37. 双対
仮面の男――否、デトレフは肩を震わせる。
「くく……ふ、は、はははははっ!」
抑えていたものが噴出したかのような哄笑。
仮面を砕いた一撃による流血が、デトレフの左側頭部から頬にかけて赤い筋を描く。乱雑に拳で拭えば、まるで戦化粧のような赤黒い跡が尾を引いた。
「そうそう! まさに今のクレアリアちゃんみたいな……そういう顔が見たかったんだ。『どうして貴方が!』っていうね。そのために喋るの必死で我慢してたんだからさぁ。……でもあれだな、ベルグレッテちゃんはあんまり驚いてない? もしかして」
楽しそうに、悲しそうに、デトレフは言う。
ベルグレッテは低い声で答えた。
「……おかしいと、思ってはいたんです。『アドューレ』の直後……敵がどこにいるかも分からない状況なのに、デトレフさんは広域通信で私たちに呼びかけました。普通、あんな軽率な行動は取らないはずです。それに……そのあと。暗殺者捕縛の報告を、デトレフさんにしたとき。あなたは、『もう一人も捕まえたの?』って……そう言ったんです。もう一人『も』ってどういうことですか? 暗殺者は複数。どこに何人潜んでいるか分からない。そういう状況だったはずなのに。あなたは、あの夜の刺客が二人だということを知っていたんです」
デトレフは目を見開き、心から驚いた表情を見せた。
「おぉ……完璧にこなしてたつもりだったのに。最初のヤツをわざわざ自分で捕まえたフリまでしてさ。参ったな」
「それで。シリルは、どうしたんですか」
その言葉に、デトレフは異常なほど口角を吊り上げる。
今までに見たこともない、醜悪な表情だった。
「いけないなぁー。僕を怪しむほど賢いベルグレッテちゃんがさ、想像……つかないはず、ないよねぇ?」
歪み。顔の左右対称が崩れるほどに歪な笑みを見せるデトレフは、堪えきれないといわんばかりに額へ手を当てた。
「どうして……! どうして、シリルをっ!」
「いや、どうしてって。ケロヴィーの存在を知られちゃってるもの。あ、ケロヴィーってのは僕の暗殺者としての名前ね。――我はケロヴィー。全てを裏から操りし闇の主よ。なんつって。ケロヴィーは、飽くまで裏の存在。表に出ちゃいけない。何しろ僕は『銀黎部隊』なんだ。大変なことになっちゃうよ」
明るい口調で話していたデトレフは、突然ペッと地面に唾を吐き、忌々しいといった顔で続ける。
「大体あの女、ここまできて君たちの暗殺はもういい、とか言い出してさ。挙句の果てには、この僕に向かってくる始末だ。ロイヤルガードの見習いにすら成り損なったカスが、国内に六十四人しかいない精鋭の一人である僕をどうしようと思ったんだか」
「……あなたは……っ」
「どうしても会いたいってんなら止めないけど? 反対側の路地に一旦、転がしてあるよ。ブッ叩いたら首が取れちゃって、運ぶのに苦労したんだ。安物のオモチャかよ、ふざけやがって。ぶ! ははははははは!」
デトレフは自分の膝を叩いて笑い出す。
「ま、そういう訳でね。――彼女は、寡黙になってしまったよ」
芝居がかった口調で、心底馬鹿にしたように言い捨てた。
「…………ッ!」
ぎり、と音を立てて、ベルグレッテは砕けそうなほど歯を食いしばった。
「……『銀黎部隊』の割に抜けてるというか……率直に言って愚図だと思ってましたけど。まさか副業で暗殺者をやってるだなんて。言葉もありませんね」
淡々とした、感情の篭らない声でクレアリアは吐き捨てる。
ベルグレッテは纏わりつく何かを振り払うように、頭を左右へ振った。
何という話なのか。
最初の夜、リリアーヌ姫が何の気なしに零した言葉。
『ま、まさか! デトレフが刺客を捕らえたふりをして……つまり、彼が黒幕っ!』
これがそのまま的中していたなど、誰が思うだろうか。
「ンン~。こぉーんな小さい頃から知ってる二人がさ、僕を止める騎士として、そんな目を向けてくるようになったんだねぇ……あぁ……、うぐ!」
――次の瞬間。
デトレフはびくんと身体を震わせたかと思うと、
