年自身、知らない。
練達した御者に駆られる馬車は一路、北西へ。
エドヴィン・ガウルは導かれるように、遥かバダルノイス神帝国方面へと運ばれていく。
第十部 完