「ウッ! ぶ! ぐぁああ、ぼ、ゲエエェェエッ……!」
身体をくの字に折り曲げ、その場で嘔吐し始めた。
びちゃびちゃと音を立てて、痙攣すらしながら胃の中身を吐き出す。
「……!?」
「……な……、?」
絶句するベルグレッテと、思わず眉をひそめるクレアリア。
そんな二人へ、デトレフは胃液を垂れ流したまま、凄絶な嗤いを刻んだ顔を向ける。
「ひ、ひ。クレアリアちゃんは、いつからそんなに僕に冷たくなっちゃったかなぁ。こぉーんな小さい頃は、素直でいい子だったのに。やっぱりアレ? 女の子の日とか来るようになって、変に男を意識しちゃってるとかそういうの? ぼ、ぐふぇ」
クレアリアはもはや、言葉も返さない。その代わりのように、剣を構える。
男は「あー……すっきりした」と恍惚の表情で呟いたあと、右手に赤い光を宿した。
「少しずつ……慣らしていこうと思ってたんだ。いきなり激しいのはきついだろうしねぇー」
一足飛びで、デトレフはベルグレッテとの間合いを詰めた。
横合いからクレアリアの放った水弾が飛ぶが、デトレフはそれを見もせず躱し、振り下ろされたベルグレッテの水剣を余裕の動作で横に避けた。自律防御によって射程の延びた剣が、何もない空間を断ち割る。
「最初、君たちが倒した奴。あれにはね、君たちの神詠術のことは何も教えなかった。まずは小手調べと思ってねぇ。お互い情報のない状態から、どう対処するのか。それを見たくてね。いやでも、あんなにあっさり負けるとは思わなかったよ、あのバカ」
剣撃を繰り出しながら、ベルグレッテは思い出す。
あの刺客は、デトレフに引き渡されるとき、彼に怯えた目を向けていた。あれは、『銀黎部隊』のデトレフを恐れたのではない。自分たちの長、ケロヴィーを恐れていたのだ。
ベルグレッテの剣、その全てを悠々と躱し、あるいは受け止めながら、デトレフは懐かしい思い出を語るように続ける。
「それでさすがに……こっちも、遊びじゃないからねぇ。ベルグレッテちゃんには、ボンを差し向けて――」
何のことはない。ベルグレッテがケーキを買いに出たことを知らなかったはずのシリルが、どうやって刺客を差し向けたのかと思っていたが、彼女ではなくデトレフが指示していたのだ。
そもそも、ベルグレッテが買い物に行くことを後押ししたのは他ならぬこの男なのだから。
「それで、クレアリアちゃんに刺客を二人。しかも、片方はシヴィームだ。これはもう無理かなって思ったんだけど」
ベルグレッテの水剣。二刀流を振るえないその隙を埋めるように飛ぶ、クレアリアの水弾。
その双方を軽々といなしながら、息すら切らさず、デトレフは語る。その独白こそが本来の目的であるかのように。
「そこで登場したのが、あの『竜滅』の勇者君ときた! びっくりだよ、本当に強いんだねぇ、彼!」
「……っ」
そこで繰り出されたベルグレッテの一閃を、デトレフは右拳で軽く叩いて弾き落とした。まるで間違いを嗜める教師のごとく。
「ちょっとベルグレッテちゃん! 今、彼の話題が出たら剣筋が鈍ったよ? だめだよーそんなことじゃぁ」
「ッ、なにをっ!」
「ねぇやっぱさ……ベルグレッテちゃん、もう彼とはエッチなことしちゃってんの? こぉーんな小さい頃から知ってる君が、そんなことしてると思うと……お兄さんはちょっと複雑だなぁ」
「姉様を愚弄するなッ! 下郎が――!」
吼えたクレアリアが獣のような速度でデトレフへ駆け寄り、躊躇なく長剣を突き出す。
事もなげに男はそれを左拳で弾き、
「もぉーいい加減、姉離れしたらどう?」
クレアリアを包んでいる水流に、ポン、と。右手へ灯していた炎を、叩き入れた。
瞬間。
爆発が巻き起こり、凄まじい勢いでクレアリアの小さな身体が吹き飛ぶ。放物線を描いて飛んだ少女は、石壁へと叩きつけられた。
「クレアッ!」
ベルグレッテが叫ぶ――が。
「……、この、程度。随分と、温い炎ですこと。料理にも、入浴にも、使えそうにない……ですね」
クレアリアはすぐに立ち上がり、デトレフを睨む。
「おぉー、さすがは『神盾』だなぁ。……じゃあさ」
ごうっ……と、デトレフの両手に赤熱した光が灯る。この闇の空間をはっきりと照らすほどの光。
それを目にしたクレアリアの瞳が、大きく見開かれた。
「姉様ッ!」
足をもつれさせながら、妹は姉へと駆け寄る。
「――っ」
ベルグレッテも察した。
男の両手に灯った赤い光。その威力のほどを。
「これは防げるのかなああぁあぁ!?」
常軌を逸した嗤いを浮かべたデトレフは、両手の火炎弾を容赦なく二人へ向けて叩きつけた。
一瞬だけ昼間のような明るさを発した路地の空間は、耳を叩き潰さんばかりの爆音を響かせた後――、再びの闇に包まれた。
巻き上げられた石の破片や土砂によって、ただ一つの街灯の明かりも遮られ、視界が完全に閉ざされる。
「んー……、こりゃ、死んだよなぁ……」
名残惜しささえ含んだ声で、デトレフは呟く。
――視界が晴れた。
貧相な街灯の明かりに照らされる――倒れた、二人の姉妹。美しく長い髪を汚い地面に広げながら横たわる二人の姿は、どこか蟲惑的にさえ見えた。
デトレフは――こみ上げる歓喜を、吐き気を、すんでのところで飲み込む。
「……、あ、ぐ」
クレアリアから、小さな呻き声が漏れた。
「お、おぉ……まだ生きてるんだ! すごいねぇ!」
デトレフは心からの賛辞を贈る。さらにそこで、気付く。
二人には、火傷のものと思われる傷がなかった。爆発そのものは完全に防ぎきり、飽くまで発生した余波によって倒れたのだ。
「こっ……こりゃすごいや。『アウズィ』の連中は黒コゲになったのに。クレアリアちゃんの自律防御は、天賦の才ってやつかもしれないねぇ」
「……、ぅ、ぐ」
ベルグレッテが身体を震わせて立ち上がる。
爆風によって飛ばされた石の破片を浴びたのだろう。ボロボロになっていた。青いドレスは破れ、白い肌は裂け、血が滲み出している。
それでも、睨む。目の前の――『敵』を。
「僕は今さ……感動してるよ。これだけの差を見せつけられたハズなのに、ベルグレッテちゃんにはこれっぽっちも諦めというものが感じられない。本当に……立派な、騎士になったんだねぇ」
大げさに目元すら押さえて言うデトレフに、その少女騎士は毅然と返す。
「……そうよ。だから、あなたなんかに……負けられない」
「いいひいいぃーねぇ、その目! ……その目を怯えさせるには、どうしたらいいかなぁ」
恍惚とした表情すら浮かべ、デトレフは思案する。
その濁った目が、ギュルンと――ようやく起き上がりかけている、クレアリアのほうへ向けられた。
「――――ッ!」
意図を察したベルグレッテが水を喚ぶ暇すらなく、デトレフはクレアリアへ向けて走り出した。
「クレアリアちゃんは、さっきのすら防いじゃったけど! その自律防御、破られたことってあんの!?」
男の右手が、またも凶悪に赤く輝く。
「――ありません。……まして、貴様程度に……、侮るな、下郎ッ!」
ボロボロになりながらも、クレアリアが敵を迎え撃とうと身構える。
「それじゃあぁ! 僕がクレアリアちゃんの初めて貰っちゃうけど、いいよねぇッ!?」
目を血走らせながら走り込むデトレフの右手に生まれたのは――炎の鞭。
刹那。耳をつんざくような破裂音が路地に響き渡った。
一撃。
炎の鞭の一撃で、クレアリアの完全自律防御が、消し飛んだ。
「――、……っ!」
あるいは立ち上る蒸気。あるいは弾け飛ぶ水の珠。
自分を守る盾が完全に消滅し、ただの飛び散る水と化した光景を目撃したクレアリアは、信じられないように目を見開き、そして凍りつく。
二撃目。
口を裂けるほど笑みの形に歪めたデトレフが、すでに二撃目の体勢に入っていた。
――赤い線が、奔った。
「い、ッ、ああああぁぁあああああっっ!」
普段の凛とした声からは想像もできないほどの、悲痛な絶叫。
暴悪なまでに赤い斜線が、クレアリアの身体を容赦なく叩き抉る。
びしゃあっ――と。振り抜いた赤い鞭の残像を追うように、赤黒い飛沫が地面を彩った。
「クレアアァァ――ッ!」
ベルグレッテの悲鳴が響く。叫びながら駆け寄ろうとした姉に、デトレフが後ろすら見ず放った火球が直撃した。
「く、ああぁっ……!」
ベルグレッテは走った以上の距離を吹き飛んだ。
力を失い、ぐらりと倒れかけたクレアリアの両腕を掴み、デトレフはその小さな身体を持ち上げる。
「はは。ツンツンしてるクセに、叫び声はしっかり女の子だねぇークレアリアちゃん。手加減はしたけど、あんまりすごい声出すから殺しちゃったかと思ったよ。……あーベルグレッテちゃーん? 大丈夫だったぁ?」
デトレフはくるりと首だけを後ろへ向けて、ベルグレッテへ呼びかける。
「……、ぁ、……く」
地を這うようにしながら、ベルグレッテは立ち上がろうとしていた。
しかしその身体は、起き上がらない。
「お、いいね。そうそう、そういう感じになってほしかったんだ。それで……」
動かなくなったクレアリアを乱暴に持ち上げたまま、男は満足そうな笑みを刻む。
「いぃやー……一回、言ってみたかったんだ。ンー、ゲホン」
わざとらしく咳払いをし、デトレフは芝居がかった口調で言った。
「ベルグレッテちゃん。妹を助けたかったら、僕の言うことを聞くんだ――なんつって」
「……デトレフ殿」
そこで、瀕死のはずのクレアリアにいきなり名前を呼ばれたデトレフは、驚いて顔を向ける。
「ペッ」
男の顔に、唾が吐きかけられた。
「姉、様の枷に……なる、ぐらいなら……喜んで、死んでやります。この……、屑野郎」
「……は、」
今にも死にそうだというのに。どこまでも冷たいクレアリアの笑み。虫ケラを見るような瞳。
これまで余裕の態度を崩さなかったデトレフは、初めて怒りの形相を見せた。
「あぁー。そ。んじゃいいよ。お疲れさま、クレアリアちゃん」
デトレフはクレアリアの両腕を左手だけに持ち替えて掴み、右手に炎の鞭を作り出す。躊躇せず振りかぶった男――の両手に、衝撃が走った。
「ぐっ!?」
痛みよりも驚きにより、反射的にクレアリアを離す。同時、炎の鞭も消失する。
「……はぁっ、」
倒れたまま。起き上がることすらできないベルグレッテが、うつ伏せのままデトレフに向けて手のひらを突き出していた。
「お、おほぉ……」
デトレフは瞬時に理解し、歓喜の呻き声を上げる。
今のベルグレッテには到底、炎の鞭を打ち消すような神詠術は使えない。それを悟って、的が小さく当たりづらいはずのデトレフの手そのものを狙ったのだ。
学院にファーヴナールが襲来したときにも、ベルグレッテは絶望的な状況にありながら的確に目を狙い、逆転のきっかけを作ったという。
しかし、ここまでだ。
ベルグレッテは、気付いたのだろう。もう、万策が尽きたのだと。
うつ伏せの姿勢のまま悔しそうに拳を握り締め、地面へと打ちつけた。……完全に、魂心力が切れたのだ。
デトレフの手から離れたクレアリアは、仰向けに倒れたまま動かない。ただ、敵に弱々しくも憎々しげな視線を向けるのみ。
「この後に及んできっちり手を狙うなんて……ベルグレッテちゃんはほんと、お利口さんだよねぇー。んで、やっぱ僕も男だからさ? そんなお利口さんに『なんでもするから助けて』って言わせてみたいじゃん?」
「お前に言わせてやろうか?」
その声が、唐突に割って入っていた。
眉根を八の字に寄せたデトレフが、声のしたほうを見やる。起き上がれないベルグレッテが、辛うじてそちらを向く。仰向けとなったクレアリアが、目だけをそちらへ動かす。
この空間に繋がっている、一つの道。
そこに、少年が立っていた。
ベルグレッテが、口を震わせて言葉を発しようとする。
デトレフには分かっている。
聡明なベルグレッテのことだ。この局面においてすら、「逃げて」などと相手の身を案じるようなことを言うのだろう。
そう、デトレフには分かっている。
長いこと、ベルグレッテを見てきたのだ。
ならば、この少年から痛めつけるのも一興か――
もう動けないベルグレッテが、言った。
「……たすけて、リューゴぉ……」
「――任せろ」
有海流護が、右手の指をごきり……と鳴らした。